第二十六話「重なる空白」
一
葛乃は、再び病院のベッドに横たわっていた。
三峰静華が、傍らの椅子に座っていた。窓の外は、まだ夜が明けていなかった。カーテンの隙間から、街灯の光が薄く差し込んでいた。
「体調は」
「大丈夫です。ただ、少し……」
葛乃は言葉を濁した。頭の中が、まだ整理できていなかった。鵺から聞いた真実が、頭の中で何度も繰り返されていた。父親のこと、燈夜のこと、自分自身のこと。全てが渦を巻いて、何が本当なのかわからなくなっていた。
三峰は、しばらく黙っていた。ただ、静かに葛乃の様子を見守っていた。それから、意を決したように、静かに口を開いた。
「鵺から聞いた話、詳しく教えてもらえますか」
葛乃は、少し躊躇った。でも、このまま抱え込んでいることの方が、辛かった。ゆっくりと話し始めた。父親のこと、燈夜が見捨てたということ、記憶を封じたこと、力の源が鵺であることを最初から知っていたこと。
声が、途中で何度も震えた。それでも、話し終えた。
三峰は、黙って聞いていた。話が終わると、深く息を吐いた。窓の外を、少しの間見つめていた。
「……なるほど。鵺は、そう伝えたんですね」
「違うんですか」
葛乃の声に、縋るような響きが混じった。
「全部が嘘というわけではありません。でも、伝え方が、あまりにも歪んでいます」
二
「宇治神さんが、あなたのお父さんの現場にいたのは事実です」
三峰は、ゆっくりと語り始めた。声のトーンは、いつもより柔らかかった。
「当時、宇治神さんはまだ十九歳でした。今のあなたより、少し若いくらいです。適性はありましたが、実戦経験は、ほとんどありませんでした。まだ、木札の扱いにも慣れていない頃です」
「それで」
「あなたのお父さんは、鵺と対峙する際、宇治神さんに待機を命じました。まだ経験の浅い彼を、危険な戦いに巻き込まないためです」
葛乃は、息を呑んだ。
「宇治神さんは、待機の指示に従いました。でも、状況が悪化していくのを見て、飛び出そうとしたそうです。師が窮地に陥っているのを、黙って見ていられなかった」
「飛び出そうと……」
「でも、あなたのお父さんに止められました。『お前まで死ぬ必要はない』と」
三峰の声は、静かだったが、確かな重みがあった。まるで、その場に自分がいたかのような、確信を持った口調だった。
「宇治神さんは、それでも動こうとした。でも、体が動かなかった。恐怖のせいではありません。あなたのお父さんが放った、動くなという術式に、縛られていたからです」
葛乃は、混乱した。鵺が見せた映像と、三峰の話が、少しずつずれ始めていた。同じ光景のはずなのに、全く違う真実が浮かび上がってくる。
三
「あなたのお父さんは、宇治神さんを守るために、あえて彼を動けなくしたんです」
三峰は続けた。
「宇治神さんは、目の前で師が命を落とすのを、指一本動かせずに見ていることしかできませんでした。それは、恐怖から逃げたのではなく、師によって、強制的に見せられた光景だったんです」
葛乃の目から、涙が溢れた。
「そんな……」
「宇治神さんは、それから何年も、自分を責め続けました。もし、あの時無理にでも動いていたら。もし、術式を破ってでも助けに行っていたら。そう考え続けていました」
三峰は、少し間を置いた。窓の外の暗闇を、じっと見つめた。
「彼が、この仕事にあれほどまでに執着するのも、自分を許せないからです。師の死を、無駄にしたくないという想い。そして、あなたを守ることで、少しでも償いたいという想いがあります」
「そして、あなたの記憶を封じたのは、あなたを守るためです。幼いあなたが、あの光景を、あの喪失を、抱えたまま生きていくことに耐えられないと判断したからです」
「でも、力の源が鵺だってことは」
「それは、事実です。宇治神さんは、最初から知っていました」
三峰は、真っ直ぐに葛乃を見た。その目には、確かな信念があった。
「でも、それを話さなかったのは、隠すためではありません。あなたが、自分の存在に絶望することを、恐れていたからです」
四
葛乃は、しばらく何も言えなかった。
