1章(11) 百日紅
アスラは窓辺から空を見上げた。
熱い日差しは雲の厚いベールに遮られて、重たげな鈍い色が次第に広がりつつある。
少し涼しくなっただろうか。
アスラとセトナは未だタカロの家にいた。
昼の鐘の時間まではまだ猶予がある。
ある程度の目的を達した以上、無闇に動き回る必要もない。
商会内の派閥争いのようなものや、黒い貨幣についての謎は残っている。
しかし、最も恐ろしき陰謀は、セトナを取り巻く二重の輪だった。
〈始教〉の思惑は、セトナ・デ=ヨビスをこの世から消すこと。
それは、彼女の持つ異能が己らの経済基盤を揺るがしかねない劇物だということに起因するもの。
セトナは商会つきの水主であるから、明確な敵対を避けるために怪物を呼び寄せてまで船を沈ませようとしたのだ。
優しさ。
この災禍は、恐らく穢れなき慈悲が呼び水となって起こされたもの。
真の災いとも形容すべき、世の歪み。
セトナをこのままにしてはおけない。
この世界の無情に対して、俄かに腹が立つ。
とても優れた力だ。
傷んでゆく、腐れてゆく命を綺麗なままに保存して、適切に消費できるようにする能力。
本来は、必要以上に漁をしたり、狩猟をしなければ良いこと。
食べるために命をむしっておいて、傷んでしまったから口にしないなどと。
傲慢だ。
なんという身勝手だろうか。
その、人のエゴを洗うことができる魔法。
感謝すべきではないのか。
セトナ・デ=ヨビスの力は、人を一段階まっとうに見せることができるのだ。
「あ、これも穴が空いてる」
セトナが服を光にかざしている。
生地が薄くなって、その場所だけ明るく見える。
灰色の大きな目が、微かに透けて見えるだろうか。
アスラは、やや崩れつつある天気と子供らを横目に見ながら繕いをしていた。
タカロと父親の服はかなり状態が悪かったので、直すということになってしまった。
セトナの提案である。
彼女には、自作の風呂敷などを披露したことがあった。
針の腕前を見たいらしい。
「アスラ器用だなー」
「ほんとにね。
刺繍屋さんでもやればいいのに。
アスラさん、どうですか?」
子供らが好き放題にいってくる。
気が向いたらね、とたしなめて腕を動かす。
セトナとタカロはにこにこと作業の様子を観察していた。
布地はかなり傷んでいる。
ほとんど応急処置といっていいだろう。
針を通しても、その周囲の繊維がほつれていくのが分かる。
網目は撓んで広がり、針の糸から逃げるように密度が下がる。
新しい服を買った方がいい。
アスラの服の裾が腕を持ち上げるたびに少し擦れて、糸がその軌跡を細く追う。
港の賑やかさはどこか遠くに置いておかれ、布ずれの音が静かに響きわたる。
タカロの父は横になっていた。
枕元に、海瓜の食べかすが置いてある。
後で片さねばならない。
漁に行った後という話だ。
身体が悪いのであれば、無理はしないほうがいい。
アスラは、ちら、とタカロの父を見た。
顔色は良くない。
頬の骨は浅く浮き上がって、いかにも調子が悪そうだが、褐色に焼けた肌の色がかろうじてそれを覆い隠している。
息子の前では強がっているが、恐らく状態は良くない。
頑固者だ。
だが、気持ちは汲める。
子供にいらぬ心配をさせたくない、というような心理がタカロの父にはあるのではないか。
あるいは、こんなものに負けてはなるものか、という反骨の精神か。
「アスラはなんかいい匂いする」
タカロが髪の束に顔をうずめている。
香油だろう。
長く使っているものだ。
思い出、と言っていいのだろうか。
赤い花。
しっとりとした甘い香り。
華やかで明るく、しかし余韻もなく消えてゆくような淡い匂い。
どうして、今に至るまでこの香りを捨てられない。
墓標へと手向ける、血のように鮮やかな花の束を絞った香気。
これは、良い匂いなのだろうか。
記憶の底から、鉄臭さが鼻腔に帰ってくる。
昨日のようでもあり、はるかに昔のようでもある。
「ほら、危ないから止めなさい…。
針を使っているんだから」
アスラは静かにタカロを注意した。
うん、と彼は物分かりよく離れてゆく。
髪の束が離されて、下へと流れるように垂れていった。
悪戯っぽく笑う少年の指は細く、どこか節くれだっている。
暗い家だ。
天井には幾つも雨漏りの跡があり、しみがまるで揺れる水面のように重なっている。
掃除も行き届いておらず、カビ臭いような刺激を時たま感じる。
表の方では、色の変わった縄に洗濯されたであろう服が数枚吊るされて、淀んだ空気の中を靡いていた。
「父上は大丈夫かえ?」
気づけば、そんな言葉が漏れ出ていた。
会話を繋ぐ、ということのみに焦点を合わせるのならば避けたい類の話題。
当たり障りのない会話にはならない。
タカロの家の事情を聞きたくなっている、と捉えるべきだ。
この街が抱える、いや、あるいは世界というものが生み出した、悪意も、あるいは意識すらもない、彼らにとっての窮状。
不幸、と形容するのは失礼だ。
それは、相対評価をした客観の押し付けでしかない。
日常のささやかな出来事の中にこそ、宝石のような美しさが眠っている。
アスラは、心からそう思うから。
「大丈夫!
