表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/31

第二十九話「覚醒と焦燥」

 いつもと変わらない朝だった。


 安倍葛乃あべくずのは、事務所のデスクで書類を整理していた。宇治神燈夜うじがみとうやは、コーヒーを飲みながら報告書を書いていた。三峰静華みつみねしずかは、地図に新しい印をつけていた。窓の外は、雲の少ない晴れた朝だった。


「新しい案件が入りました」


 三峰の声に、全員が顔を上げた。


「都内の空き地です。最近まで更地だった場所で、残滓ざんしが出現しているという報告があります。近隣住民から、異様な咆哮を聞いたという通報も」


常世会じょうせいかい絡みか」


 燈夜が聞いた。三峰は頷いた。


「可能性は高いです。現場周辺で、常世会の関係者らしき人物の目撃情報もあります」


 葛乃は、書類を置いて立ち上がった。あの日以来、燈夜との関係は、以前よりも深いものになっていた。隠し事のない、率直な関係。それが、葛乃に新たな自信を与えていた。


「行きましょう」


「今回は、俺一人で」


 燈夜がそう言おうとした瞬間、葛乃が遮った。


「一緒に行きます。今度は、待機はしません」


 燈夜は、少し葛乃を見た。以前ならば、有無を言わさず止めていたかもしれない。でも今は、葛乃の目に、確かな決意が見えた。それから、小さく頷いた。


「わかった」


 只野人志ただのひとしが、デスクから顔を上げた。


「僕も行きます?」


「今回はいい。事務所で待機していてくれ」


 燈夜が言うと、只野は肩をすくめた。


「わかりました」



 現場に着くと、空き地全体に重い気配が漂っていた。


 工事のために整地されたばかりの土地だった。周囲にはフェンスが張られ、立ち入り禁止の看板が立っている。しかし、その中心部から、異様な唸り声が響いていた。地面が、時折揺れているのがわかった。


「これは……」


 葛乃は、その気配に近づくにつれ、感じるものがあった。悲しみと、怒りと、混乱。以前感じた歪みと、同じ種類のものだった。しかし今は、その感覚を、もっと落ち着いて受け止められる自分がいた。


 燈夜が木札きふだを取り出した。指を走らせ、気配を読む。


地蔵じぞうの残滓だ。歪んでいる」


 空き地の奥に、それはいた。本来なら、穏やかな石仏の姿をしていたはずの存在。しかし今は、輪郭が崩れ、黒い霧に包まれた異形の姿になっていた。石造りの体に、無数の亀裂が走っている。目の部分から、黒い霧が滲み出ていた。


「昔、ここには小さな地蔵があったんだろう。工事で撤去されて、忘れられた。そこに常世会が手を出した」


 燈夜は、木札を構えた。しかし、以前の経験から、これが通用しないことはわかっていた。地蔵の残滓が、低い唸り声を上げながら、こちらに向き直った。


「宇治神さん」


 葛乃が、燈夜の前に立った。


「今回は、私がやってみます」



「無理をするな」


 燈夜の声には、心配が滲んでいた。葛乃は、首を振った。


「今までは、無意識でした。感情に任せるままに、力が出ていました。用水路の時は、何も感じられずに終わった。でも今は、自分のことが少しわかった気がします」


 葛乃は、自分の手を見た。手のひらを、じっと見つめた。


「私の中にある力の一部は、ぬえのものです。でも、それだけじゃない。私自身の想いも、そこに混ざっている。父が守ろうとしてくれたもの、宇治神さんが守ってくれたもの、全部が、この手の中にある気がするんです。だから、今度は、自分の意志で使ってみたい」


