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胎動  作者: 八尋眞人
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第1章

 目覚めると、そこは病室だった。

 白い天井には装飾性のかけらもない蛍光灯がはめこまれ、肌寒い光を放っている。窓の外はすでに夕闇に包まれ、歓楽街のネオンがけばけばしい色彩を放って、わずかな残照に負けじとその存在を主張し始めていた。

真弓(まゆみ)・・・気がついたの?」

 わたしの顔を心配そうに覗き込んでいた母が、蒼白な顔でわたしの名前を呼んだ。

「うん」

 自分がどうやら入院しているらしいということも含めて、状況がよくわからなかったけど、まずは母に微笑してみせた。心配性の母を思って、いつのまにか身についた習慣だ。

 子供のころ、自転車で転んだりすると、怪我をしたわたしの方がげんなりするくらいあれこれと心配した母。世事にも疎いし、一人では電車にも乗ることのできない母。そんな彼女にいらいらして反発してた時期もあったけど、ティンクを失ってからわたしの彼女に対する態度は変わっていった。ティンクの死に一番衝撃を受けていたのは、他ならぬ母だった。彼の死を嘆き、娘の悲しみに涙し、誰とも知れぬ変質者の姿に怯えていた。

 わたしはそんな母の姿を見て、彼女へ愛を注ぐことを学んだのだ。それは同時に、ティンクの死に傷ついた自分自身の心を癒すことにもつながっていた。わたしが彼の死から一週間ほどで立ち直れたのは、ある意味、心配性の母のおかげだとも言える。

「――看護婦を呼んでくる」

 母の後ろに立っていた父がそう言って、病室から出ていくのが見えた。

「大丈夫なの? どこも痛いところはない?」

「うん、平気。・・・でも、わたし、どうかしたの?」

 口に出すと同時に後悔する。

「あんた、何も覚えてないの?」

 案の定、母の顔が曇った。

「何もって、ほどじゃないけど・・・」

 言葉を濁して考えをまとめる。

「ちょっと待ってね。んと、わたし、山梨に行ったんだよね」

「そうよ。そしたら、あんた」

「ちょっと、待ってってば。山梨に行って、それから――」

 そうだ。

 わたしは大学の民研の仲間と山梨に合宿に行ったんだ。忍野(おしの)村で八海(はっかい)や茅葺きの民家などを観てまわったあと、旅館を予約してた本栖湖に行ってと・・・いや、行ってない。わたしだけ、本栖湖に向かうバスから降りたんだ。

 そして――。

 駄目だ、ここから先が思い出せない。

 怪我をして病院にいるってことは、バスから降りてすぐに自動車にでもはねられたのかしら?

「どうなの?」

「大体のところは覚えてるわ。事故に遭ったんでしょ? わたし」

 当たり障りのないずるい言い方。

 ごめんね、お母さん。

「それがね、どうも違うらしいのよ」

「――違うって?」

 見当違いなこと言っちゃったかなとひやりとしたとき、父が看護婦さんを連れて戻ってきた。

 わたしは内心、ほっとした。

 予期せぬ助け船には、父を含めて五人のクルーが乗り込んでいた。一見して医師とわかる男の人が一人に、若い看護婦さんが一人、そして父。・・・残りの二人は何者かしら?

「こんばんわ、柳瀬(やなせ)さん。担当医の穂澄(ほずみ)です。気分はどうですか?」

「はい。そんなに悪いってほどじゃありません」

 どちらかと言えば、気分悪いですと婉曲表現したつもりの言葉。

 母のいる手前、はっきりと悪いなんて言えたものじゃない。

 実際、頭が重いだとか、胸がむかむかするようなことはなかったけど、自分が何故ここにいるのかもわからないという状況は決して気分のいいものじゃなかった。

 しかし、穂澄医師は言葉の額面通りに受け取ってくれたらしく、小さく頷くと言葉を続けた。

「特に吐き気なんかはしないかな?」

「はい」

「痛むところはあるかい?」

「背中と首筋が少し・・・、あとは平気です」

 穂澄医師の大きな手がわたしの額を覆った。

「ふむ。――熱も出てないし、大丈夫なようだね。なに、怪我といっても軽い打撲だけだから、心配することはない。二、三日すれば包帯もとれる。傷跡が残るということもないから安心しなさい」

「ありがとうございます」

 わたしに代わって母が答えた。

「あのう・・・」

「先生、よろしいですか?」

 入院している理由(わけ)をわたしが訊ねようとしたとき、残りの二人のうちの一人が、口を開いた。

「ええ、短い時間なら構いませんが」

 穂澄先生は男にそう答えると、わたしの方に向き直って言った。「柳瀬さん、こちらは警察の方たちだ。君の遭遇した事件について質問があるそうだが、構わないかね?」

 事件? 事故じゃなくて、事件?

