銀嶺の祝祭、爛れる王都の戴冠式
窓の外では、細かな粉雪が朝日に反射して、まるでダイヤモンドの粉を撒き散らしたかのようにキラキラと輝いていた。
この北の地にも、いよいよ本格的な冬の深まりを告げる『氷銀祭』の日がやってきた。
領民たちが無事に厳しい冬を越せるよう励まし合い、互いの絆を確かめ合うこのお祭りは、フロスト公爵領にとって一年で最も大切な行事の一つなのだそうだ。
「……セレス、少しじっとしていてくれ」
身支度を整える私の背後で、レオンハルト様が慎重な手つきで私の髪に触れていた。
今日の私の装いは、彼が特別に作らせたという、深みのある濃紺のベルベットドレス。胸元と袖口には繊細な銀糸で雪の結晶が刺繍されており、動きに合わせて光を弾く。
そして今、レオンハルト様は私の編み上げた銀髪に、小さな氷の結晶を模したダイヤモンドの髪飾りを一つひとつ丁寧に飾ってくれているのだった。
「レオン様、侍女の方に任せていただければよろしいのに……」
「嫌だ。君の髪に触れていいのは俺だけだ。……それに、君を一番美しく飾れるのは俺でありたい」
鏡の中で彼と目が合う。
普段は家臣たちを震え上がらせる厳しい表情の公爵様が、今はまるで宝物を扱う子供のような真剣な眼差しで、私の髪に指を通している。その落差が可笑しくもあり、たまらなく愛おしい。
最後の一個を留め終えると、彼は私の肩にそっと顎を乗せ、鏡越しに微笑んだ。
「完璧だ。……今日の君は、雪の結晶が集まって生まれた妖精のようだ」
「まあ……そんな甘いお言葉、どこで覚えていらっしゃるのですか?」
「言葉ではない。俺の心の底からの本音だよ。……あまりの美しさに、城の外に出したくなくなってきたな。このまま部屋に閉じ込めて、俺だけが愛でていたい」
「もう、レオン様ったら。領民の皆様が待っていらっしゃいますわ」
私が振り向いて彼の頬を突くと、彼は低く笑い、私の指先を取ってその腹に小さなキスを落とした。
彼の指には、私とおそろいのサファイアの指輪が輝いている。彼から贈られたその指輪を見るたび、胸の奥から温かいものが溢れ出してくるのだ。
二人で手をつなぎ、城のバルコニーへと向かう。
広場には、防寒具に身を包んだ大勢の領民たちが集まっていた。私たちが姿を現すと、地響きのような大きな歓声が巻き起こった。
『公爵様万歳!』
『セレスティア様! どうかお健やかに!』
『私たちの温かな女神様!』
人々の顔には、偽りのない、温かな笑顔が咲き誇っていた。
かつて王都で見た、私の祈りを当然の権利として要求し、感謝の言葉すらなかった人々とは全く違う。ここにあるのは、互いを思いやる純粋な好意と尊敬だった。
私が手を振ると、広場からはさらに大きな歓声が上がり、小さな子供たちが手を振り返してくれた。
「セレス。君がここに来てくれてから、この領地は目に見えて明るくなった。君の存在そのものが、俺にとっても、この土地にとっても救いなんだ」
「レオン様……私、何もしていませんわ。ただ、ここで皆様と過ごしているだけです」
「それで十分なんだよ。君が笑っている、ただそれだけでいい」
彼はそっと私の手を取り、領民たちの前で堂々と私を引き寄せ、額に口づけを授けた。
広場からはひときわ大きな冷やかしと祝福の歓声が上がり、私は頬を真っ赤に染めて彼の胸に顔をうずめるしかなかった。
風は冷たかったけれど、私の身も心も、心地よい温もりでいっぱいに満たされていた。
◈◈◈
同時刻――太陽の国ソルシエール、王宮・大聖堂。
重々しいパイプオルガンの音が響き渡っていた。
しかし、その音律は狂い、不協和音が大聖堂の静寂を不気味に切り裂いている。奏者の指はすでに半ば壊死しており、鍵盤にはドロリとした黒い血がへばりついていたが、奏者は恍惚とした笑みを浮かべながら演奏を続けていた。
今日は、新聖女リリアーナを『国の母』として迎え入れる、最高聖女戴冠式の日であった。
大聖堂の絨毯の上には、びっしりと腐肉と毒々しい極彩色の花々が敷き詰められていた。
参列している貴族たちの姿は、もはや人間の形を保っているとは言い難かった。
衣服はボロボロに裂け、体からは膿と死臭が立ち上っている。ある貴族は片方の目玉が脱落しかけていたが、それを「聖女様のくださった新しい飾りだ」と喜んで手で押さえながら、バカのように口を開けて笑っていた。
王宮の近衛兵たちは、肉体が腐り落ちて鎧を支えきれなくなり、ガチャガチャと不気味な音を立てて床に倒れ伏していたが、誰も助け起こそうとはしない。
聖壇の上には、王太子アレクシスが立っていた。
いや、『立たされていた』という方が正しいかもしれない。
彼の両足はすでに骨が壊れて自立できず、透明な魔法の糸のようなもので天井から吊り下げられている状態だった。彼の皮膚は土色を通り越して黒ずみ、歯はすべて抜け落ちて、口元からはダラダラと涎が垂れていた。