 燈夜は、しばらく葛乃を見つめた。その表情には、迷いと、それでも信じたいという想いが浮かんでいた。それから、小さく頷いた。


「わかった。俺が、後ろで支える」


 葛乃は、深く息を吸った。地蔵の残滓に向かって、一歩、また一歩と歩みを進めた。足元の土が、崩れかけの地面のように、少し揺れていた。


 歪んだ地蔵が、葛乃に気づいたように、咆哮を上げた。地面がまた震え、周囲のフェンスが軋んだ。しかし、葛乃は止まらなかった。


 手を、静かに前に伸ばした。



「あなたは、忘れられたんですね」


 葛乃は、静かに語りかけた。


「ここで、長い間、人々を見守ってきた。でも、開発で撤去されて、誰にも顧みられなくなった」


 地蔵の残滓が、僅かに動きを緩めた。黒い霧が、少しだけ薄れた。


「寂しかったですよね。誰も、あなたのことを覚えていない。それなのに、無理やり刺激されて、こんな姿になってしまった」


 葛乃は、自分の中の感覚に、意識を集中させた。今までは、感情が溢れ出るままに力が発揮されていた。あの時の、猩猩しょうじょうへの「もうやめて」という叫び。感情そのものが力になった、あの瞬間。でも今は、違った。もっと冷静に、自分の内側にある力の輪郭を、確かめるように辿っていった。


 鵺の一部。父親の血。そして、自分自身の想い。それら全てが、一つになって、力を生み出していく感覚があった。まるで、複雑に絡み合った糸を、一本ずつ丁寧にほどいていくような、そんな感覚だった。


 葛乃の手のひらから、光が溢れ始めた。今までよりも、安定した、静かな光だった。焦りも、混乱もない、ただ静かに満ちていく光だった。


「おかえり……」


 葛乃の声が、静かに響いた。


 光が、地蔵の残滓を包み込んでいった。歪んでいた輪郭が、少しずつ元の形に戻っていく。ひび割れていた石の体が、修復されていくように、滑らかになっていった。目の部分から漏れていた黒い霧も、光に溶けるように消えていった。



 燈夜は、その光景を見ていた。


 今までの葛乃の力とは、明らかに違っていた。感情の奔流ではなく、静かで、確かな制御の下にある力だった。まるで、葛乃自身が、その力の使い方を、しっかりと理解しているような。


 地蔵の残滓が、静かに鳴いた。安堵したような、感謝するような、そんな響きだった。石の体が、完全に元の姿を取り戻していった。小さな、穏やかな顔をした地蔵の姿が、光の中に浮かび上がった。


 そして、光の中に、静かに溶けていった。消滅ではなかった。鎮魂だった。まるで、あるべき場所に、静かに還っていくような、そんな消え方だった。


 空き地に、静寂が戻った。風が、静かに吹き抜けていった。


「葛乃」


 燈夜が、駆け寄った。葛乃は、今までのように意識を失うことはなかった。少し息を切らしていたが、しっかりと自分の足で立っていた。


「できました」


 葛乃の顔に、静かな笑みが浮かんだ。汗が、額に浮いていたが、その表情には、確かな達成感があった。


「今回は、倒れませんでした」


「そうだな」

 燈夜も、微かに笑った。今まで見せたことのない、柔らかい笑みだった。


「お前は、確かに、成長している」 


 葛乃は、その言葉に、少し照れくさそうに頷いた。



 事務所に戻り、報告をすると、芦屋道雄あしやみちおが興奮した様子で駆け寄ってきた。


「本当ですか! 自分の意志で、力を制御できたと!」


「はい」


 葛乃が答えると、芦屋は目を輝かせた。手にしていた道具を、思わず取り落としそうになった。


「これは大きな進歩です! 今まで無意識だった力が、意識的に使えるようになった。素晴らしい! これなら、より多くの妖怪を、消さずに救うことができる!」


 三峰も、静かに頷いた。いつもの無表情の中に、確かな安堵が見えた。


「よくやりました」


 葛乃は、少し照れくさそうに微笑んだ。


「まだ、完璧ではないと思います。でも、少しずつ、コントロールできるようになってきた気がします」


「それでも、大きな一歩です」


 芦屋が力強く言った。


 その様子を、只野人志ただのひとしが、少し離れた場所から見ていた。


「よかったですね、葛乃さん」


 只野は、いつもの調子で言った。声は、穏やかだった。


「はい、ありがとうございます」


 葛乃は、素直に頷いた。その笑顔を見ながら、只野は変わらず笑っていた。


 ただ、その目だけが、笑っていないように見えた。


 誰も、その一瞬の変化に、気づかなかった。

 事務所には、いつもの日常が戻っていた。葛乃の成長を喜ぶ声が、静かに響いていた。窓の外、午後の光が、部屋全体を柔らかく照らしていた。



第二十九話 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