1章(10) 二つの輪 後編
扉の中にある、薄明かりの玄関に足を踏み入れる。
日差しは入り口の枠にとどめられて、背中に感じていた暑さが退いた。
磯の香りは薄くなり、香油や香水の強い匂いが鼻孔をくすぐる。
明かり窓から光が注ぐロビーの床には、いかにも清潔そうなタイルが一面に敷かれていた。
塩害を防ぐための加工がなされたシックな作りの玄関扉が閉まり、外の喧騒が遠のく。
中を歩く数人の商人がこちらを見る。
品評するような眼差しが投げられては消えた。
ネルガンは、商会館へと入館したのだ。
アスラは持ち前の明晰な頭脳を駆使し、攻撃的な動きに出た。
ダミーの背嚢に、粗野な振る舞い。
相手の出方を伺う諜報戦だ。
基本的には悪くない。
こちらには情報がないのだ。
ただ、セトナが心配である。
これは囮の作戦だ。
護衛という観点から考えれば良くないが、それ以前になぜ護衛をしなければいけないのか、という問題を解消するアプローチ。
反対したい気持ちもあったが、理は彼にあった。
呪い師についても、護衛と同様に商会館の内部には入れない。
呪いも十分に人を害することができるからだ。
ネルガンとの行動ができない以上、アスラにはセトナを護衛してもらいながら街の地理などを把握してもらった方が有益だ。
類い稀な強者である彼が側にいれば大事に至る可能性も低い。
状況を把握する動きにしても、早ければ早いほどいいだろう。
ただ、それでも心配なものだ。
セトナは物分かりの良い子だが、ああ見えて正義感が強い。
信念のある子なのだ。
余計なことに首を突っ込んだりしていなければいいが。
ネルガンは、玄関扉から離れるようにゆっくりと歩きだした。
ロビーの中央には複数の机が設けられて、商人連中が商談やあるいは書類の記入などを行っている。
ここでの商談は挨拶のようなもので、本格的なものになれば商館の別室にて懇々と実施される場合が殆どである。
有難いことに壁は厚く、防音の能力も高い。
商人にとっては、様々な意味合いで便利な場所というわけだ。
ロビーの先には階段が伸びており、それが一旦踊り場を経由して、左右に分岐しながら2階へと繋がっている。
数人の商人が話し込みながら階段を降りてきていた。
ネルガンも聞いたことのない異国の言葉が話されている。
中央のやや背の低い青年が、その耳慣れぬ言語を〈東アルヤート語〉へと翻訳していた。
通訳というのも、港町では重要な仕事だ。
責任は重いが、給金もいい。
言語が分からないというのは、計算をし損なうことと並んで商人として最も致命的なことの一つ。
優秀な言語通訳者は引く手数多なのだ。
ネルガンはふと、踊り場の上を見上げた。
窓から溢れる光の帯の先に、肖像画が描かれている。
口髭を蓄えた中年から老年ほどの男性が、おそらく執務室の椅子であろうものに腰かけて、遠くを望んでいる。
非常に古いものだ。
年に一度、大掃除を行う際に絵師が検分をし、また例外的に呪い師が屋敷の中に入って劣化を抑える呪いを掛けて保護するほどの美術品。
実に、400年以上昔に『風の縁の会』の前身にあたる組織が旗揚げされた際、当代随一の名画家が筆を取った。
これは、偉大なる商人の絵画だ。
船乗りの互助の会を発足させ、その取りまとめを行っていたという船乗りの神様。
そう、つまりは『カイ・グラハム・クロウベル・エッテム』。
『カイ・エッテム』。
ネルガンは、にわかに口の中が乾くような気がした。
この世の袋小路に迷い込んだ際に、ネルガンが何の情報でも欲しいと思い、〈聖地〉の剣客へと質問を投げた。
外界に知り合いはいないか、というような内容。
ーー『カイ・エッテム』。
翡翠の瞳をした剣士は、中性的な声で静かにそう言った。
単なる、同姓同名だ。
通常の尺度で考えれば、そのような結論になるのが当たり前。
しかし、天が異なるような異境〈聖地〉。
彼、アスラの扱うあまりに古い〈東アルヤート語〉の言語活用。
もしかするというのか。
この『風の縁の会』の創設者といっていいような商人と、アスラは知人であるかもしれない。
カイ・エッテムは商人ではあるが、偉大なる冒険家でもあった。
