第12章
まったく、とんでもない宿題だわ――。
そう、貴方はいつもわたしに難題をふっかける。
笠井刑事が帰った後、わたしは心の中で里見先輩にそう愚痴った。
そして、ゆっくりと思考の底に沈んだ。
真弓は神に何を求めてる?
うーん。やっぱり、慈悲かしら。信じる者も信じない者も平等に与えられる神の愛ってやつですね。
その、信仰の別なく与えられる・・・ってところは確かに真弓らしい考え方だ。
その言い方、褒めてるんですか?
もちろんだよ。実際、神の愛というのはそうあるべきだよね。でも、僕が真弓と少しだけ意見が違うのは、神自身はそういうことを意識していないという点に関してなんだ。例えて言えば、太陽の光がそうだよ。
ああ、なるほどね・・・太陽の光は万人に平等に与えられるけれど、太陽そのものはそんなこと確かに考えていませんよね。
そう。だからほとんどの宗教に太陽神の名残みたいなものがあるんだよ。現代のように宗教が混迷の時代に入るまでは、真弓が夢見るような宗教の理想形があったんだろうね。
原始的な神様で悪かったですね。
おいおい、そう言う意味で言ったんじゃないぜ。お前、最近、ちょっと疑い深くない?
疑うことを覚えなさいって言ったのは、里見先輩です。
参ったな。でも、今回は真面目なんだ。聞いてくれる?
うん。・・・ごめんね。
話を続けるよ。さっき真弓は自分の思う神様のことを原始的と表現したよね。――自虐的に。
ごめんなさいってば・・・許してください。
あはは・・・OK。でもね、真弓が言ったことは僕と同意見なんだよ。本当のところ、僕も神というのは、原始的で低次元の存在だと考えている。
低能ってことですか? 低能の神。
真弓さんにしては、ウィットの感じられないジョークだ。
――ごめんなさい。続けて。
いいですよ。なかなか可愛い茶々だった。さて、ほとんどの宗教では、本尊とする神をとてつもない高次元の存在だと言っているよね。
うん。
でも、それはあんまりいただけない理屈だ。物理的に例えるなら、低温には絶対零度という限界があるけど、高温にはどこまでも限りがないよね。次元の問題も同じだ。XYZのすべての軸に垂直な直線は目に見える形では引けないけれど、高等数学の世界では数式上でそれを表現できる。そうやって新たに引かれた軸と元の軸の両方に対する垂線も引ける。そして、この作業は永遠に続けることが可能だそうだ。だから、神という存在をどんなに高次元に位置づけても、それを上回る次元は理論上確実に存在する。
物理学だか数学だかわかんないけど、科学と神様の問題を一緒にしちゃっていいんですか?
この場合は問題ないと思う。例えばの話だからね。で、最初の話に戻るけど、ここで真弓のいう神様が慈悲の心を持って、人々を救済したとしよう――。
あ、そっか・・・コロンブスの卵だ。
今度の茶々は、極上の出来だ。その通りだね。救済を願って思考する人間という存在を、救済してあげようと思考する創造主の存在。その二つはレベルこそ違うものの全く同一の思考する存在だ。では、我々を創造した存在を創ったのは誰か・・・。真弓はそう考えたんだろ?
うん。
さて、ここから先は宇宙論の話だ。
え・・・また、すごい飛躍ですね。
そうとも思わないけど。誰が宇宙を創ったのかっていうのは、神を語る上で重要な事項じゃない?
それは、そうだけど・・・、じゃあ、なるべくお手柔らかにお願いします。
うん。・・・では、あんまり飛ばさずに、神は低次元の存在だってところから切り込んでゆこうか。神がすべての物質やエネルギー、それから次元世界の起源だとしたら、それはビック・バンの起こったある一点だよね。うーん、点と表現したら一次元のものになっちゃうか・・・そうだな、この場合の点は物理学でいう質点だ。要するに、質量だけあって影も形もない点のことだよ。数学も物理学もこれを表現するのに、零次元という言葉は使っていないけれど、ビック・バンが宇宙の起源だとしたら、神とはまさに零次元の存在だということができるだろう?