鵺が語った真実と、三峰が語る真実。同じ出来事なのに、全く違う色をしていた。どちらが本当なのか、頭の中で整理がつかなかった。でも、三峰の言葉には、確かな重みがあった。長年、燈夜のそばで見てきた者だからこそ語れる、そんな確信があった。
「宇治神さんは、なぜ、私に直接話してくれなかったんですか」
葛乃の問いに、三峰は少し目を伏せた。
「それは、彼自身の問題です。私から話すことではありません」
「でも」
「ただ、一つだけ言えることがあります」
三峰は、葛乃の目を見た。
「宇治神さんは、あなたを傷つけたくなかった。それだけは、間違いありません」
葛乃は、俯いた。涙が、シーツに落ちた。ぽつり、ぽつりと、いくつもの染みが広がっていった。
三峰は、それ以上何も言わずに、静かに葛乃の背中をさすった。その手の温かさが、少しだけ葛乃の心を落ち着かせた。
病室に、静かな時間が流れた。夜が、まだ深く続いていた。
五
同じ頃、燈夜は、行きつけのバーのカウンターに座っていた。
グラスの中の琥珀色の液体を、じっと見つめていた。今夜は、いつもより飲むペースが速かった。もう何杯目かわからなくなっていた。
マスターは、何も聞かずに、静かにグラスを磨いていた。長年の付き合いだからこそ、こういう時に何も聞かないことが、燈夜にとってはありがたかった。
「宇治神くん」
声が聞こえた。振り返ると、芦屋道雄が立っていた。いつもの白衣ではなく、私服姿だった。
「先生」
「隣、いいですか」
芦屋は返事を待たずに、燈夜の隣に座った。マスターが、何も言わずにグラスを用意した。
「三峰さんから聞きました。葛乃くんのこと」
燈夜は、黙って頷いた。グラスを握る手に、力がこもった。
「鵺に、色々と吹き込まれたそうですね」
「ああ」
燈夜は、グラスを一気に空けた。喉が焼けるような感覚があったが、それすらどうでもよかった。
「本当のことを、話さなかった俺の責任だ」
「そうですね」
芦屋は、あっさりと言った。燈夜は、少し驚いて芦屋を見た。慰めの言葉を期待していたわけではなかったが、これほどはっきりと肯定されるとは思わなかった。
「慰めは、しません。あなたが、話すべきだった。それは事実です」
燈夜は、何も言えなかった。ただ、グラスを見つめた。
六
「先生は」
燈夜は、ようやく口を開いた。
「なぜ、俺にそこまで言うんですか」
言ってから、その質問自体が、少し弱々しいと感じた。燈夜らしくない問いだった。それでも、今は自分の弱さを隠す余裕がなかった。
芦屋は、グラスを傾けながら、静かに答えた。
「宇治神くん、私にも、後悔していることがあります。伝えるべきだったのに、伝えられなかったこと。時間が経てば経つほど、伝えることが難しくなっていく。私は、それをよく知っています」
燈夜は、芦屋の顔を見た。いつもの飄々とした表情の奥に、深い何かが見えた。今まで見たことのない、影のようなものだった。
「だからこそ、あなたには、同じ後悔を重ねてほしくない」
「先生」
「葛乃くんに、話してください。全部、正直に」
燈夜は、グラスを見つめた。それから、小さく頷いた。
「……わかりました」
声は、掠れていた。でも、確かな決意が込められていた。
芦屋は、少し安堵したような表情を見せた。それから、話題を変えるように、別のことを切り出した。
「そういえば、宇治神くん」
「なんですか」
「常世会の新兵器のことで、少し調べていたんですが」
燈夜は、芦屋を見た。芦屋の表情が、少し険しくなった。今までの穏やかな空気が、一瞬で変わった。
「開発者について、名前が浮かんできました」
「誰ですか」
芦屋は、少し間を置いた。グラスを持つ手が、僅かに震えているように見えた。それから、静かに言った。
「藤原顕彦という人物です」
その名前を、燈夜は聞いたことがなかった。しかし、芦屋の表情には、何か複雑なものが浮かんでいた。単なる調査結果を告げる態度ではなかった。もっと個人的な、深い感情が滲んでいるように見えた。
「先生、その人物を知っているんですか?」
芦屋は、答えなかった。ただ、グラスの中の液体を、じっと見つめていた。マスターも、何も言わずに、静かにその様子を見守っていた。
バーの中に、重い沈黙が満ちた。
第二十六話 了