商会で厳重に保管されているカイ・エッテムの手記には、若いころの冒険の日々が克明に記されているという。
だが、400年。
400年前だ。
あまりにも時間の隔たりがありすぎる。
分からない。
何が起きているのか。
これは実際のところ、資金洗浄などよりも余程重要な事態かもしれない。
カイが若いころに船に乗せた人員は、いずれもが偉人といっていい功績を残したものばかり。
もしかすると、かの〈聖地〉島へと、船乗りの神は行ったことがあるのか。
透明な薄い蠟が塗られた額縁の中で、カイ・エッテムは何かに想いを馳せている。
彼の視線の先には、どうしてかアスラがいるような気がした。
ネルガンは頭を振った。
今は、そのようなことを考えている場合ではない。
確かに、アスラの故郷が持つとびきりの神秘や、船乗りの神との関係のことも無視できる問題ではない。
しかし、それ以前に商会におけるお家騒動の件がある。
これの調査が先決だ。
ネルガンの推理では、書類が何らかの鍵を握っているという可能性はあると見る。
傷みが酷くなる沿岸の倉庫に長く置かないため、既にこちらに運ばれている含みは十分にある。
怪しい所は、資料の保管庫。
機密度の高い書類についてはアクセスすることができないが、持ち出しの記録などについては追える。
なんのことはない書類に偽装されているという線も無論あるのだが、そうなると閲覧される恐れがあるので、プロテクトを設けているのが自然だ。
幸い、こちらの動きは早い。
荷物が荷揚げされて、その翌日には商会館へと足を運んでいる。
まだ、一時的に保管されていることも十分あるだろう。
ロビーを左へと進み、廊下へ入る。
泥などを落とした靴が、かつかつ、と乾いた音を立てた。
青い海を切り取った窓が落した光の中を、7つか8つ通り過ぎて、目的の部屋へとたどり着いた。
扉を2回拳で叩く。
入室するという意思表示をした訳だ。
ゆっくりと部屋に入れば、警備の衛士が数名と保管庫の係員が目に入った。
インクの匂い。
それに、古い紙のすえたような匂いがそこに充満している。
係員は、おや、何か御用でしょうか、とこちらを見つけて筆記を止め、ゆっくりと立ち上がった。
灰色の髪を後ろに撫でつけた、初老の男。
ネルガンも知っている人物だ。
「これは、ニマン殿。
お久しぶりです。
ご無沙汰をしておりました」
「こちらこそ、ネルガン殿。
噂話ですが、大変な冒険をしてきたようで。
ご無事で何よりです」
ニマン・ダンセン。
今は書類保管庫の番人をしている司書のような人物だが、数年前までは敏腕の商人として名が知られたものだ。
とにかく驚異的な記憶力の持ち主で、数年前に少しだけ話したよもやま話の内容を、昨日話したかのように克明に覚えていたことにネルガンは驚いた。
帳簿の間違いや失注もまずなく、腕の良い商人の中道を行く男だった。
この男は、派閥としては現会長派である。
ゴーウェン支店長の派閥というのは、旧会長派になる。
つまり、まさに敵対派閥に属しているといっていい人物。
現会長が、本部膝下の書類の管理を命じたというのは並のことではない。
それはそうだ。
商売の上で最も重要なもの。
それは情報だ。
その結晶である記録書類の保管などは、優秀で信頼できる部下に任せたいというのが上司の本音である。
ニマン・ダンセンは本部でも有数の要注意人物と評してもいい。
「ニマン殿、早速で申し訳ないのですが、直近における書類の移動記録を拝見させていただきたいのですが…」
「ええ、結構ですよ。
しかし、またどうして移動の記録を?」
「いや…実のところなのですが、航海の途中で少し襲撃めいた事件がありましてな。
後で詳しく報告をしようと思っているのですが、相手が何を狙っていたのかが少しは分かるやも、と思った次第で…。
私は本航海で書類を運搬しておりましたからな」
ネルガンは正直に事を述べた。
これには意味がある。
ニマン・ダンセンはどう出てくるか、ということ。
この男が迂闊なボロを漏らすことは決してない。
そして、逆にいえば優秀だからこそ分かることがある。
判断を誤る可能性が低いということ。
