第二十二話「偽りの木札」
一
常世会の動きは、日を追うごとに激しくなっていた。
三峰静華のデスクには、全国から寄せられる報告書が積み上がっていた。北海道、東北、中部、関西、九州。各地方の怪遺局支所からも、同様の事態が報告されていた。
「関東でも、今週すでに五件です」
三峰が地図を指しながら言った。宇治神燈夜はその地図を見つめた。印がつけられた場所が、都内から郊外にかけて散らばっていた。
「常世会の新兵器を使った案件だと確定しているのは」
「三件です。いずれも、通常の残滓が異常に凶暴化していたとの報告があります」
燈夜は腕を組んだ。
「また出たか」
「はい。今度は都下の山間部です。通報内容からすると、かなり大きな存在のようです」
安倍葛乃は資料を覗き込みながら、不安を覚えた。前回の小豆洗いの件が、まだ頭から離れていなかった。あの時、自分は何もできなかった。
「私も行きます」
「いや」
燈夜が即答した。
「今回は、俺一人で行く」
二
「なんでですか」
葛乃は思わず声を上げた。燈夜は葛乃を見た。
「前回の小豆洗いの件を、忘れたわけじゃないだろう」
「でも」
「お前の力が、確実に使えるとは限らない。今回も同じことが起きたら、危険なだけだ」
葛乃は唇を噛んだ。反論したかったが、言葉が出てこなかった。あの用水路での無力感が、まだ胸に残っていた。何もできなかった自分。届かなかった手。
「待機していてくれ」
燈夜はそう言って、上着を掴んだ。芦屋道雄がデスクから顔を上げた。
「宇治神くん、私も同行します」
「先生が」
「今回の案件、詳細を聞いた限りでは……常世会の新兵器の影響が強く疑われます。実際にその効果を確認しておきたい」
燈夜は少し考えてから、頷いた。
「わかりました。行きましょう」
二人は準備を始めた。芦屋は道具箱に必要なものを詰め込みながら、いつもより口数が少なかった。葛乃はその様子を見ていた。
「先生、気をつけてください」
「大丈夫ですよ、葛乃くん。すぐに戻ります」
芦屋はいつもの笑顔を作ろうとしたが、どこか無理をしているように見えた。
葛乃は二人の背中を見送りながら、拳を握った。何もできない自分が、もどかしかった。事務所に残された只野人志が、隣で心配そうに窓の外を見ていた。
「大丈夫でしょうか」
「……わからないです」
葛乃は正直に答えた。
三
現場は、都下の山間部にある小さな神社の裏山だった。
到着した燈夜と芦屋は、車を降りた瞬間、異様な気配を感じた。山全体が、重い空気に包まれていた。鳥の鳴き声も、虫の音も、聞こえなかった。
「これは……」
芦屋の顔が、険しくなった。
「相当な密度です。しかも、歪みが酷い」
燈夜は木札を取り出し、気配を読んだ。表情が険しくなった。
「猩猩だ」
「猩猩」
芦屋が驚いた顔をした。
「酒好きで、人に懐きやすいと言われる猿の妖怪ですね。かつては海辺や山間部で、人間と親しく交流していたという伝承もあります。害がないどころか、時には人間に幸運をもたらすとさえ言われている」
「だが、様子がおかしい」
燈夜は先を歩き始めた。芦屋も後を追った。
山道を進むと、木々がなぎ倒されているのが見えた。太い木の幹が根元からへし折られ、土が抉れ、大きな爪痕のようなものが地面に刻まれている。神社の鳥居も、半分崩れ落ちていた。
その先に、それはいた。
巨大な猿の姿をした残滓だった。本来の猩猩は、赤みがかった毛並みと愛嬌のある顔立ちが特徴とされているはずだった。しかし目の前にいるものは、輪郭が異様に歪んでいた。目のあった場所が黒く陥没し、口からは異様な唸り声が漏れていた。全身から、黒い霧のようなものが立ち上っている。まるで、本来の姿を無理やり引き裂かれたような、痛々しい歪みだった。
「本来なら、こんな姿にはならないはずです」
芦屋が呟いた。声が少し震えていた。
「猩猩は、寂しがりで、無害な存在です。人に懐くこともある。酒を差し出せば喜んで踊り出すような、そんな存在だったはずなんです。これは……」
その時、燈夜が近くの木の根元に、何かが落ちているのを見つけた。
