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第十六話「答えの代わりに」

 あの夜以来、事務所の空気が少し変わった。

 安倍葛乃あべくずのは書類を整理しながら、時々宇治神燈夜うじがみとうやの方を見た。燈夜はいつも通りデスクで報告書を書いていた。いつも通りに見えた。

 でも、何かが違った。

 あの日、聞いた質問。私は何者なんですか。燈夜は答えなかった。それだけだった。特に気まずい空気になったわけでもない。燈夜は普通に接してくる。葛乃も普通に返す。

 なのに、何かが以前と違う気がした。

 自分から強く聞き出すのは、性分に合わなかった。答えたくないことがあるなら、それ以上は踏み込みたくない。そう思ってしまう自分がいた。

 でも、心の中では、ずっとモヤモヤしていた。


 燈夜も同じだった。

 ペンを走らせながら、時々葛乃の方に視線が向く。自分でも気づかないうちに、そうなっていた。

 あの質問に答えられなかった。答える資格がないと思った。まだ話す時ではないと思った。理由はいくつもある。でもそのどれも、葛乃を納得させる答えにはならないだろう。

 燈夜は報告書に視線を戻した。文字が、進まなかった。

「宇治神さん」

 三峰静華みつみねしずかの声がした。燈夜は顔を上げた。

「芦屋先生が、買い出しをお願いしたいそうです」

「先生が?」

 燈夜は芦屋道雄あしやみちおを見た。芦屋はデスクに向かったまま、こちらを見ずに言った。

木札きふだ専用の紙と墨、それから薬品店で試作用の材料も何点か。あと文房具店で細筆も欲しいですねえ。量が多いので、一人だと大変かと」

「先生が自分で行けばいいだろう」

「今、作業に集中していて手が離せないんですよ」

 燈夜は疑わしい目で芦屋を見た。芦屋は依然として視線を合わせなかった。

「葛乃さんも一緒に行ってもらえますか」

 三峰が続けた。葛乃は顔を上げた。

「私もですか」

「先生の言う通り、量が多いので」

 三峰はそれだけ言うと、書類に視線を戻した。燈夜は少し間を置いてから、立ち上がった。

「……行くぞ」

「わかりました」

 葛乃も立ち上がった。只野人志ただのひとしがデスクから顔を上げ、いつもの調子で言った。

「いってらっしゃーい!」

 燈夜と葛乃は事務所を出た。

 二人がいなくなった後、三峰は芦屋を見た。

「材料、本当にそんなに必要なんですか」

「さあ、どうでしょうねえ」

 芦屋はニヤリと笑った。三峰は小さく息を吐いて、書類に戻った。


 商店街を歩きながら、しばらく無言が続いた。

 燈夜は買い物リストを見ながら歩いていた。葛乃はその横を歩いていた。いつもと同じ距離のはずなのに、少し遠く感じた。

 葛乃は迷った。聞くべきか、聞かないべきか。

 でも、この機会を逃したら、いつまた二人きりになれるかわからない。

「宇治神さん」

「なんだ」

「あの日のこと、もう少し聞いてもいいですか」

 燈夜の足が、僅かに遅くなった。

「あの日」

ぬえのことです。私の中に、鵺の一部があるって」

 燈夜は前を向いたまま歩き続けた。

「わからない」

「本当に?」

「今は、話せない」

「話せない、なんですか。話したくない、なんですか」

 燈夜は少し間を置いた。

「両方だ」

 葛乃は燈夜の横顔を見た。いつもの無愛想な表情だった。でも、その奥に何かが揺れているのがわかった。


 文房具店に入り、芦屋のリストにあった特殊な紙と墨、細筆を探した。店員に聞きながら見つけ出す。葛乃は棚を見ながら、ふと聞いた。

「宇治神さんは、私の何を知ってるんですか」

 燈夜は商品を手に取ったまま、動きを止めた。

「知っていることは、ある」

「教えてもらえないんですか」

「今は、教えられない」

「なぜですか」

 燈夜は葛乃を見た。真剣な目だった。

「お前が知ったら、傷つくことだからだ」

 葛乃は息を呑んだ。

「傷つく」

「今は、それだけしか言えない」

 燈夜は商品を持ってレジに向かった。葛乃はその背中を見ていた。傷つく。その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。


 文房具店を出て、次に薬品店に向かった。芦屋のリストにある材料を一つひとつ確認しながら店員に伝える。葛乃は袋がどんどん増えていく様子を見ながら、芦屋が本当に必要としているのか少し疑わしく思った。

 全ての買い物を終えて店を出ると、夜の商店街が広がっていた。

 燈夜は買い物袋を手に持ちながら、少し立ち止まった。

「葛乃」

「はい」

「答えられないことは、いくつもある」

 燈夜は前を向いたまま言った。

「今は、話せない。時期が来たら、必ず話す」

「本当ですか」

「本当だ」

 葛乃は燈夜を見た。燈夜は珍しく、葛乃の方を向いた。

「一つだけ、今言えることがある」

「なんですか」

「何があっても、お前を守る」

 葛乃は瞬きをした。燈夜の目は真剣だった。いつもの無愛想な目ではない。もっと深い、揺るがない何かがあった。

「それが、今の俺に言えることだ」

 葛乃は何も言えなかった。ただ、燈夜の目を見ていた。

 答えは、もらえなかった。

 でも、その代わりに、確かなものをもらった気がした。


 二人は夜道を歩きながら、事務所に戻った。

 特に会話は続かなかった。でも、さっきまでの気まずい距離感は、少し薄れていた気がした。

 葛乃は買い物袋を持ちながら、燈夜の横顔をちらりと見た。

 何があっても、お前を守る。

 その言葉が、まだ胸の中に残っていた。答えではない。真実でもない。でも、それだけで十分だと思えた。

 まだ、わからないことだらけだ。

 でも、今はそれでいいと思えた。

 事務所の明かりが、遠くに見えてきた。


第十六話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます!

面白いと思っていただけたら、感想・ブックマーク・評価をいただけると励みになります。

次話もお楽しみに!


 康公こうこう


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