ニマンが漏らすような情報は概ね価値がなく、ひた隠しにするようなものであれば、何らかの価値があるということだ。
この商会本部に集まる全ての書類を監督している彼は、あらゆる事情を把握しているといって相違ない。
間違いなくゴーウェン支店長の資金洗浄についても警戒するように、と話を通されている筈。
「…なるほど。
それは災難でしたね。
とすれば、噂の船の損傷も?」
「ええ。
私の見立てでは、何らかの動物を操っていたのでは、と踏んでいるのです。
確たる根拠はありませんが…。
あれは執拗な襲撃でした。
怪しいと見た方が良い」
「……なるほど」
ニマンは深く考えたのちに、お待ちください、と瞳を閉じた。
彼は目録など直接閲覧しない。
頭の中に目録を記しており、それを書き出す必要がある時のみペンを取る。
「良いですか、ネルガン殿。
今回我々が貴殿に依頼をした書類の運搬ですが、基本的には支店における消耗品の受領書や備品調達の帳簿の写しです」
「なるほど」
予想していた通り。
通常、商会から直接の依頼が来る書類運搬の仕事はそんなものだ。
内容は伏せられて、比較的に重要度が低いものを運ばせる。
これは、重要なものを運ぶ、という宣言をしてしまえば、それを盾に取って悪用するものがいるからだ。
それこそ、本帳簿などを運搬する最中にその商人が裏切りでもすれば、その情報はとてつもない金額で商売敵に取引をされ、商会は痛打を受けるだろう。
「ですが…。
今回は少しだけ事情が異なります。
決算時期が近いこともありますが、ゴーウェン支店長は重要な書類をその中へと忍ばせていました」
なんだと、という言葉が口から出かかった。
ニマンはとびきりの切れ者。
ネルガンの中ではアスラに比肩しうるほどの頭脳を持った男。
己の陣営の利益にならないことは口にせず、敵に塩を送るようなこともない。
つまり、この発言は何らかの嘘か、そのまま真実であるということになる。
見極める必要がある。
「重要な書類、ですか…。
なるほど。
本船にはセトナやドーブ・エットラも同乗しておりましたからな。
それを秘しながらもある程度の安全は担保できる、とゴーウェン支店長は踏んだのでしょう」
「仰る通りかと」
「ちなみに、書類の内容はうかがえますか?」
「儀礼的なものとだけはお教えできます」
儀礼的なもの。
なんだそれは。
帳簿類ではないのか。
その上で決算時期が近い。
いや、待て。
そうなれば、その書類は思っていたよりも余程重要なものなのではないか。
商会の決算時期には、〈風海祭〉という大きな催しが開かれる。
これは海の神に一年の船旅の安全を祈願するもので、海運を主戦場とする『風の縁の会』にとっても極めて大切なもの。
幹部会が開かれ、決算報告が行われ、その後に商売の繁盛を願って、船乗りの神へと神事めいた祈りをささげるのだ。
その際、各支店からはある書類が持ち寄られる。
それは、『カイ・エッテム』がしたためたとされる商会の前身の組織についての取り決めが記された覚書。
商会の権威の象徴であり、また長い歴史を物語る遺物。
それを複数の頁に分けて、その年の支店長に選ばれた人物へ譲り渡すことこそが、商会の期変わりの催しなのだ。
〈風の記し〉。
『風の縁の会』の始まりの古文書。
「まさか…。
それは、かの書だと?」
「そうです」
ニマンは静かに頷いた。
待て。
まだ、こちらを嵌める為の罠という可能性が残っている。
そう思わせることでのメリットは何だ。
こちらが誰に連絡を取るか、というのを測っているのか。
あるいは、〈風の記し〉という大きな名前を使って何かをしようとしている、ということもありうる。
静かに探りを入れてきているのか。
「しかし、かの書は『風の縁の会』にとってもあまりに大きな意味を持つもの…。
それを依頼して運ばせるということがあり得るのでしょうか?」
ニマンからすれば、シラを切っているように思えるかもしれない。
しかし、内実はそうでもない。
これは資金洗浄を巡る騒動である筈だ。
ここでどうして〈風の記し〉などという枢要な書を持ち出したのか。
その疑問は心からのものだ。
「『失敗してはならない』からではないでしょうか?
