北の宝石箱、腐臭漂う甘い晩餐
氷の公爵領での生活は、まるで魔法にかけられたかのように穏やかで、甘やかな時間に満ちていた。
午後。柔らかな陽射しが差し込む豪奢な応接室には、王都のそれよりもさらに上質な絹、ベルベット、そして色とりどりの宝石が所狭しと並べられていた。
「レオン様、これはさすがに多すぎますわ……」
私は、部屋を埋め尽くすほどのドレスや装飾品の山を見て、困惑の声を漏らした。
今日は来月開かれる冬の領民祭に向けた、私の衣装選びの日だった。しかし、目の前に広がる光景は『選ぶ』という規模をとうに超えている。
「そんなことはない。どれも君の美しさを引き立てるには少し物足りないくらいだが、まあ、日常使いには良いだろう。……おい、そこの青いドレスと、銀糸の刺繍が入ったケープ、それからあのサファイアのティアラもセレスに合わせてみてくれ」
大きなカウチソファに深く腰掛けたレオンハルト様は、まるで子供がおもちゃを買い与えるような気軽さで、次々と最高級の品々を指差していく。
控えめに壁際に立っていた領内一の腕を持つという仕立て屋と宝石商たちは、畏れ多くも歓喜に満ちた表情で「ははっ!」と平伏し、私の元へといそいそと品物を運んできた。
「レオン様。私、体は一つしかありませんのよ? こんなにたくさんのドレス、一生かかっても着きれませんわ」
「ならば、一日に三度着替えればいい。君が新しい服に袖を通すたび、俺は君の新しい美しさを堪能できるのだから、安い買い物だ。それに……」
レオンハルト様はソファから立ち上がると、私の背後に回り込み、そっと肩を抱き寄せた。彼の大きな手が、私の銀色の髪をすくい上げ、そこに深い海の色をしたサファイアのネックレスを当てる。
「俺の瞳と同じ色の石を身につけてほしい。君が俺のものだと、誰の目にもわかるように」
耳元で囁かれた低く独占欲に満ちた声に、心臓が大きく跳ねた。
鏡越しに彼と視線が絡む。その蒼い瞳には、底なしの愛情と、私を誰にも渡したくないという甘い執着が渦巻いている。かつて『地味だ』『華がない』と蔑まれていた私の銀髪も白い肌も、彼にかかれば『月明かりを編んだようだ』『雪の精霊のようだ』と、途端に宝物のように扱われるのだ。
「……もう。レオン様ったら、本当に心配性なのですから」
「ああ、そうだ。俺はひどく臆病なんだ。君のような女神が、いつか羽を生やして空へ帰ってしまうのではないかと、毎夜気が気ではない」
「ふふっ、どこにも行きませんわ。私の居場所は、レオン様の腕の中だけですもの」
私が鏡越しに微笑みかけると、彼はたまらないといった様子で私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
くすぐったさに私が肩をすくめると、仕立て屋たちが目のやり場に困りながらも、微笑ましそうに視線を逸らすのが見えた。
誰も私を『役立たずの元聖女』などと呼ばない。ここでは私は、領主が愛してやまない、大切な女性として尊重されている。
温かい暖炉の火。肌触りの良い極上の布地。私を飾るための美しい宝石たち。そして何より、私をこの上なく愛してくれるたった一人の人。
本当に、息が詰まるほど幸せだった。私の心は今、かつてないほどの充足感で満たされている。
◈◈◈
同時刻。王都ソルシエール、王城の晩餐会会場。
「素晴らしい……! なんて豊潤で、美しい晩餐なのだ!」
王太子アレクシスは、長大なダイニングテーブルに並べられた『ごちそう』を見渡し、うっとりと両手を広げた。
テーブルには、新しい聖女リリアーナの魔法によって生み出されたという、色鮮やかな料理の数々が並んでいる。
毒々しい紫色のソースがかかった肉料理。蛍光ピンクに発光するスープ。そして、うねうねと動いているように見える、真っ青な果実のタルト。
常人であれば、見ただけで胃液が逆流するような代物だ。しかし、晩餐会に招かれた王族や高位貴族たちは皆、アレクシスと同じように異常なほど口角を吊り上げた笑顔で、その『ごちそう』を貪り食っていた。
「ああ、美味しい! リリアーナ様のおかげで、毎日が祝祭のようですわ!」
「このお肉、口の中でとろけます! なんて素晴らしいお味!」
貴族の夫人が、紫色のソースまみれの肉を口に運びながら歓喜の声を上げる。しかし、彼女の口の端からは、黒ずんだドロドロの血のようなものがこぼれ落ちていた。
実際には、その肉は数日前に死んだ家畜の腐肉であった。紫色のソースは腐敗を隠すための幻覚に過ぎず、肉の奥では無数の白い蛆虫が蠢いている。しかし、彼らの目にはそれが最高級の仔牛のローストに見え、彼らの舌には極上のスパイスの味として伝わっていた。
リリアーナの『奇跡』は、人々の認知を根本から歪める呪いであった。
彼女の放つ甘ったるい芳香を嗅ぎ続けた者は、現実を正しく認識できなくなる。腐臭は甘い花の香りに、激痛は快楽に、そして死の足音は至福の音楽へと変換されてしまうのだ。
