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「今は読まなくていい。春江さんだって、沙織ちゃんを悲しませたくないはずだ」
隼人が、わたしのとなりに戻ってきた。
「それより、書いてみればわかるんじゃね? 沙織ちゃんに何を伝えたかったのか、ごきげん通帳を書くことで、春江さんの気持ちがわかってくるような気がするんだ、おれは」
考えあぐねていたら、「お、見ろよ」と弾んだ声がした。隼人は空を見あげていた。
一直線に伸びていた飛行機雲が、その輪郭が崩れ、空に広がろうとしているところだった。ああ、もうすぐ消えてなくなってしまうんだ。
けれども、
「飛行機雲、きれいだな。もう秋だ」
隼人はまぶしそうに目を細めた。
その夜、わたしはまっさらな、新しいノートをひらいた。隼人の勧めもあって、自分のごきげん通帳を始めてみようと思ったからだった。けれども、最初のページの一行目でつまずいた。書き出しをどう書こうか、さっそく迷ってしまった。ごきげんカードを書けたのにかかわらずにだ。
わたしのごきげん通帳にもおばあちゃんのものと同様に特別、ルールはない。ただ、その日の中で「ごきげん」だと感じた、ささやかな出来事を書けばいいだけだと考えている。おばあちゃんはそうしてきたし、今日行ったカフェのお客さんもそうだった。みんなが書いている「ごきげん」は、なんてことのない、日常にありふれている出来事ばかりだった。
でも、いざ書こうとすると、うまく出てこない。なんてことだろう。ほとんど毎日と言っていいくらい、ごきげん通帳をながめているというのに。そこで、わたしは、祖母のごきげん通帳を本棚の引き出しから出してきた。偶然、手にしたのは、新しい日付のものだった。つまり、祖母が亡くなる前の、最後のごきげん通帳だ。
もちろん、その日付を目にしたとたん、迷いが生じた。その一方でまた、このまま逃げていてはダメだ、という強い想いも湧き上がってきた。祖母の意思を確かめるためにも、最後のページを見なければならない、どうしても。
思いきって、まだ読めていない、後ろの方のページをめくってみる。
『六月一日 痛み止めがよく効いた。ありがたくて、ごきげん』
『六月十一日 看護婦さんが話しかけてくれた。やさしくて、ごきげん』
今までのものとちがい、文字が震えている。
わたしはごきげん通帳を閉じて、また本棚の引き出しにしまった。




