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胎動  作者: 八尋眞人
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第2章

 あまり心地よいとは言えない微睡みの中、わたしは天井の蛍光灯をぼんやりと見つめていた。

 注射されたのは、クロルプロマジンか何かかしら、口の中が渇いて仕方がない。母に言えば、お水を汲んできてくれるんだろうけど、薬が効いているせいか、声を出すのも億劫だった。

 一体、あのとき聞こえてきた声の主は誰だったんだろう?

 聞き覚えのある声には違いなかったが、今のわたしにはどうしても思い出せない。だけど、テープに録音した自分の声が別人のそれに聞こえるように、わたしを導いた声の主も意外に身近な人物のような気がする。

 ぼんやりと里見先輩のことを考えた。



 すみません。あのう・・・さっき、先生の言った問題と答え、わたし、全然わからないんですけど、よかったら教えていただけませんか?

 ああ、あれ。「真理」が古代文化の人間にとってヒエロファニーと見なされていたことについて述べよってやつ?

 そうです。

 大学の講義っていうのは、言葉遊びみたいなところがあるからね。・・・君、一回生でしょ?

 はい。

 ヒエロファニーって言葉は日本語で言えば、「聖の顕わすもの」っていう意味になるかな。さっきの教授の質問に対する僕なりの答えを易しい言葉で言いかえると、例えば、日蝕を見ても僕たちは不思議とも何とも思わないよね。でも、古代の人たちは不思議と言うよりもそれが恐ろしかった。だから、日蝕という現象を解き明かした神話など、その時代の「真理」が聖の顕現(ヒエロファニー)とされてしかるべきものだったってことだね。人間っていうのは、いつの時代でも現実に合一して、自らを救い出そうと試みているっていうか・・・そうだな、要するに思考できるが故に不安や恐怖を感じ、それを解消しようとさらなる思考の袋小路に生きる動物だってことかな。その結果、行き着いた「真理」に手を合わせて拝んでいるわけさ。さっきはややこしい言葉を使って解答を一般化したけど、結局は簡単なことなんだ。大学ではそうした解答の体裁に気を使うっていう無駄な労力が求められる。中身を論じてしまえば、宗教学なんかの一般教養より高校の数学の方がよほど難しい。――だから、あんまり身構えない方がいいと思うよ。



 里見先輩と知り合ったのは、まだわたしが大学に入ってまもないころ、――宗教学概論の講義に出ていたときのことだった。

 たまたま隣の席に座っていた男の人が教授に指名され、わたしには言葉の意味さえわからなかった問題にすらすらと答えた。

 指名されないことを願うしかその場を切り抜ける術のなかったわたしにとって、彼の姿は新鮮でとても素敵に見えた。大学っていうのはこういう人がいるところなんだなと感動し、そしてまた少しばかり気後れしたのを覚えている。

 講義の終わったあと、ノートさえ満足にとれなかったわたしは隣の席だったことに乗じて、彼にさっきの問題の意味とその解答を聞いた。初対面のわたしに彼は迷惑そうな顔ひとつせず、言葉を尽くして丁寧に説明してくれた。

 その人が里見先輩だった。

 その出会いをきっかけにわたしは里見先輩と交友を深めていった。

 彼の所属していた民俗学研究会に入部したのもそれからすぐだったし、彼の影響で哲学や宗教学といった学問に興味を持ち、書物を漁ったり、民研の友人と議論を戦わせたりした。

 そして、やがて、その年の大学祭を迎えるころには、わたしと里見先輩の関係は民研のみんなから公然の仲として認められるようになっていた。



 真弓。――おい、真弓ったら。

 え・・・、あ、ごめん。わたし、寝てました?