近頃というのは、想像もしないような悪天が見られることがあります。
これは、ある宗教などでは世界の歪みなどとされているようですが…。
そこで、優秀な船乗りと水主が欲しい。
息女でいらっしゃる水主のセトナ嬢はこの地域では有数の祈り手とか。
ネルガン殿も腕利きの操舵主として名が高くていらっしゃる」
失敗してはならない。
言いたいことは分かる。
〈風の記し〉を送付することを事前に商会内部に伝えておけば、流石に敵対派閥も手出しをすることが難しくなる。
いくら資金洗浄を試みる怪しい船だとしても、それを害して沈めたり、襲撃することはリスキーだ。
万が一にでも〈風の記し〉が紛失すれば、無論ゴーウェン支店長への責任追及および失脚を狙えるが、書簡を失うことに違いはない。
もともと、言語の変遷をも嫌って口調を正すほどに伝統を重んじる感性がある組織だ。
歴史の一部を失わせる工作が露呈すれば、それこそ内部の激烈な反感を買う。
それを行うことすらも難しいかもしれない。
ネルガンはここまで考えて、ふとある人物の言葉を思い出した。
ーーこの船は沈めてはならないのです。
つい先ほど耳にした言葉。
がらんどうになった船底で、それがひどく反響した。
ーーなぜなら、それはあまりにも勿体無い行為だからです。
保険の査察員はそう漏らしていた。
合致している。
〈風の記し〉を船に積んでおけば、少なくとも内部勢力に対する威嚇は十分に効く。
何故なら、資金洗浄を止めることよりも、〈風の記し〉を無事に運ぶことの方が遥かに重要だからだ。
ニマンは嘘をついていないかもしれない。
少なくとも、商会として失っては困るような何かを運びながら、それを盾にして資金洗浄は行われた可能性が高い。
極めて巧妙な計画だ。
船が無事についても、沈んでも金が回るように仕組まれた金の輪。
嵐が来ても、海賊がきても問題はない。
保険のことを突かれたとしても、〈風の記し〉を運ぶことを議論に上げて、念の為に特級のセーフティーネットを用意した、と言い逃れができる。
ネルガンに受け取りを分散しているのも、慰労金だ、と説明がつく。
そして、商会内部はまず手出しができない。
邪悪で美しい策謀。
流石は怪物ゴーウェン・ロッド、といった所か。
「いや…待て」
「どうかなされましたか?」
ニマンが怪訝な顔をした。
ネルガンは、保管庫の床に目線を落としていた。
白っぽい何らかの岩石を加工したタイルが敷き詰められた床板。
その一枚に、小さな亀裂が走っている。
だとしたら、テザムはどうした。
〈船飲み〉は。
奴は何を狙っていた。
敵対派閥は、船を沈めてはならないのだ。
まさか、違うのか。
テザムはこの一件に絡んでいない、とでもいうのか。
ーーネルガン殿、お気をつけて。
査察員の残した言葉が耳の奥で響く。
最初は、商会の陰謀に巻き込まれたことに同情をしての発言かと思った。
だが、保険の査察員は、こう言いたかったのではないか。
テザムが残した穿孔の痕跡。
それはつまり、船を沈めようという意思。
商会として船を沈める行為に利がないという前提で考えれば、当然ながら矛盾の強い行動。
奴は、この一件と関係がないから、私は預かり知らぬから『お気をつけて』ということではないか。
ネルガンは背中が冷たくなるのを感じた。
馬鹿な。
南の海の怪物〈船飲み〉を誘引するほどの大掛かりな策だ。
アスラの言う通り、個人でどうこうという域はおそらく超えている。
商会でなければ、どこが。
何の目的があって船を狙ったのだ。
「ああ、いえ…。
少し思い当たったことがありまして」
「ふむ…。
例の襲撃についてでしょうか?
