第二十四話「暗闇からの略奪者」
一
安倍葛乃が目を覚ましたのは、深夜だった。
病室の薄暗い光の中、ベッドの傍らに人影があった。目を凝らすと、宇治神燈夜だった。椅子に座り、腕を組んだまま、葛乃を見ていた。窓の外は、すでに月が高く昇っていた。
「……宇治神さん」
葛乃の声は、まだ掠れていた。喉が渇いていた。
「起きたか」
燈夜の声は、いつもより柔らかかった。葛乃は身体を起こそうとしたが、まだ力が入らなかった。全身が、重い疲労に包まれているようだった。
「無理をするな」
燈夜はそう言って、枕元にあった水を差し出した。葛乃は少し驚きながら、それを受け取った。
「私、どうなったんですか」
「力を使いすぎて、意識を失った。でも、猩猩は浄化できた。お前のおかげだ」
葛乃は少しずつ、記憶を取り戻していった。山道を走ったこと、燈夜に叫んだこと、猩猩に手を伸ばしたこと。そして、光と共に消えていった猩猩の姿。あの安堵したような鳴き声が、まだ耳に残っていた。
「よかった、消さずに済んだんですね」
「そうだ」
燈夜は少し間を置いた。それから、静かに口を開いた。窓の外の月を、一度だけ見た。それから、覚悟を決めたように葛乃に視線を戻した。
「葛乃、話がある」
二
葛乃は燈夜を見た。その顔には、いつもとは違う、覚悟のようなものが浮かんでいた。今まで何度も感じてきた、話せない、話したくないという壁が、今は少し違って見えた。
「今度こそ、話す時が来たと思う」
「……本当ですか」
「ああ」
燈夜はベッドの脇の椅子に、深く座り直した。両手を膝の上で組み、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと語り始めた。
「十六年前、俺は十九歳だった。今のお前と、そう遠くない年齢だ」
葛乃は黙って、燈夜の言葉に耳を傾けた。病室の静寂の中、燈夜の声だけが響いていた。
「その頃、俺は怪遺局に入ったばかりだった。まだ経験も浅くて、何もわかっていなかった。適性はあったが、それをどう使うべきかもわからなかった。そんな俺に、一人の男が師事をつけてくれた」
「師事、というのは」
「技術を教えてくれた、ということだ。木札の使い方、妖怪への対処、この仕事に対する心構え。全部、その人から学んだ。今の俺の技術は、ほとんどがその人から受け継いだものだ」
燈夜の目が、少し遠くを見るようになった。まるで、十六年前の記憶を、今もう一度辿っているようだった。
「その人は、優秀な人だった。ただ強いだけじゃない。妖怪への向き合い方も、俺とは違っていた。消すことだけが正義じゃないと、俺に教えてくれたのは、その人だった」
「その人は、安倍晴明の末裔だった」
葛乃は息を呑んだ。
「安倍晴明……」
その名前が、自分の苗字と重なった。心臓が、大きく跳ねた。
「そうだ。陰陽師の血を継ぐ家系だった。妖怪への深い理解があり、誰よりも優れた適性を持っていた」
三
「その人は、今」
葛乃が聞いた。声が、少し震えていた。答えは、もうわかっている気がした。でも、聞かずにはいられなかった。
燈夜は、少し間を置いた。それから、静かに答えた。
「もう、いない」
葛乃の心臓が、強く跳ねた。何かが、近づいてくる気がした。頭の奥で、何かが軋むような感覚があった。
「十六年前、その人は、ある妖怪と対峙した。強大な、古くから存在する妖怪だった。俺も、その現場にいた。まだ何もできなかった。ただ、見ていることしかできなかった」
燈夜の声が、僅かに震えた。
「その妖怪は」
「鵺だ」
葛乃の頭の中で、何かが揺れた。鵺という言葉が、頭の中で反響した。あの暗闇での対話。お前の中に、俺の一部がある。あの言葉が、今、違う意味を持って襲いかかってきた。
「その人は、鵺との戦いで命を落とした」
その瞬間だった。
葛乃の視界が、急に歪んだ。
四
断片的な映像が、頭の中に流れ込んできた。
