第二十七話「白日の色彩」
一
「続きを、話します」
三峰静華の声は、静かだったが、確かな重みを持っていた。窓の外は、まだ夜の名残を残していた。病室の蛍光灯だけが、二人を静かに照らしていた。
葛乃は、涙を拭いながら、三峰を見た。まだ、頭の中は整理しきれていなかった。でも、続きを聞かなければならないと、そう思った。
「あの夜、鵺との戦いが激化する中、あなたのお父さんは劣勢に立たされました。宇治神さんは、術式によって動けないまま、その光景を見ているしかありませんでした」
葛乃は、息を呑んだ。鵺が見せた映像が、また脳裏に蘇った。若い燈夜が、恐怖に顔を歪めて立ち尽くしている姿。
「でも、状況は、さらに悪化しました。鵺の攻撃が、あなたにも及ぶ危険が生じたんです」
「私に……」
「はい。あなたのお父さんは、宇治神さんを守るために動けなくしていましたが、その代わり、あなた自身を守る余力が足りなくなっていました。師として、弟子を守ることと、娘を守ることの両方を、同時に果たすことができなかったんです」
三峰は、少し間を置いた。窓の外の空が、少しずつ白み始めていた。夜が、ゆっくりと明けようとしていた。
「その瞬間、宇治神さんは、術式を自らの意志で破りました」
二
「術式を、破った」
葛乃は、繰り返した。その言葉の重みを、噛みしめるように。
「本来、あなたのお父さんが施した術式は、簡単には破れないものでした。師の力で施された術式です。並大抵の意志では、破ることなどできません。でも、宇治神さんは、無理やりにでもそれを引き裂いた。あなたを守るために」
三峰の声が、少し震えた。長年、燈夜のそばにいた彼女にとっても、この話をすることは容易ではないようだった。
「その代償として、宇治神さんの背中には、今も消えない大きな傷が残っています」
葛乃の目が、大きく見開かれた。
「傷……」
「はい。鵺の攻撃を、身を挺して受け止めた傷です。それでも、鵺の力は強大で、完全には防ぎきれませんでした。結果として、あなたは命を救われましたが、魂の一部を鵺に持っていかれることになったんです」
葛乃の頭の中で、鵺が見せた映像と、三峰の言葉が、少しずつ組み合わさっていった。燈夜が動けずにいた光景。でもその後、燈夜が動いたという事実は、鵺は語らなかった。都合よく、真実の一部だけを切り取って、葛乃に植え付けようとしていたのだ。
「宇治神さんは、あなたのお父さんを助けられなかった。それだけでなく、あなたを完全に守り切ることもできなかった。師を失い、自分は傷を負い、そして、あなたの魂の一部まで奪われてしまった」
三峰は、葛乃の目を真っ直ぐに見た。その瞳には、確かな信念が宿っていた。
「その全てを、宇治神さんは、自分の無力さとして受け止めました。そして、幼いあなたに、その悲惨な事実を背負わせたくなかった。だから、記憶を封じることを選んだんです」
三
「私を、守るために……」
葛乃の声が、震えた。
「そうです。隠すためではなく、守るためです」
三峰は、静かに続けた。
「宇治神さんが今まで抱えてきた罪悪感は、師を守れなかったことだけではありません。師の娘であるあなたすら、完全には守り切れなかったという、その無力さにあります。彼は、十六年間、その罪悪感を一人で背負い続けてきました」
葛乃は、両手で顔を覆った。涙が、指の間から零れ落ちた。嗚咽が、静かな病室に響いた。
「私、鵺の言葉を信じて、宇治神さんを責めてしまいました。あんな酷いことを、言ってしまいました」
「無理もありません。あの時のあなたには、判断する材料が、鵺の言葉しかなかった。誰であっても、あの状況では同じように混乱したはずです」
三峰は、葛乃の背中に、そっと手を置いた。その温かさが、少しずつ葛乃の心を落ち着かせていった。
「でも、今は違います。本当のことを、知りました」
葛乃は、しばらく泣き続けた。三峰は、何も言わずに、その背中をさすり続けた。時折、優しく背中を叩きながら、静かに寄り添っていた。
窓の外、朝日が、少しずつ昇り始めていた。カーテンの隙間から差し込む光が、病室を淡く照らし始めた。
「三峰さん」
葛乃が、涙を拭いながら聞いた。
「宇治神さんに、会いたいです」
「もう少し、体を休めてからにしましょう。今は、まだ」
三峰は、優しく微笑んだ。それは、いつもの無表情とは違う、初めて見るような柔らかい表情だった。
四
葛乃が退院したのは、それから三日後のことだった。
久しぶりに事務所に顔を出すと、三峰と芦屋道雄が出迎えた。只野人志も、隅の方から心配そうな顔で見ていた。事務所の空気は、いつもと変わらないようで、どこか張り詰めていた。
「葛乃さん、体調はもう大丈夫なんですか」
只野が聞いた。心配そうな顔をしていたが、その裏に何を思っているのかは、誰にもわからなかった。葛乃は小さく頷いた。
「はい、もう大丈夫です」
燈夜は、自分のデスクに座っていた。葛乃と目が合うと、一瞬だけ視線が揺れた。それから、すぐに逸らされた。まるで、何か罪悪感を抱えているような、そんな仕草だった。
事務所の空気が、少しぎこちなかった。誰も、何を話せばいいのかわからないような、そんな沈黙が漂っていた。三峰が、小さく咳払いをした。
「只野さん、少し手伝ってほしい書類があります。芦屋先生も、一緒に来てください」