話によれば、かなり大きな損傷があったとか。
すでに造船所に船は送ったのですか?」
「いえ、まだ内泊に。
準備自体は整っています。
昨日のうちに底荷は抜いてしまいましたので」
ニマンは少し考え込んだ。
顎に指を這わせて、静かに床を見つめている。
今の会話がなんだというのか。
「差し支えなければ、何に襲撃をされたか伺っても?」
「ええ。
〈船飲み〉。
化け物鯨です」
「歌う海の、かの鯨ですか?
南の果てではなく、この近海で…。
作為を疑うのも分からなくはありませんが…」
流石のニマン・ダンセンも混乱したか。
そうだ。
それは通常では決してありえない。
テザムの持っていた笛があの怪物を呼んだのだ。
それなりに長く商人をやってきたが、ネルガンも化け物を呼ぶ魔笛など聞いたこともない。
ただ、珍しい道具、あるいはローカルな呪術的な品というのは得てして日の目を見ないもの。
「ニマン殿、ありがとうございました。
大変に参考になりました」
「いえ、お気になさらず。
ネルガン殿、私は貴殿が嘘をついているとは思っていませんが、やや飛躍のある論だとも思います。
ただ、本当に例の書類を狙ってのものだとすれば、それは穏やかなことではない」
ニマンは淡々と、しかし、最後は力を込めて言葉を紡いだ。
彼の言う通りだ。
〈船飲み〉を用いた策だが、政治的な意味合いを持つ可能性が強く出てきた。
つまり、超自然的な災害に見えるような手段を取ることで、世間的な不審な見え方や、作為を包み隠そうとしているのだ。
考えられるのは、商会を快く思っていない大きな組織。
ネルガンの船を沈められるのは、商会にとって非常に痛いこと。
重要な遺物である〈風の記し〉、そしてセトナ・デ=ヨビスというこの国でも有数の水主を同時に失うことになるのだから。
資金洗浄、お家騒動云々という次元の話ではなく、より深刻で巨大であるかもしれない問題。
だからこそ、ニマンはネルガンに情報を与えたのだ。
ネルガンが保管室を後にしようとしたその時だった。
廊下側から少し急ぎ目の足音が響いてくる。
間もなくドアがノックされて、歳の若そうな商人がやや勢いよく入室してきた。
一応の知り合いだ。
ニマンが僅かに嫌な顔をした。
彼は乱暴な所作などに神経質なのだ。
部屋の中を見渡し、ネルガンの姿を見出すと、
「ああ、ネルガンさん。
商会館の前に貴方に面会を希望する方が来ていまして。
貴船の乗組員をしていた方の奥方のようです」
と、声を掛けてくる。
誰だろうか、とネルガンは首をかしげた。
乗組員の妻。
どうして本人ではないのか。
それも、わざわざ坂の上の商会館にまで訪ねてくるとは。
よほど急ぎの用事があったとみえる。
「ありがとう。
その方は、玄関先でお待ちかな?」
「いえ。
少し込み入っていそうでしたので、応接間を一つ抑えましてそちらでお待ちいただいております」
ネルガンはいよいよ状況が分からなくなった。
簡単なやりとりであれば、玄関先か、それこそロビーの空間で事足りる。
今は時間が惜しい。
例えば、当人が倒れてしまってその代打での条件交渉や賃金の交渉ということもあり得るが、できれば後回しにしたい。
情報というのは鮮度がある。
歪んだり、隠されたりされぬ早いうちにここで収集をしてしまいたい。
とはいえ、来客があったことも捨て置けない。
あるいは、これは妨害工作なのか。
時間稼ぎのための刺客という線も否定はできない。
「そうか。
ありがとう。
