第二十八話「灰色の正義」
一
各地からの報告が、止まらなかった。
三峰静華のデスクには、全国から寄せられる案件の書類が、日に日に積み上がっていった。安倍葛乃は、その量を見るたびに、常世会の活動範囲がどれほど広がっているかを実感していた。窓の外には、朝から降り続く小雨が、街並みを灰色に染めていた。
「今週だけで、十二件です」
三峰が、地図に印をつけながら言った。赤いピンが、日本各地に散らばっていた。北海道から九州まで、その範囲は広がり続けていた。宇治神燈夜は、その地図を見つめた。
「常世会が絡んでいる案件は」
「八件です。うち三件は、対象が消滅していました。残り五件は、暴走が確認されています」
葛乃は、資料を見ながら、複雑な気持ちになった。常世会は、確実に妖怪を消し続けている。しかし、消せずに暴走させてしまう案件も、同じくらい多かった。その暴走のたびに、怪遺局の職員が駆けつけ、後始末をしている。
「あの新兵器、まだ改良されていないみたいですね」
葛乃が呟くと、只野人志が資料を見ながら口を挟んだ。
「常世会って、結局何がしたいんですかね。妖怪を消したいのか、暴れさせたいのか」
「消したいんだろう」
燈夜は、腕を組んだ。
「常世会の中でも、何か問題が起きているのかもしれない。技術的な限界があるはずだ」
三峰は、また新たな報告書に目を通しながら、小さく息を吐いた。
「この状況が続けば、私たちの人手も限界が見えてきます。案件の数が、明らかに増え続けています」
芦屋道雄は、自分の作業台で木札を製作しながら、静かに耳を傾けていた。その表情には、いつもとは違う、深い憂慮が浮かんでいた。
二
同じ頃、常世会の拠点では、緊張した空気が漂っていた。
廃ホテルの地下、薄暗い研究室のような場所で、藤原顕彦は、デスクに向かい、術式具の設計図を見つめていた。何度も書き直された跡が、紙の上に重なっていた。消しては書き、また消しては書く。その繰り返しが、もう何日も続いていた。
デスクの上には、いくつもの試作品が並んでいた。それぞれに、異なる紋様が刻まれている。しかし、どれも決定的な解決策にはなっていなかった。
「顕彦」
覆面の人物が、部屋に入ってきた。声には、感情の起伏がなかった。しかし、その静かさが、余計に緊張を生んだ。顕彦は、すぐに立ち上がり、姿勢を正した。
「暴走の報告が、また増えている」
「……はい」
顕彦は、頭を下げた。手のひらに、じわりと汗が滲んだ。
「格の高い妖怪に使用すると、消滅させられず、歪みを与えるだけになる。この問題は、まだ解決できていません」
「怪遺局に、後始末をさせているのは、悪いことではない。彼らの評判を落とし、我々の存在感を増すことにもなる」
覆面の人物の声には、冷静な計算があった。淡々とした語り口の中に、確かな戦略性が見えた。
「だが、暴走が続けば、我々の技術の信頼性が疑われる。それに、暴走した妖怪が制御できずに拡散すれば、いずれ我々自身にも危険が及ぶ。各地方の担当者からも、不満の声が上がっている」
「わかっています」
顕彦は、拳を握った。爪が、手のひらに食い込んだ。
「必ず、改良します」
「期待している」
覆面の人物は、それだけ言って、部屋を出て行った。足音が、静かに遠ざかっていった。
顕彦は、一人残された部屋で、設計図を見つめ続けた。窓のない部屋に、蛍光灯の光だけが、白々と照らしていた。
三
なぜ、届かないのか。
顕彦は、何度も自問していた。頭を抱え、デスクに肘をついた。
自分の術式は、理論上は完璧なはずだった。芦屋道雄の理論を、徹底的に研究し、模倣した。むしろ、改良を加え、より効率的な形にしたつもりだった。何年もかけて、その理論を分析し、再構築してきた。
しかし、格の高い妖怪には、通用しない。
怪遺局の木札は、勾陳様のような強大な存在すら、鎮めることができた。鵺のような、いつの世も消えない存在にすら、対処の術を持っていた。あの情報を掴んだ時、顕彦は愕然とした。同じ理論的土台から出発しているはずなのに、どうしてそこまでの差が生まれるのか。
なぜ、自分の術式は、そこに届かないのか。
「くそっ……」
顕彦は、設計図を握りしめた。紙が、くしゃりと音を立てた。
怪遺局の芦屋道雄という技術者に、なぜ勝てないのか。同じ理論を土台にしているはずなのに、なぜあの男の技術は、こんなにも精密で、こんなにも深いのか。まるで、妖怪という存在そのものへの理解の深さが、根本的に違うようだった。