「え、僕もですか」
「はい」
三峰は有無を言わさぬ調子で、只野の腕を掴んだ。芦屋も、事情を察したように、素直について行った。長年連れ添った三峰の意図を、すぐに理解したようだった。
「あ、あの、僕、まだ状況がよくわかってないんですけど」
只野が困惑した声を上げながら、引きずられるように部屋の外へ連れて行かれた。
「三峰さん、僕何かしたんですか! なんかいつもより手が強いんですけど!」
只野の声が、廊下の向こうから聞こえてきた。芦屋の笑い声も、微かに混じっていた。
事務所には、燈夜と葛乃、二人だけが残された。
五
しばらく、沈黙が続いた。
葛乃は、自分のデスクの前に立ったまま、燈夜を見た。燈夜も、葛乃を見ていた。どちらも、何から話せばいいのか、わからなかった。窓の外から、鳥の鳴き声が微かに聞こえてきた。
「宇治神さん」
葛乃が、先に口を開いた。声が、少し震えていた。
「三峰さんから、聞きました。全部」
燈夜の肩が、僅かに動いた。
「あの夜、宇治神さんが、私を守ってくれたこと。術式を破って、傷を負ったこと」
葛乃の目に、涙が浮かんだ。
「私、鵺の言葉を信じて、宇治神さんのことを、酷いことを言ってしまいました」
「いや」
燈夜は、首を振った。強く、はっきりと。
「お前が謝ることじゃない。全部、俺が悪い。本当のことを、話さなかった俺の責任だ」
「でも」
「もっと早く、話すべきだった。お前が知る前に、俺の口から。そうすれば、お前がこんなに苦しむこともなかった」
燈夜は、立ち上がった。葛乃に近づき、その前に立った。距離は、いつもより少し近かった。
「すまなかった」
燈夜が、深く頭を下げた。葛乃は、驚いて目を見開いた。この人が、こんなに深く頭を下げる姿を、今まで見たことがなかった。
六
「頭を上げてください」
葛乃は、慌てて言った。燈夜は、ゆっくりと顔を上げた。その顔には、今まで見たことのない、無防備な表情が浮かんでいた。
「宇治神さんは、私を守るために、傷を負ってくれたんですよね。それなのに、謝る必要なんてありません」
「でも、記憶を封じたことは」
「それも、私を守るためだったんですよね」
葛乃は、真っ直ぐに燈夜を見た。
「宇治神さんは、ずっと一人で背負ってきたんですね。お父さんのことも、傷のことも、私の力のことも。十六年間も、ずっと」
燈夜は、何も言えなかった。
「その傷、見せてもらえますか」
葛乃の言葉に、燈夜は少し戸惑った。
「なぜ」
「確かめたいんです。あなたが、本当に、私を守ってくれたということを。この目で、はっきりと」
燈夜は、少し躊躇った。今まで誰にも見せたことのない傷だった。三峰でさえ、話には聞いていても、直接見たことはなかった。それでも、葛乃の真剣な眼差しに、燈夜は静かに頷いた。
上着を脱ぎ、シャツのボタンを外し始めた。背中を、葛乃に向けた。
そこには、大きな傷跡があった。古く、深く、まるで何かに引き裂かれたような跡だった。十六年経った今も、はっきりと残っていた。皮膚が引きつれ、複雑な模様を描いていた。
葛乃は、その傷跡を見つめた。涙が、また零れた。
「これが……」
「師匠と、お前を守れなかった証だ……」
燈夜の声は、静かだった。振り返らないまま、続けた。
「自分の不甲斐なさが生んだ結果だ。忘れたことは、一度たりとも無い」
葛乃は、そっと手を伸ばした。傷跡に、指先が触れた。燈夜の体が、微かに震えた。
「ありがとうございます」
葛乃の声は、涙で震えていた。
「私を、守ってくれて。ずっと、一人で抱え込んでくれて」
燈夜は、何も言わなかった。ただ、その言葉を、静かに受け止めていた。
七
燈夜は、シャツを着直しながら、葛乃に向き直った。その顔には、少しだけ、憑き物が落ちたような表情があった。
「これからは、隠し事はしない。全部、話す」
「はい」
「お前が知りたいことは、全部答える。鵺のことも、これから起こることも」
葛乃は、頷いた。それから、少しだけ微笑んだ。今までにない、晴れやかな笑顔だった。
「宇治神さん」
「なんだ」
「これからも、よろしくお願いします」
燈夜は、少し驚いたような顔をした。それから、小さく頷いた。
「ああ」
その一言に、これまでの十六年分の重みと、これからへの決意が、確かに込められていた。
事務所のドアが、そっと開いた。三峰と芦屋、そして只野が、様子を伺うように顔を覗かせていた。
「終わりましたか」
三峰が聞いた。葛乃は、少し照れくさそうに頷いた。
「はい、大丈夫です」
「よかったです」
只野が、ほっとしたように言った。まだ状況を完全には理解していないようだったが、二人の空気が和らいだことは感じ取ったようだった。
「僕、結局何がなんだったのかさっぱりですけど、丸く収まったならよかったです!」
只野は、いつもの調子でそう言った。その言葉に、少しだけ場が和んだ。
芦屋は、静かに微笑んでいた。その目には、安堵と、それ以上の何かが浮かんでいた。まるで、自分自身の何かとも重ね合わせているような、そんな複雑な表情だった。
事務所に、いつもの日常が戻ってきた。しかし、葛乃と燈夜の間には、今までとは違う、確かな絆が生まれていた。
窓の外、朝の光が、事務所全体を優しく照らしていた。
第二十七話 了