うーん。そうですよね。
そう。だから、神は低次元の存在だって言ったんだよ。別に神を貶めて言ったわけじゃない。実際、最新の宇宙論では「無」という状態は膨大な量のエネルギーを内包しているって言うよ。
エネルギーがあるのに「無」なんですか? うーん、よくわかんないなあ。
確かにそうだね。この辺になると、表現能力に優れる日本語でさえちと厳しくなってくる。そうだな、真弓は「質量保存の法則」って覚えてる?
もちろん。木を燃やしても、燃焼ガスと残った灰の重さを足せば元の木の重さになる、ですよね。
うん。だけど、その法則はもはや現代では通用しない。
本当に?
うん。まあ、通常の化学反応を語る上では必要十分だけどね。ニュートン力学と一緒だ。そう、例をあげれば、核分裂とか核融合の反応が「質量保存の法則」の例外だよ。そうした反応は反応の前後で反応に関係した物質の総質量が変化する。物質が消えてなくなるんだ。そのかわりに膨大なエネルギーが発生する。だから、「質量保存の法則」ではなくて「エネルギー不変の法則」というのが宇宙を語る上では必要になってくる。つまり、質量とエネルギーは等価なんだ。
あ、そっか。ビッグ・バンによって、無から生じた物質宇宙。確かに宇宙が生まれるには、「無」そのものにエネルギーがないといけませんね。
そういうことだ。ここまで触れちゃうと、常物質と反物質の話もしといた方がいいんだけど、まあ、それは自分で勉強しなさい。
反物質って・・・反対の物質?
曖昧な言い方だね。蛇足だけど、予習のために話をしとけば、例えば、反水素原子と通常の水素原子があるとするだろう? この二つの物質の性質は全く同じだ。質量も同じ。だけど、物質度だけが違うんだ。プラスとマイナスというふうにね。だから、この両者が出会うと消滅してしまう。そのあとにはエネルギーだけが残るんだ。こうした筋道で考えた方がビッグ・バンの時にエネルギーの充満した「無」から物質が生まれたとしたときに考えやすくなるだろ。ちなみに現在では加速器の中で実際に反物質を作ってるよ。電子とか陽子とか水素原子くらいまでの小さなものだけどね。こういうことを話し始めると本当の意味でのパラレル・ワールドは一つだけしか存在しないんじゃないかとか、いろいろと面白い考え方が演繹できるんだけど、長くなるからこれくらいにしとこう。興味があったら自分で調べてごらん。と、まあ、こんなところでいいかい?
うん。十分すぎます。頭の中がこんがらがりそう。
考え方としては簡単なことなんだけどな。実際に実験したり計算したりするのは僕なんかじゃ手も足も出ないけどね。反物質の概念というのは、物理世界は対称性を持っているんじゃないかっていう整然とした簡潔さを求める思想から生まれたんだ。そして、その論理的予言に従って実際に反物質の存在が確認された。アインシュタインの言葉にこういうのがあるよね。「自然はより単純を好む」って。宇宙とは自然の最も大きな姿だ。そして、自然っていうのは、一見、複雑系に見えるけれど、その姿は極々単純なものなのかもしれないね。そして、その単純な法則がこの多様な宇宙を構成している、と。
そうか。そういうふうに言われると、基本的な考え方は案外簡単なのかも知れませんね。アインシュタイン博士も結局は宇宙項を取り外したし・・・。
一般相対性理論の中のラムダ項のことだろ。そうだね。かの天才も多分に宗教的思考に縛られていたということかな? 宇宙が膨張しているはずがないという固定観念は宗教的宇宙観とも言えるから。だけど、ハッブルによって彼の存命中に宇宙が膨張している証拠が見つかったことは幸いだったよね。アインシュタインは宇宙項を外すときに「我が生涯最大の過ちだった」って言ったらしいけど、内心は最高に嬉しかったんじゃないかな? アインシュタインが自分の構築した方程式に宇宙項を導入したのは不本意だったっていうからね。科学者にとって、自分の考えが証明されることは最大の幸福だろう?
うん。それはわたしもそう思う。今でこそ地上の様子を衛星写真とかで見ることができるでしょう? わたし、ああいうの見るたびにこう思うの。伊能忠敬さんとかの地図職人の人たちに見せてあげたいなって。自分の描いた地図と寸分変わらない地上の様子を実際に目で見ることができたら、きっとすごく喜ぶだろうなって。
そうだね。確かに最高の気分だろうな。今もそうだろうけど、交通網の発達してなかった昔の測量の仕事は大変だったろうから、感激もひとしおだと思うよ。
うん。きっと天にも昇るような気分だろうね。口惜しいなあ。タイムマシンでもあったら、絶対見せに行くのに・・・。
あはは。真弓は優しいね。でも、残念ながら、タイムマシンは過去には行けません。
え、そうなんですか?
