第十五話「境界の向こうで」
一
宇治神燈夜が膝をついていた。
木札の光が消えかけている。鵺の残滓が、ゆっくりと燈夜に向かって迫っていた。工場の壁が軋む。床が震える。空気が圧縮されるような重さが、廃工場全体を満たしていた。
「宇治神さん!」
安倍葛乃は燈夜の前に出ようとした。
「来るな」
燈夜の声は、それでも静かだった。膝をついたまま、木札を構え直す。もう一度唱える。光が広がる。しかし残滓はその光を飲み込んだ。まるで光など存在しないかのように。
燈夜がまた後退した。
葛乃は動けなかった。何かをしなければならない。でも何をすればいいかわからない。燈夜があれだけ苦戦している相手に、自分が何をできるというのか。
拳を握った。解いた。また握った。
その時、葛乃は感じた。
残滓が、こちらを見ていた。
いや、見ていた、というより、呼んでいた。
あの時と同じだった。勾陳様の時も、河童の時も、何かに引き寄せられる感覚があった。でも今回は違う。もっと強く、もっと深く、葛乃の奥底に向かって手を伸ばしてくるような感覚だった。
二
葛乃は一歩踏み出した。
「葛乃!」
燈夜が叫んだ。葛乃は止まらなかった。
足が震えていた。膝が笑いそうだった。それでも、足は前に出た。
残滓が動いた。葛乃に向かって、ゆっくりと近づいてくる。形のない、巨大な気配が、葛乃を包み込もうとしている。
怖い。
本当に、怖い。
でも、逃げたいという気持ちより、知りたいという気持ちの方が強かった。なぜこれは自分を呼ぶのか。なぜ自分はこれを怖いと思いながらも引き寄せられるのか。
「……なんで私を呼ぶんですか」
葛乃は呟いた。声が震えていた。
残滓が止まった。
葛乃は手を伸ばした。指先が、残滓の気配に触れる。冷たくもなく、温かくもなく、ただ確かに何かがそこにある感触だった。
「葛乃、止まれ!」
燈夜の声が遠くなった。
手が、残滓に触れた。
世界が、変わった。
三
暗かった。
でも、怖くなかった。
葛乃は自分がどこにいるのかわからなかった。廃工場ではない。かといって、どこかの場所でもない。ただ、暗くて、静かな空間だった。音がない。匂いもない。温度もない。あるのは、深い静寂だけだった。
そこに、気配があった。
形はない。でも確かに、そこにいる。さっきまでの圧倒的な怒りや力は感じない。ただ、古くて、深くて、長い時間を生きてきた何かの気配だった。
葛乃は呟いた。
「……あなたが、鵺ですか」
答えはなかった。でも、気配が動いた。肯定するように。
「なぜ、私を呼んだんですか」
気配が揺れた。言葉ではなかった。でも葛乃には、何かが伝わった。
知っている。
お前のことを、知っている。
「私のことを?」
気配がまた揺れた。今度は、もっと複雑な何かが伝わってきた。
昔から、知っていた。ずっと、見ていた。
「ずっと……いつからですか」
気配が静かになった。それから、ゆっくりと答えた。
お前がまだ小さかった頃から。
葛乃の息が止まった。
小さかった頃。それはいつだ。自分が覚えていない、あの頃のことか。
「あの夜のことを、知っていますか」
気配が揺れた。
知っている。
「教えてください。私は何者なんですか。なぜあなたは私を呼ぶんですか」
気配が、長い間黙っていた。
それから、静かに伝わってきた。
お前の中に、俺の一部がある。
「……え」
お前の中に、俺の一部がある。だから、お前は俺を感じる。だから、お前には触れられない。
「どういう、ことですか」
気配が、静かになった。それ以上は、言わなかった。
葛乃はその言葉の意味を理解できなかった。お前の中に、俺の一部がある。どういうことだ。なぜ自分の中に鵺の一部があるのか。それはいつからなのか。あの夜と関係があるのか。
問い返したかった。でも、気配が遠ざかっていく。
待って、と葛乃は思った。でも声が出なかった。
まだ聞きたいことがある。まだ何も理解できていない。
でも鵺は、答えなかった。
ただ、最後に一つだけ、伝わってきた。
いずれ、また会う。
暗闇が、薄れていった。
四
目が覚めると、廃工場の床に座り込んでいた。
