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第三十話「小さな綻び」

 その日は、朝から穏やかな天気だった。


 安倍葛乃あべくずのは、事務所に着くと、いつも通りコーヒーを淹れた。三峰静華みつみねしずかは、すでにデスクで書類に目を通していた。芦屋道雄あしやみちおは、新しい木札きふだの試作に没頭していた。


「おはようございます!」


 只野人志ただのひとしが、いつもの明るい声で入ってきた。手には、コンビニの袋を提げていた。


「あ、これ、皆さんの分も買ってきました。差し入れです」


 只野は、袋からおにぎりやお茶を取り出し、それぞれのデスクに配った。


「わあ、ありがとうございます」


 葛乃は、素直に喜んだ。三峰も、軽く会釈をして受け取った。


「今日は、何かあったんですか」


 葛乃が聞くと、只野は笑いながら答えた。


「いえ、特に理由はないですよ。たまには気分転換にと思って」


 いつも通りの、賑やかな朝だった。宇治神燈夜うじがみとうやがやってきて、コーヒーを一口飲みながら、報告書に向き合った。事務所には、いつもの穏やかな空気が流れていた。



 午前中は、特に大きな案件もなく、それぞれが日常業務をこなしていた。


 葛乃は、書類整理をしながら、只野と何気ない会話をしていた。


「そう言えば、只野さんって、休日は何してるんですか」


「僕ですか? うーん、特に何も。テレビ見たり、散歩したり」


「地味ですね」


「地味でいいんですよ、僕には」


 只野は笑いながら答えた。葛乃も、つられて笑った。何気ない、いつも通りのやり取りだった。


 三峰は、その様子を見ながら、書類に目を通していた。ふと、只野のデスクに置かれたスマートフォンが、微かに振動しているのが目に入った。只野は、それをちらりと見て、すぐに画面を伏せた。


 三峰は、特に気にせず、また自分の作業に戻った。


 しばらくして、只野が席を立った。


「ちょっと、電話してきます」


 只野は、スマートフォンを持って、廊下に出て行った。特に珍しいことではなかった。業務連絡や、個人的な用事で、席を外すことは、誰にでもあることだった。



 三峰は、書類を整理しながら、ふと、廊下の方に視線を向けた。


 只野の声が、微かに聞こえてきた。内容までは聞き取れなかったが、声のトーンが、いつもより少し低く、抑えたものに感じられた。普段の只野は、電話であっても、声のトーンはあまり変わらない。誰と話していても、明るく、抑揚のある話し方をする。


 でも今は、どこか静かに、言葉を選んでいるような、そんな話し方だった。


 三峰は、それに気づいて、少し手を止めた。しかし、すぐに、考えすぎかもしれないと思い直した。誰にでも、静かに話す電話くらいある。


 しばらくして、只野が戻ってきた。いつもの笑顔だった。


「お待たせしました」


「何かありました?」


 葛乃が、何気なく聞いた。只野は、少し間を置いてから答えた。


「いえ、大したことじゃないです。友人からの相談事で」


 その答えに、特に不自然な点はなかった。三峰は、それでも、その僅かな間に、微かな違和感を覚えた。 



 午後になり、新しい案件の報告が入った。


 都内の廃屋で、残滓ざんしが出現しているという通報だった。燈夜と葛乃が向かうことになった。只野は、事務所での連絡係を任された。


「行ってらっしゃい」


 只野は、いつもの調子で見送った。燈夜が事務所を出る際、ふと只野の方を振り返った。特に理由はなかった。ただ、何となく、視線が向いた。


 只野は、いつも通りの笑顔で、手を振っていた。何も、おかしなところはなかった。 


 燈夜と葛乃が出発した後、事務所には、三峰と芦屋、そして只野が残った。


 三峰は、書類を整理しながら、只野の様子を、それとなく見ていた。只野は、いつも通りに仕事をしていた。書類を確認し、電話に対応し、時々冗談を言って、芦屋を笑わせていた。

