微睡みのオルゴール、腐爛する楽園の協奏
降り積もる雪の音さえ吸い込んでしまうような、静けさに満ちた午後だった。
公爵城の三階に設えられたサンルームは、特殊な魔導具と分厚いガラスによって外の氷点下の気候から完全に切り離され、まるで永続する春の中に閉じ込められているかのような温もりに包まれていた。
天井からは光を浴びて輝く白銀のサンキャッチャーが吊り下げられ、床一面には毛足の長い羊毛の絨毯が敷き詰められている。
私はその暖かな絨毯の上に置かれた大きなクッションに体を預け、膝の上に広げられた古い羊皮紙の本をめくっていた。
「……セレス、少し目を休めなさい」
耳元で響いた低く甘い声と共に、視界がふわりと陰った。
見上げれば、レオンハルト様が私の本の上に手を伸ばし、優しくそれを閉じる場面だった。彼の蒼い瞳は、どこまでも深く、私だけを映し出している。
彼は私の隣に腰を下ろすと、自然な動作で私の腰を引き寄せ、そのまま自分の胸元へと抱きかかえた。
「レオン様、まだ読んでいる途中でしたのに」
「集中しすぎて、少し首を傾げていただろう? 肩が凝ってしまう。……ほら、力を抜いて」
大きな手が私の肩から背中にかけて、ゆっくりと撫で下ろす。その心地よい圧迫感と体温に、私の体は一瞬で緊張を解き、彼の胸へとすっぽりと収まってしまった。
レオンハルト様は私の反応に満足したように口元を緩めると、テーブルの上に置かれていた小さな木箱を取り上げた。
「君に渡したいものがあったんだ」
「まあ……これは?」
それは、精緻な木目細工が施された、手のひらサイズのオルゴールだった。蓋の表面には、私の銀髪を思わせる繊細な銀糸の象嵌細工で、一輪の冬の薔薇が描かれている。
彼が小さな鍵を回して蓋を開けると、カチリと澄んだ音が鳴り、中から繊細で美しい金属の調べが流れ出した。
静かで、優しく、どこか切ないほどに温かいメロディ。
耳を傾けているだけで、胸の奥に溜まっていた過去の澱が、さらさらと流れ去っていくような感覚を覚える。
「これは……フロスト領に古くから伝わる守護の旋律だ。精神を穏やかにし、安らかな眠りをもたらす効果がある。……君が夜、時折寂しそうな顔をするから、王都の技師ではなく、この領土で最高の職人に命じて作らせた」
「レオン様……」
私のために、彼がどれほどの時間と心を尽くしてくれたのかが伝わってきて、胸が熱くなる。
王都にいた頃、私の仕事は絶え間ない『祈り』だった。朝から晩まで神殿の冷たい石畳の上に膝をつき、国中の瘴気を吸い上げ、自己犠牲の果てに得られるものは「聖女なのだから当然」という冷ややかな視線と、すり減った心身だけだった。
誰かが私の眠りを気遣ってくれたことなど、一度もなかった。私が疲れ果てて倒れても、アレクシス殿下は『また演技か。聖女としての自覚が足りない』と吐き捨てるように言い放ち、私を暗く冷たい部屋に放置した。
けれど、今は違う。
レオンハルト様は、私がほんの少し眉をひそめただけで、あるいはほんの少し息を呑んだだけで、私の心の揺らぎに気づいてくれる。
「とても……とても綺麗な音色ですわ。一生の宝物にいたします」
「君が気に入ってくれたなら良かった。……セレス、君の笑顔を見るためなら、俺はどんなことでもする。領地のすべての財を投げ打ってでも、君に世界中の幸せを集めて届けてみせる」
彼はオルゴールをテーブルに戻すと、両手で私の頬を包み込み、ゆっくりと顔を近づけてきた。
重ねられた唇から伝わるのは、深い熱と、押し殺しきれないほどの強い欲望。
彼はいつも、私を崩れてしまいそうなガラス細工のように優しく扱うけれど、その瞳の奥には、私を閉じ込めておきたいという強烈な独占欲が渦巻いている。
そして私は、その甘やかな束縛が、たまらなく愛おしかった。
「レオン様……ん……」
「セレス……もっと俺を見てくれ。俺の名を呼んでくれ。君の過去のすべてを、俺の愛で塗り潰させてくれ……」
何度も何度も重なる口づけ。息が上がり、視界が甘く霞んでいく中で、私は彼の首に必死に腕を回した。
私の世界のすべては、この人の胸の中にあった。外の世界で何が起きようと、どんな歴史が紡がれようと、私にとってはこここそが絶対の至福であり、真実だった。
***
一方その頃――太陽の国ソルシエールの王都。
かつて『大陸の宝石』とまで称えられた白亜の街並みは、今や異様な景観へと変わり果てていた。
街の通りという通り、建物の壁、果ては屋根の上にまで、グロテスクなまでに巨大な極彩色の花々が咲き乱れている。赤、紫、黄、緑――絵の具を塗りたくったような毒々しい色彩の花弁からは、粘り気のある甘い蜜が常に滴り落ち、石畳をねっとりと濡らしていた。
