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第十五話「境界の向こうで」

 宇治神燈夜うじがみとうやが膝をついていた。

 木札きふだの光が消えかけている。ぬえ残滓ざんしが、ゆっくりと燈夜に向かって迫っていた。工場の壁が軋む。床が震える。空気が圧縮されるような重さが、廃工場全体を満たしていた。

「宇治神さん!」

 安倍葛乃あべくずのは燈夜の前に出ようとした。

「来るな」

 燈夜の声は、それでも静かだった。膝をついたまま、木札を構え直す。もう一度唱える。光が広がる。しかし残滓はその光を飲み込んだ。まるで光など存在しないかのように。

 燈夜がまた後退した。

 葛乃は動けなかった。何かをしなければならない。でも何をすればいいかわからない。燈夜があれだけ苦戦している相手に、自分が何をできるというのか。

 拳を握った。解いた。また握った。

 その時、葛乃は感じた。

 残滓が、こちらを見ていた。

 いや、見ていた、というより、呼んでいた。

 あの時と同じだった。勾陳こうちん様の時も、河童の時も、何かに引き寄せられる感覚があった。でも今回は違う。もっと強く、もっと深く、葛乃の奥底に向かって手を伸ばしてくるような感覚だった。


 葛乃は一歩踏み出した。

「葛乃!」

 燈夜が叫んだ。葛乃は止まらなかった。

 足が震えていた。膝が笑いそうだった。それでも、足は前に出た。

 残滓が動いた。葛乃に向かって、ゆっくりと近づいてくる。形のない、巨大な気配が、葛乃を包み込もうとしている。

 怖い。

 本当に、怖い。

 でも、逃げたいという気持ちより、知りたいという気持ちの方が強かった。なぜこれは自分を呼ぶのか。なぜ自分はこれを怖いと思いながらも引き寄せられるのか。

「……なんで私を呼ぶんですか」

 葛乃は呟いた。声が震えていた。

 残滓が止まった。

 葛乃は手を伸ばした。指先が、残滓の気配に触れる。冷たくもなく、温かくもなく、ただ確かに何かがそこにある感触だった。

「葛乃、止まれ!」

 燈夜の声が遠くなった。

 手が、残滓に触れた。

 世界が、変わった。


 暗かった。

 でも、怖くなかった。

 葛乃は自分がどこにいるのかわからなかった。廃工場ではない。かといって、どこかの場所でもない。ただ、暗くて、静かな空間だった。音がない。匂いもない。温度もない。あるのは、深い静寂だけだった。

 そこに、気配があった。

 形はない。でも確かに、そこにいる。さっきまでの圧倒的な怒りや力は感じない。ただ、古くて、深くて、長い時間を生きてきた何かの気配だった。

 葛乃は呟いた。

「……あなたが、鵺ですか」

 答えはなかった。でも、気配が動いた。肯定するように。

「なぜ、私を呼んだんですか」

 気配が揺れた。言葉ではなかった。でも葛乃には、何かが伝わった。

 知っている。

 お前のことを、知っている。

「私のことを?」

 気配がまた揺れた。今度は、もっと複雑な何かが伝わってきた。

 昔から、知っていた。ずっと、見ていた。

「ずっと……いつからですか」

 気配が静かになった。それから、ゆっくりと答えた。

 お前がまだ小さかった頃から。

 葛乃の息が止まった。

 小さかった頃。それはいつだ。自分が覚えていない、あの頃のことか。

「あの夜のことを、知っていますか」

 気配が揺れた。

 知っている。

「教えてください。私は何者なんですか。なぜあなたは私を呼ぶんですか」

 気配が、長い間黙っていた。

 それから、静かに伝わってきた。

 お前の中に、俺の一部がある。

「……え」

 お前の中に、俺の一部がある。だから、お前は俺を感じる。だから、お前には触れられない。

「どういう、ことですか」

 気配が、静かになった。それ以上は、言わなかった。

 葛乃はその言葉の意味を理解できなかった。お前の中に、俺の一部がある。どういうことだ。なぜ自分の中に鵺の一部があるのか。それはいつからなのか。あの夜と関係があるのか。