 何も、おかしなところはない。


 それでも、三峰の中には、小さな違和感が、まだ消えずに残っていた。それが何なのか、はっきりと言葉にすることは、まだできなかった。



 夕方、燈夜と葛乃が事務所に戻ってきた。案件は、無事に解決したようだった。


「お疲れ様でした」


 只野が、いつも通りに出迎えた。


「ああ」


 燈夜は、短く答えて、自分のデスクに向かった。三峰は、その様子を見ながら、少し思案していた。


 夕方の片付けが終わり、只野が先に帰ることになった。


「お先に失礼します」


 只野は、いつもの調子で鞄を持ち、事務所を出て行った。


 只野が去った後、三峰は、燈夜のデスクに近づいた。


「宇治神さん、少しいいですか」


 燈夜は、顔を上げた。三峰の表情に、いつもとは違う、何かを見て取った。


「なんですか」


「只野さんについて、少し気になることがあります」


 燈夜は、少し驚いた顔をした。


「只野が、どうかしたか」



「明確な証拠があるわけではありません」


 三峰は、慎重に言葉を選びながら話し始めた。


「ただ、最近、彼の言動に、時々違和感を覚えることがあります。今日も、電話の様子が、少しいつもと違って見えました」


「電話」


「はい。誰と話しているのか、詳しくは言わないことが多いんです。それに、内容を聞かれると、少し言葉を濁す。今日も、友人からの相談事だと言っていましたが、その言い方に、微かな躊躇いがあったように感じました」


 燈夜は、しばらく考え込んだ。


「只野は、昔からそういうところがある。特に気にしたことはなかったが」 


「そうですね。それに、明確な悪意があるようには見えません。ただ……」


 三峰は、少し言葉を選んだ。


「何かを、隠しているような気がするんです」


 燈夜は、三峰の言葉を、静かに聞いていた。


 言われてみれば、いくつか思い当たる節があった。常世会じょうせいかいからの宣戦布告の書面が届いた時のこと。あの時、只野は「知らない人に渡された」と言っていた。あの状況を、今振り返ってみると、少し不自然な部分があった気がする。


「どこで渡されたか、詳しく聞いたか」


「いえ、その時は緊急事態だったので、深くは聞きませんでした」


 燈夜は、ぬえの一件の後、葛乃がぽつりと漏らした一言を思い出した。「只野さん、なんだか目が笑っていないように見えた」と。あの時は、気のせいだろうと聞き流していた。


 しかし、そういった小さな違和感が、いくつも重なっていることに、燈夜は今更ながら気づき始めていた。


「三峰さん」


「はい」


「お前は、何を疑っている」


 三峰は、少し間を置いた。


「わかりません。ただ、確かめる必要があると思います」



「宇治神さんに、頼みたいことがあります」


 三峰の声には、いつもの冷静さがあった。しかし、その奥に、確かな緊張があった。


「只野さんの動向を、さりげなく探ってもらえますか」


「俺が」


「はい。誰にも気づかれないように。特に、只野さん自身には」


 燈夜は、少し考えた。それから、頷いた。


「わかった」


「これは、極秘です。もし私の思い違いだったら、何もなかったことにしてください。只野さんを疑っていることが、彼に伝わるのは避けたいです」


 燈夜は、三峰の慎重さに、少し感心した。三峰は、根拠のない疑いで人を裁くようなことはしない。それでも、確認せずにはいられない何かを、感じ取っているのだろう。


「わかった。さりげなくやる」


「お願いします」


 三峰は、頭を下げた。燈夜は、それを見ながら、複雑な気持ちになった。只野は、これまで共に仕事をしてきた仲間だった。彼が何かを隠しているとしても、それが悪意あるものだとは、まだ信じたくなかった。


 しかし、三峰の慎重さと、これまでの小さな違和感の数々が、燈夜の中で、無視できない何かとして積み重なり始めていた。


 窓の外、夕日が、事務所を橙色に染めていた。いつもと変わらない、穏やかな夕暮れだった。


 しかし、その穏やかさの奥に、小さな綻びが、確かに生まれ始めていた。



第三十話 了

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