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第十九話「凪の夜」

 繁華街から少し離れた路地に、古びた看板の店があった。

 扉を開けると、静かなジャズが流れていた。カウンターだけの小さなバーだった。芦屋道雄あしやみちおはいつもの席、カウンターの端に座り、グラスを傾けていた。

「先生」

 三峰静華みつみねしずかが入ってきた。芦屋は振り返り、少し驚いた顔をした。

「珍しいですね、三峰さんがここに来るとは」

「近くを通ったので」

 三峰はカウンターに座った。マスターが軽く会釈をして、何も聞かずにグラスを用意し始めた。長年通っている常連の顔だった。

「マスター、彼女にも同じものを」

「かしこまりました」

 マスターは静かにグラスを差し出した。三峰は一口飲んで、小さく息を吐いた。


「宇治神さんのこと、心配ですか」

 芦屋が静かに聞いた。三峰は少し間を置いてから答えた。

常世会じょうせいかいの動きが本格化してきました。宇治神さんは、いつも以上に無理をする気がします」

「そうですね」

 芦屋はグラスを見つめながら言った。

「あの人は、昔からそうです」

 三峰はグラスを手に取ったまま、芦屋を見た。

「先生は、宇治神さんが今の仕事を始めた頃から知っているんですよね」

「ええ。もう十六年になりますか」

 芦屋の声に、懐かしさが滲んだ。

「あの頃の宇治神くんは、まだ十九歳でした」

「十九歳」

「若かったですよ。今よりもっと、尖っていました」

 芦屋はグラスを傾けた。

「あの適性の高さは、宇治神家の血筋によるものです。見返りみかえりうさぎの伝説をご存知ですか」

「宇治神社の」

「そうです。人を導く、という意味を持つ伝説です。宇治神家は代々、その血を色濃く受け継いできた家系です。宇治神くんの適性は、その中でも群を抜いていました」

 三峰は静かに聞いていた。

「でも」

 芦屋は少し間を置いた。

「血筋だけでは、あそこまでの技術は身につきません。あの人には、師がいました」


「師」

 三峰が呟いた。

「ええ。とても優秀な方でした。私も何度か面識がありますが……宇治神くんにとっては、単なる上司以上の存在だったと思います」

 芦屋の目が、少し遠くを見るようになった。

「あの人は、その師に心酔していました。技術だけでなく、生き方そのものを学んでいたように見えました」

「その方は、今は」

 芦屋は一瞬、答えを躊躇った。

「……もう、いません」

 三峰は黙って、グラスを見つめた。

「十六年前、ある事件がありました。詳しいことは、私も全て知っているわけではありません。ただ、宇治神くんはその事件で、大切なものを失った」

「それが」

「今の宇治神くんを作った理由の一つです」

 芦屋はグラスを空にした。マスターが静かにお代わりを注いだ。

「あの人が今の仕事を、あれほどまでに背負い込む理由。誰にも見せない部分。全部、その事件に繋がっています」


「三峰さんは」

 芦屋が静かに聞いた。

「宇治神くんの全てを知っているんですよね」

 三峰は少し間を置いてから答えた。

「……全て、というわけではありません」

「そうですか」

「ただ、知っていることの方が多いとは思います」

 芦屋は三峰を見た。三峰は視線を逸らさなかった。

「先生」

「はい」

「葛乃さんのことも、いずれ話さなければならなくなります」

 芦屋のグラスを持つ手が、僅かに止まった。

「……そうですね」

「時期は、宇治神さんが決めることです。でも、そう遠くないと思います」

 芦屋は小さく頷いた。

「あの子は、優しい子です。強くもある。でも……知った時、どれだけの衝撃を受けるか」

「わかっています」

 三峰の声は静かだった。しかし確かな重みがあった。

「それでも、いつかは知らなければならないことです」


 二人はしばらく黙って、グラスを傾けた。

 ジャズの音が、静かに店内を満たしていた。マスターは何も聞かず、静かにグラスを磨いていた。

「先生」

 三峰が口を開いた。

「宇治神さんは、変わったと思いますか」

「変わった?」

「葛乃さんが来てから」

 芦屋は少し考えてから、答えた。

「変わりましたね。あの人は昔、もっと自分の中に閉じこもっていました。今は、少しだけ外に開いている気がします」

「そうですね」

 三峰は小さく微笑んだ。珍しい表情だった。

「私も、そう思います」

 芦屋はグラスを掲げた。

「嵐が来る前に、こうして静かに話せてよかったです」

「ええ」

 三峰もグラスを掲げた。二つのグラスが、静かに触れ合った。

 窓の外、夜が静かに更けていった。

 常世会が動き出した今、この静けさがいつまで続くかはわからない。

 それでも今は、この凪のような時間を大切にしたいと、三峰は思った。


第十九話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます!

少しずついろんなことがわかり始めてまいりました!

そろそろ中盤のクライマックスに差し掛かっております。

面白いと思っていただけたら、感想・ブックマーク・評価をいただけると励みになります。

次話もお楽しみに!


 康公こうこう

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