…と思う。
最近は調子が悪そうだけど…」
タカロはセトナに抱きつきながらそう言った。
セトナは、灰色の目を伏せながらゆっくりとタカロの頭を撫でている。
この家に、母親はいないのだろうか。
尋ねることが憚られる。
いくら相手が少年だからと、ずけずけとパーソナルな領域に踏み込むことは褒められたものではない。
ただ、女性が暮らしているような生活感はなかった。
思うところはある。
アスラも母がいなかった。
父は、ほとんど廃人だった。
人の善性を信じていた。
世界は煌びやかなものだと、優しいものだと。
胸の奥に、ありもしない痛みを感じる。
心臓が握り締められるような息苦しさ。
幸福は、そう思い込めば何もかもを装飾してくれるのだろうか。
タカロの一家が、先ほどのセトナの奇跡によって少しでも救われたとしたら、今日は幸せなのだろうか。
それは、いつまで持続する。
明日か、あるいは明後日か。
また、きっと現実が押し寄せる。
その落差がない方が、あるいは健全なのではないか。
あの時の奇跡はもうないのだと、落胆しなくて済むのではないだろうか。
人は、幸福を覚えている。
それは、意図せずして注視をしてしまう温かな灯火のようなもの。
「タカロ、父上は薬師か、あるいは医師にかかられているのかえ?」
「ううん…診てもらってない。
お金がないから…」
セトナの本意を汲むべきだ。
あの子は、タカロ達を救いたかった。
ならば、奇跡の後始末もまた必要だ。
アスラは丁寧に針を置いて懐に手を入れた。
セトナとタカロが、首をかしげてアスラの真っ赤な手を追う。
責任というものがある。
他人の人生に介入するというのは、言葉以上に大きなことだ。
施せば、それで終わりではない。
それを行えば、どうなるか。
どのように作用するか、波及するか、ということを考えなければいけない。
セトナは、ひたすらに優しかった。
優しくなくあることができずに、ネルガンが禁止していた術を使った。
これも、ある意味ではエゴイズムの発露だ。
だが、快い。
それを、個人の自己満足で終わらさぬために、大人がいるはずだ。
きっかけは小さくとも、何かは変わると信じた子供を、さらに信じてやるのが歳の功だ。
アスラは、ネルガンから貰った賃金が入った袋を取り出した。
そして、ゆっくりとセトナへと手渡した。
例のごとく、服の布が擦れる音だけが、澄んだように家の中へと溶ける。
「あ、あの…。
アスラさん、これ…」
「医師というのは、高給取りなのかえ?
