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わたしの祖母、藤原春江が逝ったのは八月のはじめのことだった。享年七十八。肺のあたりにできた腫瘍が一年前に見つかった。そのとき、すでにかなり進んでいたと聞いている。担当医は「できることをしましょう」とだけ言ったようだ。
もっとも「できること」というのがどういう意味なのかを、本人は誰よりもよくわかっていたにちがいない。わたしの母に電話越しに告げたとき、いつもと変わらず、明るい声だったという。
「あんたたち心配しすぎないで。わたしはごきげんにやってるから」
おばあちゃんはそう言って笑った。いつだって笑っていた。
葬儀は近くの会館で、つつがなく執り行われた。参列者は多かった。写真のおばあちゃんはもちろん笑顔で、白い菊の花が祭壇にあふれていた。
参列者のひとりひとりが棺の前で手をあわせながら、「春江さんには、本当にお世話になって」とくり返した。わたしと母は、そのたびに「ありがとうございます」と頭を下げた。
顔も名前も知らないひとばかりだったけれど、その言葉の重さと悲しみは十分伝わってきた。おばあちゃんがいかに街の人々と深いつき合いがあったのかが、わたしにもよくわかった。弔問に来てくださったのは、ご近所のひと、俳句サークルの仲間、農協のおじさん、図書館のおばさん、何人かのお茶友だちだったってことを後になって知った。
母は喪主を務めあげたあと、二日後には父とともに自宅に戻っていった。
その帰る日の朝。
「片づけ、本当に頼んでいい?」と念を押されたので、わたしは「うん」と答えた。母に言われるまでもなく、もとより自分がやると決めていた。
「もし無理だったら、業者に頼んでもいいからね」
母は珍しいことを言った。
「え、いいの? お金かかるけど」
「でも、あんた、ペーパーでしょ? 車の運転させるのも心配なのよ」
「うん、その辺はだいじょうぶ。隼人が軽トラ出してくれるって言ってたから」
幼なじみの名前をだしたら、母は安心したようだ。
「じゃあ、頼んだわよ。何か困ったものがでてきたら、すぐ連絡してね」
「ん、わかった」
お母さん、この二日ですごく歳をとったみたい。タクシーの窓から手をふる母の顔を見ながら思った。




