第二十五話「境界の狭間で」
一
燈夜は、病室を飛び出していた。
葛乃が窓から飛び去った直後、燈夜はスマートフォンを取り出し、三峰に電話をかけた。
「三峰さん、緊急事態だ。葛乃が、鵺に乗っ取られて連れ去られた」
電話の向こうで、三峰が息を呑む音がした。
「詳しい状況は」
「説明は後だ。俺は、独自に追う」
「宇治神さん、単独は」
「時間がない」
燈夜は電話を切り、病院の廊下を走った。看護師が驚いた顔をしたが、構わなかった。ガラスの割れる音を聞いた他の患者や職員が、何事かと廊下を覗いていた。
外に出ると、夜の街を見上げた。葛乃の姿は、もうどこにもなかった。しかし、燈夜の中に、何かが引っ張られる感覚があった。
これは、木札で読む気配とは違った。もっと直感的な、本能に近い何かだった。まるで、葛乃と自分の間に、見えない糸が繋がっているような。十六年前、あの夜に葛乃を助けた時から、ずっと繋がっていた何かが、今、強く引かれているような感覚だった。
燈夜は、その感覚を頼りに、車に乗り込んだ。エンジンをかける手が、僅かに震えていた。
「待ってろ、葛乃」
誰にともなく呟いて、燈夜はアクセルを踏み込んだ。
同じ頃、事務所には三峰の緊急招集がかかっていた。
只野人志と芦屋道雄が、慌ただしく駆けつけてきた。深夜であるにも関わらず、二人とも表情は張り詰めていた。
「三峰さん、葛乃さんが鵺に……本当なんですか」
只野が青ざめた顔で聞いた。三峰は頷いた。
「宇治神さんから連絡がありました。詳細はまだわかりませんが、至急、捜索を開始します」
三峰は地図を広げた。手が、いつもより速く動いていた。
「都内近郊の廃墟、山間部、これまで残滓関連の報告があった地域を中心に、手分けして捜索します」
「宇治神さんは」
「単独で動いています。何か当てがあるようでした」
芦屋が険しい表情で地図を見つめた。いつもの飄々とした様子は、今は影を潜めていた。
「鵺が現れやすい場所には、傾向があるはずです。以前の廃工場も、候補の一つでしょう」
「そこを含めて、手分けしましょう」
三峰はてきぱきと指示を出し始めた。只野と芦屋、そして他の局員たちが、それぞれの担当地域に散っていった。
只野は事務所を出る際、一瞬だけ足を止めた。その顔に浮かんだ表情は、心配とも、別の何かとも取れる複雑なものだった。しかし、すぐにいつもの様子に戻り、車に乗り込んでいった。
二
燈夜は、車を走らせていた。
都心を抜け、郊外へ。道が細くなっていく。街灯の数が減り、周囲が暗くなっていった。燈夜は、ある方向に強く引かれる感覚を覚えた。
その先にあったのは、以前訪れたことのある廃工場だった。
鵺が最初に出現した、あの場所だった。
燈夜は車を停め、走り出した。工場の敷地に足を踏み入れた瞬間、重い気配が全身を包んだ。前回よりも、遥かに濃密な気配だった。肌がひりつくような、圧倒的な存在感だった。
「葛乃!」
燈夜は叫びながら、工場の奥へ進んだ。
三
工場の中心部に、それはいた。
葛乃が、地面に座り込むように倒れていた。その背後に、鵺の残滓が揺らめいていた。形が定まらない、猿と蛇と虎が混ざり合ったような輪郭。それが、葛乃を包み込むように存在していた。
「葛乃!」
燈夜は駆け寄ろうとした。しかし、鵺の気配が、燈夜を威嚇するように膨れ上がった。工場の鉄骨が、軋むような音を立てた。
『近づくな』
声が響いた。葛乃の口から出ているはずなのに、複数の声が重なったような、異様な響きだった。
『まだ、話は終わっていない』
燈夜は足を止めた。木札を構えながらも、迂闊に動けなかった。専用の対策は、何もない。この場で使えるのは、通常の木札だけだった。それが、鵺には通用しないことを、燈夜は前回の一件で痛いほど理解していた。
「葛乃、聞こえるか」
燈夜は、慎重に声をかけた。
葛乃の瞼が、微かに震えた。
「う……宇治神、さ……ん……」
声は、葛乃自身のものだった。掠れて、途切れ途切れだったが、確かに葛乃の意識がそこにあった。
「葛乃、大丈夫か」
「わ、わからな……い……頭の、中で……」
