白銀の箱庭と、狂い咲く極彩色の牢獄
ふわり、と。
鼻先をくすぐる陽だまりのような匂いと、背中を包み込む絶対的な温もりに、私はゆっくりと重い瞼を押し上げた。
視界に広がるのは、上質な天蓋の純白のレースと、冬の柔らかい朝日を透かす重厚なベルベットのカーテン。そして、耳元で聞こえる規則正しく、安心しきった低い寝息。
腰に回された力強い腕の感触に、私はここがどこであるかを思い出し、小さく幸せなため息をこぼした。
「……起きたのか、セレス」
身じろぎした私に気づいたのか、背後から降ってきた声は、まだ眠気を孕んでひどく甘く、掠れていた。
振り返ると、そこには息を呑むほど整った顔立ちの男性が、深い海のような蒼い瞳を細めて私を見つめている。
レオンハルト・ヴァン・フロスト公爵。
この極寒の北の辺境を治め、他国からは『氷の公爵』『冷血の戦鬼』などと恐れられているこの国の重鎮だ。しかし、私に向けられるその瞳には、氷のような冷たさは微塵もない。春の陽射しよりもずっと暖かく、とろけるような熱情と、私という存在を慈しむような果てしない愛情だけが湛えられている。
「おはようございます、レオン様。……まだ、朝も早いですわ。もう少しおやすみになられては?」
「君が腕の中にいないと、ひどく寒くて眠れない。……もう少しだけ、こうさせてくれ」
そう言って、彼は大きな体を丸めるようにして私の肩口に顔を埋め、すりすりと銀色の髪を擦り付けてくる。外で見せる冷酷で威厳に満ちた姿からは想像もつかない、大きな子供のような甘え方に、私の頬はどうしようもなく緩んでしまう。
私はそっと彼の手の甲に自分の手を重ね、その心地よい温もりを確かめた。
私がこのフロスト公爵領にやってきてから、早くも半年が経とうとしていた。
私は元々、王都ソルシエールで『光の聖女』として国のために祈りを捧げ、浄化の力を振るう役目を担っていた。しかし、私の力は地味で目に見えにくく、派手な奇跡を起こせるわけではなかった。
国の瘴気を払い、人々の小さな怪我や病を癒やし続ける毎日は、私自身の生命力を削る過酷なものだったが、誰もそれを理解してはくれなかった。
『お前のように華もなく、ろくな奇跡も起こせない役立たずなど、我が国の聖女には相応しくない。婚約は破棄する。お前は辺境へ追放だ。これからは、真の聖女であるリアーナがこの国を導くであろう』
元婚約者であった王太子、アレクシス殿下の冷ややかな声と、彼の隣で可憐に微笑む新しい聖女、リアーナの姿。
国を追われた日、私の心は悲しみよりも安堵で満たされていた。もう、すり減らさなくていい。もう誰かのために自分の命を削らなくていいのだと。
追放先であるこの北の地で、ひっそりと修道院にでも入って余生を過ごそう、そう思っていた私を拾い上げ、まるで壊れ物を扱うように大切に大切に保護してくれたのが、目の前にいるレオンハルト様だった。
「……セレス、何を考えている?」
「え……?」
「少し、哀しい感じがした。……まだ、あの愚か者どものことを気に病んでいるのか?」
ぐい、と腕を引かれ、私は彼と向かい合うように寝返りを打たされた。長い指先が、私の前髪を優しく梳き、額に落ちる。
彼の表情は一瞬だけぞっとするほど冷酷な『氷の公爵』のものになったが、私と視線が合うと、すぐに蕩けるような甘いそれに変わった。
「いいえ。ただ……ここが温かすぎて、夢なのではないかと少し不安になっただけです」
「夢などではないさ。君は今、俺の腕の中にいる。俺の可愛いセレスティア。俺の、たった一人の女神だ」
彼は私の額に、そして頬に、羽よりも軽いキスを何度も落とす。くすぐったさと気恥ずかしさで身をよじると、彼は喉の奥で低く笑い、最後に私の唇を優しく塞いだ。
甘く、長く、私の呼吸さえも奪い去るような口づけ。
かつての婚約者には、手を繋ぐことすら『不快だ』と拒絶されていた私が、今はこうして一人の男性から息が詰まるほどの愛を注がれている。
過去の記憶など、彼の愛の熱の前にあっさりと溶け去ってしまう。今の私には、王都のことも、私を捨てた人々のことも、本当に、心の底からどうでもよかった。