燈夜が葛乃の肩を両手で掴んでいた。その顔が、葛乃には珍しく見えた。いつもの無表情ではなく、何かを堪えているような顔だった。
「葛乃! 聞こえるか」
「……はい」
「大丈夫か」
「大丈夫です。ただ、少し……」
葛乃は頭を押さえた。ぼんやりとした感覚が残っていた。意識が遠くにあったような、深い水の底から浮かび上がってきたような感覚。
工場の中を見回した。
鵺の残滓が、消えていた。いや、消えたのではない。いなくなっていた。どこかへ、去っていった。
「鵺は」
「どこかへ去った」
燈夜は葛乃を見た。その目に、いつもとは違う何かがあった。安堵と、それから何か別のものが混じっていた。
「何があった」
葛乃は少し間を置いた。
「……鵺と、話しました」
「話した?」
「言葉ではないんですけど。意識が繋がったような感じで。鵺が、私のことを知っていると言っていました。昔から、ずっと見ていたと」
燈夜の表情が、僅かに動いた。
「他には」
「私の中に、鵺の一部があると……それから、いずれまた会うと」
葛乃は燈夜を見た。燈夜は何も言わなかった。でも、その目が、全てを知っているような目に見えた。
「宇治神さん、これはどういう」
「今日は帰ろう」
「でも」
「今日は、帰ろう」
燈夜は立ち上がり、葛乃に手を差し伸べた。
葛乃はその手を取りながら、燈夜の目を見た。
何かを、知っている。この人は、何かを知っている。
でも今は、聞けなかった。その目の奥に、言えない理由があることが、葛乃にはわかった。
五
事務所に戻ると、只野人志が立ち上がった。
「お帰りなさい! どうでしたか!? 連絡が途絶えたから心配しましたよ!」
「解決した」
「よかった! 鵺はどうなったんですか?」
「去っていった」
「去った……消えたわけじゃないんですね」
只野は少し間を置いた。
「そうですか」
いつもの営業スマイルだった。声も穏やかだった。
葛乃はコートを脱ぎながら、ふと窓の外を見た。夜の都市が広がっている。ビルの明かりが、雨上がりの路面に反射していた。
窓ガラスに、室内が映り込んでいた。
その中に、只野の顔があった。
燈夜が「去っていった」と言った瞬間から、その表情は変わっていなかった。笑顔のまま、燈夜に話しかけている。
ただ、目が笑っていないように思えた。
それだけではなかった。
口元が、僅かに引き結ばれていた。
笑顔の下に、何かを押さえ込んでいるような。
葛乃は窓ガラスから目を逸らした。
気のせいかもしれない。疲れているだけかもしれない。
でも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
六
その夜、葛乃は一人でデスクに座っていた。
三峰静華はすでに帰っていた。燈夜は報告書を書くと言って席を外していた。事務所には葛乃一人だった。
鵺の言葉が、頭から離れなかった。
お前の中に、俺の一部がある。
どういう意味だ。私の中に、鵺の一部が?
葛乃は自分の手を見た。鵺の残滓に触れた手。河童の時に詠唱が出た手。勾陳様の時に荒魂が止まった手。
何かが、自分の中にある。
でも、それが何なのか、葛乃にはわからなかった。
燈夜は知っている気がした。芦屋先生も、三峰さんも、何かを知っていて言わない気がした。あの沈黙が、あの目が、全部繋がっている気がした。
葛乃は深く息を吐いた。
まだ、わからないことだらけだ。
でも確実に、何かが近づいてきている気がした。
廊下から、燈夜の足音が聞こえた。
葛乃は顔を上げた。
聞こう。今度こそ、ちゃんと聞こう。
ドアが開いた。燈夜が入ってきた。葛乃を見た。
「まだいたのか」
「……少し、聞いてもいいですか」
燈夜は少し間を置いた。
それから、椅子を引いて座った。
「なんだ」
葛乃は燈夜を見た。
「私は、何者なんですか」
事務所に静寂が落ちた。
燈夜は葛乃を見ていた。その目に、何かが揺れていた。
答えは、なかった。
でも、燈夜は視線を逸らさなかった。
第十五話 了
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康公