顕彦の中で、悔しさが、渦を巻いていた。技術者としての誇りが、深く傷つけられていた。研究者として、自分の力を証明したいという想いが、日に日に強くなっていた。それが、単なる技術的な問題以上の、個人的な意味を持ち始めていた。
顕彦は、デスクの引き出しを開けた。中には、古い資料が入っていた。芦屋道雄という人物についての、これまで密かに集めてきた断片的な情報。しかし、その正体について、深く追及することは、なぜか避けていた。
四
顕彦は、椅子に深く座り込んだ。目を閉じると、古い記憶が浮かんできた。
幼い頃の記憶だった。母の顔。優しい笑顔。手を繋いで歩いた、あの日の光景。夕暮れの道、母の温かい手のひらの感触。何気ない日常の一場面だったはずなのに、それが最後の記憶になった。
そして、その日のことも、思い出した。
夜の帰り道、母と手を繋いで歩いていた。何かの気配がした。空気が、急に重くなった。母が、足を止めた。それから、顕彦を庇うように前に出た。
「危ない、下がって」
母の声が、今でも耳の奥に残っている。
次の瞬間、視界が、黒く染まった。
悲鳴。母の声。そして、静寂。
顕彦が覚えているのは、それだけだった。母が、妖怪に襲われて命を落としたということ。自分だけが、生き残ったということ。あの時何が起きたのか、詳細は今も鮮明には思い出せない。ただ、母がいなくなったという事実だけが、重く残っていた。
その日から、顕彦の中で何かが変わった。妖怪という存在への、拭い去れない憎しみが、心の奥深くに根付いた。
なぜ、母は死ななければならなかったのか。なぜ、妖怪という存在が、この世に許されているのか。
その問いが、顕彦をここまで導いた。妖怪研究に没頭する道を選んだのも、その存在を根絶やしにする方法を見つけたいという、深い願いからだった。
五
「顕彦」
声が聞こえた。顕彦は、目を開けた。覆面の人物が、再び部屋に入ってきていた。今度は、一人だった。
「何か、思い悩んでいるようだな」
「……いえ」
顕彦は、表情を整えた。しかし、覆面の人物には、何かを見透かされているような感覚があった。アイマスクの奥にある目が、確かに自分を見ているという確信があった。
「お前が、なぜこの組織にいるのか。私は、よく理解している」
覆面の人物の声に、僅かな変化があった。今までの冷静な事務的な口調とは、少し違う響きだった。どこか、共感めいたものが滲んでいた。
「母を、妖怪に奪われた。その痛みは、簡単には消えない」
顕彦は、驚いて覆面の人物を見た。
「なぜ、それを」
「私も、同じ痛みを知っている」
覆面の人物は、静かに言った。その声には、確かな実感が伴っていた。
「大切な人を、妖怪に奪われた者同士、わかり合えることがある」
顕彦は、しばらく何も言えなかった。この組織のボスが、自分と同じ痛みを抱えているとは、思ってもいなかった。今まで、ただ組織の目的に従ってきただけだったが、その根底に、こんな共通点があったことに、少し動揺した。
「だからこそ、お前をこの組織に引き入れた。お前の技術と、お前の想い、両方が必要だった」
覆面の人物は、少し間を置いた。部屋の空気が、一瞬だけ張り詰めた。
「失望させないでくれ」
顕彦は、深く頭を下げた。
「必ず、改良します。次こそは、完璧なものを」
「期待している。お前には、才能がある」
覆面の人物の声に、確かな期待が込められていた。顕彦は、その言葉に、少しだけ心が軽くなるのを感じた。
六
覆面の人物が去った後、顕彦は再び設計図に向かった。
母の顔が、脳裏に浮かんだ。あの日から、顕彦は、妖怪を憎むことだけを、生きる目的にしてきた。研究に没頭し、技術を磨き、いつか妖怪という存在を根絶やしにする力を手に入れる。それだけが、顕彦を支える原動力だった。
芦屋道雄に勝てないという悔しさも、母の死という痛みも、全てが混ざり合って、顕彦の中で複雑な感情を作り上げていた。
これは、正義なのか。
顕彦は、時々そう自問することがあった。妖怪を殲滅することが、本当に正義なのか。それとも、単なる復讐なのか。母の死を、正当化するための言い訳に過ぎないのか。
答えは、いつも出なかった。ただ、進むしかないと、顕彦は自分に言い聞かせた。
設計図に、新たな数式を書き加えていく。まだ、答えは見えない。しかし、諦めるつもりはなかった。
母のために。そして、自分自身のために。この道を、正義だと信じ続けるために。
顕彦は、夜が明けるまで、ペンを動かし続けた。窓のない部屋で、時間の感覚も曖昧になりながら、ただ、答えを探し続けていた。
第二十八話 了




