第二十話「消えた音、届かぬ想い」
一
その週、怪遺局は異常な数の通報に追われていた。
三峰静華がデスクに広げた地図には、いくつもの印がつけられていた。
「今週だけで、七件の残滓関連の通報がありました。ですが」
三峰は眉をひそめた。
「そのうち五件は、現場に到着した時にはすでに残滓が消滅していました」
「消滅」
宇治神燈夜が地図を覗き込んだ。
「木札を使った形跡は」
「ありません。ただ、跡形もなく消えていたそうです。まるで、最初から存在しなかったかのように」
安倍葛乃は地図を見ながら、不安を覚えた。
「常世会の、新しい武器ですか」
「おそらく」
燈夜が答えた。
「消滅専用の道具だと言っていた。効果は本物のようだ」
二
その日の夕方、新たな通報が入った。
都内の郊外、小さな用水路のある地域だった。夜になると小豆を洗うような音が聞こえる、という通報だった。
「小豆洗い、ですね」
芦屋道雄が資料を見ながら言った。
「基本的に無害な妖怪です。ただ音を立てるだけで、人に危害を加えることはほとんどありません」
「では今回も、消さずに済むかもしれない」
葛乃が言った。芦屋は少し表情を曇らせた。
「いえ……今回の通報には、少し気になる点があります」
「なんですか」
「小豆を洗う音が、次第に大きくなっている、という報告です。それと、周辺の住民が原因不明の頭痛を訴え始めているとも」
燈夜の目が鋭くなった。
「常世会が、先に手を出したか」
「可能性は高いです」
芦屋は木札を用意しながら言った。
「もし新兵器を使って、通常なら無害な小豆洗いを刺激してしまったのなら……状態が変わっている可能性があります」
三
現場は、住宅街に隣接する小さな用水路だった。
夜になり、燈夜と葛乃が到着すると、すでに異様な気配が漂っていた。
音が、聞こえた。
しゃき、しゃき、という小豆を洗うような音。でもそれは、資料にあったような可愛らしい音ではなかった。もっと不規則で、もっと重く、耳障りな音に変わっていた。
「これは……」
葛乃は用水路を覗き込んだ。水面が、異様に波打っていた。
燈夜は木札を取り出し、指を走らせた。気配を読む。表情が、険しくなった。
「歪んでいる」
「歪んでいる?」
「本来の小豆洗いの気配じゃない。何かで無理やり刺激された跡がある」
燈夜は用水路に向かって唱えた。木札が光る。
しかし水面から現れたそれは、燈夜の光を弾いた。
水しぶきが上がった。小豆を洗う音が、悲鳴のように大きくなった。葛乃は耳を塞ぎたくなった。
「浄化が効かない」
燈夜は木札を構え直した。もう一度唱える。しかし結果は同じだった。
四
「移すことは」
葛乃が言った。燈夜は首を振った。
「移送の術式は葛乃の力が必要だ。だが」
燈夜は用水路を見た。
「この歪み方は、普通の残滓とは違う。無理に触れれば、お前に何が起きるかわからない」
「でも」
「試すな」
燈夜の声は、有無を言わさなかった。
葛乃は唇を噛んだ。用水路の中で暴れる気配を見つめた。歪んで、苦しんでいるように見えた。本来は無害な、ただ小豆を洗う音を立てるだけの、小さな妖怪だったはずだ。
それが今、こんな姿になっている。
「宇治神さん、何か他に方法は」
「ない」
燈夜は静かに言った。
「今の状態では、浄化も移送もできない。放置すれば、周辺住民への被害が拡大する」
葛乃は燈夜を見た。燈夜の目に、迷いはなかった。
「消す」
「待ってください」
「待てない」
燈夜は木札を構えた。
「これ以上、悪化させるわけにはいかない」
五
葛乃は用水路に向かって、一歩踏み出した。
何かできるはずだ。河童の時のように。鵺の時のように。自分にはまだ知らない力があるはずだ。
葛乃は手を伸ばした。
気配に触れようとした。
しかし、何も起きなかった。
詠唱も出なかった。力も発揮されなかった。ただの空気を掴んだような感覚だけが、手のひらに残った。
「なんで……」
葛乃は愕然とした。今までは、確かに何かが応えてくれた。今回は、何も応えない。
「葛乃」
燈夜の声が、静かに響いた。
「下がれ」
「でも、私」
「今回は、無理だ」
葛乃は動けなかった。
燈夜が木札を構えた。強く、深く唱えた。
光が、水面を包んだ。
小豆を洗う音が、次第に小さくなっていった。歪んだ気配が、光の中に溶けていく。今度は、消滅の光だった。
やがて、水面は静かになった。
用水路には、もう何の気配もなかった。
六
車に戻るまで、葛乃は一言も喋らなかった。
燈夜も何も言わなかった。エンジンをかけ、無言のまま車を走らせた。
葛乃は窓の外を見ていた。夜の街が、流れていった。
「……なんで、消すって決めたんですか」
葛乃はようやく口を開いた。
「他に方法はなかったんですか」
「なかった」
「本当に? もっと探せば」
「時間がなかった」
燈夜の声は静かだった。しかし、そこに揺るぎない意志があった。
「あのままにしておけば、被害が広がっていた。俺は、それを止める判断をした」
「でも、あの小豆洗いは、本来は無害な存在だったんですよね」
「そうだ」
「なのに、消すしかなかった」
「そうだ」
葛乃は俯いた。目の奥が熱くなった。
「私、何もできませんでした」
「葛乃」
「河童の時も、鵺の時も、何かできた。でも今回は、何も。私の力なんて、結局その程度だったんです」
燈夜は前を向いたまま、少し間を置いた。
「お前のせいじゃない」
「でも」
「常世会が、無理やり歪めた。お前の力が届かないくらい、壊してしまった。それは、お前の責任じゃない」
葛乃は燈夜を見た。燈夜は前を向いたままだった。その横顔に、いつもとは違う疲れが滲んでいた。
「宇治神さんも、辛かったんですか」
燈夜は答えなかった。
ただ、少しだけ、ハンドルを握る手に力がこもった。
七
事務所に戻ると、三峰が待っていた。
「お疲れ様でした。結果は」
「消滅させた」
燈夜が答えた。三峰は少し目を伏せた。
「そうですか」
葛乃は自分のデスクに座った。まだ、あの用水路の音が耳に残っている気がした。
届かなかった。
自分の想いも、力も、何も届かなかった。
葛乃は両手を見た。何度も何かを救ってきたはずのこの手が、今日は何もできなかった。
窓の外を見た。
夜の街に、常世会の影が確実に広がっている。
葛乃はそれを、痛いほど実感していた。
第二十話 了
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康公




