第三十一話「本音の欠片」
一
燈夜は、いつもと変わらない様子で、事務所での日常を過ごしていた。
しかし、その内側では、只野の一挙一動を、注意深く観察していた。三峰から頼まれたことを、燈夜は真剣に受け止めていた。ただの気のせいだと思いたい気持ちもあったが、三峰がわざわざそう言うからには、何か根拠があるはずだった。
「宇治神さん、コーヒーどうですか?」
只野が、いつものように話しかけてきた。燈夜は、いつも通りに答えた。
「ああ、頼む」
「はい!」
只野は、いつも通りの明るさで、コーヒーを用意した。ポットにお湯を注ぎ、慣れた手つきでカップに注いでいく。特に変わった様子はなかった。燈夜は、その姿を見ながら、少し複雑な気持ちになった。
もし本当に何かを隠しているとしても、これほど自然に振る舞えるものなのか。それとも、自分たちが気づいていないだけで、本当に何もないのか。
燈夜は、コーヒーを受け取りながら、只野の表情を、それとなく観察した。いつもと変わらない、人懐こい笑顔だった。裏があるようには、到底見えなかった。
燈夜は、まだ判断がつかなかった。ただ、三峰の言葉を信じるならば、この日常のどこかに、何かの綻びがあるはずだった。
二
午後、新しい報告が入った。
葛乃が、単独ではなく三峰と共に対応していた案件が、無事に解決したという知らせだった。今回も、消滅ではなく浄化に成功したという。
「よかったですね」
芦屋道雄が、嬉しそうに言った。手にしていた木札を、思わず置いて振り返った。
「葛乃くんの力は、本当に成長し続けていますね。これで、今月だけで五件目の成功例です」
三峰が、報告書を確認しながら頷いた。
「常世会の暴走案件のうち、半数近くを、葛乃さんの力で救えるようになってきました」
只野が、その話を聞きながら、資料を整理していた。手を止め、こちらに顔を向けた。
「へえ、すごいですね」
只野の声は、いつも通り明るかった。しかし、少し間を置いてから、続けた。
「また浄化したんですね」
その言葉には、微かな棘があった。まるで、無意識に漏れた本音のような響きだった。声のトーンは変わらないのに、その言葉の選び方に、何か引っかかるものがあった。
燈夜は、その言葉に、僅かに反応した。只野を見ると、只野は少し慌てたように、言葉を続けた。
「あ、浄化できたんですね! よかったです、本当に」
只野は、いつもの笑顔に戻っていた。取り繕うような、少し早口な言い直しだった。しかし、燈夜の中で、その一瞬の言葉が、深く刻まれた。
葛乃も、只野の様子に気づいたのか、少しだけ首を傾げた。しかし、すぐに気にせず、自分の作業に戻った。
三
その夜、燈夜は事務所に一人残っていた。
書類を整理するふりをしながら、頭の中では、今日一日の只野の様子を、何度も反芻していた。
三峰が、静かに近づいてきた。すでに只野は帰宅しており、事務所には二人だけだった。
「何か、気づいたことはありますか」
燈夜は、少し考えてから答えた。
「今日、只野が、葛乃の成功報告を聞いた時に、妙なことを言った」
「妙なこと?」
「『また浄化したんですね』と。まるで、それが嫌なことのような言い方だった。すぐに言い直していたが」
三峰の表情が、僅かに変わった。眉が、微かに寄せられた。
「言い直した、というのは」
「『浄化できたんですね』と、慌てて訂正していた」
三峰は、しばらく黙っていた。窓の外の暗闇を、じっと見つめていた。それから、静かに言った。
「それは、確かに、気になりますね」
「ただの言い間違いかもしれない」
燈夜は、慎重に言葉を選んだ。まだ、断定するには早いという思いがあった。三峰は、頷いた。
「そうかもしれません。でも、こういう小さな綻びが、積み重なっていくと、何かが見えてくることがあります」
