第十九話「凪の夜」
一
繁華街から少し離れた路地に、古びた看板の店があった。
扉を開けると、静かなジャズが流れていた。カウンターだけの小さなバーだった。芦屋道雄はいつもの席、カウンターの端に座り、グラスを傾けていた。
「先生」
三峰静華が入ってきた。芦屋は振り返り、少し驚いた顔をした。
「珍しいですね、三峰さんがここに来るとは」
「近くを通ったので」
三峰はカウンターに座った。マスターが軽く会釈をして、何も聞かずにグラスを用意し始めた。長年通っている常連の顔だった。
「マスター、彼女にも同じものを」
「かしこまりました」
マスターは静かにグラスを差し出した。三峰は一口飲んで、小さく息を吐いた。
二
「宇治神さんのこと、心配ですか」
芦屋が静かに聞いた。三峰は少し間を置いてから答えた。
「常世会の動きが本格化してきました。宇治神さんは、いつも以上に無理をする気がします」
「そうですね」
芦屋はグラスを見つめながら言った。
「あの人は、昔からそうです」
三峰はグラスを手に取ったまま、芦屋を見た。
「先生は、宇治神さんが今の仕事を始めた頃から知っているんですよね」
「ええ。もう十六年になりますか」
芦屋の声に、懐かしさが滲んだ。
「あの頃の宇治神くんは、まだ十九歳でした」
「十九歳」
「若かったですよ。今よりもっと、尖っていました」
芦屋はグラスを傾けた。
「あの適性の高さは、宇治神家の血筋によるものです。見返り兎の伝説をご存知ですか」
「宇治神社の」
「そうです。人を導く、という意味を持つ伝説です。宇治神家は代々、その血を色濃く受け継いできた家系です。宇治神くんの適性は、その中でも群を抜いていました」
三峰は静かに聞いていた。
「でも」
芦屋は少し間を置いた。
「血筋だけでは、あそこまでの技術は身につきません。あの人には、師がいました」
三
「師」
三峰が呟いた。
「ええ。とても優秀な方でした。私も何度か面識がありますが……宇治神くんにとっては、単なる上司以上の存在だったと思います」
芦屋の目が、少し遠くを見るようになった。
「あの人は、その師に心酔していました。技術だけでなく、生き方そのものを学んでいたように見えました」
「その方は、今は」
芦屋は一瞬、答えを躊躇った。
「……もう、いません」
三峰は黙って、グラスを見つめた。
「十六年前、ある事件がありました。詳しいことは、私も全て知っているわけではありません。ただ、宇治神くんはその事件で、大切なものを失った」
「それが」
「今の宇治神くんを作った理由の一つです」
芦屋はグラスを空にした。マスターが静かにお代わりを注いだ。
「あの人が今の仕事を、あれほどまでに背負い込む理由。誰にも見せない部分。全部、その事件に繋がっています」
四
「三峰さんは」
芦屋が静かに聞いた。
「宇治神くんの全てを知っているんですよね」
三峰は少し間を置いてから答えた。
「……全て、というわけではありません」
「そうですか」
「ただ、知っていることの方が多いとは思います」
芦屋は三峰を見た。三峰は視線を逸らさなかった。
「先生」
「はい」
「葛乃さんのことも、いずれ話さなければならなくなります」
芦屋のグラスを持つ手が、僅かに止まった。
「……そうですね」
「時期は、宇治神さんが決めることです。でも、そう遠くないと思います」
芦屋は小さく頷いた。
「あの子は、優しい子です。強くもある。でも……知った時、どれだけの衝撃を受けるか」
「わかっています」
三峰の声は静かだった。しかし確かな重みがあった。
「それでも、いつかは知らなければならないことです」
五
二人はしばらく黙って、グラスを傾けた。
ジャズの音が、静かに店内を満たしていた。マスターは何も聞かず、静かにグラスを磨いていた。
「先生」
三峰が口を開いた。
「宇治神さんは、変わったと思いますか」
「変わった?」
「葛乃さんが来てから」
芦屋は少し考えてから、答えた。
「変わりましたね。あの人は昔、もっと自分の中に閉じこもっていました。今は、少しだけ外に開いている気がします」
「そうですね」
三峰は小さく微笑んだ。珍しい表情だった。
「私も、そう思います」
芦屋はグラスを掲げた。
「嵐が来る前に、こうして静かに話せてよかったです」
「ええ」
三峰もグラスを掲げた。二つのグラスが、静かに触れ合った。
窓の外、夜が静かに更けていった。
常世会が動き出した今、この静けさがいつまで続くかはわからない。
それでも今は、この凪のような時間を大切にしたいと、三峰は思った。
第十九話 了
ここまで読んでいただきありがとうございます!
少しずついろんなことがわかり始めてまいりました!
そろそろ中盤のクライマックスに差し掛かっております。
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次話もお楽しみに!
康公