 ぐっすりとね。もう、着いたよ。

 あ、はい。

 ほら、早くバスから降りなさい。

 うん。



 去年の夏、初めて山梨に行った。

 里見先輩と初めての二人きりの旅行だった。三泊四日。富士急行の出している富士五湖周辺のバスのフリーパス・チケットを片手の楽しい旅。

 思えば、この旅の途中、わたしは悪霊に憑依されたのだろう。

 榛の木資料館を中心として見事に保存された忍野村の江戸期農家建築、その素朴で美しい茅葺きの民家に魅せられたわたしが民研の仲間を冥界へと(いざな)ったのだ。褐色の茅葺き屋根が白く雪化粧した姿を夢想し、彼らに熱っぽく語ったことが今度の冬の合宿のきっかけとなった。彼らは死に、そして、わたしだけが生き残っている。

 わたしも死ねばよかったのに――。

 湧き起こる生存者罪悪感(サバイバーズ・ギルト)に耐えられなくなったわたしは、今はもういない恋人に救いを求めた。

 五年前の冬、ティンクが死んだときのように。

 あのときティンクはわたしに安らかな魔法をかけてはくれなかったけれど、里見先輩は素敵な言葉でわたしの記憶の中にたくさんの呪文を残しておいてくれた。



 真弓・・・か。

 なあに?

 いや、いい名前だなと思ってさ。

 そうかなあ? どこにでもあるありふれた名前だと思うけど。

 よくある真由美っていう名前とは違うよ。「真理の弓をひく者」、弓から放たれた矢は光、すなわち「真理の光明を与える者」。――いい名前じゃないか。

 姓名学ですか?

 自己流のね。独断とも言う。

 なあんだ。

 でもね。如来の「如」とは「ありのままの真実、あるいは真理」、すなわち「如来」とは「真理より来たったもの」を意味する。釈尊が仏陀って呼ばれるのも、サンスクリット語のブッダが「真理に目覚めた者」を指すところに由来している。だから、真弓っていう名前は僕の解釈では、それと同レベルのありがたい名前だってことに間違いはない。

 うーん。一応、お礼言いますね。ところで、そういうこと言う先輩のお家ってお寺か何か?

 いや、僕はキリスト者なんだけどね。



 ――何か食べる?

 リンゴ飴。

 あんな大きいの、どうやって食べるの?

 まずはぺろぺろと舐める。あとはビックマックの要領でがぶりと一噛み。

 この人ごみの中で?

 うーん。・・・たこ焼きにする。

 賢明な判断だ。真弓も少しは大人になった。

 からかってるんですか?

 いいや、本当に褒めたんだよ。年齢(とし)をとるとリンゴ飴を食べるっていう簡単なことが結構難しい問題になる。そのことに気付いた点を評価したのさ。でも、さらに評価したいのは、二十歳にもなってリンゴ飴を欲しがるお前のいいとこ。

 いいとこって?

 それは自分で考えなさい。



 火の粉を避ける振りをして、里見先輩の腕にしがみつく。

 夏の終わり――八月の二十六、二十七日に行われる富士吉田の火祭り。高さ三メートル、直径八十センチの大松明(おおたいまつ)を灯す炎は市の中心街にある金鳥居(かなとりい)の前から延々と富士の八合目まで続き、二キロにも及ぶ国道は一面火の海と化す。

 静岡県島田の帯祭り、愛知県稲沢(いなざわ)国府宮(こうのみや)のはだか祭りと並び称される日本三大奇祭のひとつだ。

 その勇壮な祭りは夫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に貞節を疑われた木花開耶姫(このはなさくやひめ)無戸室(うつむろ)の猛火の中で皇子を無事出産し、疑いを晴らした故事に由来するという。

 大松明のあげる炎で顔が熱い。

 火照った顔をときどき暗闇に向けては冷ますようにするけれど、巨大な松明のあげる炎はまるで誘蛾灯のようにわたしの心を惹き寄せる。

 ぱちぱちと薪の爆ぜる音。

 しゅうしゅうと樹液のたぎる音。

 素朴な和音に薪の崩れる音が交わると、まるでそれを合図としたように盛大な火の粉が夜空へと舞い上がり、そして、息を止めて見上げるわたしの目の前で、やがてそれは星と区別がつかなくなる。

 組まれた右腕と胸元にはっきりと感じる里見先輩の存在。

 原始の灯明(あかり)に照らされたわたしの横顔に感じる里見先輩の優しい視線。

 あの夏の夜、わたしは視界に赤く靄がかかっているような安らかな幸福感に満ちていた。

 その夜、遅くなってホテルに戻ったわたしは初めて里見先輩の腕の中で眠りについた――。



 先輩のお誕生日って、九月でしたよね。

 そうだけど。どうしたの?

