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それから数日間、わたしは片づけの合間に、ごきげん通帳を過去から順番にじっくり読み進めた。
祖母のごきげんは、季節によって内容が変わっていった。
春の記録は、圧倒的に花が多かった。梅や桜に始まりチューリップ、すみれなど、この家の庭に咲くものだけじゃなくて、散歩コースにある誰かの庭や公園、道ばたのものにまで関心があったみたいだ。
『田中さんのバラ、今年もきれいに咲いていた。ごきげん。田中さんに伝えたら、喜んでくれて、もっとごきげん』
祖母にとってのごきげんは、自分の中だけで完結するものではなかったらしい。
夏の記録は、セミの声に夕涼み、そして、わたしの記録。出張で近くまで来たので、ついでに寄ったときのものだ。
『沙織ちゃんが来てくれた。ごきげん百点満点』
「おばあちゃん……」
読んでいて、胸が熱くなった。
秋の記録には、祖母の好きな果物、柿がよく登場した。
『今年の柿は甘くてごきげん』
『うちの柿をご近所に配った。みんながおいしいと言ってくれてごきげん』
冬の記録は、こたつと、うちに時々ぶらりとやってくるネコと、鍋のことが書いてあった。
『地域ネコのシロが縁側に来た。いっしょに日向ぼっこした。ごきげん』
隼人によると、シロというのは、祖母が勝手につけたあだ名だそうだ。
祖母はあだ名をつける名人だった。ノラネコも庭の雑草も、畑の野菜にも、愛着を覚えたものにはあだ名をつけるくせが昔からあったのを、わたしも知っている。幼いころ、そんな祖母を面白がり、散歩によくついていった。
だから祖母の散歩コースをめぐってみようと思い立ったのも、わりと自然な成り行きだ。わたしは戸締まりをして、かかとの低いサンダルをはき、ひとりで家を出た。幼いころの記憶をたどりながら歩いていった。
空は夕焼けで、輪郭のハッキリしない雲がいくつも流れていく。一面の畑の中にずらっと鉄塔が連なる風景は、なぜだか得体の知れないものに感じてしまった。
ごきげん通帳に思いをめぐらす。読めば読むほど、不思議でならなかった。
人生は決してきれいなものや優しいものだけじゃない。いつだったか、物事にはかならず二つの面があると聞いたことがある。そのことを祖母も知っているはずだ。なのに、どうして、ごきげん通帳の中の世界は穏やかなものばかりなのだろう。
なんとなくもの悲しくなってきて、鼻の奥がつんとした。