季節は冬。本来ならば雪が降り、寒風が吹き荒れるはずの季節だというのに、王都全体は湿気が高く、むっとするような生暖かい空気に包まれていた。
「あはははは! 今日も素晴らしい太陽だ! なんて暖かいんだ!」
王宮の中庭で、一人の高位貴族が豪華な刺繍の施された服を着て、くるくると踊っていた。
しかし、彼の視線は空を覆うどす黒い雲や、そこから降り注ぐドロドロとした怪しい雨を捉えていない。彼の目には、空に輝く黄金の太陽と、降り注ぐ祝福の光しか見えていなかった。
彼が足をもつれさせて転倒する。パン、と嫌な音がして、彼の膝の骨が妙な方向へ折れ曲がった。
普通ならば絶叫するような激痛のはずだ。しかし、彼は壊れた人形のように笑い続けた。
「素晴らしい! 地面が私を優しく受け止めてくれた! ああ、リリアーナ様の祝福が全身に満ち渡っていく!」
折れた足を引きずりながら、彼は再び立ち上がり、歌を歌いながら踊り始める。彼の手骨はすでに皮膚を突き破りかけていたが、彼自身の顔には、口角が耳元まで破れんばかりに引き上げられた、完璧な『幸せの笑顔』が張り付いていた。
中庭の奥にある豪奢なガゼボ(東屋)では、王太子アレクシスが、新聖女リリアーナの膝に頭を乗せて横たわっていた。
「アレクシス様、気分はいかが? 私のお膝、気持ちいいでしょう?」
「ああ……最高だよ、リリアーナ。君の膝の上にいると、まるで天国にいるようだ。……何の悩みも、何の不安もない」
アレクシスの言葉は、ひどく掠れており、活舌が悪くなっていた。
彼の顔色はおそろしいほど土気色で、かつての快活で凛々しかった王太子の面影はどこにもない。頬は削げ落ち、落ちくぼんだ瞳は焦点を結んでおらず、美しいと謳われた金髪はごっそりと抜け落ちて、頭皮が痛々しく露出していた。
彼の爪はすべて真っ黒に変色して剥がれ落ちていたが、彼はそれに気づくこともなく、リリアーナの手を愛おしそうに握り締めている。
「アレクシス様、今日はとても嬉しいお知らせがありますの」
「ほう……どんなお知らせだい?」
「隣国の使者様が、私たちの国を祝福しに来てくださったのですわ。でも……なんだか失礼な方々でしたの。『この国は異常だ』とか『街中に死臭が漂っている』だなんて、嘘ばかりおっしゃるのですもの」
リリアーナは不満そうに唇を尖らせた。その瞬間、彼女の瞳孔が縦に細く裂け、人間のものではない妖光を放った。
「なんだと……!? この我が国の至高の繁栄を侮辱するとは! 許しがたい!」
「ええ。ですから私、使者様たちにも『本当の幸せ』を教えて差し上げましたの。皆様、とっても喜んで、今では中庭の池で、笑いながらずっと泳いでいらっしゃいますわ」
リリアーナが指さした先――そこはかつて澄んだ水が湧き出ていた噴水池だった。
しかし今や、池の中を満たしているのは濁ったドロドロの液体であり、そこには数十名の外交官や使者たちが、服を着たまま頭まで浸かり、笑いながら沈んだり浮いたりしていた。彼らの口からは絶えず気泡と共に狂気的な笑い声が漏れ聞こえ、やがて一人、また一人と動かなくなっていく。
だが、周囲の近衛兵たちも、メイドたちも、誰一人としてそれを異常だとは思わない。全員が同じように目を細め、口角を引き上げ、拍手を送っているのだ。
「ふふっ、素晴らしいなリリアーナ! 君は本当に慈悲深い! 他国の愚者どもにも分け隔てなく幸せを与えるなんて!」
「ええ、私、聖女ですから。すべての人を幸せにしたいのです」
リリアーナはクスクスと可愛らしく笑いながら、アレクシスの額を撫でた。
彼女の指先が触れるたび、アレクシスの皮膚から微かな黒い煙が立ち上り、彼の生命力がじわじわと吸い上げられていく。
リリアーナの正体は、古の時代に封印された『精神を蝕む魔女』であった。
かつてセレスが聖女として張っていた浄化の結界は、単に瘴気を払うだけでなく、こうした古の悪意が目覚めるのを防ぐ役割を果たしていたのだ。
しかし、愚かな王太子と貴族たちは、地味だからという理由でセレスを追放し、封印から目覚めた魔女を『真の聖女』として迎え入れてしまった。
魔女リリアーナの放つ強い精神汚染魔法は、人間の脳を狂わせ、あらゆる苦痛や恐怖、異常を『極上の快楽と幸せ』として誤認させる。
国中の作物が枯れ果たしても、人々はそれを「最高の御馳走」として腐肉や泥を食べた。
疫病が流行して皮膚が腐り落ちても、人々はそれを「聖女様の華やかなドレス」だと喜んだ。
国の機能はすでに完全に停止しており、遠からずこの国は一人残らず死滅する運命にある。