うん。未来には行けるけどね。過去に戻るのは無理らしいよ。だから、当然未来への旅も行ったら行きっぱなし。戻って来れない。
うーん。使えない機械だわ。
まあ、僕は理系じゃないから正確なところはわからないけど。・・・さて、話が相当ずれちゃったね。真弓さんの苦手な宇宙の話に戻ろうか。前に神様は何だろうって話をしたじゃない? 覚えてる?
うん。いっぱい意地悪されました。
そういうことになると記憶力がいいんだから。――まあ、いいか。こないだね、テレビを観てたら、宇宙論を扱う科学番組をやってた。その中で現在では常識となってる膨張宇宙のモデルを作って実験してたんだけど・・・。
あ、それ、わたしも観ました。大きな風船の表面にアルミホイルで作った銀河を貼って、その中にレポーターが入って膨らますやつでしょう?
そうそう。真弓も観てたなら話が早い。その番組の中でコメンテーターがこんなことを言ってたの覚えてるかい? 「こうやって風船を膨らますと、その表面に貼られた銀河はどんどん遠ざかって見えます」って。
うん。ハッブルの法則を実証してましたよね。銀河はどんどん遠ざかってその間の距離を広げてゆくっていうの。見ていて大袈裟な実験だなあって思ったけど。もっと簡潔にCGを使って見せてくれた方が良かったわ。
民放だから仕方がないよ。どこかに娯楽的要素を入れておかないとスポンサーが納得しない。ところで、ハッブルの法則にはもう一つ重要な記述があるよね?
えっと、遠くの銀河ほど速いスピードで遠ざかっているっていうのですか?
そう。そのことをふまえて聞いてね。真弓さん曰く、大袈裟な実験をしている途中にね、コメンテーターはさらにこんなことを言ったんだ。「今、銀河は風船の表面に貼られたのが見えるだけだけれど、実際は風船の内部も宇宙なわけで、その中にもたくさんの銀河があるんです」ってね。
うん。覚えてます。それがどうかしたんですか?
僕はあくまで文系だよ。だから本当のことはわからない。だけど、地球から観測できるあらゆる方向の銀河がその距離に応じたスピードで遠ざかっているとしたら、そのときのコメンテーターの解説はおかしいと思わないかい?
うーん。ちょっと待ってくださいね。・・・あ、そうか。確かに逆戻りしてますね。中世の宇宙観と同じだわ。
そうだね。あらゆる方向にその距離に応じた同じスピードでっていうハッブルの法則に、中身の詰まった風船の宇宙モデルを当てはめると宇宙の中心を地球としなければならなくなる。
確かにちょっといただけませんね。地球も他の銀河と同じように動いてるんだったら、動く方向にある銀河と他の方向にある銀河とは遠ざかるスピードが違わなければならないから。でも、もしかしたら、本当に宇宙の中心が地球なのかも知れないけど。
おいおい、真弓まで天動説を唱え始めるわけじゃないだろうな。
大丈夫です。安心してください。じゃあ、ハッブルの法則を忠実に再現するには、どういうモデルを考えればいいんですか?
番組にあった風船宇宙でいいんだよ。だけど、その風船の中身は詰まっていない。銀河を含んだ宇宙は風船の表面だけにあるんだ。
え? それだと、宇宙は二次元になっちゃわないですか?
あの風船モデルを使うとそうなるね。だけど、実際の宇宙は真弓が言うとおり三次元だ。そして、当然の帰結として僕らも三次元の世界に暮らしている。だから、この世界で目に見える形の宇宙モデルを作るとすれば三次元のものにならざるを得ない。ああっと、間違った。この宇宙が三次元なんじゃなくて、僕らはこの宇宙を三次元の感覚でしか認識できないと言いかえよう。OK?