 問い返したかった。でも、気配が遠ざかっていく。

 待って、と葛乃は思った。でも声が出なかった。

 まだ聞きたいことがある。まだ何も理解できていない。

 でも鵺は、答えなかった。

 ただ、最後に一つだけ、伝わってきた。

 いずれ、また会う。

 暗闇が、薄れていった。


 目が覚めると、廃工場の床に座り込んでいた。

 燈夜が葛乃の肩を両手で掴んでいた。その顔が、葛乃には珍しく見えた。いつもの無表情ではなく、何かを堪えているような顔だった。

「葛乃! 聞こえるか」

「……はい」

「大丈夫か」

「大丈夫です。ただ、少し……」

 葛乃は頭を押さえた。ぼんやりとした感覚が残っていた。意識が遠くにあったような、深い水の底から浮かび上がってきたような感覚。

 工場の中を見回した。

 鵺の残滓が、消えていた。いや、消えたのではない。いなくなっていた。どこかへ、去っていった。

「鵺は」

「どこかへ去った」

 燈夜は葛乃を見た。その目に、いつもとは違う何かがあった。安堵と、それから何か別のものが混じっていた。

「何があった」

 葛乃は少し間を置いた。

「……鵺と、話しました」

「話した?」

「言葉ではないんですけど。意識が繋がったような感じで。鵺が、私のことを知っていると言っていました。昔から、ずっと見ていたと」

 燈夜の表情が、僅かに動いた。

「他には」

「私の中に、鵺の一部があると……それから、いずれまた会うと」

 葛乃は燈夜を見た。燈夜は何も言わなかった。でも、その目が、全てを知っているような目に見えた。

「宇治神さん、これはどういう」

「今日は帰ろう」

「でも」

「今日は、帰ろう」

 燈夜は立ち上がり、葛乃に手を差し伸べた。

 葛乃はその手を取りながら、燈夜の目を見た。

 何かを、知っている。この人は、何かを知っている。

 でも今は、聞けなかった。その目の奥に、言えない理由があることが、葛乃にはわかった。


 事務所に戻ると、只野人志ただのひとしが立ち上がった。

「お帰りなさい! どうでしたか!? 連絡が途絶えたから心配しましたよ!」

「解決した」

「よかった! 鵺はどうなったんですか?」

「去っていった」

「去った……消えたわけじゃないんですね」

 只野は少し間を置いた。

「そうですか」

 いつもの営業スマイルだった。声も穏やかだった。

 葛乃はコートを脱ぎながら、ふと窓の外を見た。夜の都市が広がっている。ビルの明かりが、雨上がりの路面に反射していた。

 窓ガラスに、室内が映り込んでいた。

 その中に、只野の顔があった。

 燈夜が「去っていった」と言った瞬間から、その表情は変わっていなかった。笑顔のまま、燈夜に話しかけている。

 ただ、目が笑っていないように思えた。

 それだけではなかった。

 口元が、僅かに引き結ばれていた。

 笑顔の下に、何かを押さえ込んでいるような。

 葛乃は窓ガラスから目を逸らした。

 気のせいかもしれない。疲れているだけかもしれない。

 でも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。


 その夜、葛乃は一人でデスクに座っていた。

 三峰静華みつみねしずかはすでに帰っていた。燈夜は報告書を書くと言って席を外していた。事務所には葛乃一人だった。

 鵺の言葉が、頭から離れなかった。

 お前の中に、俺の一部がある。

 どういう意味だ。私の中に、鵺の一部が?

 葛乃は自分の手を見た。鵺の残滓に触れた手。河童の時に詠唱が出た手。勾陳様の時に荒魂が止まった手。

 何かが、自分の中にある。

 でも、それが何なのか、葛乃にはわからなかった。

 燈夜は知っている気がした。芦屋先生も、三峰さんも、何かを知っていて言わない気がした。あの沈黙が、あの目が、全部繋がっている気がした。

 葛乃は深く息を吐いた。

 まだ、わからないことだらけだ。

 でも確実に、何かが近づいてきている気がした。

 廊下から、燈夜の足音が聞こえた。

 葛乃は顔を上げた。

 聞こう。今度こそ、ちゃんと聞こう。

 ドアが開いた。燈夜が入ってきた。葛乃を見た。

「まだいたのか」

「……少し、聞いてもいいですか」

 燈夜は少し間を置いた。

 それから、椅子を引いて座った。

「なんだ」

 葛乃は燈夜を見た。

「私は、何者なんですか」

 事務所に静寂が落ちた。

 燈夜は葛乃を見ていた。その目に、何かが揺れていた。

 答えは、なかった。

 でも、燈夜は視線を逸らさなかった。


第十五話 了

ここまで読んでいただきありがとうございます!

面白いと思っていただけたら、感想・ブックマーク・評価をいただけると励みになります。

次話もお楽しみに!


 康公こうこう

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