 そう言えば、さっき、母も事故じゃないようなことを言っていた。事件とは何のことなんだろう。

「はい・・・構いませんけど」

 求めていた解答が向こうの方から転がり込んできた。ちょっと怖い気もするけど、ここは素直に頷こう。

「では、どうぞ。千波(ちなみ)くん、あと、よろしく頼むよ」

 穂澄医師は、看護婦さんにそう言い残して立ち去った。


「柳瀬真弓さんですね」

「はい」

 生まれて初めて受ける事情聴取。本物の刑事を前にして緊張しているのが自分でもわかる。

 姓名や住所、通学している学校名など簡単な確認をしてから、若い刑事は本題に入った。

「それでは、事件について知っていることを話してください」

「え、あの?」

 唐突な質問にわたしは口ごもった。

 教えて欲しいのはこちらの方だ。

「あのう、この子、事件のことはまだ何も思い出せないみたいですので・・・」

 戸惑うわたしを見かねて、母が助けてくれる。

「は?」

 スポーツ刈りの若い刑事はあからさまな疑いの眼差しでわたしを見た。

「そんなことはないでしょう? まさか、記憶喪失だなんて言い出さないでくださいね」

 若い刑事はそう言って鼻で笑った。

 ムッとすると同時に緊張が解ける。

「わたしは記憶喪失なんかじゃありません。それから、母の言うことにも誤りがあります。思い出せないんじゃなくて、何も覚えてないんです」

 挑戦的な口調に若い刑事がかっとなるのがわかった。怒って当然。わたしも頭に来ているのだ。大体、人に話を聞こうとする人間がすべきことは、まず相手に自分の名前を名乗ることからではないか。若い娘だと思って軽く考えないで欲しい。

 その旨を伝えると、

「君はこの事件の重大さがわかっていないのか。遊びと勘違いするんじゃない」

 と、ますます激した。

 おろおろする母を後目に、わたしは涼しい顔で応じる。

「どんなに重大な事件でも、起きたことを知らない人間にとっては、何もなかったのと同じです」

「君っ!」

「真弓っ! いいかげんにしなさい」

「――まあまあ。二人ともそのへんで。こういう事件の後ですから、お父さんも怒らないでやってください。笠井(かさい)くん、君の対応にも問題があったぞ」

 ずっと無言でいた年長の刑事が苦笑しながら取り繕う。

「しかし」

 笠井と呼ばれた刑事が不平を唱えた。

「お嬢さん」

 初老の刑事はまだ赤い顔をしている部下を無視して、わたしに諭すように言った。「問題はあったかも知れないが、この笠井がいきり立つのもわからなくはないんです。年齢(とし)もお嬢さんとそんなに変わらないか。ああ、わたしは――」

 山梨県警の能勢(のせ)だ、と名乗ってから、彼は言葉を続けた。

「ここにいる笠井も全国紙を賑わすような事件は初めてで、今日はまあ少しばかり張り切りすぎているんですよ。ちょうど、あのオウム真理教の事件が一段落してから、入ってきたものでね。まあ、機嫌を直してやってはくれませんか」

「・・・はい」

 そういうふうに言われては元も子もない。わたしは素直に頷くと、事件の概要を求めた。

「あなたはN大の民俗学研究会・・・ですか? そのクラブの学生たちと山梨(ここ)に研修旅行に来ていた。その点は間違いありませんね?」

「はい」

「順を追って確認しましょう。柳瀬さんたちは一月十二日・・・まあ、今日ですが、午前七時にN大の前から大学所有のマイクロバスで出発し、同日午前十時に忍野村忍草(しぼくさ)に到着した。そこで忍野八海や(はん)の木資料館などを見学した後、午後二時に再びバスに乗り込み、国道一三八号線を上って宿をとってあった上九一色(かみくいしき)村の本栖湖に向かった。これはすでに大学の方とも確認が取れていることなんですが、その通りですか?」

「ええ、刑事さんのおっしゃる通りです」

 嫌な予感がしていた。

 わたしだけが関係している事故なら、民研の合宿の詳しい行程など調べる必要はないはずだ。口にするのは怖かったけれど、わたしは生じた疑問を母に向けた。

「お母さん、里見(さとみ)先輩は?」

 自分でも声が震えているのがわかった。得体の知れない焦燥感がちりちりと首筋を降りていく。

「・・・真弓ちゃん、あのね」

 そう言う母の声はわたし同様震えていて、言葉が途絶えたところに、再び能勢刑事が割って入った。

「奥さん、そのことはわたしの方から申し上げましょう」

 能勢刑事は片手をあげて母を制止すると、言葉を続けた。

「わたしたちがお嬢さんに質問したいのは、その後のことです。あなたは本栖湖に向かう途中、マイクロバスから降りている。国道一三八号線から一三九号線に入った後、ちょうど鳴沢(なるさわ)村役場の手前ですね。大学の方にも確認しましたが、そんなところでバスを止めるような予定はなかったということです。あなたはどうしてそこでバスから降りたのですか?」

