第十三話「異形の気配」
一
「案件持ってきました!」
只野人志が勢いよくドアを開けて入ってきた。手に書類を持っている。
「ノックしろ」
宇治神燈夜はコーヒーを飲む手を止めずに言った。
「すみません! 急ぎで!」
只野はデスクに書類を広げた。安倍葛乃が立ち上がって覗き込む。三峰静華は書類から顔を上げずに只野を一瞥した。
「どんな案件ですか」
葛乃が聞くと、只野は少し興奮した様子で答えた。
「都内の廃工場なんですけど、周辺住民から夜中に異音がするって通報があって。やすらぎの家経由で回ってきたんですが、現地を確認した人が体調を崩して病院に運ばれたらしくて」
「体調不良の程度は」
「意識はあるらしいんですが、ひどく怯えていて話せない状態だと」
燈夜はコーヒーカップを置いた。書類を手に取り、目を通す。
「場所は」
「都内の工業地帯です。廃工場が密集しているエリアで、夜は人通りがほとんどないみたいで」
燈夜は書類を閉じた。
「葛乃、来い」
「私もですか」
「只野も来い」
只野が目を丸くした。
「え、僕もですか!?」
「人手がいる」
二
現場は都内の外れにある廃工場だった。
日が落ちてから向かったのは、異音が夜中に起きるという証言があったからだ。錆びた鉄骨、割れたガラス窓、雑草が伸び放題の敷地。廃墟独特の静けさが、あたりを覆っていた。
車を降りた瞬間、葛乃は感じた。
重い。
空気が重い。勾陳様の時とも、河童の時とも違う。もっと得体の知れない、形容しがたい重さだった。
「宇治神さん」
「わかってる」
燈夜は短く答えた。木札を取り出し、指を走らせて気配を読む。その手が、僅かに止まった。
「……何かいる」
「何ですか」
「わからない」
葛乃は燈夜を見た。燈夜が「わからない」と言うのは、珍しかった。
只野は周囲をきょろきょろ見回していた。
「なんか変な感じしますね。空気が、こう……ねっとりしてるというか」
「只野、ここで待機しろ」
「また外ですか!」
「動くな」
燈夜は葛乃を連れて、廃工場の敷地に入った。
三
敷地の奥に進むにつれて、気配が濃くなった。
葛乃は自分の両手を見た。微かに震えている。恐怖ではなかった。何か別の感覚だった。引き寄せられるような、懐かしいような、でも確かに怖い、複雑な感覚。
「宇治神さん、私……」
「感じるか」
「はい。でもこれ、今まで感じたものと違う気がします」
燈夜は何も言わなかった。
廃工場の中心部、かつて大型機械が置かれていたと思しき広い空間に出た。
そこに、それはいた。
形がない。いや、形があるようで、ない。猿のようで、蛇のようで、虎のようで、何でもないような。見ようとすると、視線が滑る。捉えようとすると、輪郭が歪む。ただ、圧倒的な存在感だけがそこにある。
今まで見てきた残滓とは、全く違った。
「……なんですか、あれ」
葛乃は思わず呟いた。声が震えていた。
燈夜は木札を構えた。指を走らせ、唱える。
光が広がった。
しかし次の瞬間、光がかき消された。
残滓がうごめいた。工場の壁が、床が、軋んだ。空気が圧縮されるような感覚が走った。燈夜が一歩後退した。
四
そこへ、声が聞こえた。
「やはり来ましたか、片付け屋」
振り返ると、工場の入り口付近に人影があった。
四十代と思しき男。燈夜には見覚えがあった。
北関東の集落で逃げた、常世会の幹部だった。
男は余裕のある笑みを浮かべていた。
「勾陳様の時はお世話になりました。今回もお邪魔するとは思いませんでしたが」
「お前たちがやったのか」
「ええ。この存在を消そうとしたんですが……少し手に負えなくなりまして」
男は肩を竦めた。
「おかげさまで我々の技術では対処できない状態になってしまいました。片付け屋さんにお任せするしかないかと」
「自分たちで引き起こした結果を、我々に片付けさせるつもりか」
「そういうことです」
男の笑みは崩れなかった。
燈夜の目が鋭くなった。
その時、残滓が再び動いた。
今度は燈夜ではなく、葛乃に向かって。
「葛乃、下がれ!」
燈夜が叫んだ。葛乃は咄嗟に後退した。
しかし残滓は、葛乃の前で止まった。
止まった。
勾陳様の時と同じだった。しかし今回は違う。止まっただけではなかった。残滓が、葛乃を中心にゆっくりと渦を巻くように動いた。まるで、葛乃の周りを確かめるように。
「……なんで」
葛乃は動けなかった。残滓が自分の周りを回っている。怖かった。でも、不思議と害を感じなかった。
燈夜は葛乃と残滓を見ていた。その目に、何かが過った。
男が口を開いた。
「ほう……面白い」
燈夜が男を見た。男はまだ笑っていた。今度は、少し違う種類の笑みだった。
「その娘、少し変わってますね」
燈夜は答えなかった。
「撤退する」
葛乃の腕を掴み、出口に向かって歩き始めた。
「逃げるんですか?」
男の声が、後ろから聞こえた。
「今日は、ここまでだ」
燈夜は振り返らなかった。
五
外に出ると、只野が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!? なんか工場の中から凄い音がして!」
「問題ない。車に乗れ」
三人は車に乗り込んだ。葛乃はシートに座りながら、自分の手を見た。
まだ、あの感覚が残っていた。残滓が自分の周りを回っていた、あの奇妙な感覚が。
「宇治神さん」
「後で話す」
燈夜は前を向いたまま、エンジンをかけた。
葛乃は窓の外を見た。廃工場が、夜の闇に沈んでいく。
只野は後部座席で、窓の外を見ていた。
その目が、一瞬だけ細くなった。
葛乃には、見えなかった。
第十三話 了
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次話もお楽しみに!
康公