葛乃の言葉が、また途切れた。鵺の気配が、再び強くなった。
四
燈夜は、木札を構え直した。
「葛乃を、返せ」
鵺の気配が、嘲るように揺れた。低い、幾重にも重なった笑い声のようなものが響いた。
『返す? いや、これは俺の一部だ。返してもらうのは、俺の方だ』
「一部……?」
『お前は、まだ気づいていないのか。この娘の中に、俺の魂の欠片がある。十六年前、俺はこの娘から命の半分を奪った。だが同時に、俺の一部も、この娘の中に残った』
燈夜は、目を見開いた。
「なぜ、そんなことをした」
『奪う時、繋がりが生まれる。それだけのことだ』
鵺の気配が、じわりと燈夜に近づいた。
『宇治神燈夜。お前の一族には、古くからの因縁がある。見返り兎の血を引く一族が、幾度となく俺の前に立ちはだかってきた』
「一族の……因縁」
『そして十六年前、お前の師も、その一族の教えを受け継ぐ者として、俺を封じようとした。あと少しのところで、俺は永遠に閉じ込められるところだった』
燈夜の顔が、強張った。
「師を……」
『あの男の命と引き換えに、俺は生き延びた』
燈夜は歯を食いしばった。木札を構え、唱えようとした。しかし、光を放つ前に、鵺の気配が燈夜を弾き飛ばした。
「ぐっ……」
燈夜は工場の壁に叩きつけられた。息が詰まった。それでも、立ち上がろうとした。
『無駄だ。お前には、俺を止める力はない』
鵺の声には、確信があった。燈夜は、それでも木札を握りしめたまま、立ち上がった。
「それでも、葛乃を渡すわけにはいかない」
『意地だけは、あの男に似ているな』
鵺は、嘲るように揺れた。
五
その頃、葛乃の意識は、暗闇の中にあった。
あの時と同じ場所だった。音もなく、匂いもなく、温度もない空間。そこに、鵺の気配があった。
「また……会いましたね」
葛乃は、震える声で言った。
気配が揺れた。答えるように。
“お前は、真実を知る必要がある。”
「真実」
“十六年前のことだ。”
葛乃の脳裏に、映像が流れ込んできた。
夜の路地。父親らしき人影が、鵺と対峙している。傍らに、若い燈夜がいた。まだ十九歳の、今よりずっと幼い顔つきの燈夜。恐怖に顔を歪め、足が竦んでいるように見えた。
“お前の父は、俺と戦った。そして、宇治神燈夜は、それを見ていた。”
「見ていた……?」
“動かなかった。恐怖で、体が竦んでいた。何もできず、ただ、お前の父が俺に敗れるのを見ていただけだった。”
映像が続いた。父親が倒れる瞬間。燈夜が、その場に立ち尽くしている姿。手を伸ばそうとして、伸ばしきれずに、震えている姿。
「そんな……宇治神さんは、助けようとして」
“助けようとした? いや、違う。あの男は、動けなかっただけだ。自分の無力さから逃げるように、後になって罪悪感を演じているだけだ。”
葛乃の心が、大きく揺れた。信じたくなかった。でも、映像はあまりにも鮮明だった。
「嘘……」
“嘘ではない。そして、あの男は、自分の罪を隠すために、お前の記憶を封じた。お前が真実を知れば、あの男を責めるとわかっていたからだ。”
六
さらに、映像が流れた。
幼い葛乃が、燈夜に抱きかかえられている。燈夜の手が、葛乃の額に触れている。何かの術式が、淡く光っている。燈夜の顔には、苦しげな表情が浮かんでいた。
“あの男は、最初から知っていた。お前の力の源が、俺であることを。お前の中に俺の一部があることを。知っていながら、お前には何も話さなかった。”
「なぜ、話してくれなかったんですか……」
葛乃の声が、震えた。
“お前は、俺に命の半分を持っていかれた。人間でも、妖怪でもない、中途半端な存在になった。それを、あの男は知っていて、隠し続けた。十六年間、ずっとだ。”
葛乃は、頭を抱えた。混乱が、渦を巻いていた。
燈夜が、葛乃の父親を見捨てた。その罪を隠すために、記憶を封じた。葛乃の力の源が鵺であることを、最初から知っていた。そして、葛乃自身が、人間でも妖怪でもない存在になっていることも。
全てが、一度に押し寄せてきた。今まで積み重ねてきた信頼が、音を立てて崩れていくような感覚だった。