申請費用は建て替えてくれたのか?」
「はい」
ネルガンは若い商人に金を渡して応接間へと向かった。
廊下を渡り、再びロビーへとつく。
そのまま真っすぐに進み、商会館の向かって左側へと歩を進める。
少しばかり雲が出てきているようだ。
ネルガンは窓の外を見た。
雲が太陽を食っている。
日光が随分弱まって、館の廊下に湿るような暗さが満ちてきた。
夜になると灯されるあかりはまだない。
窓がない箇所は、まるで別のどこかへと繫がっている洞のようにも見えた。
奥から3番目の応接間を若い商人は取っていた。
白花樹という珍しい樹木を加工して作られた洗練された扉。
それが、どうしてか嫌に黒っぽく見えた。
ノックをして、中へと入る。
暗い。
部屋の調度品が、廊下側の明るさを拾って白っぽく光を返す。
何故か、カーテンが閉められているようだ。
一枚板を贅沢につかった長机の上に、透明な花瓶が置かれている。
白い花が一輪だけ生けられていた。
その奥に、人影がある。
名工が手にかけた繊細な椅子に、俯き加減の女性が腰かけていた。
身なりは、どうだろうか。
はっきりと言ってあまり上等ではない。
ネルガンが部屋に一歩踏み出すと、女性は顔を上げた。
隈がひどく、髪はもつれて、生気がない。
そして、徐々に廊下の明かりが彼女を照らす。
ネルガンは、生唾を飲み込んだ。
乗組員の妻。
当人はここへと来られない。
あるではないか。
まさに、その条件に合致するような例が。
知った顔だ。
女性は、青白い幽鬼のような表情でこちらを睨みつけてくる。
彼女の名は、カレナ。
そして、姓はオンモル。
カレナ・オンモル。
〈船飲み〉を呼び、そして最後は自ら命を絶った男の配偶者だ。
♢
ネルガンは最初に頭を下げた。
カレナの夫、つまりテザム・オンモルについては自殺ということで話をつけてある。
これは船内においての共通認識であったし、嘘ではない。
ただ、奴が〈船飲み〉を呼び寄せ、船を沈めようとしていたということについては、アスラとドーブを除く船員には共有していない。
不幸な自死。
〈聖地〉から抜け出せないかもしれないという焦燥が、テザムを追い詰めたのではないか、と船内では噂されていた。
なんにせよ、船員に命を落とさせたのは事実。
それがいかに悪意を秘めた工作員であっても、表向きは悲しい運命を辿った水夫なのだから。
「貴方が夫を殺したのですか」
カレナは、色の褪せた服を握りしめながらそう言った。
やつれた目元には、涙が滲んでいる。
「本日ご報告をさせて頂くつもりでした。
テザム殿は…。
服毒をされ、自ら命を絶たれました」
カレナは、眉を上げ眉間に皺を作りながら、勢いよく立ち上がった。
椅子は倒れ、机はずれて、花瓶が横倒しになる。
闇の中に、水の滴る音が聞こえた。
その水面に、憎悪に満ちた表情の彼女が映り込む。
「嘘よ!
嘘!
毒なんて、何で持っているの!
貴方たちが、夫を殺したに違いないわ!」
ほとんど悲鳴のような叫びだった。
涙が垂れ落ち、口角に泡がたって、ネルガンをいまにも射殺そうと爛々と睨みつける。
どう答えればいい。
実際、彼女の主張は分からないでもない。
よもや、自分の夫が、己の乗る船を沈ませるために、様々な道具を持ち込んでいたなどと思う筈がない。
誰かに毒を盛られて亡くなった。
そして、それをネルガンが隠蔽しているのでは、という邪推も無理からぬこと。
「…残念ながら、本当のことです。
実際に、彼が服毒をするのを見たものもいる」
「嘘!