しかし、その当事者たちは誰一人として絶望していない。全員が『自分たちは世界一幸せだ』と信じ込んだまま、笑顔で腐り、崩れ去っていくのだ。
「ねえ、アレクシス様」
「なんだい、私の女神」
「あの……昔追放した、セレスとかいう地味な女のこと、覚えていますかしら?」
リリアーナがふと思い出したように尋ねた。
アレクシスは一瞬、きょとんとした顔をした後、思い出したように可笑しそうに笑い出した。
「セレス? ああ……あの暗くて役立たずの女か! 覚えているとも。あんな華のない女、今頃は北の寒村で飢え凍え、自分の愚かさを後悔しながら野垂れ死んでいるに決まっている!」
「あら、まあ。かわいそうですわね」
「自業自得さ! あいつは君のような本物の奇跡を起こせなかった。我が国を去らされたのも当然だ。今頃、私の足元にも及ばない惨めな生活を送っていると思うと、せいせいするよ!」
アレクシスは笑い転げた。その拍子に、彼の鼻からツーッと黒い血が流れ落ちたが、彼は手甲でそれを大雑把に拭うと、再びリリアーナに甘えるように顔を寄せた。
「君だけだ、リリアーナ。私を本当に理解し、この最高の幸せを与えてくれるのは……」
「ええ、アレクシス様。ずっと……死ぬまでずっと、一緒ですわね」
リリアーナの美しい笑みに隠された、底なしの悪意と飢餓感。
彼女にとって、この国の人々は自分を満たすための『餌』に過ぎない。最後のひとりが動かなくなるまで、彼女はこの甘い地獄を維持し続けるだろう。
狂気と腐臭に満ちた太陽の国は、誰にも助けられることなく、静かに内側から死へと向かって突き進んでいた。
◈◈◈
夜。
氷の公爵城の執務室。
レオンハルト様は、机の上に置かれた何通もの密書を、冷ややかな瞳で見つめていた。
それは、南の王都ソルシエールに潜入させていた暗部からの定期報告書だった。
『王都ソルシエールの機能、完全に崩壊。王族および高位貴族群は重度の精神汚染により現実認識能力を喪失。王太子アレクシスをはじめとする主要人物の肉体崩壊、末期症状に達す。他国からの介入も不可能。ソルシエールは隔離対象地区と制定』
簡潔に書かれたその報告書を読み終えると、レオンハルト様は一切の感情を挟むことなく、それを暖炉の炎の中へと投げ入れた。
バチバチと音を立てて黒い紙片へと変わり、消えていく情報。
彼らは自業自得だ。
セレスの価値を理解できず、彼女の命を泥のように扱い、あまつさえ追放した愚か者ども。
彼らがどのような狂気と苦痛の中で滅びようと、知ったことではない。
いや、下手に彼らが正気に戻り、セレスに助けを求めてくることこそが、レオンハルトにとって最も危険で不要な事態だった。
だからこそ、彼はすでに領境を完全に封鎖し、王都からのいかなる情報も、いかなる人間も、この北の地へ入らないよう徹底的に遮断していたのだ。
「レオン様?」
執務室のドアがそっと開き、ナイトウェアの上に厚手のケープを羽織った私が顔を出した。
「セレス……どうしたんだ、こんな夜遅くに」
レオンハルト様の冷酷な表情は、私の姿を見た瞬間に消え去り、いつもの深く甘い温もりを帯びたものへと変わった。彼は素早く立ち上がると、私のもとへ駆け寄り、私の体を抱き上げた。
「ベッドに入ったのですが……レオン様がいらっしゃらなくて、少し寂しくなってしまって」
「すまない。少し書類の確認をしていてな。……寒かったろう」
彼は私を抱きかかえたまま部屋を出て、私たちの寝室へと向かった。
大きなベッドに二人で潜り込み、分厚い羽毛布団を被る。彼が私を固く抱きしめ、その体温で私の冷えた足を温めてくれる。
「レオン様」
「なんだい、セレス」
「私……本当に、今が一番幸せです。過去のすべてを捨てて、あなたに巡り合えたこと、神様に感謝したいくらいです」
私の言葉に、彼が一瞬だけ息を呑む気配がした。
そして、彼は私の銀髪に何度も何度も愛おしそうに口づけを落とした。
「感謝するのは俺の方だ、セレス。君が俺の元へ来てくれた。それだけで、俺の人生のすべてが報われたんだ。……俺の命が続く限り、君を絶対に離さない。誰にも、何ものにも、君を奪わせはしない」
耳元で囁かれるその言葉は、少しだけ重く、深い執着に満ちていたけれど、私にとっては世界で一番心地よい子守唄だった。
胸元で鳴る小さなオルゴールの旋律が、頭の中で優しく奏でられる。
遠い南の国で何が起きているのか。
私を捨てた人々が今、どのような運命を辿っているのか。
私は何も知らないし、知る必要もない。
私はレオンハルト様の腕の中で目を閉じ、その暖かな体温に身を委ねながら、深い深い、幸せな微睡みの中へと落ちて行った。