「なんで……なんで、何も言ってくれなかったの……」
涙が、暗闇の中で零れた。
悲しみ、怒り、絶望。様々な感情が、葛乃の中で渦を巻いていた。信じていた人に、裏切られたという想い。自分の存在そのものへの疑問。何が本当で、何が嘘なのか、もうわからなくなっていた。
その涙と共に、葛乃の中で何かが弾けた。
七
抑えきれない感情が、力となって溢れ出した。理性では制御できない、純粋な感情そのものの奔流だった。
工場の中で、突如として強い光が爆発した。
燈夜は、その光に目を細めた。今まで見たどの光とも違う、荒々しく、それでいて純粋な力だった。
「これは……」
鵺の気配が、悲鳴のような声を上げた。葛乃の体を包んでいた黒い霧が、光に押し出されるように、体から引き剥がされていく。
鵺の姿が、葛乃の体から完全に分離し、宙に浮かび上がった。しかし、その表情には、苦痛ではなく、どこか歓喜のようなものが浮かんでいた。目が、爛々と輝いていた。
『素晴らしい』
鵺の声が、工場に響いた。恍惚とした響きだった。
『これこそが、俺が求めていた力だ。お前の中で、俺の一部が、確かに育っている』
「お前の目的は、これだったのか」
燈夜が問いただした。木札を構えたまま、鵺を睨んだ。
『俺は、完全な姿を取り戻したい』
鵺は、嬉しそうに揺らめいた。その言葉には、長い年月をかけて抱き続けてきた執念のようなものが滲んでいた。
『お前の中にある俺の一部が、完全に目覚めた時、俺はまた、お前のもとへ来る。それまで、大切に育てておけ』
「勝手なことを」
燈夜は、木札を構え直した。しかし、鵺の姿は、すでに薄れ始めていた。撤退せざるを得ない状況のはずなのに、その気配には満足感が漂っていた。まるで、望んでいたものを確かに見つけたような、そんな余韻があった。
『いずれ、また』
その言葉を最後に、鵺の気配は完全に消えた。工場に、静寂が戻った。
八
「葛乃!」
燈夜が駆け寄った。葛乃の体が、力なく傾いた。燈夜はそれを、咄嗟に抱きとめた。
「葛乃、しっかりしろ」
葛乃の目が、ゆっくりと開いた。焦点が、燈夜に合った。
しかし、その目には、今までとは違う何かがあった。
「……宇治神さん」
葛乃の声は、静かだった。しかし、その静かさが、燈夜には恐ろしく感じられた。
「聞きました。全部」
「葛乃、それは」
「本当なんですか」
葛乃の目から、涙が零れた。
「私の父を、見捨てたって。それを隠すために、記憶を封じたって。私の力が鵺のものだって、最初から知っていたって」
燈夜の顔が、青ざめた。
「違う、それは」
「本当なんですか」
葛乃の声が、強くなった。燈夜は、言葉に詰まった。何から説明すればいいのか、わからなかった。全てを否定したかった。でも、一部は事実だった。その事実と嘘の境界を、今すぐに説明できるほど、状況は単純ではなかった。
燈夜は、葛乃を見つめることしかできなかった。
葛乃は、声を殺して泣いていた。肩が、小さく震えていた。病院から連れ出されたままの姿で、素足で冷たい工場の床に座り込んでいる姿が、余計に痛々しかった。
燈夜は、何か言葉をかけようとした。でも、どんな言葉も、今の葛乃には届かない気がした。
その時、工場の入り口から、複数の足音が聞こえた。
「宇治神さん! 葛乃さん!」
三峰と芦屋、そして数人の局員が駆けつけてきた。
三峰は、すぐに状況を察したようだった。燈夜と葛乃の間に流れる、重く張り詰めた空気。葛乃の震える肩。燈夜の、何も言えない表情。
三峰は何も聞かずに、自分の上着を脱いだ。そして、静かに葛乃の肩にかけた。
「……寒かったでしょう」
それだけ、三峰は言った。葛乃は、顔を上げなかった。ただ、小さく頷いた。
芦屋も、その場の空気を察してか、何も言わずに周囲を見回していた。局員たちも、状況をすぐには理解できないながらも、口を挟まずに待機していた。
燈夜は、少し離れた場所に立ったまま、葛乃を見ていた。近づくことも、離れることもできずに、ただそこに立ち尽くしていた。
工場の中に、重い沈黙だけが残った。
夜が、まだ深く続いていた。
第二十五話 了