とりあえず、診てもらいなさい。
セトナ、悪いがタカロに必要分のお金を持たせてやってくれ。
その代わりに、セトナの術のことを他言してはいけないよ」
病というのは、本来天命なのだろう。
獣でも植物でも、呆気もなくこの世界から間引かれる。
それを覆そうとするのも、また自分本位の振る舞いなのだと思う。
万物には、必ず始まりと終わりがある。
〈守り人〉が死斑病で滅び去ったのも、抗えなかったのも、世界の景色の一部だ。
人が賢しさでもって、本来辿るべき命の軌跡を歪めるのは、是か否か。
それも、命に価格をつけるなどと。
薄寒い嫌悪感を感じなくもない。
けれども、人には人の事情があり、都合がある。
アスラは病らしきもので死に向かっている時、殆ど恐怖を感じなかった。
己はこの世にとって最早必要ではないのだ、と納得の感があった。
けれども、そうしていながら薬草などを試みた。
足掻かねばならない、という心情が影から起き上がってくるように纏いついたのだ。
誰もが死んで行った。
だから、生きている以上は諦めるべきではない。
そして、自己陶酔でなければ、浄土にいる知人らが、少しでも己の長生きを願っているのではないか、というか細い思い。
それが、泥臭くても生にしがみ付こう、できる限り抗おうという意思に形を変えた。
かねてより、この世界の摂理と人間は折り合いが悪い。
人間の自己の強さというものは、どれほどこの世を汚染するのだろうか。
この世は、それを許すのか。
無情の神は、いつ鎌の剣を振るう。
あるいは、抵抗ができているように感受できるのも、戯れの一環だとでもいうのか。
力の神よ。
「アスラ…いいの?」
「いいよ。
もともとが泡みたいなものだ。
消えないうちに、渡さなきゃね」
「アスラさん、ありがとう」
セトナが抱きついてきた。
彼女の栗色の髪の毛が揺れておさまる。
歩いたからか、少しばかり汗をかいたような匂い。
懐かしい。
息子や娘を思い出す。
「危ないから離れなさい。
針があるんだ」
「うん」
閉じられた瞳には、長いまつ毛が覆いかぶさっている。
彼女は何を想っているのか。
それは、セトナだけが分かること。
アスラは別にそれを詮索しようとも思わない。
人生というのは、あくまでも孤独だ。
世間や他人の尺度に合わせるのは賢いことだが、それを徹底した所で、気に入られた所で、本質的に豊かになる訳ではない。
どう染めても、自分には自分の色がある。
己の行為によって、何某かが喜ぶかもしれないし、あるいは悲しむかもしれない。
その程度だ。
計算高くあることは嫌いではないが、質素なこともまた好ましい。
今の行いで結果としてセトナが喜べば、タカロが喜べば、それでいい。
何にしても、アスラは子供が少し苦手である。
「アスラさんいい匂いする…」
「おれも!」
「困ったね、どうも…」
♢
外界の時間の感覚というのが今ひとつ掴めない。
アスラが苦手にしていることの一つに、時間の管理というものがある。
ふとした時、大概は一般の感性における不摂生を働いた際、目の前の時間の流れが嫌に冗長に感じられる。
人生が少しずつ引き延ばされるような、説明し難い不快感。
幸い、調子が悪い状態では、そのような感受に至ることはない。
はっきりと言うが、体調が芳しくない。
したがって、さほど常人と異なる感覚に置かれていないと思うのだが、タカロの家にはかなり長居をしてしまった。
アスラは、子供は苦手だが好きだ。
なんのことはない時間の浪費。
剣をするわけでも、積極的に情報を吸えた訳でもない。
だが、少しだけ元気が出た。
多くは要らない。
健やかな子供らがいて、雨が降っていなく、邪魔をされながらも静かに繕いができる。
アスラが追いかけたのは、そんな生活だった。
セトナによれば、感覚的にそろそろ昼の鐘が鳴るようだ。
タカロが見送りに出てくれる中、アスラとセトナは貧民街の風を受けていた。
悪臭だ。
糞便とも、し尿とも取れるような嫌な匂いが漂う。
天気は曇ったままで、じとじととした暑さがあった。
「アスラ、ありがとう!
またねー!
あと、包帯取った方がいいぞー!
怖いって嫌われるぞー!」
「大人には色々事情があるんだ。
またな。
お父上が快方に向かうことを祈っているよ」
「アスラさん綺麗なのに…」
「汚ければいいのかえ?」
「むむ…。
偏屈お姉さんめ」
タカロの家から、貧民街の出口へと歩んでゆく。
酷い道だ。
一応舗装はされているようだが、石畳は黒く汚れて、ゴミに隠されている。
べちゃべちゃと腐った何かを踏みつける嫌な感触がずっとある。