嘘!
嘘!
そんなことはない!
話を合わせているだけ!」
聞く耳も持たず、カレナは感情的に言葉を投げつけてくる。
確かにこの状態ではロビーなどで話しはできない。
かといって、無下に扱うこともできない。
人が死んでいる。
彼女には、自分の夫が亡くなったことについて質問をする権利がある。
そして、船長であるネルガンにもそれに答える義務がある。
「重ねて申しますが、本当のことです。
突然のことでした…。
お悔やみ申し上げます」
「ふざけるな!
私と子供たちがいるのに、なんでテザムが死ぬの!
死ななければならないの!
あの人が!
どうして!
どうして…!
どうして……!」
カレナは殆ど崩れるように膝を折った。
声は小さくなってゆき、血を吐くように答えの無い問いをつぶやいた。
敷かれた絨毯の上に音もなく涙が落ちる。
ネルガンは何も言葉をかけられなかった。
奴は悪人だが、不幸な目にはあっていたのだと思う。
しかし、同情もできない。
船を沈めようと暗躍していたのは事実。
話によれば、最後の最後にはセトナを狙っていた可能性すらある。
許すことはできない。
死んで当然とまでは思わないが、それ相応の悪事は働いているのだ。
己を正当化する理論が湧いてくる。
正しいはずだ、と囁く声が聞こえる。
どうしてか、アスラのことが思い出された。
帰港をして執務室で雇用条件について話し込んでいる際に、アスラが落ち着き払いながら口にしていた。
おれに高い金を払うつもりなら、その分をコルビンスとテザムの遺族に回してくれ、と。
ネルガンは、アスラに報酬の一部を渡す際に再度尋ねた。
本当に良いのですか、と。
彼は、淡々と言った。
コルビンスも、テザムも、俺が殺したようなものだ、と。
ネルガンは心底思った。
いかれている。
何もかもに手が届きうる煥発な才気が、彼を酔わせているのでは、と俄かに思った。
瀕死のコルビンスを手当てして救えなかったのも、テザムを自死へと追い込んだのも、全ては己の罪業だと定義しているのなら、それは傲慢だと。
だが、恐らく違う。
病的に当事者意識があるのだ。
侮らない、侮れないのだ、物事を。
アスラなら、この場でどのように言葉をかける。
ひたすらに罵られ、場合によって殴られ、それでも頭を下げ続けるのだろうか。
できない。
そのようなことは。
「どうすればいいの…。
子供たちは…。
どうやって生きていけば…」
ネルガンは、地べたにすがるカレナの装いをよくよく見た。
ゆったりとした服はもともと鮮やかな緑をしていたのだろうが、随分と退色して白っぽくなっていた。
靴もかろうじて穴があいていないが、つま先のあたりは見るからに摩耗している。
確か、テザムの一家は〈始教〉の援助を受けていた筈。
上の子供を兵士にしようと練兵塾に通わせたが、水夫の稼ぎとカレナの内職だけでは賄えず、寺院に相談に行ったという話を聞いたことがある。
下の娘もまだ幼く、比較的に病気がちであるとも。
「嫌な予感がしていたのよ…。
貴方の船に乗る前に、テザムが寺院へ足繁く祈りに行っていたわ…。
それに、息子が欲しいって言っていた模造剣を買ってあげたり、私に指輪を贈ってくれたり…。
今思えば、あの人はきっと死ぬのが分かっていたのよ…」
悲痛な声で血を吐くように、カレナはそう言葉を紡いだ。
テザムは、この街を出る時から死を覚悟していたというのか。
つまり、前金のようなものを貰い、今生の別れになるかもしれない家族へと贈り物を遺した。
敵ではあるが、悲痛なものだ。
どのような気持ちで、奴は出航を果たしたのか。
「夫を返して…。
どうして〈始神〉様…。
どうしてテザムを殺したの…」
テザムの一家は、敬虔な〈始教〉の信徒である。
彼の持ち物にも、〈始教〉のモチーフである2重の輪のネックレスがあった。
テザムは、己が巻き込まれたであろう陰謀を神に語っていたのだろうか。
そして、懺悔をしていたのだろうか。
「…本当に、夫は毒を飲んだの?