それでも、彼の瞳には狂妄な歓喜だけが宿っていた。
「ああ……おお……! ついに、ついにこの日が来た! 我がソルシエールは、世界で最も偉大な帝国となるのだ!」
アレクシスの声は壊れた笛のようにヒューヒューと漏れた。
彼の手元には、かつて国王が被っていた黄金の王冠があった。現国王は数日前に「幸せの絶頂」の中で息を引き取り、いまや玉座で物言わぬ肉塊と化していたが、アレクシスは父親が死んだことすら認識していなかった。
「おいで、私の愛しいリリアーナ……! 君こそが、この国の真の支配者だ!」
大聖堂の扉が開き、ピンク色の絢爛豪華なドレスを着たリリアーナが入場してきた。
彼女のドレスの裾は、床に溜まった黒い液体と膿を吸い上げて重く湿っていたが、彼女は可憐な足取りで聖壇へと歩を進める。
彼女が歩くたび、周囲の空間からむっとするような甘ったるい香気が放たれ、参列者たちの狂気をさらに深めていった。
「アレクシス様。私をこんなに素晴らしい場所へ連れてきてくださって、ありがとうございますわ」
「なぁに……君のためなら、何でもするさ……! さあ、この王冠を……君に……」
アレクシスは震える腕を上げ、リリアーナの頭上に王冠を載せようとした。
しかし、その拍子に彼の肘の関節が妙な音を立てて外れ、腕がだらりと垂れ下がった。
「おや……腕が、上手く動かないな……ふふふ、可笑しいな……」
「まあ、アレクシス様ったら不器用ですのね。いいわ、私が手伝ってあげます」
リリアーナは微笑みながら、アレクシスの折れた腕を掴み、力任せに引き上げた。
メリメリと嫌な音が響き、アレクシスの口から苦痛の絶叫……ではなく、狂気に満ちた大爆笑が漏れ出た。
「はははは! 痛快だ! なんて気持ちがいいんだ! リリアーナ、君の愛が全身を駆け巡るようだ!」
王冠がリリアーナの頭に戴載された瞬間、大聖堂内に割れんばかりの拍手が巻き起こった。
貴族たちは壊れた手足を叩き合わせ、皮膚が裂けるのも構わずに歓声を上げた。
「万歳! リリアーナ様万歳!」
「我らが至高の聖女様! 我が国に永遠の栄光あれ!」
狂乱の宴が最高潮に達する中、アレクシスは虚ろな目を天に向け、掠れた声で呟いた。
「見ているか……セレス……。私を捨てて逃げ出した、哀れで惨めな女よ……。お前が私を追い出されたせいで、私はこうして最高峰の幸せを手に入れたのだ……。お前など、どこかの冷たいドブの中で、私を羨んで泣いているに違いない……あはは……あはははは!」
彼がセレスを追い出したのではない。セレスを追放したのは彼自身だ。
しかし、崩壊した彼の脳は、もはやその事実すら正しく処理できなくなっていた。
自分は選ばれた存在であり、セレスは自分に捨てられて惨めに死んでいったのだという、都合のいい幻影だけを抱きしめていた。
彼の鼻と耳から、ツーッと黒い濃血が溢れ出す。
視界が徐々に暗転していく中で、アレクシスはリリアーナの歪んだ笑顔を見つめていた。
彼の肉体の生命活動は、今まさに終わろうとしていた。しかし、彼の精神は最後まで『自分は世界一幸せな王太子だ』という完璧な錯覚の中に閉じ込められたままだった。
大聖堂を包む甘い花の香りは、すでに完全な死臭へと変わっていた。
だが、そこにいる誰も、その死臭に気づく者はいなかった。彼らはただ、腐りゆく肉体を抱えたまま、終わりなき狂気の賛歌を歌い続けるのだった。
◈◈◈
夜。祝祭の宴が終わり、静けさを取り戻した公爵城。
私は暖かいベッドの中で、レオンハルト様の胸に抱かれていた。
部屋の中には暖炉の薪がはぜるパチパチという心地よい音と、彼の上品な香水の匂い、そしてテーブルの上のオルゴールが奏でる優しい旋律だけが満ちている。
「セレス、今日は疲れただろう」
「いいえ、レオン様。皆様の笑顔を見ることができて、とても心が温かくなりましたわ」
私は彼のシャツの胸元に頬を寄せ、その心地よい体温を感じていた。
彼の手が、私の背中を一定の周期で優しく撫でてくれる。
「そうか。……君が幸せなら、俺はそれだけでいい」
「はい。私、今本当に幸せです。……レオン様と一緒にいられるなら、他に何もいりません」
私の言葉に、レオンハルト様は愛おしさを抑えきれないといったように、私の唇に何度も甘い口づけを重ねた。
「俺もだ、セレス。君なしの人生など、もう考えられない。俺の世界は、君を中心に回っているんだ」
彼の深く情熱的な蒼い瞳に見つめられ、私は照れくささに胸をいっぱいにしながら、彼の首にそっと手を回した。
私の世界は、この温かく優しい城の中で、私を全身全霊で愛してくれるこの人とともに、永遠に、穏やかに紡がれていくのだから。
窓の外では、月明かりを受けた美しい粉雪が、今夜も静かに、すべてを覆い隠すように降り積もっていた。