 ううん。プレゼントは何がいいかなって。リクエストとかあります?

 君の家の見取り図。それから、ホーム・セキュリティの解除コード。

 え? それって何に使うんですか?

 犯行計画。柳瀬真弓強奪事件。

 うちのお父さん、学生のころ、空手部にいたんですって。

 ――方針変更。お父さんの好きな銘柄のお酒。



 両親のいない彼のことを、父と母は思いのほか優しく迎えてくれた。

「我が儘な子ですけど、よろしくお願いしますね」

 初めて彼を家に招待したとき、母は笑いながらそう言った。父の機嫌がよいことは彼に趣味の油絵を披露していることで容易にわかった。

 母親の陰に隠れて事の成り行きを見守っていたわたしはそうした両親の反応にほっと胸を撫で下ろし、彼はわたしにだけわかるようにそっと片目をつむってくれた。彼のウィンクに笑みを返しながら、わたしは自分の未来を予感した。

 朝は彼の声で目覚め、夜は彼の口づけで眠りにつく毎日。お風呂の湯加減に気を配り、パスタの好きな彼のために庭のバジルを摘む夕べ。

 ばいばい、お母さん。あなたが父に守られて穏やかに人生を過ごしてきたように、わたしも彼の背中に守られて生きていきます。

 後ろで結ばれた母親のエプロンのひもをそっと指先で弄びながら、わたしは母の背中に別れを告げる。

 それは確定的な未来だった。

 赤い糸とは言葉の綾。わたしと里見先輩のそれは誰にも断ち切ることなどできない鋼鉄の鎖のはずだった。

 それなのに――。

 薬で麻痺した心の奥にじわじわと涙の染みが広がってゆく。

 あと二年したら、結婚するはずだったわたしたち。

 強固なものだと信じていた現世の絆が、こんなにもたやすく壊れてしまうなんて。


 気がつくと、母がベッドの横に座っていた。

 病室はいつのまにか母とわたしだけになっている。

「少しは落ち着いた?」

 母はわたしの顔に散らばったほつれ髪を指で優しくかきあげてくれた。

「うん」

「お願いだから、気をしっかり持ってね」

「大丈夫」

 わたしは母の方に身体を寄せた。

 今はまだ何も考えられない。里見先輩や友人の多くを失ってしまった虚しい学生生活にはもう戻る意欲も湧かないし、これからどうやって毎日を過ごしていけばよいのかもわからない。

 でも、わたしのことで涙を流してくれる人がここにいる。顔には出さないけれど父もそうだ。里見先輩を失ったのはとても辛いけど、あとになってもっと大きな、現実感を伴った悲しみが押し寄せて来るんだろうけど、この人たちがいるかぎり何とか立ち直れるに違いない。

 わたしは心の底からそうなることを願った。

 そうならなければ、これから先の日常をわたしは到底生きてはいけない。

「神様のおかげね・・・」

 母の胸の中で甘えていると、母がそう呟くのが聞こえた。

「何が?」

 わたしは顔をあげた。

「真弓が助かったことよ。声が聞こえたんでしょう?」

「うん」

「それはきっと神様の声よ」

「――違うわ」

 自分でも驚くような冷たい声がふいに口をついて出た。まだ少し霧のかかったような頭の中でいくつかの思考が交差していた。

 あれが神様なものか、と思った。

「真弓、どうかしたの?」

 母の心配そうな声にわたしは思考を中断する。

「え、あ、ううん。何でもない。そういえば、ここって山梨の病院でしょ? お母さんたち、どこに泊まるの?」

「そばにホテルをとってあるのよ」

「そうなんだ。お父さんは?」

「一足先にホテルに戻ったわ。会社の人から電話があるからって」

「携帯は?」

「忘れたのよ。取るものも取りあえず駆けつけたんだから。ああは見えても、お父さん、真弓のこと、すごく心配してたのよ」

「――わかってる」

 消灯を知らせるアナウンスが廊下の方から聞こえてきた。

 わたしはもう少しと渋る母をホテルに帰すと再び思考の中に沈んだ。

 ――神様のおかげね、と母は言った。

 そんなの嘘だ。

 盲信こそしていなかったけれど、里見先輩は敬虔なクリスチャンだった。神の姿を追い求める真実の巡礼者だった。それにくらべて、わたしなんかお祈りの言葉さえ知らないのに・・・。