朝の光が完全に寝室を照らし出す頃、ようやくベッドを出た私たちは、朝食の席についていた。
ダイニングルームには大きな暖炉があり、パチパチと薪がはぜる音と心地よい暖気に満たされている。窓の外は猛吹雪で、一面の銀世界だというのに、この城の中はどこもかしこも春のように温かい。
「さあ、セレス。今日は君の好きなリンゴのコンポートを入れたパンケーキを作らせた。口に合うといいんだが」
「まあ……! ありがとうございます、レオン様。とっても美味しそうですわ」
侍女たちが恭しく下げ渡した銀の皿には、ふっくらと焼き上がったパンケーキに、黄金色の蜂蜜と、琥珀色に輝くリンゴのコンポートがたっぷりと添えられていた。
自分でナイフを取ろうとした私の手を、レオンハルト様が優しく制する。
「俺が切ろう。君はただ、口を開けていればいい」
「レオン様、さすがにそれは……私、子どもではありませんし、両手も動きますわ」
「俺がそうしたいんだ。……うーん、駄目だろうか?」
少しだけ眉尻を下げ、懇願するように見つめられてしまえば、私に否やは言えなかった。この人は、私を甘やかすことにかけては天才的なのだ。
小さく切り分けられたパンケーキが、彼のフォークによって私の口元へと運ばれる。私が恥ずかしさに頬を染めながらそれをぱくりと咥え込むと、甘酸っぱいリンゴの風味と、濃厚なバターの香りが口いっぱいに広がった。
「美味しい……!」
「そうか、良かった」
私が笑顔を見せると、レオンハルト様はまるで世界一の宝物を手に入れたかのように嬉しそうに微笑み、私の口元についた蜂蜜を、彼自身の親指でそっと拭い取った。そして、その指を躊躇いなく自身の口へと運ぶ。
「なっ……! レ、レオン様!」
「ん? ああ、確かに甘くて美味しいな」
「そういう問題では……っ!」
周囲に控える使用人たちは、慣れた様子で生温かい視線を私たちに向けている。かつて王宮で、使用人たちからすら冷ややかな蔑みの目を向けられていた日々が嘘のようだ。
温かい食事、心地よい空間、そして私を全身全霊で愛してくれる人。
ここは、私のためだけに作られた、白銀の箱庭。
この幸せな日常が永遠に続くことだけを祈りながら、私は差し出される二口目のパンケーキを、幸福感と共に噛み締めた。
────
同時刻。ソルシエールの王都・白亜の宮殿。
「ああっ……! リアーナ様! 今日もなんてお美しいのでしょう!」
「リアーナ様の笑顔を見るだけで、私の心の底から活力が湧いてまいります!」
「我が国の太陽! 真の聖女様!」
大広間は、むせ返るような異常な熱気に包まれていた。
王太子アレクシスは、玉座の隣に設えられた豪奢な椅子に座り、眼下に広がる異様な光景を満足げに見下ろしていた。
季節は冬のはずである。本来ならば、冷たい木枯らしが吹き荒れ、木々は葉を落としている時期だ。しかし、この大広間、いや、王宮全体が、極彩色の花々で埋め尽くされていた。
赤、紫、黄、青。自然界には存在しないような毒々しい色合いの巨大な花々が、柱に絡みつき、天井から垂れ下がり、むっとするような甘ったるい芳香を放っている。
それは新しい聖女リアーナの『奇跡』であった。彼女が祈りを捧げるだけで、季節を問わず花が咲き乱れ、人々の心にはえも言われぬ多幸感がもたらされるのだ。
「アレクシス様」
透き通るような、しかし耳の奥にねっとりと絡みつく甘い声。
隣を見れば、ピンク色のふわりとしたドレスに身を包んだリアーナが、首を傾げて微笑んでいた。彼女の大きな瞳は、光の加減か、時折爬虫類のように縦に瞳孔が割れて見えることがあったが、誰もそれを気に留める者はいなかった。
「どうしたんだい、愛しのリアーナ」
「皆様が私を褒めてくださって、とっても嬉しいのですけれど……私、アレクシス様のお声が一番聞きたいですわ」
「ああ、もちろんさ。君は最高だ。あの陰気で役に立たない元聖女とは大違いだ。君が来てから、この国は笑顔に溢れている」
アレクシスはリアーナの華奢な肩を抱き寄せ、彼女の頭に口づけを落とした。
その瞬間、彼の脳裏を何か黒いものがよぎった。
――笑顔?