うん。いいですよ。それ、前にお話ししたから。
そうだったね。さて、そのコメンテーター氏もそういうことは了解してたんだと思うけどね。だけど、あんまりややこしいことを言い始めると視聴者がついてこなくなる。ああいう内容は視聴率重視の民放が扱うにしてはちょっとばかりヘビーだよね。
それって偏見だと思うけど。じゃあ、里見先輩の考える宇宙モデルはどんなものなんですか?
僕が考えたわけじゃない。フリードマン・モデルっていう有名なモデルだよ。つまりね、番組にあった風船宇宙の表面を二次元じゃなくて三次元だと設定するんだ。これは頭の中で想像するしかない。三次元の表面を持った球体なんて実際には作れないだろう?
うん。球の表面が三次元ですね。えーと、何か変な感じだけど・・・。
想像したかい?
しました。
さて、ここからは僕の想像ね。仮説とも言えないただの想像。世迷い言ともいう。
そんな謙遜しないでください。わたしが一番聞きたいのはそこなんですよ。
ありがとう。さて、今、真弓の頭の中にある球の中には何が詰まってる?
え? 何もない「無」じゃないんですか?
もちろん物質は詰まってないよ。僕の仮説ではね、球の中心を通る直径を時間軸と考えるんだ。すると時間軸の座標が大きくなるにつれて、つまり、時間が経つにつれて宇宙は膨張していく。
あ、そうか。すごい。球の中には時間が詰まってるんですね。
言葉にすると変になるけどね。
でも、先輩? ビック・バンで始まる宇宙は最大まで膨らんだら今度は縮み始めるんでしょう? そうなると、先輩の言うように球の径を時間軸と考えたら、その座標値が小さくなっていくから、時間が逆転するんじゃないですか? そういうことって有り得るのかなあ?
もちろん、あるさ。死者が墓場から甦り、やがて母親の胎内に還ってゆく。――そういう世界がやがて来るんじゃないかな。前に予言の話をしただろう? そのときに西暦七千年のことだと解釈されるノストラダムスの予言詩の冒頭部分を言ったよね。
うん。覚えてるけど・・・。
あの詩の全文はこうだ。「大いなる数七の年めぐり来たる、大殺戮の間に、そは起こらん。偉大なる至福千年期も遠からずして、死者、その墓穴より出づるは」
本当ですか? 先輩、笑うの、我慢してません?
あはは、ばれた? うそだよ。ノストラダムスの予言詩にそういうのがあるのは本当だけど、あとはうそ。たぶん、そうはならない。それだと因果律に反してしまうだろ? タイムマシンが過去に行けないのと同じ理屈だ。
もう。そうやって、すぐ人を騙す。
ごめんごめん。でも、いい加減、オカルトからは卒業しなさい。つまらない言葉に幻惑されるのは真弓さんらしくない。
むう・・・でも、今のは誘導尋問だわ。
それも真実を探る方法の一つだよ。大体、負の時間の中では物質が存在できるかどうかさえ怪しいし、もしかしたら時間だけは絶対値をとるのかも知れない。まあ、その辺は物理学科のヤツに聞いてみてよ。それにね、フリードマン・モデルは確かにビック・バンで始まるけど、必ずしもビック・クリンチで終息するとは限らないんだ。アインシュタインの重力場方程式で宇宙の運動を記述すると、ある定数の値を変化させることで、最終的に収斂する有限宇宙の姿になったり、ひたすら膨張を続ける無限宇宙の姿になったりする。その定数の実際の宇宙における値を求めるには、実際の天体観測から、減速係数か、あるいはハッブル常数と宇宙の平均密度を調べなくちゃいけない。だけど、現在の観測機器の精度ではまだまだ正確なところはわからないらしいね。ちなみに現在有力な定数値では、この宇宙は開いた無限宇宙らしいよ。
うーん。頭、痛くなってきた。先輩、本当に文系ですか?
ブルーバックスからの受け売りさ。六百四十円の知識だ。さて、これでもう物理学はおしまい。ここからは哲学的に考えよう。
はい。そうしてください。
じゃあね。さっき、真弓は球の内部に詰まっているものを時間だって言っただろ? そうじゃなくて、他の言い方を考えてごらん。
うーん。簡単に言えば、宇宙があるための土台ですよね。でも、それじゃ物質になっちゃうか。あ、そっか。もしかして、それが・・・神様?
