第十二話「影の輪郭」
一
三日目だった。
宇治神燈夜は喫茶店の窓際の席に座り、やすらぎの家のビルを見ていた。コーヒーはもう三杯目だ。店員が気を利かせて何も言わないのが、ありがたかった。
この張り込みのことは、誰にも言っていない。
三峰には常世会の調査を続けると伝えてある。しかし具体的な行動については報告していない。独断だということはわかっていた。それでも、自分の目で確かめなければならないことがあった。
燈夜は煙草を一本取り出し、火をつけた。
やすらぎの家の裏口を、じっと見つめた。
二
一日目は収穫がなかった。
二日目も同じだった。裏口から出入りする人間はいたが、見覚えのある顔はなかった。
しかし三日目の夕方、それは起きた。
裏口のドアが開いた。出てきたのは、四十代と思しき男だった。
燈夜は目を細めた。
見覚えがある。北関東の集落で、やすらぎの家の関係者として接触してきた男だ。勾陳様の一件で逃げた幹部。ナンバープレートを控えたが、その後行方がわからなくなっていた人物だ。
やはり、ここに繋がっていた。
男は周囲を確認してから、路地の奥に向かって歩き始めた。燈夜はコーヒーカップを置き、立ち上がった。
三
燈夜は距離を保ちながら、男の後をつけた。
住宅街の路地を抜け、古い倉庫が並ぶエリアに入る。人通りが少なくなった。燈夜は物陰に身を潜めながら、男の動きを追った。
男が足を止めた。
倉庫の一つの前だった。古びた鉄扉の前に立ち、スマートフォンで何かを確認してから、扉を叩いた。
内側から扉が開いた。
出てきたのは、黒い服を着た人物だった。
顔が、見えなかった。
目元を完全に覆う黒いアイマスク。帽子を目深に被り、マフラーで口元まで隠している。真夏でもないのに、肌が一切露出していない。身長は平均的だったが、それ以外の特徴が何もわからなかった。
燈夜は息を止めた。
四
男が頭を下げた。
覆面の人物は何も言わなかった。ただ静かに立っていた。その佇まいに、異様な存在感があった。圧力と言うより、空白のような感覚だった。そこだけ空気が違う。
男が何かを報告しているらしかった。低い声で、早口に話している。燈夜には聞き取れない距離だった。
覆面の人物は微動だにしなかった。
報告が終わると、覆面の人物は僅かに頷いた。それだけだった。言葉は発していない。
男がまた頭を下げ、来た道を戻り始めた。
燈夜は物陰で息を潜めた。男が通り過ぎていく。
覆面の人物は、しばらくその場に立っていた。
それから、燈夜がいる方向を向いた。
燈夜は動かなかった。物陰の暗がりの中で、息を殺した。
覆面の人物の顔が見えない。アイマスクの奥に何があるのか、わからない。
それでも燈夜は感じた。
見られている。
五
数秒が、数分のように感じた。
覆面の人物は、そのまま倉庫の中に戻っていった。鉄扉が、静かに閉まった。
燈夜は暗がりの中で、しばらく動かなかった。
心臓が、普段より速く打っていた。自分でも気づかないうちに、手が上着の内ポケットの木札に触れていた。
あの人物は何者だ。
やすらぎの家の幹部でもない。構成員でもない。あの存在感は、組織のトップのものだ。
常世会のボスか。
燈夜は倉庫を見た。錆びた鉄扉、薄汚れた外壁。何の変哲もない古い倉庫だった。しかしその中に、あの覆面の人物がいる。
今すぐ踏み込むことはできない。単独だ。装備も十分ではない。何より、相手の力量がわからない。
燈夜は踵を返した。
今日はここまでだ。
六
事務所に戻ったのは、深夜近くだった。
電気がついていた。三峰静華が一人、デスクで書類を見ていた。
「遅かったですね」
「少し調べることがあった」
「どこへ行っていたんですか」
燈夜は少し間を置いた。
「やすらぎの家の周辺だ」
三峰はペンを置いた。燈夜を見た。
「独断ですね」
「そうだ」
「何か見つかりましたか」
燈夜はデスクの椅子に座り、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
「勾陳様の一件で逃げた幹部を確認した。やすらぎの家と繋がっていることは間違いない」
「それだけですか」
燈夜は少し間を置いた。
「もう一人いた。顔が見えなかった。完全に覆面をしていた」
三峰の目が、僅かに動いた。
「覆面」
「ああ。幹部がそいつに報告していた。おそらく……常世会のボスだ」
三峰はしばらく黙っていた。
「顔は」
「わからなかった。ただ」
燈夜はコーヒーカップを手に取った。
「こちらの存在に気づいていたかもしれない」
三峰の表情が、僅かに硬くなった。
「……単独での行動は控えてください、宇治神さん」
「わかっている」
「わかっているとは思えませんが」
燈夜は答えなかった。コーヒーを一口飲んだ。
事務所に静寂が落ちた。
覆面の人物の、空白のような存在感が、まだ頭の中に残っていた。
第十二話 了
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次話もお楽しみに!
康公