けたたましい羽音がずっとしていた。
蝿の威勢がいい。
アスラは顔の前を飛びまわる黒い点を、手のひらで払った。
優雅なほどにたおやかな手つき。
しかし、蝿は音もなく仰ぎ落とされて、二度と飛ばなかった。
それが、数度繰り返される。
見れば、きらきらとした何かが宙を舞っている。
羽がちぎられているのだ。
セトナが、まじまじとそれを見ていた。
「なんか、達人って感じありますね…」
「感じだけさ」
「うーん、感じだけじゃない気がする…」
帰りの道は、行きの経路と異なっている。
タカロの家は、貧民区画の最も奥まった場所にあって、来る際はずうっと大回りをしていた。
タカロがセトナと話をしたくて、わざと長くなる道を使ったのだろう。
貧しい家並みが続く。
家の周囲にある樽やなんらかの置き場は、ひどく荒れているものが多い。
鼠が一瞬物陰から顔を出して、何かを嗅ぎ回るように頭を振って、すぐに姿を消した。
セトナが、ネズミっい、などと妙な声を出した。
こちらに寄って、服の裾を掴んでいる。
鼠は苦手なのか。
おろおろとするセトナを脇目に、アスラは奇妙な違和感を感じた。
セトナが発した鼠という単語。
不意に出たからか、随分と訛りが強い。
ここらで聞いた方言とは異なる、しかし、耳馴染みがあるような発話の残り香があった。
アスラが常用できる外界の言葉は3つ。
厳密にいえば極めて古い言語も島の賢者らから習ったが、使い所は限定されるだろう。
カイ・エッテムらの船乗り連中が、〈東アルヤート語〉を含め、鮮度の高い外の言語を持ち込んだ訳だ。
しかし、セトナが口にした鼠の言葉。
アスラは、ちら、と彼女を見た。
きょろきょろと、灰色の大きな瞳で辺りの鼠を探っているようだ。
アスラは、静かに視線を鋭くした。
この言語は。
「百日紅…」
セトナがぽつ、と呟いた。
庭とも呼べないような粗末な空き地に、赤い花を咲かせた木が植っていた。
色が褪せたような空と家の景色の中で、まるでそれは、鮮やかすぎる絵のように風に揺れている。
ほのかな香り。
甘く、華やかな匂い。
いくつかの花びらは風に落とされて、鮮血の雫のように汚い路地に転々と散っていた。
アスラはもう一つ場違いな匂いを嗅いだ。
甘いような、苦いような、酸っぱいような、複雑で豊穣な香り。
焚香によるものだ。
坂の上の寺院近辺で充満していた香気。
セトナを少しだけ後ろに押し込んで、剣の近くに手を遊ばせる。
古ぼけた白い柄に、織り込みがある赤い布が揺れている。
最も警戒すべき相手が近い。
横になっている、浮浪者のような人間があった。
ボロ布のような外套を纏い、家屋の外壁に身を寄せるようにしている。
気分が悪いのか。
その近くに、くたびれ法衣のようなものを纏った人物が座り込んでいた。
背中は広く、手足は長そうで、身長もかなり高いと見える。
ごつごつとした手には、器に注がれたスープのようなものがある。
恐らくは、横になっている人物への施し。
スープにはほぐされたパンのようなものも入っており、腹にたまり、また飲みやすくもなっている。
〈始教〉の僧侶。
腰には、護身のためか随分と細身ではあるが剣が吊られている。
アスラは立ち止まった。
悪くない。
膝をつく後ろ姿に、確かな残心がある。
石でも拾って投げつければ、この男は即座に翻ってそれを叩き落とすだろう。
腕利きと称されるドーブ・エットラではまず勝負にならないほどの使い手。
なるほど、油断のならぬ組織だ。
「もし、大丈夫ですか?」
アスラは僧侶へと声を掛けた。
〈始教〉の構成員の目の前で、セトナを連れているのは好ましくない。
しかし、それこそ、ここで何らかの害意を示すようであれば、これらの黒は確定的になる。
アスラは〈始教〉を知らない。
どのような教えがあって、どのような信仰があって、そして何に豊かさを見出しているのかを知らねば。
何よりも重要なのは温度感だ。
仮にセトナの力が危険だと定められて狙われているとして、それは組織の中でどれほどの人間が周知をしている事実なのか。
一部の人間が考えていることなのか、大半の信者がセトナを憎んでいるのか。
分析が必要だ。
「はい?」
僧侶は、腰を落としたまま少しばかり体を捻ってこちらを向いた。
壮年ほどの印象である。
黒い髪をぴたりと後ろに撫でつけて、油で固めているようだ。
眉は豊かで整えられ、瞳は黒曜石のように静かに光り、穏やかだった。
髭はなく、鼻筋は高く、頬の骨はやや目立つが、顎は細身でどこか神経質そうな印象を受けた。
優男と評していい。