木札に似た道具だった。ただし、怪遺局のものとは違う形状。より複雑な紋様、金属の縁取りが施されている。
「先生」
燈夜がそれを拾い上げ、芦屋に見せた。
芦屋の顔から、血の気が引いた。
四
「これは……」
芦屋の手が、震えていた。
彼はゆっくりと道具を受け取り、目の前に掲げた。指先で紋様をなぞりながら、じっと見つめた。
「これは、私の術式です」
「先生の?」
「正確には、私の術式を模倣したものです。基本構造は、私が確立した理論そのものです。ただ、精度が全く違う。粗い。荒々しい。まるで、途中で理解が止まったまま組み上げたような……」
芦屋は道具を見つめながら、深く息を吐いた。その顔には、驚きと、それ以上の何か、痛みに近いものが浮かんでいた。
「これを使えば、確かに適性のない人間でも妖怪に干渉できます。ただ、精度が低いせいで、対象によって結果が大きく変わってしまう。力の弱い残滓であれば、無理やりにでも消し去ることができるでしょう。しかし、猩猩のようにある程度の格を持った存在には、消滅させるだけの力が足りない。中途半端に刺激するだけの結果になってしまう。それも、乱暴に、無神経に」
「つまり、格の低い残滓は消せても、大物には通用しないと」
「そうです。むしろ、大物に使えば使うほど、歪みが酷くなる。今回のように、凶暴化を引き起こしてしまう」
「刺激した結果が、これか」
「そうです。この猩猩は、この不完全な術式によって無理やり攻撃され、歪んでしまった。本来の性質から逸脱して、凶暴化してしまったんです。苦しんでいるはずです。あの姿は、暴れているというより、もがいているようにも見えます」
燈夜は残滓を見た。巨大な猩猩の姿が、木々を薙ぎ倒しながら暴れていた。その動きには、確かに何かに抵抗しているような、切迫した苦しみが見て取れた。
「先生、誰がこれを作ったか、心当たりはありますか」
芦屋は少し間を置いた。その目に、複雑な色が浮かんだ。遠くを見るような、それでいて何かを恐れているような目だった。
「……私の術式を、これほど正確に理解できる人間は、限られています」
「限られている、というのは」
芦屋は答えなかった。ただ、道具を強く握った。その手が、僅かに震えていた。何かを言おうとして、それを飲み込むように、口を一度開いて、また閉じた。
「先生」
「今は、それより先に、あの子を止めなければ」
芦屋は残滓を見た。話を、そらされた。燈夜はそれに気づいたが、今は追及しなかった。目の前の猩猩を、どうにかしなければならない。
五
燈夜は木札を構えた。
残滓が咆哮した。木々が震えた。地面に亀裂が走った。燈夜は唱えたが、光は残滓の歪んだ気配に弾かれた。何の効果もなかった。
「効かない」
「浄化は難しいでしょう。歪みが深すぎる。本来の性質が、ほとんど残っていません」
芦屋が言った。表情には、深い苦渋が浮かんでいた。
「移すことも、この状態では不可能です。移送の術式は、対象の本来の性質を保っていることが前提になります。これは、もうその前提が崩れている」
燈夜は残滓を見た。凶暴化した猩猩の妖怪。本来なら、人懐こく無害だったはずの存在。酒を好み、人間と共に踊ったという伝承すらある存在。それが今、理性を失って暴れている。
「消すしかないか」
「……そうかもしれません」
芦屋の声は、重く沈んでいた。
燈夜は木札を構え直した。強く唱える準備をした。この存在を終わらせることが、今できる唯一の救いなのかもしれない。そう思いながら、木札に意識を集中させた。
残滓が、燈夜に向かって突進した。巨大な体が、地面を揺らしながら迫ってくる。
燈夜は木札を構えたまま、後ろに飛んだ。かろうじて避ける。地面が大きく揺れた。すぐ横を、太い腕が通り過ぎた。
「先生、下がってください」
「わかりました」
芦屋は木々の陰に退避した。燈夜は再び木札を構えた。今度は、確実に決める。強く、深く唱え始めた。
光が、集まっていく。
消滅のための光だった。
第二十二話 了
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康公




