第3章
――トクン。
夢の中でわたしは微笑んでいた。
腕の中には綿毛のように真っ白な牡猫。
わたしの胸元を舐める彼のざらざらとした小さな舌がくすぐったい。
こら、ティンクってば――。
――トクン。
また、あの夢を見た。
最愛の猫を殺された夜から始まった悪夢。
その中でゆっくりと刻まれる鼓動音は目が覚めてからも、なお、耳の奥で響いている。
だけど、今ではそれもあまり気にはならなかった。
何故なら、起きてもそこは悪夢の世界。
「ん――」
声を出して伸びをしてみる。
朝の光がこんなにも気だるいものだったなんて新しい発見だ。
一度芽生えた苦痛と絶望は、どんなに気を紛らわしても遠のかない。そして、そこから生まれた考えも昨夜と何ら変わってはいない。
だけど、それでも、少し眠ったらずいぶんと落ち着いたように思う。まだ笑うことなんて出来やしないけど、いつかきっと、忘れられるときがくる。
わたしはそう信じよう。
時は偉大だ。
夢を抱いた少年さえもやがて疲れた大人に変える。彼の奇形した自尊心は、もはやかつての夢のために頭を垂れることを認めない。幼く、それゆえに純粋な心が生み出した「生き甲斐」は日々の生活の垢に埋もれ、鈍く光さえ放たない。
そんなふうに里見先輩に植え付けられたわたしの思索癖や探求心も、日々の生活の中で少しずつ磨滅し、やがては遠い日に患った恋の病のように心を動かさぬ回想へ変わるだろう。
少なくともわたしはそうなりたい。
里見先輩のことを忘れてしまうのは辛かったけど、思い出すのはもっと辛いから――。
病院の朝は慌ただしい。
食欲はないけど、千波さんが朝食を持ってきてくれた。
ベッドの上で身体を起こすとき、わずかに背中の傷が痛んだ。でも、昨日のように顔をしかめるほどではない。身体の方はこんなに直りが早いのに、と皮肉に思う。
「真弓さん、おはよう。気分はどう?」
「最悪」
短い会話の中にも元気を出す努力。
千波さんはわかってくれた。
「アダージョが聞こえるってやつね」
そう言って、彼女はくすっと笑った。
「え?」
「知らない? アルビノーニのアダージョ」
「知ってます。十三階段あがっていくときのテーマみたいな曲ですね」
「うんうん、当たってる」
千波さんは今度は声を立てて笑った。
「それがどうかしたんですか?」
「昔ね、失恋したり悲しいことがあったりすると、中島みゆきを聴いたの。この際、徹底的に落ち込んでやる、泣いてやるって。そのうち、悲しくなると自動的に頭の中で彼女が歌い出すようになった」
「わ、もしかして、自己陶酔者さん?」
「ううん、楽天主義者さん。悲しみに浸るんじゃなくて、悲しい気分を楽しむの。人間関係が希薄になれば、そこから生まれる感情の起伏も貴重なものになるわ。そのうち、怒りや悲しみも娯楽になる。映画やドラマがいい例ね。・・・ま、進んでるってことかな?」
「うーん。本当に楽天主義者さんだわ」
「でしょ? で、今はそのBGMがトマーゾ・アルビノーニってわけ。でもね――」
悲しいときに聴く音楽は無理矢理呷るお酒のようなもの。心の痛みを増幅させ、涙を余計に流すことは、傷ついた心の膿を出すことに似ている。
千波さんは真面目な顔に戻ってそう言った。
無理はいけない。くよくよ考え込んでないで、心のままに泣き濡れろ、と。
わたしは彼女への感情に自信を持った。
直接、会話こそしなかったけど、昨日の時点でわたしは直感的に彼女に好感を抱いていた。何故かはわからないけれど、話が合いそうな人だなって感じたのだ。
その自信に後押しされて、わたしは昨日感じた疑問を彼女にぶつけてみた。
「あの、千波さん・・・でしたよね?」
「そう。早瀬千波っていうの。真弓さんと名字似てるね」
「そう言えば、そうですね。あの・・・間違ってたらごめんなさい。変なこと聞いていいですか?」
「何かしら?」
「昨日、わたしと警察の人が言い合いしてたとき、笑ってませんでしたか?」
「あ、ばれてた?」
「はい。でも、どうして?」
「スポーツ刈りだったから」
「はい?」
「スポーツ刈りの男の人って、わたし、ダメなんだよね。だから、真弓さんがやりこめてるの見てたら何だか楽しくなっちゃって」
「変なの。それは過去にスポーツ刈りの男性に何かトラウマがあるとか、そういうのですか?」
「ううん、生理的ってやつ。胸毛が嫌いっていうのと同じね。ところで、そんなこと聞く真弓さんって、心理学専攻?」
「いいえ、教育学部です」
教育学部小学校教員養成課程。
教育哲学の講義で『エミール』くらいは読まされたけれど、本来、宗教学とも哲学とも無縁の世界。わたしの大学生活はそれだけ里見先輩を中心に回っていたということだろう。
思いがけない思考の飛躍に戸惑っていると、千波さんは母と同じように何も言わずに優しく髪を撫でてくれた。
「さあ、さっきも言ったでしょ。あんまり考え込まないことよ。何かお腹に入れなくちゃ、出る元気も出なくなるわ」
腰に両手を当ててそう言う千波さん。
このまま甘えさせてくれるのかと思ったけれど、それだけではなかった。
・・・すごいなあ。
優しいなかにもきびきびとした言動。
看護婦という自覚と責任感のある態度。
そんなに年齢は離れていないはずなのに、千波さんから見れば、わたしはまるで生きる術を知らぬ子供のようだ。
彼女の前では、わたしや里見先輩が話してきたような「真理」の探究など、現実から隔離された、公園の砂場でだけ許された児戯に見える。
「うん。でも食欲ない」
「何か一品だけでも食べなさい」
「・・・じゃ」
「プリンでしょ?」
意見が合った。
顔を見合わせると、二人して笑った。
こんなにも早く笑うことができるなんて。
千波さん、ありがとう。
口の中にプリンのほのかに甘いミルクの香りが広がった。子供のころ、泣きながら食べた母の手料理のようにそれは美味しかった。
「それじゃ、他の患者さんの検温があるから。お昼はお母さんにちゃんと食べさせてもらうからね」
千波さんはそう言って微笑むとドアの外に消えた。
ご飯にも申し訳程度に箸をつけた。千波さんの言ったように、少し元気が出てきた。
そういえば、もうすぐ母も来るはずだ。昨日の涙のあとを見せるわけにはいかないから、あとで千波さんに鏡を借りなくては。そう思ったあとで、わたしは自分の思考に微笑んだ。
心配性の母はいつもこうしてわたしを癒してくれる。
九時を過ぎると「昨日夜勤だったから」と母が来るまでの間、千波さんは仕事抜きで付き合ってくれた。
現世の利害とは無縁の、幼なじみと交わすような他愛のない会話。
何だか日なたの匂いがする――。