深い臙脂色の法衣は、百日紅の花と相まって、この貧民区画で酷く浮いて見える。
しかし、どうしてかさほど嫌悪感はなかった。
男は、じつに落ち着いて見えた。
顔中の包帯、虎の毛皮、赤い手などというアスラの異教徒じみた格好を見ても、嫌悪感すら匂わせない。
上層の商人連中は、顔を揃えて不気味がっていた。
旅を共にしたドーブや、ネルガン、セトナでさえ、初対面ではアスラを恐れていたのだ。
「その方はお怪我を?」
「ええ。
どうにも、足を悪くされたようですね。
動く気力もなく、ここで休んでいらしたとか」
僧侶は、耳心地の良い低い声で応えた。
淡々と、何も飾り立てることもなく事実のみを切り出している。
そこに、慈悲を与えてやった、などという傲慢は見当たらない。
あくまでも静謐な態度。
見れば、横になっている浮浪者風の男は、布切れを枕にしている。
新しいものだ。
恐らくだが、この僧侶の私物ではないか。
「すまないね、お坊さん…。
俺なんかのために…」
横になっている男は細い声で、どこか申し訳なさそうに、そして何かを諦めたように言葉を口にした。
日焼けをしている。
年齢はやや高めだろう。
無精髭の顔には皺が多く、汚れにまみれており、時たま禿げた頭に蝿がたかっている。
「この状況はあなたのせいではない。
誰もが他人に無関心なのです。
いいえ、無関心になってしまうほどに追い詰められているのですよ」
僧侶は少しの怒りを秘めたように、そう口を動かした。
セトナは両の手を組んで、眉を落としている。
アスラはぴこぴこと耳を動かした。
上擦ったような不自然な言い回しはなかった。
これは、本心からの言葉である可能性が高い。
「怪我をした俺が悪いのさ…。
働かなきゃ、食っていけないんだ。
逆にすりゃ、働けないやつを食わせるわけにゃいかない」
「あるいは、そうかもしれません。
けれど、その価値観が全てではない。
人は何かをしなければ価値がないなどというのは、商人の方々の法です。
この世は美しい。
その中で生きているだけでも、十分に尊いことなのですよ」
横たわった男は、唇を噛んだ。
涙が、ゆっくりと地べたへと流れる。
「俺は。
俺は…」
「まずは、身体を良くしなければ。
さあ、これを飲んで」
僧侶は器のスープを匙ですくって、ゆっくりと男の口元へ差し出した。
ひび割れた唇が開かれて、ゆっくりとそれが飲まれる。
男は瞳を閉じて、静かに泣いていた。
「美味い…。
ああ、美味いなぁ」
僧侶は微笑んで、またスープをすくって男へ差し出した。
木製の食器が歯に触れる音と、啜る音が貧民街の中に響く。
アスラは百日紅の木を見た。
青々とした樹冠で、赤い蕾が、ゆっくりと花開こうとしていた。
滑らかな樹皮には、大小様々な傷がある。
無邪気な子供らや、あるいは鬱屈とした輩にちょっかいを出されることがあるのだろう。
けれども、立派だ。
枝葉を伸ばし、花を咲かせ、木陰を作る。
静かに、静かに、そこにある。
男はひとしきりスープを飲み干して、また眠ったようだ。
空になった器を手に、僧侶はゆっくりと立ち上がった。
やはり長身だ。
ネルガンよりは上背があるが、ドーブほどは大きくない。
佇まいは実に雅である。
座り込んで法衣が汚れているのに、何一つ気にするような様子もない。
「それで…あなた方は?
私に何かご用でしょうか?」
僧侶はこちらを黒い瞳で穏やかに見つめながらそう問うた。
心のささくれ立った箇所を、神への信仰で研ぎあげたかのような泰然を感じる。
「失礼…。
拙はただの剣士だ。
お急ぎでなければ、貴殿と少しお話をしたい」
「剣客の方、ですか…。
お連れ様もいらっしゃるようですが…。
残念ながら、決闘の類はお受けできませんよ」
「いえ、そのような気は毛頭なく…。
乱暴なる風采ゆえ、ご容赦を。
愚見ながら、貴殿は深い見識をお持ちであると拙は思う。
少し、ご相談に乗っていただければと」
「…なるほど。
安心しました。
到底勝ち目がない」
「ご謙遜を」
「……どうでしょうか。
少しばかり、寒気を覚えただけで…。
さて、どのようなご相談でしょうか?
愚物ゆえ、ご期待に添えるかどうか…」
僧侶は、じっとアスラを見つめた。
アスラもまた黒髪の僧侶へと視線を返す。
セトナへの明らかな反応はなかった。
陰謀とは関係がないか、あるいは自制をしているのかはまだ判断がつかない。
そのセトナは、ぺこり、とお辞儀をしている。
僧侶も実に慇懃に会釈を返した。
胸元には、二重の輪のペンダントが鈍く光っている。
「当人にとって、どうしようもない因子について貴殿はどうお考えかえ?