じゃないかと僕は考えてるわけ。もちろん、以前の運命論を棄てたわけじゃないけどさ。
でも、わたし、先輩の運命論よりはこっちの考えの方が好きですよ。綺麗だもん。まるで水でできた泡みたい。泡があるから表面に水があって、その水の上でわたしたちは生きている・・・。
なるほど。さながら大腸菌みたいなものだね。
もう、汚いなあ。微生物って言ってくださいよ。
デリカシーがなくて悪かったね。
先輩、わたしのこと、女の子だって意識してくれてます?
じゃあ、そろそろしようか?
何だかエッチな言い方。――でも、また物理学みたくなっちゃうけど、先輩の言ったフリードマン・モデルでしたよね? それだとビッグ・バンの前には神様は存在してなかったっていうことになりませんか? 時間も空間も物質も何も存在していない。
そう。それを避けるために、最初に神は零次元の存在だって言ったんだよ。
そっか・・・。
でも、本当にそうかも知れない。ビッグ・バン以前は神さえ存在しなかった。つまり、神が生まれたから、同時に世界が生まれた。
うーん。神様にも始まりがあるっていうのは、ちょっとやだなあ・・・。
確かにそうだ。ちなみに、今、真弓が考えてることは、現代の宇宙物理者の間でも大きな命題になってるよ。神はこの宇宙を創る前は何をしていたかってね。神様は永遠不滅なもの。そういう考えが科学者の中でも息づいている。最近じゃあ、ビック・バン以前の世界を語るために、虚時間なんて考え方も飛び出してるくらいだ。不思議だね。科学文明の最先端を担う人間が神の存在を求め続けてるっていうのは。もしかしたら科学万能の現代で神の存在を一番信じているのは、巷の宗教家なんかじゃなくて、宇宙を研究してる科学者なのかも知れない。
わたし、何となくわかるような気がする。科学者の人はずっと自然とか宇宙を見つめ続けているでしょう。だから、神様の存在を実際に肌で感じるんじゃないのかなあ・・・。
里見先輩は現存する宇宙モデルを例に挙げて、その内部を神と呼んだ。
その考えはある意味で当たっていた。
生命の進化の究極の姿である精神生命体はわたしたちの住んでいる宇宙に包まれ、そしてそこに生きる生命の精神を喰らって不気味に成長し続けている。言葉を変えて言えば、宇宙こそ神の子宮なのだ。
だけど、わたしは思う。
自らを創造主と名乗る彼が我々が崇める人格神のような意識を持っているのならば、我々と同じように「個」の存在に過ぎない。
彼がどのように偉大であろうとも、それは人間の持つ「個」の意識に拡張性や永続性を加えただけの存在だ。その意味で彼もまた進化の途上にある。そして、彼がわたしたち人間と大差のない精神を持っているのなら、さらにその上位に位置する存在がいるはずだ。あの生ぐさい神を創った存在が。
――コロンブスの卵。
その卵の底を叩き割って、縦に立たせてみせた最初の存在。それこそが真の創造者だ。
しかし、果たして、それが神なのだろうか?
創造とは極めて能動的な行為だ。明確な意識を必要とする創造に神は決して関わってはならない。
すなわち、創造者とは神の別名ではないのだ。
では、神とはどのような存在なのだろうか?
太陽が自らの行為を意識せず、万民に光という名の恩恵を与えているように、神とは何ら意識することなく世界が存在するための恩恵を与えている。世界が存在するための土台となっている。
その土台を神と呼ぶなら、求められる究極的な神とは、空間であり、時間であり、エネルギーである。いや、きっと、それさえ二義的なものだろう。人間には想像もつかないような、他に表現できる言葉もない何か。
だから、人はそれを「神」と呼ぶのだ。
だけど、これだけは言える。
真の神は何も考えていないということだ。
「個」の意識を越えた「全」の意識。世界があるための意識。それに人のような感情はない。人間のような自我を持たないから「全」なのだ。信仰されることを求めず、罪を問わず、救済の手も何も差しのべない思想なき意識。一切の自我を持たないその姿は、東洋的な「無」と呼んでもよいだろう。そこにあるだけの、ただ、それだけのもの。
それがおそらく真実の神だ。
その神様が、わたしにくれたもの。
それは――
――そうだ。
里見先輩が褒めてくれたわたしだけの神様。
未完成の、漠然とした像に過ぎなかったわたしの神に最後のピースがはめこまれた。
「神の慈悲」という名のピース。
仏教にいう一切衆生悉有仏性――この宇宙に存在する有情無情のすべてが仏性を持っているというのならば、仏性とは「存在することができる」ということではないだろうか?