 どうしてわたしだけを救ったのか?

 里見先輩を救わずに、わたしだけを救ったのか?

 いや、本来神とは万人に公平な恵みを与える天の司祭者であるはずだ。宗教宗派の枠を越えた真実の恵みこそ神ではないか。信仰によって差別を与うものに神の資格はない。

「信・不信を区別せず、浄・不浄を嫌わず、南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)を刷った札を配りなさい」

 時宗の開祖、一遍(いっぺん)の生涯を描いた『一遍聖絵(ひじりえ)』には、彼の夢に顕れた熊野権現がそう霊告する様子が描かれている。それこそが神たる者の愛のはずだ。

 わたしを救うのならば、あのときバスに乗っていた彼ら全員を救うべきではなかったか。もし、それが違うと言うのなら、わたしは喜んで神に石を投げよう。

 神などいない。

 創世という奇蹟を為したのが神ならば、彼はすでに死んでいる。

 わたしは神の無情に泣いた。

 里見先輩と交際を始めてから、わたしはそれまで考えたこともなかった宗教思想や哲学に触れるようになった。はじめは彼と話をしてみたいというのがその動機だったが、そのうちそうした様々な思想を吟味し、思索を重ねることに知的な快感を覚えるようになっていた。

 ドストエフスキーを読んでは善悪の本質を論じ、仏教古典に触れては神仏のあり方を夢想した。

 そして、いつしか、神仏にはずっと無頓着だったわたしの中に、かくあるべき神の像が生まれていた。そんなわたしが今も特定の信仰を持っていないのは、ひとえに里見先輩の言葉があったからだ。

 あるとき、わたしも洗礼を受けようかしらと彼に相談したことがある。そのとき、彼はやんわりと反対してこう言った。



 真弓がそうしたいと言うのなら反対はしないけど、僕はもう真弓には素敵な神様が見えているような気がするんだ。それを大切にして欲しい。

 どういうこと?

 うん。真弓も感じてるとは思うけど、仏教もキリスト教ももうすぐ二十一世紀を迎える現代の宗教としては限界に来ているような気がするんだ。時代の持つ多様な側面や個人に対応できてないからね。でも、真弓が夢想している神様っていうのは、真弓を幸せにしてくれるような感じがする。だから、わざわざ、既存の宗教に入信することなんてないと思うんだ。

 わたしを幸せにしてくれる神様?

 そうさ。結局、個人に関する宗教の究極の目的はそれを信仰する人間の心を救済することだろ? 今までお前の話を聞いてると真弓の考えてる神様ってのは、ものすごく許容範囲の広い慈愛に満ちた神様って感じがする。それはたぶん真弓の性格の反映なんだろうけど、真弓自身はそういう神様を定義することですごく心が安らいでいるだろ? それで充分なのさ。たとえ、それがいろんな宗教からの寄せ集めに過ぎない神様だとしてもだよ。

 失礼しちゃう。

 ごめんごめん。でも僕も入信したいくらいさ。

 じゃあ、先輩はどうして洗礼を受けたんですか?

 婆さんがキリスト者だったからだよ。ただそれだけ。真弓の家は浄土真宗だろ?

 うん。うちは農民の出だから。

 なかなか知的なぼやきだ。ま、とにかく、これから、宗教も個人の時代に入っていくんだろうね。もしくはとてもグローバルなものになるか、・・・そういう方向でしか神という存在は生き残れなくなるような、そんな気がするよ。



 わたしだけの神。

 里見先輩は素敵な神様だと褒めてくれた。

 でも、わたしの神は彼を救ってはくれなかった。

 一体、神とは何なのだろう?