生まれでもいい。
あるいは、『才気』でも。
覆しようのない格差について、どう捉えていらっしゃる?」
「難しい問いです。
しかし、探らねばならぬ問いです」
この問いを、この街をどう評する。
富める者は富み、貧き者はより貧しく。
いったい、誰が悪いのだろうか。
利益を追求するということ自体は、至極当然のこと。
その結果、虐げられる人々が出てくるとすれば、それは邪悪なのだろうか。
リスクを冒して歩み、努力を積み上げ、汗水を垂らした結果、当然のごとく富を得るのは、果たして間違いと言えるのか。
島での武術と同じく、金も子供の世代へと継がれるものなのではないだろうか。
親が愛のために、子供に資産を残すことは素晴らしいことのように思える。
努力の継承は、愛情の譲渡は悪なのか。
一方で、貧しく生まれたものが報われないことは快くない。
機会は平等に与えられるべきで、差別にも繋がる視点だ。
生まれる子供は、親を選ぶことはできない。
当人の努力で覆せない何かがそこにあれば、それは理不尽以外のなにものでもない。
「私は〈始教〉という宗教の教義を信仰しています。
不平等さ、あるいは格差というものは、人が愛を発揮するためにある、との教えがあります」
僧侶は、落ち着き払ってそう答えた。
アスラはいささか落胆の念を覚えた。
上手な社会問題の掴まえ方、いなし方だとは思う。
世の理不尽は辛いものだが、神が意図的に定めた試練である、とそのような回答か。
だが、それは宗教という狭い世界だけで息づく理論でしかない。
愛は尊いが、それを発揮しても残酷な現実はそこにある。
まさに、横になっている男がそれを表している。
そして、愛も無限ではない。
仮に自らが破滅へと向かっているとして、他人へと心を配れるか。
コルビンスのような傑物は稀だ。
殆どの人間は己が愛しい。
あるいは、己への愛しさ、鼓舞のようなものでもって世の理不尽に耐えているのかもしれないのだから。
「…しかし、私は少し違う考えを持っています。
世は、明確に病んできている。
それは、〈始神〉が創られた、歪みさえも計算された美しき世界が崩れてきている、という意味です。
美しさは腐敗に変わって、少しずつ、少しずつ、秩序が乱れている。
百日咲く花も、最後には萎れる」
僧侶は百日紅の木を見つめながらそう言った。
赤い、赤い花。
アスラは目を細めた。
「いまや、理不尽はただの理不尽となった。
才人は才人に、凡夫は凡夫に。
誰もが見下し合い、己が受けたこの世の歪みを、押し付けられる対象に押し付けている。
つまり、覆しようのない要素は『凶器』であり、『言語』なのです。
何かを殴りつけ、そして己と同じような人間を選別し、屯をするための識別札。
それが、私の持つ格差への捉え方です」
鋭い。
これは耳心地の良い説法ではない。
この黒髪の僧侶が練り上げたという血肉を感じる。
彼は、世の中を殺伐としたものだと感受している可能性が高い。
信仰をしていたとしても、このような思想に至るのか。
「大変に勉強になります…。
では、貴殿は才人は凡夫に手を差し伸べるべきだと思いますかや?」
「…どうでしょう。
いや、するべきではないのかもしれません」
アスラは眉を少し上げた。
セトナが、そんな、と小さく声を漏らしている。
会話が抽象的すぎて、彼女はやや置いてけぼりになっているだろうか。
大変に申し訳ない。
退屈な話だろう。
「それは、どうしてでしょうか?
貴殿の先ほどの行いは、それに近しい。
少なくとも、施しができるような地位にあられるのでは?」
「…分かっています。
今私が行ったことは、もしかすると攻撃なのかもしれません。
社会的地位を振りかざす、自己陶酔であるかもしれない。
そして、もしかすると、彼を堕落させてしまう毒を盛ったのかもしれない」
自己矛盾。
この僧侶は、どこか己と似ている。
アスラは、地べたに視線を投げて目を伏せている黒髪の男をじっと見つめた。
彼は、落ちた赤い花びらを追っているようだ。
「ならば、貴殿はどうして彼に施したのです?」
「今の世は、あくまでも『通常の人のためにあるから』でしょうね…。
それは、名もない意思です。
目に映らぬ大河のようなもの。
どう生きていたとしても、どの空の下で暮らしていたとしても、その場所での『通常』が、平穏があるのです。
そして、その流れに乗れないものを、人は排斥する。
この方はまさに、商人の街から鼻つまみにあおうとしていた」
僧侶は、半分ばかり翻って、背後で横になる男を横目で見た。
浮浪者風の男は、涙の筋を顔に残したままに眠っていた。
安心したのだろう。
僧侶の瞳には、小さな憂いがあった。
「ついて行けぬ者、あるいは、先んじすぎる者は後ろ指を指されると?」
「表立っては指さぬでしょう。
しかし、音もなく、それこそ悪意もなく、気付かぬように押して出される。
なぜなら、秩序こそが、『通常』こそが信ずるものなのですから。
風が吹くことは心地よくても、嵐ではいけない。
そして、微弱でも涼しくはない。
心地よい程度、想像の幅を超えぬ程度でなければ、人はそれを受け止めはしないのです」
「では、貴殿は施しを止められますか?