神の慈悲とは、それを許していることだ。
これほど大きな慈悲はない。
昨夜、あの暗黒の世界の中で、わたしはそれを肌で感じたではないか。
そこにものがあること。
そこにわたしがいること。
――神はそれをお許しになったのだ。
退院の日の朝――。
わたしはまだ薄暗い病室の窓の外を眺めていた。今日からまたこの風景の中に戻っていくんだと思うと何だか感慨深い。
「あれ・・・」
視界のすみに人の影が動いたような気がした。
目を凝らしてよく見ると、一人の老婆が身体を丸めて歩いているのがわかった。こんな暗いうちからどうしたのかしらと思って見ていると、老婆は病院の向かいにある小さな御社の前で立ち止まった。そして、小さな手を合わせて頭を垂れた。
そう言えば、あそこ、お稲荷様があったっけ。
「それにしても、もう少し暖かくなってから来ればいいのに」
そう呟いたときだった。
いつか観たテレビのドキュメント映像が脳裏に甦った。それは『或るキリスト教徒の聖夜』と題されたエチオピアのキリスト教巡礼者の話だった。
画面の中で、年老いた老婆が聖夜を前に何十キロもの道のりを教会まで裸足で歩いていた。その足は長旅に痛々しいほど腫れ上がり、頼りなげなその歩みは今にも倒れてしまいそうだった。夜は薄汚れた布一枚で地べたに眠り、持参した一握りの豆を煎って一粒ずつ口に運ぶだけの食事。
当時小学生だったわたしはその老婆の姿が可哀想になって、
「どうしてこんなにまでしてお参りに行くの?」
と、テレビの中の彼女に聞いていた。
「神様は偉いんだから、お家でお祈りしても通じるはずじゃない。どうしてこんなに辛い思いをしてまで教会に行かなきゃならないの?」
リポーターが同じ疑問を口にしたのかは覚えていない。しかし、老婆が発した言葉は今でもはっきりと思い出せる。
わたしの疑問に対する直接的な答えにはなっていないが、そのとき彼女はこう言ったのだ。
「いつ死んでも後悔はしない。これからも神様のために暮らしていきます」と。
まだ陽も昇らぬうちから雪の積もった道をお稲荷様に一番水を届ける日本の老婆。
痛む足を引きずって長い旅路の果てにようやく辿り着いた聖地で涙するエチオピアの老婆。
彼女たちの純粋な姿に触れたとき、わたしは心の中で小さく叫んでいた。
「――わかった、里見先輩、やっとわかった」
かつてのわたしのように自分の家の宗教の中味さえ知らぬ多くの日本人。
世界に広がりつつあるその国民性をわたしは宗教的無関心だとか宗教的不感症といって、心のどこかで蔑視していた。
でも、そうやって神の姿を追ったわたしもまた、宗教的不感症だったのだ。神に思想はないと結論し、救済を求める人心を否定して、なお、神とは何かと考え続けた。
これを不感症と言わずして何と言おう。
神はそこにいるのに。
時代の波を受けて近代宗教が辿った教義の合理的説明指向。「神とは何か」という一見真摯に見える疑問こそ、神への冒瀆であり、信仰を貶めるものなのだ。
大切なのは、神の存在を感じること。
この世に自分があることを神との縁ととらえ、何を求めるでもなく、ただ敬慕すること。
それが信仰の本来の姿だ。
彼女たちは、たとえ息子がどんなに無惨な死を遂げても、神を呪いはしないだろう。
愛する息子の魂を返してくれと神に願いはしないだろう。
現世での別れを嘆きこそすれ、彼女たちの心は安らかなままに違いない。何故なら、息子の魂は神のもとに行ったのだから。
幸福のために信仰するのではない。
信仰することが幸福なのだ。
神との縁を感じ、神のために日々を暮らす、そのことが。
そう思った瞬間、胸の中が何だか暖かくなった。
わたしの中の神様が光を放ちながら天に昇っていくのが、はっきりと感じられるような――
それはそんな暖かさだった。