 わからなくなった。



 ――神様って一体何だと思いますか?

 それは非常に難解でかつ永続的な問題だ。僕や真弓がいくら頑張っても永遠に解答は出ない。

 そんなことわかってます。

 わかってて問題にするわけだ。

 うん。だって、ずっと前、先輩はわたしの考えてる神様を素敵だって言いましたよね。唯一神教の徒にもかかわらず。

 それは皮肉かな?

 少し。でも、わたしの神様を認めてくれたんだから、先輩の中にも夢想してる神様ってあるんでしょう?

 考えることはあるよ。

 どんな神様か教えてください。

 うーん。僕は真弓のように救済者としての神をどうしても定義しきれないからなあ。だから、神の存在についてぐらいしか真弓には話せないんだけど。

 それでもいいです。

 もう少し時間をくれない?

 駄目。

 どうして?

 日々うつろう里見雅彦の考えをファイリングしたいから。

 揚げ足を取ろうとしているね。

 そうとも言えます。ねえ、お願い、教えてください。

 わかった。じゃあ、「他是阿誰(たぜあすい)」っていう公案(こうあん)を知ってるかい?

 えっ、禅問答は苦手です。

 いいから。――東山演師(とうざんえんし)()曰く、「釈迦(しゃか)弥勒(みろく)()()(かれ)()(しば)らく()え、(かれ)()阿誰(あた)ぞ」

 ちんぷんかんぷん。

 言葉の意味はわかるだろ?

 お釈迦様も弥勒菩薩もある男の奴隷である。果たしてそれは誰のことか、三〇〇字以内で述べよ。

 後半は思いきった意訳だけど、意味はそれであってる。それでその公案の答えだけど、僕は「我」だと思うんだ。

 わあ、それって本当に正解なんですか?

 いいや。正解とも言えるし、不正解とも言える。公案の答えはね、言葉ではないんだ。同一の問題に対して、「(うん)」という音が正解にもなれば、不正解にもなる。

 うーん、やっぱり苦手だなあ。

 それはもしかして洒落かい?

 違います。つまらない揚げ足取らないで。

 あはは。そうだね、まあ、僕も正直言って、禅は苦手だ。僕らみたいに言葉を弄んで思考の道具にしている人間にはとっつきにくい。特に僕なんかは、禅の境地とは正反対に位置する人間だ。

 きっと、わたしもそう。何しろ「理屈」っぽいお転婆だから。

 あはは、違いない。

 受けないでよ。でも、先輩がさっきの公案の答えを「我」だって考えるのはどうしてですか?

 うん。仏と神は全く違った側面を持ってるんだけど、この場合は同義と考えてね。神は「我」の奴隷である。それはつまり、神は僕がそれを意識したときにだけ存在が許されているものだってことさ。この喫茶店も同じ。僕が下宿に戻れば、この喫茶店はすでにこの世界から消え去っているかも知れないし、本屋に並んでいる本だって印刷されているのは背表紙だけで、その中身は僕が手にとって初めて生じるのかも知れない。――そういうこと、考えたことない?

 ないです。だって、その考えでいけば、今、わたしが先輩のこと見ていても、腰から下はテーブルが陰になって認識できない、よって、先輩の足は現在の時点ではわたしの宇宙に存在していないかも知れないってことになるんでしょう? そんなこと考えるのは恐いです。

 真弓は飲み込みが早いね。まさしくその通りだ。今まで言った例は、実際問題にすれば無理があるけどね。でも、神っていうのは現実世界において全く姿の見えない存在だ。それならば、神はその存在性において人間の思考の奴隷だと言える。デカルト流に言えば、「我思う、ゆえに神あり」

 パスカル流に言えば、「人間というものは無力な一本の葦である。神はこの葦を風の一吹きで殺すことができるけれども、しかしながら、その葦は考える葦であって、考えるということで葦は神を包み込んでいる」ですね。

 秀逸だ。真弓もなかなか言うようになった。

 先生が皮肉屋ですから。でも、それって冒瀆だと思います。先輩は本当のところ、神様を信じてるんですか?

