第十六話「答えの代わりに」
一
あの夜以来、事務所の空気が少し変わった。
安倍葛乃は書類を整理しながら、時々宇治神燈夜の方を見た。燈夜はいつも通りデスクで報告書を書いていた。いつも通りに見えた。
でも、何かが違った。
あの日、聞いた質問。私は何者なんですか。燈夜は答えなかった。それだけだった。特に気まずい空気になったわけでもない。燈夜は普通に接してくる。葛乃も普通に返す。
なのに、何かが以前と違う気がした。
自分から強く聞き出すのは、性分に合わなかった。答えたくないことがあるなら、それ以上は踏み込みたくない。そう思ってしまう自分がいた。
でも、心の中では、ずっとモヤモヤしていた。
二
燈夜も同じだった。
ペンを走らせながら、時々葛乃の方に視線が向く。自分でも気づかないうちに、そうなっていた。
あの質問に答えられなかった。答える資格がないと思った。まだ話す時ではないと思った。理由はいくつもある。でもそのどれも、葛乃を納得させる答えにはならないだろう。
燈夜は報告書に視線を戻した。文字が、進まなかった。
「宇治神さん」
三峰静華の声がした。燈夜は顔を上げた。
「芦屋先生が、買い出しをお願いしたいそうです」
「先生が?」
燈夜は芦屋道雄を見た。芦屋はデスクに向かったまま、こちらを見ずに言った。
「木札専用の紙と墨、それから薬品店で試作用の材料も何点か。あと文房具店で細筆も欲しいですねえ。量が多いので、一人だと大変かと」
「先生が自分で行けばいいだろう」
「今、作業に集中していて手が離せないんですよ」
燈夜は疑わしい目で芦屋を見た。芦屋は依然として視線を合わせなかった。
「葛乃さんも一緒に行ってもらえますか」
三峰が続けた。葛乃は顔を上げた。
「私もですか」
「先生の言う通り、量が多いので」
三峰はそれだけ言うと、書類に視線を戻した。燈夜は少し間を置いてから、立ち上がった。
「……行くぞ」
「わかりました」
葛乃も立ち上がった。只野人志がデスクから顔を上げ、いつもの調子で言った。
「いってらっしゃーい!」
燈夜と葛乃は事務所を出た。
二人がいなくなった後、三峰は芦屋を見た。
「材料、本当にそんなに必要なんですか」
「さあ、どうでしょうねえ」
芦屋はニヤリと笑った。三峰は小さく息を吐いて、書類に戻った。
三
商店街を歩きながら、しばらく無言が続いた。
燈夜は買い物リストを見ながら歩いていた。葛乃はその横を歩いていた。いつもと同じ距離のはずなのに、少し遠く感じた。
葛乃は迷った。聞くべきか、聞かないべきか。
でも、この機会を逃したら、いつまた二人きりになれるかわからない。
「宇治神さん」
「なんだ」
「あの日のこと、もう少し聞いてもいいですか」
燈夜の足が、僅かに遅くなった。
「あの日」
「鵺のことです。私の中に、鵺の一部があるって」
燈夜は前を向いたまま歩き続けた。
「わからない」
「本当に?」
「今は、話せない」
「話せない、なんですか。話したくない、なんですか」
燈夜は少し間を置いた。
「両方だ」
葛乃は燈夜の横顔を見た。いつもの無愛想な表情だった。でも、その奥に何かが揺れているのがわかった。
四
文房具店に入り、芦屋のリストにあった特殊な紙と墨、細筆を探した。店員に聞きながら見つけ出す。葛乃は棚を見ながら、ふと聞いた。
「宇治神さんは、私の何を知ってるんですか」
燈夜は商品を手に取ったまま、動きを止めた。
「知っていることは、ある」
「教えてもらえないんですか」
「今は、教えられない」
「なぜですか」
燈夜は葛乃を見た。真剣な目だった。
「お前が知ったら、傷つくことだからだ」
葛乃は息を呑んだ。
「傷つく」
「今は、それだけしか言えない」
燈夜は商品を持ってレジに向かった。葛乃はその背中を見ていた。傷つく。その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
五
文房具店を出て、次に薬品店に向かった。芦屋のリストにある材料を一つひとつ確認しながら店員に伝える。葛乃は袋がどんどん増えていく様子を見ながら、芦屋が本当に必要としているのか少し疑わしく思った。
全ての買い物を終えて店を出ると、夜の商店街が広がっていた。
燈夜は買い物袋を手に持ちながら、少し立ち止まった。
「葛乃」
「はい」
「答えられないことは、いくつもある」
燈夜は前を向いたまま言った。
「今は、話せない。時期が来たら、必ず話す」
「本当ですか」
「本当だ」
葛乃は燈夜を見た。燈夜は珍しく、葛乃の方を向いた。
「一つだけ、今言えることがある」
「なんですか」
「何があっても、お前を守る」
葛乃は瞬きをした。燈夜の目は真剣だった。いつもの無愛想な目ではない。もっと深い、揺るがない何かがあった。
「それが、今の俺に言えることだ」
葛乃は何も言えなかった。ただ、燈夜の目を見ていた。
答えは、もらえなかった。
でも、その代わりに、確かなものをもらった気がした。
六
二人は夜道を歩きながら、事務所に戻った。
特に会話は続かなかった。でも、さっきまでの気まずい距離感は、少し薄れていた気がした。
葛乃は買い物袋を持ちながら、燈夜の横顔をちらりと見た。
何があっても、お前を守る。
その言葉が、まだ胸の中に残っていた。答えではない。真実でもない。でも、それだけで十分だと思えた。
まだ、わからないことだらけだ。
でも、今はそれでいいと思えた。
事務所の明かりが、遠くに見えてきた。
第十六話 了
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康公




