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第二十一話「忘却の輪郭」

 その夜、安倍葛乃あべくずのは自宅のベッドに横になりながら、天井を見つめていた。

 電気を消した部屋に、街灯の光がわずかに差し込んでいる。静かな夜だった。でも、葛乃の頭の中は、全く静かではなかった。

 あの用水路での出来事が、何度も頭の中で再生された。歪んだ気配に手を伸ばした瞬間の、あの空白の感触。今までなら、何かが応えてくれた。詠唱が自然に口から出たり、気配が止まったり、意識が繋がったり。でも今回は、何も起きなかった。ただの空気を掴んだだけだった。

 自分の力とは、一体何なのだろう。

 葛乃は自分の過去を、順番に振り返ってみることにした。

 燈夜と出会ったあの夜。残滓ざんしが足に絡みついた、あの路地。あの瞬間から、自分の人生は大きく変わった。それまでは、ごく普通の生活を送っていたはずだった。

 その前は、どうだっただろう。

 コンビニのアルバイト。レジ打ちをしながら、就活の不安を抱えていた日々。面接に落ち続けて、自分に自信を持てなくなっていた時期。大学時代はサークルには入らず、真面目に授業に通っていた。友人は多くはなかったが、それなりに充実した日々だったはずだ。

 高校時代を思い出す。文化祭で友人と衣装を作ったこと。放課後に一緒に帰った雅博の顔。特に大きな出来事もなく、平凡に過ごした三年間だった。

 中学時代も、これといった記憶はない。友達と遊び、テスト勉強をし、部活に励んだ普通の日々。

 小学生の頃は、どうだったか。

 葛乃の思考が、ふと止まった。

 小学校に上がってからの記憶は、確かにある。入学式の日の緊張感。初めてできた友達の名前。担任の先生の顔。給食のカレーの味。運動会でリレーを走った感覚。それらは、はっきりと覚えている。

 でも、それより前は。

 幼稚園、保育園、それより幼い頃。

 葛乃は目を閉じて、意識を集中させた。何かを思い出そうとした。幼稚園の教室の風景。友達の名前。先生の顔。何か、記憶の断片があるはずだ。

 何も、出てこなかった。

 完全に空白というわけではない。父親のことも、母親のことも、ある程度は覚えている。父親と手を繋いで歩いた記憶。母親に絵本を読んでもらった記憶。断片的に、いくつかの場面は浮かぶ。

 でも、その輪郭が、妙に曖昧だった。まるで、霞の向こうにあるような感覚だった。手を伸ばせば触れられそうなのに、いざ触れようとすると、するりと逃げていく。そんな感覚だった。

 葛乃はベッドの上で、何度も同じ場所を思考の中でなぞった。しかし、それ以上何かが浮かんでくることはなかった。


 燈夜が言った言葉が、頭に浮かんだ。

 お前が知ったら、傷つくことだからだ。

 あの時、燈夜は真剣な目でそう言った。あの目を、葛乃は今でも覚えている。いつもの無愛想な燈夜ではなかった。もっと深い、何かを堪えているような目だった。

 傷つくこと。それが、自分の中にある何かに関係しているのだろうか。

 葛乃はベッドから起き上がった。部屋の中を、しばらく歩き回った。今まで、深く考えないようにしてきた。父親のことも、幼少期のことも。母親が話さないなら、それが正しいのだと、無意識に思い込んでいた。

 でも、こうして意識してみると、その曖昧さがやけに気になった。まるで、パズルの一部だけが欠けているような、不完全な感覚。

 ぬえの言葉も、頭から離れなかった。

 お前の中に、俺の一部がある。

 あの言葉の意味も、まだわからないままだった。

 葛乃はスマートフォンを手に取った。実家の電話番号を見つめた。母親に、電話をかけようかと思った。でも、電話では聞けない気がした。直接会って、母親の表情を見ながら聞きたかった。

 葛乃は決めた。

 明日、実家に帰ろう。


 実家は、都内から電車で一時間ほどの場所にあった。

 休日の午後、葛乃は電車に乗って実家へ向かった。窓の外を流れる景色を眺めながら、何を聞くべきか、どう聞くべきか、頭の中で何度もシミュレーションした。でも、いい方法は見つからなかった。

 実家に到着し、インターホンを押すと、少し経って母親が出てきた。

「あら、急にどうしたの」

 母親は驚いた顔をしていた。それから、すぐに嬉しそうな笑顔に変わった。

「近くまで来たから、寄っただけ」

 葛乃は嘘をついた。母親は特に疑わずに、葛乃をリビングに招いた。

「お茶でも飲む? それとも何か食べる?」

「お茶だけでいいよ、ありがとう」

 母親はキッチンに向かった。葛乃はリビングに一人残され、部屋を見回した。見慣れた家具、見慣れた壁紙。子どもの頃から変わらない部屋。ソファの位置も、カーテンの色も、何も変わっていない。

 でも、何かが違う気がした。今までは気にならなかった何かが、今は気になった。この部屋のどこかに、自分が忘れてしまった何かの痕跡があるのではないかと、そんな気がした。