「アレクシス様、あーん、ですわ」
リリアーナが、自身のフォークで青い果実を突き刺し、アレクシスの口元へ運ぶ。
アレクシスは恍惚とした笑みを浮かべ、それをぱくりと飲み込んだ。
「ああっ……素晴らしい。甘くて、瑞々しくて……ん?」
アレクシスが咀嚼した瞬間、ガリッ、と硬い音が鳴った。
口の中に違和感を覚え、彼がペッと手のひらに何かを吐き出すと、それは彼自身の奥歯だった。
腐り落ちた肉を食べ、毒のような幻覚作用のある魔法の産物を摂取し続けている彼らの肉体は、すでに内側から深刻な崩壊を始めていたのだ。歯肉は黒ずんで溶け、骨はもろくなり、髪は抜け落ち始めている。
「おや、歯が抜けてしまった。ふふふ、おかしいな」
「まあ、アレクシス様ったら。でも大丈夫ですわ。私の祈りがあれば、すぐに新しい立派な歯が生えてきますもの」
リリアーナがクスクスと笑いながらアレクシスの頬を撫でると、彼は抜けた歯を事もなげに床へ放り捨て、再び狂気に満ちた笑い声を上げた。
「そうだな! 君がいれば、私は無敵だ! あの不吉な銀髪の女を追放して、本当に正解だった! あいつがいた頃のこの国は、本当に退屈で息苦しかったからな!」
「ええ、そうですわ。あんな偽物の聖女、もう誰も覚えていません。ここは、私とアレクシス様だけの、幸せな国ですものね」
二人が見つめ合い、爛れたように笑う。
周囲の貴族たちも、それに同調するように異様な高笑いを響かせた。
ある者は笑いすぎたせいで顎の骨が外れてぶら下がっているのに、そのままワインを流し込んでいる。ある者は自分の髪の毛がごっそりと抜け落ちているのを「雪のようだ」と喜びながら宙に舞い上げている。
極彩色の花々に埋め尽くされた広間は、もはや地獄絵図であった。
甘ったるい花の香りと入り混じる、隠しきれなくなった強烈な腐臭と死の匂い。
しかし、彼らは誰もその異常に気づかない。気づく機能そのものが、脳から完全に破壊されているのだ。
彼らはこれからも、自分たちが世界で一番幸せな人間であると信じたまま、その肉体が泥のように崩れ落ちる最後の日まで、この狂った晩餐を笑顔で続けるのだろう。
◈◈◈
その夜。
湯浴みを終えた私は、寝室の隣にある小さな温室のテラスに出て、夜空を見上げていた。
北の夜空は、空気が澄んでいるせいか、星がとても近く、そして驚くほどはっきりと見える。王都のくすんだ空では、こんな美しい星空を見ることはできなかった。
「湯冷めするぞ、セレス」
背後から、ふわりと温かい毛布が掛けられた。
振り向かなくてもわかる、安心できる大きな気配。私は毛布の端を握りしめながら、レオンハルト様の胸に寄りかかった。
「星があまりにも綺麗で、つい見とれてしまって……」
「そうだな。だが、俺にとっては君の瞳に映る星明かりの方が、ずっと魅力的だが」
彼は私の肩を抱く腕に力を込め、私のこめかみにそっとキスを落とした。
ほのかに香る、彼と同じ石鹸の匂い。その清潔で爽やかな香りが、私の心を芯から落ち着かせてくれる。
「……レオン様」
「ん?」
「私、ここに来てから、一度も悪夢を見ていないんです」
ぽつり、とこぼれた私の言葉に、レオンハルト様は優しく私の背中を撫でてくれた。
「王都にいた頃は、毎日が恐ろしかった。私が少しでも祈りを怠れば、誰かが怪我をして、誰かが病に倒れてしまうのではないかと。……自分の命がすり減っていくのを感じながら、それでも笑っていなければならない日々が、本当に苦しかった」
誰にも言えなかった、本音。
聖女だから、自己犠牲は当たり前だと言われ続けてきた。私が倒れそうになっても、元婚約者は『気合が足りない』と冷たく言い放つだけだった。
「だが、今は違う」
「はい。今は……レオン様がいてくれる。温かいお部屋があって、美味しい食事が待っていて、私のために美しいドレスを選んでくれる人がいる。……私、今、生きていて本当に良かったって、心から思えるんです」
見上げた彼の蒼い瞳が、切なげに揺れたかと思うと、彼は私を壊れ物でも扱うかのように、きつく、けれど優しく抱きしめた。
「もう二度と、君にそんな思いはさせない。君を苦しめるすべてのものから、俺が君を守り抜く。君はただ、俺のそばで笑っていてくれればいい」
「……はい。レオン様」
彼の胸に顔を埋めると、力強く規則正しい心音に包み込まれた。
過去の記憶は、もう遠い遠い別の世界の出来事のようだった。私を捨てた彼らが今、どうしているのか。新しい聖女の元で、あの国がどうなっているのか。
今の私には、そんなことを気にかける義理も、興味も、微塵も存在しなかった。
私はただ、この北の地で、私を愛してくれるこの人と共に、甘く静かな時を紡いでいく。
窓の外では、静寂に包まれた銀世界が、月明かりに照らされてどこまでも美しく輝いていた。




