第二十三話「秘めたる力、届く声」
一
事務所は、静かだった。
安倍葛乃は、デスクに座ったまま、何もできずにいた。燈夜と芦屋が現場に向かってから、もう一時間以上経っている。連絡はまだない。
葛乃は何度も、スマートフォンを確認した。何もない。時計を見る。また数分しか経っていない。この一時間が、いつもの何倍も長く感じられた。
前回の小豆洗いの件が、頭から離れなかった。あの用水路で、何もできなかった自分。手を伸ばしても、何も応えなかった感覚。あの無力感が、まだ心の奥に居座っていた。
今度はどうなるのか。燈夜は大丈夫なのか。芦屋先生は。
葛乃は立ち上がった。デスクの周りを歩き回った。座って、また立ち上がった。同じ動作を、何度も繰り返した。
誰もいない事務所は、いつもより広く感じられた。三峰は別の調査で外出している。只野も今日は姿を見せていない。一人でこの静けさに向き合っていることが、余計に葛乃の不安を膨らませた。
待機していろ、と言われた。その言葉は、わかっている。今回も自分の力が使えるとは限らない、危険なだけだと。燈夜の言葉は正しい。理屈では、わかっていた。
でも。
葛乃は窓の外を見た。夕暮れの空が、赤く染まっていた。太陽が沈みかけている。あの光景は、いつも見ているはずなのに、今日は妙に胸に迫るものがあった。
もし、今回また力が使えなかったら。それでも、行かなくていいのか。
何もできないかもしれない。それでも、そこにいたいと思う自分がいた。理由はうまく説明できない。ただ、燈夜と芦屋が今、危険な場所にいるということが、頭から離れなかった。
河童の時、力が出た。鵺の時も、意識が繋がった。あの時、自分は何もない場所から力を絞り出した。今回だって、もしかしたら。
葛乃は自分の手を見た。この手が、今度は何をできるのか、まだわからない。でも、何もせずにここにいることが、もう耐えられなかった。
二
葛乃は、鞄を掴んだ。
迷いは、まだあった。燈夜の言葉が、頭の中で何度も響いていた。待機していろ。危険なだけだ。その通りかもしれない。今回も、また何もできずに終わるかもしれない。
でも、足はすでに動いていた。
事務所を飛び出し、通りでタクシーを呼んだ。現場の場所は、燈夜たちが向かった山間部の神社だと聞いている。地図で確認し、運転手に伝えた。
「そこまで、どのくらいかかりますか」
「そうですねえ、この時間だと三十分くらいですかね」
三十分。長い。葛乃は焦る気持ちを抑えながら、シートに深く座り込んだ。
車が走り出すと、葛乃はスマートフォンで位置情報共有アプリを開いた。燈夜と芦屋の位置が、地図上に表示されていた。二人とも、まだ同じ場所にいた。動いていない。
それは、案件がまだ続いているという意味だった。まだ、終わっていない。
葛乃は拳を握った。
もし力が使えなかったら、それでもいい。何もできなくても、そこにいたかった。何もせずに待っているだけの自分に、もう耐えられなかった。せめて、その場にいたい。せめて、何が起きているのかを、自分の目で見たい。
窓の外の景色が、都会から山間部へと変わっていった。ビルが減り、緑が増えていく。葛乃は、その変化を見ながら、心臓の音が速くなっていくのを感じた。
三
現場に着くと、山道の入り口で車を降りた。
「大丈夫ですか、お客さん」
タクシーの運転手が心配そうな顔をした。この時間に、この場所で、女性が一人で山道に向かうのを不審に思うのも当然だった。
「大丈夫です、ありがとうございました」
葛乃は運転手に料金を渡し、構わず走り出した。山道を駆け上がる。息が切れた。足がもたつく。それでも、止まらなかった。
途中で、崩れた鳥居が見えた。木々がなぎ倒された跡があった。地面には大きな爪痕が刻まれ、抉れた土が散らばっている。この光景が、事態の深刻さを物語っていた。葛乃は、その先へ進んだ。
咆哮が聞こえた。地響きのような音が、山全体を震わせていた。
視界の先に、巨大な猿の姿が見えた。
歪んだ、痛々しい姿だった。全身から黒い霧が立ち上り、目のあった場所は黒く陥没していた。それでも、その動きの中に、何かに抗っているような、もがくような気配が見えた。
燈夜が、木札を構えていた。
その手の先に、強い光が集まっていた。消滅のための光だと、葛乃には一目でわかった。あの光を、今まで何度も見てきた。あの光が放たれれば、その存在は跡形もなく消える。
「宇治神さん!」
葛乃は叫んだ。声が、自分でも驚くほど大きく響いた。
燈夜が、僅かに振り返った。その顔に、驚きが浮かんだ。
「葛乃! なぜここに」
「待って!」
葛乃は、猿の残滓に向かって走った。息が切れていたが、止まらなかった。
「もうやめて!!!」
四
葛乃の声が、山に響いた。
その瞬間、何かが動いた。
葛乃の中で、熱いものが湧き上がった。今まで感じたことのない強さだった。河童の時の詠唱とも違う、鵺との対話とも違う。もっと直接的な、感情そのものが力になったような感覚だった。理屈ではなかった。ただ、この存在を救いたいという気持ちが、そのまま形になっていくような感覚だった。
「あなたは、悪くない」