アレクシスは広間を見渡した。貴族たち、使用人たち、近衛騎士たち。
大勢の人間が、一糸乱れぬ動きでリアーナを讃えている。その顔には、全員が全く同じ、狂気に満ちた『笑顔』を張り付かせていた。口角は異常なほど高く引き上げられ、目は三日月のように細められているが、その瞳孔は黒々と開ききり、まるで光を宿していない。
彼らは踊り狂い、笑い声を上げているが、ふと、ある貴族の夫人が、飾られていた薔薇の棘で腕を浅く切り裂いたのが見えた。しかし彼女は出血に気づく様子もなく、痛みに顔を歪めることもなく、同じ笑顔のままリリアーナを讃える歌を歌い続けている。床にポタポタと赤い血が落ちても、誰一人として悲鳴を上げない。
ぞわり、と。
アレクシスの背筋を、一瞬だけ氷のような悪寒が駆け上がった。
な、何かがおかしい。これは、正常な光景なのか? 血を流しながら笑い続ける人間が、幸せなはずがあるだろうか? そもそも、このむせ返るような花の匂いは……。
「アレクシス様……?」
リアーナが、不思議そうにアレクシスの顔を覗き込む。彼女の瞳孔が、やはり縦に細く割れた。その瞬間、甘ったるい香水のような匂いがアレクシスの鼻腔を強烈に突き抜け、脳髄を直接撫で回されたような強烈な痺れが全身を襲った。
「っ……あ……」
「アレクシス様、疲れていらっしゃるの? 私、悲しいわ。アレクシス様には、ずっと笑顔でいてほしいのに」
「……いや、違う。違うんだリアーナ。私は……私は、幸せだよ」
疑問は一瞬にして消え去った。
不気味だと思った貴族たちの顔は、純粋な喜びに満ちた素晴らしい笑顔に見え始めた。血の匂いは、甘い花の香りに上書きされた。思考が泥のように溶けていく。何も考えなくていい。ただ、この甘い香りに身を委ね、彼女を愛していればいいのだ。
アレクシスは、手元のワイングラスを呷った。口に含んだ液体は、鉄錆のような味がして、ひどく泥臭かった。まるでドブ水を飲んでいるようだった。
「美味しいですか? アレクシス様。それは私が魔法で美味しくした、特別なワインですのよ」
「ああ……ああ! なんて美味いんだ! こんなに素晴らしい酒は飲んだことがない! 君は素晴らしい、私のリアーナ!」
泥水を喉の奥に流し込みながら、アレクシスは恍惚とした表情で叫んだ。
彼の顔にもまた、眼下の貴族たちと全く同じ、口角だけが異常に吊り上がった不気味な笑顔が張り付いていた。
痛みもない。悲しみもない。疑問を持つ脳の機能さえも奪われ始めた。
王都ソルシエールは今、新聖女が創り出した、逃げ場のない極彩色の幸福へと完全に変貌を遂げていた。
彼らがその異常性に自ら気づくことは、もうないかもしれない。彼らはただ、幸せに笑いながら、内側から少しずつ腐り落ちていく運命が迫っている。
────
「くしゅんっ!」
食後のティータイム。温室のソファでレオンハルト様の膝の上に座りながら、私は不意に小さなくしゃみをした。
「どうした、セレス。冷えたか?」
すぐさまレオンハルト様が心配そうな顔をして、自身の羽織っていた厚手のガウンを私の肩に掛けてくれる。それだけでは足りないと言わんばかりに、私の背中から強く抱きしめ、彼の体温を直接分け与えようとしてきた。
「いえ、大丈夫ですわ。誰かが私の噂でもしているのかしら」
「噂だと……? それは気がかりだ」
レオンハルト様の声のトーンが、一瞬だけ一段階下がった。彼が時折見せる、私を害するあらゆるものを排除しようとする、冷酷な公爵としての顔だ。
彼が有能な間者を使って、南の王都の情報を握り潰していることを私は薄々感づいていた。王都から私への使者が何度か来ていたらしいが、私はその姿すら見たことがない。レオンハルト様が全て国境の手前で何かしらしているのだ。
王都で何かおかしなことが起きているという噂も、使用人たちのヒソヒソ話でほんの少しだけ耳に挟んだことがある。なんでも、王都の人々は皆、笑顔のまま狂い死んでいく奇病に侵されているとかいないとか。
でも私には関係のないことだ。
「レオン様、怖い顔をしないでください。……私は今、とっても幸せですわ。過去のことなんて、もう何も思い出せないくらいに」
私が振り返って彼の首に腕を回し、その冷たい頬にチュッと音を立てて口づけると、レオンハルト様の強張っていた表情はあっという間に崩れ落ちた。
「……君は、俺を狂わせる天才だな」
「レオン様が、私を甘やかしすぎるのがいけないんですよ?」
温室に咲く、素朴だけれど美しい白い花々の香りと、淹れたての紅茶の香り。そして、私の大好きな彼の匂い。
私はレオンハルト様の胸に頬をすり寄せ、目を閉じる。
あの国が滅びようと、噂通りの中で崩壊しようと、私の知ったことではない。
私の世界は、この温かく優しい腕の中だけで、とうの昔に完結しているのだから。