夜の路地。泣き叫ぶ声。誰かの手が、自分の小さな手を強く握っている。優しい声。「大丈夫だ、大丈夫だから」。その声は、聞き覚えのある、でも思い出せない誰かの声だった。
巨大な、形の定まらない何か。猿の顔、蛇の尾。それが、目の前の誰かに向かって迫っている。地面が揺れる。悲鳴のような音が、あたりに響く。
閃光。爆発するような衝撃。
誰かが、倒れる。手の温かさが、突然なくなる。
そして、暗闇。
「……っ」
葛乃は頭を抱えた。激しい頭痛が、脳を締め上げるように痛んだ。断片的な映像が、次々と押し寄せてくる。理解が追いつかなかった。
「葛乃!」
燈夜が慌てて葛乃の肩を掴んだ。しかし、その時。
病室の空気が、急に重くなった。
葛乃の身体から、黒い霧のようなものが、うっすらと立ち上っていた。
燈夜の顔が、青ざめた。
「まさか」
五
葛乃の目が、開いた。
しかし、そこにあったのは、いつもの葛乃の目ではなかった。瞳が、黒く濁っていた。まるで、別の何かがそこにいるような、そんな目だった。
「葛乃、聞こえるか」
燈夜が叫んだ。しかし、答えはなかった。
葛乃の身体が、ゆっくりとベッドから起き上がった。動きが、いつもの葛乃とは違った。ぎこちなく、それでいて確かな意思を持った動きだった。関節が、不自然な角度で動いているように見えた。
「その名を、聞いたか」
葛乃の口から、聞き慣れない声が漏れた。低く、複数の声が重なったような、異様な響きだった。まるで、何層もの声が同時に発せられているようだった。
「鵺……お前か」
燈夜が木札を構えようとした。しかし、その瞬間、目に見えない力が燈夜を弾き飛ばした。
「ぐっ……」
燈夜は壁に叩きつけられた。呼吸が止まりそうな衝撃だった。背中に、鋭い痛みが走った。それでも、燈夜は歯を食いしばって立ち上がろうとした。
「宇治神……お前の一族には、忘れられぬ恨みがある」
葛乃の姿をした何かが、燈夜を見下ろした。その目に、憎悪と、それ以上の何か、深い痛みのようなものが滲んでいた。
「十六年前、お前の師は俺を封じようとした。そして、俺はあの男から、命を奪った」
燈夜の目に、怒りと苦痛が浮かんだ。
「今度は、お前から奪ってやる」
六
「待て!」
燈夜は立ち上がり、木札を構えた。全身に痛みが走ったが、構わなかった。しかし、鵺に乗っ取られた葛乃の身体は、すでに窓に向かっていた。
「葛乃を、返せ!」
鵺は窓のガラスを、いとも簡単に割った。ガラスの破片が、月明かりの中で光った。病室に、冷たい夜風が吹き込んだ。
葛乃の身体が、窓枠に立った。振り返ったその顔には、いつもの優しさはなかった。ただ、深い憎悪だけが宿っていた。
「また貴様から大切なモノを奪ってやる」
声が、病室に響いた。低く、重く、何かを引き裂くような響きだった。
「貴様ら一族だけは、決して許さぬ」
その言葉と共に、葛乃の身体から、黒い羽のようなものが生えた。異形の翼が、月光の中で不気味に輝いた。羽の一枚一枚が、鱗のような光沢を持っていた。
「待て! 葛乃はお前とは関係ない!」
燈夜が叫んだ。しかし、鵺は聞かなかった。
翼が大きく広がり、葛乃の身体が窓の外へ飛び出した。
「葛乃!!」
燈夜は窓に駆け寄った。夜空に、黒い影が舞い上がっていくのが見えた。あっという間に、その姿は闇に溶け込んでいった。月明かりだけが、その残像を照らしていた。
病室に、燈夜の荒い息だけが残った。
「……くそっ」
燈夜は拳を握った。木札を強く握りしめる。手のひらに、木の感触が食い込んだ。
守ると誓った。何があっても守ると。あの日、葛乃に言った言葉が、今、重くのしかかってきた。
なのに、目の前で奪われた。
燈夜はスマートフォンを取り出し、震える指で三峰に電話をかけた。
「三峰さん、緊急事態だ。葛乃が、鵺に……」
声が、震えていた。今まで、こんなに動揺したことはなかった。
夜の街に、異形の影が消えていった。
第二十四話 了