 棚の上に、古いアルバムが並んでいた。葛乃はそれに手を伸ばし、一冊を取り出した。表紙には、少し色褪せた花柄の模様があった。


「お母さん、これ見てもいい?」

 母親がお茶を持って戻ってきた。アルバムを見て、少し表情が動いた。それはほんの一瞬だったが、葛乃は見逃さなかった。

「懐かしいわね。見てもいいわよ」

 母親はソファに座り、葛乃の隣からアルバムを覗き込んだ。葛乃はページを開いた。

 幼い自分の写真が並んでいる。七五三の着物を着た自分。小学校の入学式で少し緊張した顔をしている自分。遠足で友達と並んで笑っている自分。

 ページをどんどん進めていく。写真は、確かに存在していた。自分の成長の記録が、確かにそこにあった。

 しかし、あるページから、写真の数が急に少なくなっていることに気づいた。

「あれ、これより前の写真ってないの?」

 葛乃はページを戻しながら聞いた。母親は少し考えるように、視線を上に向けた。

「どうだったかしら。整理してたら、なくなっちゃったのかもね。昔のことだから」

 母親は軽い口調で答えた。あまりにも自然な口調だった。葛乃はそれでも、ページをさらに戻してみた。

 一枚だけ、幼い葛乃と、若い頃の父親が写っている写真があった。父親は、優しい笑顔で葛乃を抱いていた。写真の中の葛乃は、まだ三歳か四歳くらいだろうか。

 葛乃はその写真を、じっと見つめた。

「お父さん、どんな人だったの」

「優しい人だったわよ。葛乃のこと、すごく可愛がってた。お休みの日はいつも一緒に遊んでくれてね」

 母親の声には、確かな愛情が滲んでいた。それは、演技ではないように感じられた。

「仕事は」

「普通の会社員よ」

 その答えは、あまりに簡潔だった。葛乃は母親を見た。母親はお茶を一口飲んで、視線を少し逸らした。

「お父さんが死んだのって、いつだっけ」

「葛乃が六歳の時よ。よく覚えてないでしょう、まだ小さかったから」

「うん、あんまり覚えてない」

 母親は少し早口で言った。それから、湯呑みをテーブルに置いた。

「そう言えば、最近仕事はどう? 忙しいの?」

 話題が、変わった。

 葛乃は一瞬、その変化に気づいた。父親の話から、突然仕事の話に。あまりにも自然な流れだったが、確かにその瞬間、何かが不自然だった。


「お母さん」

「なに?」

「お父さんの仕事、本当に普通の会社員だったの」

 母親は少し間を置いた。それから、笑顔で答えた。

「そうよ。なんで急にそんなこと聞くの」

「ただ、気になって」

「そう」

 母親はお茶を注ぎ直した。急須を持つ手つきに、変化はなかった。ただ、少しだけ、いつもより丁寧すぎるように見えた。まるで、その動作に集中することで、他のことを考えないようにしているような。

「そう言えば、雅博くんとは最近どう? 連絡取ってる?」

 また、話題が変わった。

 葛乃は母親を見た。母親は自然に笑っていた。今までなら気づかなかったかもしれない。今までは、母親のこういう会話の流れに、何の疑問も持たなかった。でも今は、その自然さの中に、微かな違和感を感じた。

 まるで、慣れた手つきで話題を避けているような。

「お母さん」

「なに」

 葛乃は少し間を置いた。心臓が、少し速くなっていた。

「私、なんでこんなに、小さい頃の記憶が曖昧なんだろう」

 母親の手が、一瞬止まった。

 本当に一瞬だった。湯呑みを持つ手が、ほんの少し硬くなった。すぐに、母親は微笑んだ。いつもと同じ、優しい笑顔だった。

「小さい頃のことなんて、みんなそんなものよ。誰だって、幼稚園より前のことは覚えてないでしょう」

「うん、そうだよね」

 葛乃はそれ以上、聞けなかった。

 母親の答えは、間違っていない。誰だって幼い頃の記憶は曖昧だ。それは一般論として正しい。でも、母親の一瞬の手の止まりが、葛乃の中に小さな確信を生んだ。

 何かがある。

 母親は知っている。何かを、知っている。

 でも、その何かを、葛乃には話さないと決めている。それは十六年間、母親が守り続けてきた何かなのだろう。


 実家を出て、駅に向かう道を歩いた。夕方の空が、オレンジ色に染まっていた。

 電車に乗り、窓際の席に座った。ガラスに反射する自分の顔を見ながら、葛乃は考え続けた。

 燈夜も、母親も、何かを知っていて、話さない。それは、優しさなのか。それとも、別の理由があるのか。二人とも、葛乃を傷つけたくないという想いは、確かに伝わってくる。でも、その優しさが、今の葛乃にはもどかしかった。

 葛乃は自分の手を見た。

 何度もこの手で、残滓に触れてきた。何かを感じ、何かを動かしてきた。勾陳こうちん様の荒魂あらみたまを止めた手。河童の残滓を移送した手。鵺の意識と繋がった手。でも、その力の理由を、葛乃自身は知らない。

 なぜ自分にこんな力があるのか。なぜ幼少期の記憶が曖昧なのか。なぜ父親の死とその時期が重なっているのか。

 全てが、一本の線で繋がっている気がした。でも、その線の全体像は、まだ見えなかった。

 忘却の向こうに、何かがある。

 輪郭だけが、ぼんやりと見える。手を伸ばせば届きそうなのに、いざ触れようとすると、するりと逃げていく。

 葛乃は電車の窓に映る自分の顔をもう一度見た。少し疲れた表情をしていた。

 いつか、全部知る時が来る。

 それがいつなのか、まだわからない。

 でも、確実に近づいている気がした。まるで、遠くから足音が聞こえてくるような、そんな感覚だった。

 窓の外、街の明かりが一つずつ灯り始めていた。


第二十一話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます!

面白いと思っていただけたら、感想・ブックマーク・評価をいただけると励みになります。

次話もお楽しみに!


 康公こうこう

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