葛乃は、猿の残滓に向かって手を伸ばした。恐怖はあった。でも、その恐怖を押し切るだけの何かが、胸の中にあった。
「歪められただけ。傷つけられただけ。本当は、優しい存在だったはずなのに」
残滓が、動きを止めた。咆哮が、少しずつ弱まっていく。巨大な体が、ゆっくりと震え始めた。
葛乃の手のひらから、淡い光が溢れ出した。今まで見たことのない、温かい光だった。河童の時の水のような光とも、鵺の時の暗闇の中の対話とも違う。もっと、優しい光だった。
「もう、大丈夫だから」
葛乃は、残滓に向かって歩みを進めた。燈夜が息を呑んで見ていた。手にした木札の光が、静かに弱まっていく。芦屋も、木々の陰から目を丸くして見つめていた。
光が、猿の姿を包み込んでいく。歪んでいた輪郭が、少しずつ元の形を取り戻していった。赤みがかった毛並み、愛嬌のある顔立ち。本来の猩猩の姿が、光の中に浮かび上がった。目の陥没していた部分にも、優しい光が満ちていった。
猩猩の目に、理性のようなものが戻った。もがくような動きが止まり、代わりに、どこか安堵したような表情が浮かんだ。
最後に、猩猩は小さく鳴いた。悲しげな、でもどこか安堵したような声だった。まるで、長い苦しみから解放されたような声だった。
そして、光と共に、静かに消えていった。
消滅ではなかった。浄化だった。
五
山が、静かになった。
風が、木々の間を静かに通り抜けていった。さっきまでの咆哮も、地響きも、もう何もなかった。ただ静寂だけが、そこに残っていた。
葛乃は、その場に立ち尽くしていた。全身から力が抜けていくのを感じた。膝が、少しずつ震え始めた。
「葛乃!」
燈夜が駆け寄ってきた。芦屋も後を追ってきた。
「なぜここに来た。待機していろと言ったはずだ」
「……すみません」
葛乃の声は、掠れていた。視界が、少しずつ暗くなっていく。目の前の燈夜の顔が、ぼやけて見えた。
「でも、行かなきゃって、思ったんです。何もできないかもしれない。でも、それでも」
葛乃の膝が、崩れた。燈夜が咄嗟に葛乃を支えた。両腕でしっかりと抱き止める。
「葛乃!」
「宇治神くん、意識が」
芦屋が慌てて駆け寄った。葛乃の目が、徐々に閉じていく。
「力を使いすぎたのかもしれません。すぐに病院へ」
燈夜は葛乃を抱き上げた。その顔に、焦りと、それ以上の何かが浮かんでいた。葛乃の体は、驚くほど軽かった。それが、余計に燈夜の不安を煽った。
「先生、急いで」
「わかりました」
二人は、山道を急いで下り始めた。燈夜の腕の中で、葛乃の意識は完全に閉じていた。
六
山道を下る途中で、燈夜のスマートフォンが鳴った。
三峰静華からだった。燈夜は葛乃を抱えたまま、なんとか電話を取った。
「宇治神さん、葛乃さんの姿が事務所から消えています。連絡が取れなくて」
三峰の声には、珍しく焦りが滲んでいた。
「今、こっちにいる」
燈夜は簡潔に状況を説明した。猩猩の案件のこと、葛乃が現場に現れたこと、力を使って浄化に成功したこと、そして今、意識を失っていること。
電話の向こうで、三峰が息を呑む音がした。
「向かいます」
電話を切ると、燈夜は葛乃を抱いたまま、車まで急いだ。芦屋が先を歩き、道を確認しながら進んだ。
葛乃の顔は、蒼白だった。しかし、その表情には、どこか安らかなものがあった。まるで、やるべきことを果たした後の、静かな満足感のようなものが浮かんでいた。
燈夜は、その顔を見つめた。
命令を破って、ここまで来た。何もできないかもしれないと知りながら、それでも来た。そして、力を発揮した。あの決断力、あの強さは、どこから来るのか。
燈夜の中で、何かが強く揺れた。
守らなければならない。今まで以上に、強く思った。この子を、絶対に守らなければならない。
七
病院に着くと、三峰がすでに到着していた。
息を切らしている様子から、かなり急いで来たことがわかった。
「状態は」
「一時的な意識消失だそうです。過度の力の使用による疲労だと」
医師の説明を聞いた後、三峰は少し安堵した表情を見せた。それから、燈夜を見た。
「宇治神さん、彼女が力を使うのを、止められなかったんですか」
「止める間もなかった。あっという間だった」
燈夜は正直に答えた。三峰は小さく息を吐いた。
「彼女らしいですね」
その言葉には、呆れと、それでも確かな理解が込められていた。
燈夜は病室のベッドで眠る葛乃を見た。穏やかな表情だった。命令を破ってでも駆けつけた、その強さが、まだ燈夜の胸に残っていた。
芦屋が、少し離れた場所で佇んでいた。その目には、いつもとは違う、深く考え込むような色が浮かんでいた。今日の一連の出来事について、何かを考えているようだった。あの偽りの木札のことも、まだ心に引っかかっているのだろう。
病室に、静かな時間が流れた。窓の外は、すでに夜になっていた。月明かりが、カーテンの隙間から差し込んでいた。
三峰と芦屋は、静かに顔を見合わせた。それ以上何も言わず、二人はそっと病室を出ていった。
燈夜はベッドの傍らに座り、葛乃の寝顔を見つめ続けた。
静かな時間だけが、そこに残った。
第二十三話 了