 真弓は信じてるわけ?

 それは・・・正直なところは、わかりません。

 おっと、そこまででいいよ。神の存在を疑うことは精神衛生上よくない。真弓にはせっかく素敵な神様がいるんだから。たとえ僕がどんなに言葉を尽くしても、真弓の神様の存在は揺るがないし、その理由もさっき言ったことの裏返しだ。

 ・・・うん。

 参ったな。そんなに考え込むなよ。うーん、そうだな。真弓を不安にしたお詫びに最初の質問に答えようか。強いて言うなら・・・、僕の考えてる神は「運命」に近いものだといえるかな。今のところはね。

 これまで先輩と話していて、里見先輩が運命論者だってことは何となくわかってました。でも、ラプラスの悪魔はハイゼンベルグによって倒されましたよね。人間にやりこめられる神が里見先輩の神様ですか?

 何か横道にそれてない?

 いいんです。今度はわたしが苛める番だから。

 了解。付き合いましょう。真弓が言いたいのは、不確定性原理のことだね? 僕は「ラプラスの悪魔」っていう呼び名は嫌いだから、あえて運命の神と言わせてもらうけれど、現代科学がいかに高度な発展を遂げたとはいっても、人間の能力と神のそれとをくらべるなんてナンセンスだ。

 それじゃ反論になってません。

 OK。わかった。じゃ、運命を論じるのに不確定性原理なんて何の意味もないと言おうか。ハイゼンベルグが唱えた不確定性原理っていうのは、位置座標と運動量みたいに、ある一つの系における二つの物理量を測定するときに、その二つの物理量の両方とも正確な値を得ることが原理的に不可能であるとした理論だよね。人間の思考も運命も究極的に言えば素粒子の運動の結果だから、現在の位置と運動量を測定し、その行方を予測できれば、未来の予知は可能だ。同様に運命は確定的なものであって、それは宇宙開闢(かいびゃく)のときからすでに定まっているとすることができる。そういう因果律をハイゼンベルグは不確定性原理を唱えたことで確かに打ち破ったよ。でも、運命の神は擦り傷さえ負ってないね。何故なら、運命は対象を認識などしないからだ。観察者たろうとしない運命に不確定性原理は通用しないよ。

 でも、量子力学みたいな物理学は自然の法則でしょう? 観察っていう行為をするしないに関わらず、素粒子を蹴飛ばしてる「光」は宇宙に満ち溢れているわ。それに逆を考えれば、運命の神様が望遠鏡で下界を見ているときも、見るのに飽きて昼寝をしているときも、同じようにわたしたちは活動してるでしょう? 観察することによって、物体の運動が変化するのなら、睡魔に襲われた運命の神様も運命の歯車に組み込まれていることにならないかしら。

 その、シェスタに耽る神様の逆説は論理的におかしいよ。矛盾してる。あとで、よく考えてみてごらん。それから、最初に真弓が言った物理学は宇宙の法則だっていう考えだけれど、それも違うよ。物理学は人間が観察しうる宇宙の法則だ。イデアたる宇宙の法則ではない。ものを観察するという行為にはね、必ず基準が必要なんだ。そうした基準をもとに観察者は世界を認識している。そうだね、有名な話だけど、例えば、鏡に映った像を考えてごらん。普通、人は鏡に映る像を左右が逆になると考えてるよね。だけど、それは普段、人が考えている世界観に影響された認識だ。片手を上げて鏡の前に立ったとしよう。上げた方の手が右手だ。そういうふうに左右の概念を基準として考えれば、鏡に映る像は前後が逆に映っているように見えるはずだよ。

 ええ? そうかなあ?