三峰は、デスクに置かれた書類の束を、静かに見つめた。
「引き続き、観察を続けてください。焦らずに」
四
翌日も、燈夜は注意深く只野を観察し続けた。
午前中、新たな案件の話が出た時も、只野の反応を、燈夜は見逃さなかった。
「また常世会絡みの案件みたいですね」
只野が、資料を見ながら言った。声には、特に変わった様子はなかった。いつも通りの、軽い調子だった。
「今度は、どこの地方だ」
燈夜が聞くと、只野は答えた。
「関西です。向こうの支所が対応するみたいですね」
「そうか」
燈夜は、それとなく、只野の表情を観察した。特に、不審な様子はなかった。ただの通常の会話に見えた。書類を捲る手つきも、いつも通り軽快だった。
しかし、午後になって、また別の場面があった。
葛乃が、事務所に戻ってきて、また新たな成功報告をした時のことだった。頬を紅潮させ、少し興奮した様子で報告していた。
「今回も、消さずに済みました。前よりも、力の制御が上手くいった気がします」
葛乃の言葉に、只野は、少し遅れて反応した。
「それは、良かったです」
その返事の間に、一瞬、僅かな沈黙があった。ほんの一瞬だったが、燈夜は、それを見逃さなかった。まるで、言葉を発する前に、何かを飲み込んだような、そんな間だった。
五
夜、燈夜は再び三峰に報告した。誰もいなくなった事務所で、二人だけの密やかな会話が続いていた。
「今日も、微妙な間があった。葛乃の報告に対して、只野の反応が、一瞬遅れる」
「それは、驚いているだけかもしれません」
「かもしれない。でも、驚いているというより、何かを考えているような、そんな間だった」
三峰は、深く息を吐いた。腕を組み、しばらく考え込んだ。
「まだ、確証には至りませんね」
「ああ」
燈夜は、腕を組んだ。
「只野が何を考えているのか、まだわからない。でも、確かに、何かが引っかかる」
「もう少し、様子を見ましょう」
三峰の声には、慎重さがあった。しかし、その奥に、確かな緊張感が滲んでいた。
「もし、私たちの疑いが正しければ、只野さんは、かなり巧妙に、何かを隠していることになります」
燈夜は、頷いた。
「わかっている」
二人は、しばらく黙っていた。事務所の窓の外、夜の街が、静かに広がっていた。街灯の光が、ぽつぽつと点在していた。
只野人志という人物の中に、まだ誰も気づいていない、何かが隠されている。その予感が、燈夜の中で、少しずつ確信に近づいていた。
六
その頃、只野は、一人で自宅に戻っていた。
部屋の明かりをつけ、鞄を置いた。ワンルームの静かな部屋に、蛍光灯の光だけが広がった。テーブルの上の、家族写真をちらりと見た。母の優しい笑顔が、そこにあった。
「……失言だったな」
誰にともなく呟いた。今日の、あの一瞬の言葉を思い出していた。「また浄化したんですね」という、無意識に漏れた言葉。
只野は、椅子に座り込んだ。両手で、顔を覆った。
葛乃の力が、想像以上に成長している。それが、常世会の計画にとって、大きな障害になりつつあった。焦りが、少しずつ、只野の中で募っていた。この調子では、いずれ計画全体に支障をきたす。それだけは、避けなければならなかった。
でも、まだだ……もう少し、なんとか……
只野は、スマートフォンを取り出した。画面に表示された連絡先を見つめた。指が、画面の上で、しばらく止まっていた。
しばらく迷ってから、只野は、メッセージを打ち始めた。
誰にも気づかれないように。まだ、その時ではないと、自分に言い聞かせながら。
打ち終えたメッセージを、只野はもう一度読み返した。それから、送信ボタンを押した。
部屋に、静寂が戻った。写真の中の母は、変わらず優しく笑っていた。只野は、その写真を見つめながら、長い間、動かなかった。
第三十一話 了