慈悲を抑えることができますか?」
僧侶は未だ散った花びらを見つめている。
セトナも、その視線を追っていた。
甘い香りがする。
「…できないでしょう。
弱っている人を見過ごす己を許せない。
私は所詮、己を救っているだけなのかもしれません」
尊い価値観と呼ばれるもの。
それは、大概が自己犠牲を伴う。
しかし、そのさらに裏には保身があるのかもしれない。
自分の身を削ることで、自分を守る。
これがなんのジレンマなのか、矛盾なのかアスラには分からなかったが、きっとこの世が抱えた歪みなのだと思う。
そのような人間は、死ぬしかないというのか。
真の安寧は、死後にしか訪れぬというのか。
なんという無情。
花の香りがする。
百日紅ではない、赤い花の匂い。
「死は、救いだと思いますか?」
そんな言葉がこぼれ落ちた。
酷く乾いた声だったような気もする。
高く、そして平坦な声質。
僧侶は視線を持ち上げて、アスラの瞳を見た。
「救いではありません」
僧侶は強い語調でそう言った。
少し強い風が吹いた。
百日紅の木から、赤い花びらが一枚ばかり宙を舞う。
それはセトナの所まで泳いで、地面へと落ちた。
「では、世に受け入れられぬ人は、どうすれば良いので?
仮に天資があったとして、そして、慈悲の心を持ち合わせたとしたら。
人を救うべきですかえ?
それとも、見捨てて己を自傷し続けるべきですか?」
「それは…」
僧侶は言い淀んだ。
一瞬、ほんの一瞬のことだが、彼はセトナに視線を投げた。
アスラは目に宿る光を鋭くした。
風が吹く。
悪臭が舞い上がって、セトナは口元を少し抑えている。
アスラはひたすらに穏やかに僧侶を見つめた。
翡翠の瞳は、冷たく、そして鮮やかだった。
「…分かりません。
お答えを出せず、申し訳ありません…。
鋭利な問いでした。
己の暗愚を呪うばかりです」
「いえ、こちらこそ…。
不躾な質問を矢継ぎ早に行い、大変に失礼をした。
無知蒙昧ゆえ、平にご容赦を…。
お時間を頂戴して申し訳ない。
最後に、お名前をお伺いしても?
大変に価値のあるお話を頂いた」
この僧侶は、何かを知っている可能性が高い。
セトナへと飛ばされた一瞬の視線は、間違いなく何かを含ませたものだった。
今の話においてセトナ・デ=ヨビスを想起したのだ。
「パリティス・ミクリストと申します」
僧侶は姿勢を正して、低い声で言った。
えっ、とセトナがやにわに驚いている。
もしかすると、著名な人物なのか。
アスラは彼女の方を向いて、言葉を待った。
「パリティス様といえば、〈始教〉の権少司をされていらっしゃる方ですよ。
えっと、つまりこの街で何番目かに偉いお坊さんです。
こんなに若い方だったなんて…」
「いえ、肩書きだけのもので…。
『風の縁の会』のセトナ嬢とお見受けしました。
この国でも有数の祈り手に認知していただいて、恐縮です」
少しばかりセトナに緊張の様子がある。
権少司というのは、一般にもわかりやすい権威があるということだろう。
〈始教〉の信徒の中でも明確に高位といっていい人間。
あるいは、陰謀の根源に居てもおかしくはない。
どうする。
アスラは、腰の剣に視線を落とした。
赤い布が風になびいている。
強引な手段も考えられる。
絶対は無いが、彼と剣を交えれば高い確率でこちらが勝つだろう。
それは、セトナを連れているというハンディキャップがあっても埋まらない程度の実力の差があるということ。
殺さぬ程度に痛めつけ、情報を抜き取る。
悪くはない。
だが、問題はその後の対応だ。
ネルガンに雇われているという状況がある以上、アスラが〈始教〉の上位者を害せば、それはネルガンの意思ということになりかねない。
独断専行は危険だ。
これは、ネルガンとセトナの問題である。
どうするべきかは、彼ら親子が決めるべきこと。
特に、重大な決断においてはそうだろう。
「なんと、ご高名なお坊さまでいらっしゃったとは…。
無礼な問いかけをしてしまい、まことに失礼致した。
しかし、そのようなお方がどうしてここへ…」
