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第二十話「消えた音、届かぬ想い」

 その週、怪遺局かいいきょくは異常な数の通報に追われていた。

 三峰静華みつみねしずかがデスクに広げた地図には、いくつもの印がつけられていた。

「今週だけで、七件の残滓ざんし関連の通報がありました。ですが」

 三峰は眉をひそめた。

「そのうち五件は、現場に到着した時にはすでに残滓が消滅していました」

「消滅」

 宇治神燈夜うじがみとうやが地図を覗き込んだ。

木札きふだを使った形跡は」

「ありません。ただ、跡形もなく消えていたそうです。まるで、最初から存在しなかったかのように」

 安倍葛乃あべくずのは地図を見ながら、不安を覚えた。

常世会じょうせいかいの、新しい武器ですか」

「おそらく」

 燈夜が答えた。

「消滅専用の道具だと言っていた。効果は本物のようだ」


 その日の夕方、新たな通報が入った。

 都内の郊外、小さな用水路のある地域だった。夜になると小豆を洗うような音が聞こえる、という通報だった。

「小豆洗い、ですね」

 芦屋道雄あしやみちおが資料を見ながら言った。

「基本的に無害な妖怪です。ただ音を立てるだけで、人に危害を加えることはほとんどありません」

「では今回も、消さずに済むかもしれない」

 葛乃が言った。芦屋は少し表情を曇らせた。

「いえ……今回の通報には、少し気になる点があります」

「なんですか」

「小豆を洗う音が、次第に大きくなっている、という報告です。それと、周辺の住民が原因不明の頭痛を訴え始めているとも」

 燈夜の目が鋭くなった。

「常世会が、先に手を出したか」

「可能性は高いです」

 芦屋は木札を用意しながら言った。

「もし新兵器を使って、通常なら無害な小豆洗いを刺激してしまったのなら……状態が変わっている可能性があります」


 現場は、住宅街に隣接する小さな用水路だった。

 夜になり、燈夜と葛乃が到着すると、すでに異様な気配が漂っていた。

 音が、聞こえた。

 しゃき、しゃき、という小豆を洗うような音。でもそれは、資料にあったような可愛らしい音ではなかった。もっと不規則で、もっと重く、耳障りな音に変わっていた。

「これは……」

 葛乃は用水路を覗き込んだ。水面が、異様に波打っていた。

 燈夜は木札を取り出し、指を走らせた。気配を読む。表情が、険しくなった。

「歪んでいる」

「歪んでいる?」

「本来の小豆洗いの気配じゃない。何かで無理やり刺激された跡がある」

 燈夜は用水路に向かって唱えた。木札が光る。

 しかし水面から現れたそれは、燈夜の光を弾いた。

 水しぶきが上がった。小豆を洗う音が、悲鳴のように大きくなった。葛乃は耳を塞ぎたくなった。

「浄化が効かない」

 燈夜は木札を構え直した。もう一度唱える。しかし結果は同じだった。


「移すことは」

 葛乃が言った。燈夜は首を振った。

「移送の術式は葛乃の力が必要だ。だが」

 燈夜は用水路を見た。

「この歪み方は、普通の残滓とは違う。無理に触れれば、お前に何が起きるかわからない」

「でも」

「試すな」

 燈夜の声は、有無を言わさなかった。

 葛乃は唇を噛んだ。用水路の中で暴れる気配を見つめた。歪んで、苦しんでいるように見えた。本来は無害な、ただ小豆を洗う音を立てるだけの、小さな妖怪だったはずだ。

 それが今、こんな姿になっている。

「宇治神さん、何か他に方法は」

「ない」

 燈夜は静かに言った。

「今の状態では、浄化も移送もできない。放置すれば、周辺住民への被害が拡大する」

 葛乃は燈夜を見た。燈夜の目に、迷いはなかった。

「消す」

「待ってください」

「待てない」

 燈夜は木札を構えた。

「これ以上、悪化させるわけにはいかない」


 葛乃は用水路に向かって、一歩踏み出した。

 何かできるはずだ。河童の時のように。鵺の時のように。自分にはまだ知らない力があるはずだ。

 葛乃は手を伸ばした。

 気配に触れようとした。

 しかし、何も起きなかった。

 詠唱も出なかった。力も発揮されなかった。ただの空気を掴んだような感覚だけが、手のひらに残った。

「なんで……」

 葛乃は愕然とした。今までは、確かに何かが応えてくれた。今回は、何も応えない。

「葛乃」

 燈夜の声が、静かに響いた。

「下がれ」

「でも、私」

「今回は、無理だ」

 葛乃は動けなかった。

 燈夜が木札を構えた。強く、深く唱えた。

 光が、水面を包んだ。

 小豆を洗う音が、次第に小さくなっていった。歪んだ気配が、光の中に溶けていく。今度は、消滅の光だった。

 やがて、水面は静かになった。

 用水路には、もう何の気配もなかった。


 車に戻るまで、葛乃は一言も喋らなかった。

 燈夜も何も言わなかった。エンジンをかけ、無言のまま車を走らせた。

 葛乃は窓の外を見ていた。夜の街が、流れていった。

「……なんで、消すって決めたんですか」

 葛乃はようやく口を開いた。

「他に方法はなかったんですか」

「なかった」

「本当に? もっと探せば」

「時間がなかった」

 燈夜の声は静かだった。しかし、そこに揺るぎない意志があった。

「あのままにしておけば、被害が広がっていた。俺は、それを止める判断をした」

「でも、あの小豆洗いは、本来は無害な存在だったんですよね」

「そうだ」

「なのに、消すしかなかった」

「そうだ」

 葛乃は俯いた。目の奥が熱くなった。

「私、何もできませんでした」

「葛乃」

「河童の時も、鵺の時も、何かできた。でも今回は、何も。私の力なんて、結局その程度だったんです」

 燈夜は前を向いたまま、少し間を置いた。

「お前のせいじゃない」

「でも」

「常世会が、無理やり歪めた。お前の力が届かないくらい、壊してしまった。それは、お前の責任じゃない」

 葛乃は燈夜を見た。燈夜は前を向いたままだった。その横顔に、いつもとは違う疲れが滲んでいた。

「宇治神さんも、辛かったんですか」

 燈夜は答えなかった。

 ただ、少しだけ、ハンドルを握る手に力がこもった。


 事務所に戻ると、三峰が待っていた。

「お疲れ様でした。結果は」

「消滅させた」

 燈夜が答えた。三峰は少し目を伏せた。

「そうですか」

 葛乃は自分のデスクに座った。まだ、あの用水路の音が耳に残っている気がした。

 届かなかった。

 自分の想いも、力も、何も届かなかった。

 葛乃は両手を見た。何度も何かを救ってきたはずのこの手が、今日は何もできなかった。

 窓の外を見た。

 夜の街に、常世会の影が確実に広がっている。

 葛乃はそれを、痛いほど実感していた。


第二十話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます!

面白いと思っていただけたら、感想・ブックマーク・評価をいただけると励みになります。

次話もお楽しみに!


 康公こうこう

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