「それは・・・」

 わたしは言いよどんだ。

 不安が先行して冷静な思考ができなくなっている。

「そんなことよりも一体何があったのか、教えてください。民研のみんなはどうしてるんですか?」

 笠井刑事がふんと鼻を鳴らせた。

 わたしはもう彼の態度などどうでもよかったけれど、それを見た若い看護婦さんが眉をひそめるのが視界に入った。そう言えばさっき、彼女、わたしと笠井刑事が言い合ってるのを見て笑っていたような気がする。

「柳瀬さん、これは重要なことなんです。質問に答えてくれれば、そのあとでわたしの方もあなたの疑問に出来る限り答えましょう」

「はい・・・わたしがバスからどうして降りたのかということでしたよね?」

「ええ、そうです」

 わたしは記憶を甦らせることに努めた。

 バスの運転手さんにはトイレに行きたいと言って降りた。それは間違いない。でも、それはただの口実で、そのときわたしは別にトイレなんか行きたくはなかった。

「誰かからそう言われたんだと思います」

「バスを降りろ、と?」

「はい」

「その声の主は誰だかわかりますか?」

「いいえ、聞き覚えのある声でしたが、誰が言ったのかはちょっと思い出せません」

「あなたの隣に座っていたのは誰でしたか?」

「里見・・・雅彦(まさひこ)さんです」

「その人の声ではなかったですか?」

「いいえ、違うと思います。・・・何かもっと遠くから、わたしの頭の中から響いて来たような感じの声でした」

「・・・頭の中からね。それは比喩ではなくて?」

「はい」

「君ねえ・・・」

 今まで黙っていた笠井刑事が口を挟んだ。

「そういうことが捜査で通用すると思ってるの?」

「本当です! 昨日の夜は合宿が楽しみでなかなか寝つかれなくて、わたしはバスの中で寝たり起きたりを繰り返していました。そのとき遠くから声が聞こえてきたんです。早くバスから降りなさいって。今思えば確かに変ですけど、そのときはどういうわけか、わたしはもう行動を起こしていました。とにかくバスを降りなくてはいけないんだって、義務感のようなものが生じて・・・それで、運転手さんにトイレに行きたいって無理を言ってバスを止めてもらったんです」

「なるほどね」

 わたしの言葉に若い刑事は肩をすくめていたが、能勢刑事は頷きながら黒革の手帳に何か書きつけた。

「わかりました・・・もう、一点、質問してもよろしいですか?」

「あの・・・信じてくれたんですか?」

 笠井刑事の不遜な態度に腹が立っていただけに、その上司の能勢さんの思いがけない言葉にわたしは少し拍子抜けした。

「嘘ではないんでしょう?」

「はい。そうですけど、でも・・・」

「嘘をつくつもりなら、お嬢さんは最初からトイレに行きたいと言って降りたと言えば済むことです。それなのに声が聞こえたと言った。だから、ひとまず信用することにしました。いけませんか?」

「あ、いいえ」

「もちろん、捜査ですからあとで裏はとらせてもらいますよ。でも、今のところわたしはお嬢さんの言葉を信用しています。刑事の勘とは言いませんが、このような場合、ひとまず信じるしかありませんからね。確かに疑うことも捜査ですが、信じることも捜査です」

「はい」

 信じる道と疑う道。求める道筋は違っても事実を真摯に追いかければ辿り着く答えは一つだ。

 年長の刑事さんはそう言った。

 心に少し赤みが差す。まるで里見先輩の言葉を聞いているようだった。警察という堅苦しい組織の中にこんな人がいるなんて驚きだ。

 能勢刑事の次の質問は、民研の学生や関係者以外でバスに近づいた不審人物はいないかというものだった。わたしはそれに首を振って答えた。

 それから、能勢刑事はわたしとの約束を果たしてくれた。そこでわたしは初めて事件の恐ろしい全容を知ったのだった。

 わたしたちが乗っていたマイクロバスが、何者かの仕掛けたと思われる爆発物によって爆破されたこと。その事故で里見先輩を含めたサークルのみんなが死亡したこと。

話を聞けば、バス爆破の容疑がわたしにかかってきても無理もない状況だった。若い刑事が最初からわたしを疑ってかかっていたのも、今となっては当然だと思う。わたしはバスに乗っていた中で、爆発の直前に逃げるようにバスから飛び降りた唯一の人間なのだから・・・。

 里見先輩の訃報は筆舌に尽くし難いほどの衝撃をわたしに与えた。脳の中のシナプスがばちばちと火花を散らして頭の中を焦がしているような、そんなはっきりとした灼熱感を伴った目眩が襲ってきて、思考は完全に停止した。

 わたしは自分の怪我の痛みを他人事のように遠くに感じながら、大声をあげて取り乱し、ベッドの上で暴れた。我を失って身体を捩るわたしに母と看護婦さんの腕が(いばら)のように巻きついた――。

 それから、あとのことはよく覚えていない。

 父の怒鳴る声が聞こえたような気もするし、穂澄先生がやってきたような気もする。右腕にチクリとした痛みを感じた瞬間、全身を焦がしていた熱がまるで引き潮のように冷めていき、わたしはそのまま微睡(まどろ)み始めた。

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