アスラは丁寧な所作で頭を下げた。
髪が揺られて、赤い花の香りが匂い立つ。
僧侶は数回瞬きをして、黒い瞳にアスラを映した。
この高僧は、何の目的があって貧民街へと赴いた。
大きな規模の組織の上層であれば、職務などはいくらでもあるはずだ。
こんな場所で施しをしている意図が読めない。
「先の通り肩書きだけのことで…。
剣士殿にお話したことが全てでしょう。
私は、己の矮小な心に耐えられなかったのです。
こうしていなければ、自分を許すことができなかった」
パリティスと名乗った青年は、再び百日紅の花を見た。
そして、ゆっくりと幹へ、その滑らかな樹皮と、幾つかの傷跡を眺めていった。
最後に横たわる男へと視線を回して、じっと寝息を立てる様子を確認している。
安堵のような表情が、そこにある気がした。
彼も、逃避をしたかったのだろうか。
傷んでいる人々を想うことで、何もしない、無関心という自責を遠ざけたのか。
あるいは、何かの償いか。
誰も彼をも救うことはできない。
何かを守るということは、何かを害するかもしれないということ。
何かを害するというのもまた、何かを守るということに通じるもの。
人は、心を洗いたくなるものだ。
特に、人などを殺すと否が応でも自分が嫌いになる。
消えもしない血痕を、濯いで、濯いで。
落ちずとも、汚れていても、綺麗になったように己に言い聞かせる。
人は弱い。
思ったよりもずっと。
「失礼ながら、剣士殿のお名前を伺ってもよろしいですか?」
「アスラ・カルナ、と申します」
パリティスと視線が交錯する。
こちらを見透かすように、黒い真珠のような眼差しが向けられる。
アスラも、深い深い森の色を切り取ったような翠眼で、それを受けた。
弱い風が吹いている。
パリティスとアスラの服が小さく膨らんでいる。
深い血で染めたような臙脂色と、何もかもを脱色したような無垢の生地。
両者の腰には、細いつくりの剣と、古ぼけた長剣。
黙然と、何かをする訳でもなく見合った。
花の香りがする。
百日紅の匂い。
アスラの故郷に咲く、赤い花の匂い。
そして、痛烈な腐臭。
泥のような、冷たいかおり。
曇天に、大きな音が響き渡った。
様々な波長が絡み合ったような和音が、坂の上から鳴らされる。
昼の鐘。
ネルガンとの約束がある。
アスラはセトナと頷きあって、パリティスへと向き合う。
「では、パリティス殿。
手間を取らせて相済まぬ。
これにて、おいとま仕る。
さらばじゃ」
「パリティス様のご健勝を祈っております」
互いに高い声で彼に別れを告げる。
パリティスはお辞儀をして、セトナの灰色の瞳を見つめた。
何か、言葉が出かかっているように思える。
「セトナ様は、荒んだ世界を慈悲が癒すと思われますか」
低い声は、貧民街の中にとろけそうだった。
パリティスの首元で、二重の輪が揺れている。
セトナは少し驚いたような表情を浮かべた。
しかし、すぐに黒い杖を胸に抱いて、柔らかく、柔らかく、微笑みながら言った。
「もちろん。
例え世界が傷んでいても、きっと良くなります。
人が、そう信じてあげれば。
だって、神様は優しいから」
澄んだ声だった。
氷晶をすかし込んだような、触れて壊してしまうような声。
雲間から、光の帯がさし始めた。
百日紅の木から、花びらが舞う。
アスラは、その軌跡を追いかけた。
遠く遠く、風に乗って赤い色が飛んでゆく。
路地を跨ぎ、屋根を超え、港の先へ。
「そうですね」
パリティスは、黒曜石のような瞳を閉じて、手に持つ空の器を強く握った。
アスラとセトナは歩き出した。
花びらが舞う中、彼の姿が遠ざかってゆく。
鐘の音が響いていた。
強く、強く、それは鳴らされている。
遠くからでも、百日紅の色は、あまりに鮮やかだった。
用語集
・百日紅
東アルヤート語ではロミア・ストレル。赤い花を咲かせる木。
病に強く、あまり大きくならず、夏場に真っ赤な花を長い間樹冠に咲かし続ける。
花言葉は、雄弁、そして不用意。この地方では枯れない花、つまり永遠の栄華の象徴として幸福の植物とされている。