 想像するのが難しいかな? そうだね、人間には顔があるからね・・・だったら、白い紙で作った人間のシルエットで考えてみてよ。顔やお尻といった前後の基準がなくなれば案外想像しやすいから。

 ううん、と・・・あ、そうか。本当ですね。

 だろ? 同じように地面や空、頭や足といった上下の基準が曖昧になれば、上下だって逆さまに映って見えるようになる。人間の認識能力なんて、その程度のレベルだ。大体、物理学の問題が一切摩擦がないだとか無風状態のだとかいう現実離れした特殊なモデルでしか論じられないのは何故だかわかるかい? 答えは簡単だ。特殊な状況下でしか人間の考え得た方程式が機能しないからさ。

 うーん。

 運命はね、素粒子なんてものの位置や運動をはるかに越えたところあるんだよ。だから、運命って言うんだろ? 素粒子の運動モデルをビリヤードの球だと考えてみよう。不確定性原理を適用すれば、確かにほんの五秒後の球の位置もその運動の方向も不明瞭なものになるけれど、それ以前に台の上を強風が吹けば、もう全然未来の球の位置や運動は変化する。ここからここまでの間の何処にでも存在するという不確定な範囲さえ越えてね。その風を未知の力だと考えてごらんよ。未だに発見されていない力じゃなくて、人間には認識不可能な未知の力だ。どうだい? もうお話にならないだろ? 人間の考えることのできる予測能力なんてせいぜいそんなものさ。三次元の尺度でしか僕らはものを見てないんだからね。多次元的にとらえれば、シュレーディンガーの猫の生死だって、箱を開ける前から運命で決められているかも知れない。それにね――。

 ストップ。わかった、わかりました。要するに、先輩は神を論じるのに科学は無力だって言いたいんですね。

 そのとおり。科学っていうのは、人間に可能な認識方法を基準として構築された宇宙のひとつの側面を捉えてるに過ぎないからね。人間の知覚と神のそれとを混同しちゃいけない。それに――。

 それに、論点をすり替えたわたしが悪いんです。反省してます。

 わかってくれれば、それでいいの。

 もう、先輩てば意地悪ですね。ちょこっと困らせてみたかっただけなのに。藪蛇ってこのことだわ。

 本当に反省してる?

 してます。熱烈に。――でも、先輩?

 うん?

 それだと先輩の考えてる神様っていうのは、何だか淋しくないですか? こういった感情も神を論じるのには、無用なものなのかも知れませんけど。

 そうだね。「思考の檻」の中で生きている人間は同時に「感情という名の檻」にも囚われている。真弓が僕の言う神を淋しいと感じるのは、その本筋から離れているわけじゃない。無用かどうかは別にしてね。そう言う僕だって、「檻」に囚われている弱い人間の一人だから見守ってくれる神や何か大きな意思みたいな存在に触れてみたいとは思うよ。「神は死んだ」と言ったニーチェでさえそうだった。まして、僕は彼ほど偉大ではないからね。だから、最初に「今のところは」って前置きしたのさ。



 運命こそが神だという里見先輩の考えは、おそらく彼の生い立ちが関係していたと思う。

 彼は幼いときに両親と死別していた。

 以後、高校に入学するまで、彼は母方のお婆ちゃんに育てられた。そのお婆ちゃんも彼が高校在学中に病気で亡くなったと聞いている。里見先輩は詳しいことは何も話してくれなかったけれど、大学に入るまでには相当の苦労があったはずだ。

 幼い時代の彼に神の救済はなかった。だから、彼は神を運命としか答えられなかったのではないだろうか――そんな気がする。

 そのころ、わたしは里見先輩の考えをほとんど理解し納得することができたが、ただひとつ、運命が神だという彼の持論にだけは賛成できなかった。わたしにとって、運命とは、積極的に切り開いてゆく対象ではなかったけれど、諦観をもって語るべきものでもなかった。強いて言えば、謙虚な態度で働きかけてゆくものであり、それは決して神などではないと考えていた。

 里見先輩に言わせれば、そうしたわたしの運命観はかつてわたしを襲ってきた運命がまだ本当の牙を見せてなかったことによる楽観的な甘い見解なのかも知れないけれど。

「でも、今回はちょっと効いたかな・・・」

 わたしはひとりごちた。

 自動ドアの開いたマイクロバスの外に広がる四角い外界。積もった雪に注意しながら二歩三歩――。

 記憶はそこで途切れていた。

 わたしがバスから降り立った次の瞬間、運命の巻き起こした爆風はわたしの背中を突き飛ばしたのだろう。そう言えば、わずかに大きな音を聞いたような気もする。

 そのとき――。

 悲劇は起こったのだ。

 その瞬間、里見先輩は何を考えたんだろう?

 引き裂かれ、焼かれる苦痛の中で果たして何を思ったんだろう?

 少しでもわたしのことを考えてくれただろうか。

 もしかしたら、ついに微笑むことのなかった運命の三女神に苦笑してみせたのかも知れない。今となっては、もはや知る術はないけれど、彼は静かに運命の断を迎えたろうということだけは確かだと思う。

 突如として湧き出た里見先輩の死のイメージは、わたしを混乱させた。

 頭の後ろが熱くなり、動悸が激しくなる。

 ベッドにじっと寝ころんでいるのに耐えられなくて、身体を起こした。押し寄せる焦燥感にいてもたってもいられない。両手を顔の前で祈りを捧げるように合わせると、わたしはがたがたと震えた。

 再び精神が軋み始めていた。

 嵐のような激情は意識の海にただようわたしの心の舟を翻弄する。幾度も波を被り、舵を破壊された一艘の小舟は陸地を求めて彷徨い続ける。どんなに小さな無人島でも構わない。せめてこの嵐がおさまるまで、わたしの心をつなぎ止めて――。

 わたしは彼の姿を求めた。

 彼に会いたいと切に願った。

 会って話をして欲しかった。あの、暖かい揶揄を交えた諭すような口調でわたしの不安を一蹴して欲しかった。

 会って――。

 ・・・寒くなってきた。

 カーテンを閉め忘れた窓の外にいつからか雪がちらついていた。

 雪は自分たちが溶けて消えることを知っている。

 去年のクリスマスに里見先輩はそう教えてくれた。

 彼らはあとに続く仲間のために自らの命を懸けて大地を冷やす。翌年の春、再び生命の産声を聞くために、疲弊した大地を長い冬の眠りにつかせようとしているのだ、と。

 ふいに彼らが羨ましくなった。

 一緒に落ちて行きたい衝動にかられて、わたしは乾いた笑い声をあげた。

 雪に誘われて死ぬのも宿命(さだめ)

 今夜、雪が降らねば、わたしは自殺など考えなかった。少なくとも転落死なんか選ばなかったに違いない。

 何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。

 ほんの数秒後の自分の思考や行動さえも予測がつかない、宙ぶらりんの宇宙。

 自由など幻想に過ぎない。想像や思考という自己の意識の世界でさえ、人は何かに縛られている。

 窓を開けて、階下を覗いた。

 街灯の光も届かないアスファルトの闇のその向こうに白い猫を抱いた里見先輩の姿が見えた。雪はゆらゆらとその闇の中に溶けてゆく。

 わたしは落ちてくる雪のひとひらをそっと手に取った。雪は手のひらの上であっけなく溶けて消えた。この一粒の雪の結晶が雲の中で生まれたとき、わたしの手の中で溶けるなんて誰が予測できただろう。

 本当なら今頃は、本栖湖の旅館の一室で美奈子や睦美たちと枕を並べて民研の男の子たちの話題に花を咲かせていたかも知れないと思った。

 夜を徹してみんなと怪談に興じていたかも知れないし、もしかしたら、みんなの目を避けて里見先輩と本栖湖の湖畔を散歩していた可能性だってあるだろう。

 それなのに、わたしは照明の落ちた病室の窓辺で睦月(いちがつ)の夜気を呼吸しながら、手のひらに雪を受けている。

 信じられなかった。

 ラプラスの悪魔はやはり人間の手に負えない。

 わたしは身体が氷のように冷え切るまで、窓辺に佇み、そして、ベッドに戻った。

 死のうという意識はすでに希薄なものになっていたけれど、生きるのも面倒になっていた。布団を頭までかぶると、その中で胎児のように身体を丸めて、わたしは静かに嗚咽した。


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