嘘ではないの?」
「…本当のことです。
彼はどうしてか毒を持参しており、それを服用した」
少し落ち着いてきたのか、カレナは目線を合わせずに尋ねてきた。
それに対し、ネルガンは粛々と事実を述べた。
沈黙が降りる。
隣の部屋から、かすかな談笑の声が届く。
「…テザムは、この港をたつ前に妙なことを言っていたの。
俺は神様を嫌いになったかもしれない、って」
ネルガンは首を傾げた。
何の話だ。
己を取り巻く理不尽に憤っていたのか。
しかし、〈始教〉の信者が創世神たる〈始神〉を嫌うとは生半なものではない。
「あの人は、神様を信じ抜く人だった…。
何か、深く傷ついたり、思い悩んでいることがあったのかもしれない…」
カレナは後悔を含みながら語った。
アスラから聞いた話では、テザムは相当の懊悩をしていたようだった。
セトナの部屋の前でうろつき、良心と戦っているように見えた、とドーブも供述している。
セトナの〈氷唄〉を聴かせてくれ、と哀願し、最後は涙を流した。
そして、テザムは服毒をしてこの世を去ったのだ。
(そういえば…)
冷静になって考えれば、どうしてテザムはセトナの唄のことを知っていたのか。
それも、何故追い詰められて〈氷唄〉を聞きたがった。
アスラから話を聞いた当時は様々な事態に頭が絡まっていたが、考え直してみればおかしいではないか。
〈氷唄〉はあの子のルーツともいえるもの。
拙い使い方は兎も角、何かにつき動かされるように歌いたくなる時があるとセトナは言っていた。
大きな力を込めさえしなければ、あの唄の真価は発揮されない。
あの子が隠れて〈氷唄〉を歌っていて、何処かでそれを聞いたのだろうとネルガンは推理を放棄した訳だ。
だが、そうでなかったとしたら。
テザム・オンモルは、何者かに〈氷唄〉の存在を知らされていた。
セトナを狙おうとし、あの子の優しさが病めるテザムを救ったのだとしたら。
薄暗い部屋の中、机の上に倒された透明の花瓶が転がっている。
締め切られた奥のカーテンの隙間から、か細い光が注いでいた。
硝子の造形瓶は、その場所だけまるで眩い宝石のように煌びやかに見えた。
セトナの〈氷唄〉の歌声が確かに耳に響く。
そして、溶けない氷の冷たさが脳裏をよぎる。
闇の中にある星のような輝きは、一瞬確かにネルガンの目を焼いた。
まさか。
まさか。
見つかったというのか。
あの子が。
「〈始教〉…」
ネルガンの口から、そんな単語が漏れた。
カレナが、わずかに顔を上げた。
その首元には、二つの輪が重なったモチーフの首飾りが揺れている。
顔を汗が伝うのが分かる。
足が震えていた。
テザム・オンモルの家庭は貧しかった。
〈始教〉は、恵まれないものたちへ無償の援助を行なっている。
ただ、この慈善の取り組みには奇妙な黒い噂がある。
支援というのは聞こえがいいが、少し歪んだ捉え方をすればそれは〈始教〉へと依存させるということ。
援助を頼りにする人らに対して、それを打ち切ると脅迫をし、コントロールをしているのではないか、という邪説。
ネルガンも流石にこれは悪意のある捉え方で、〈始教〉の社会への貢献については評価できるものという認識があった。
だが、それが本当のことだとしたら。
恵まれないものを捨て石の傀儡にし、何らかの悪事や工作を働かせていたとしたら。
ただでさえ〈始教〉を信仰するものは多い。
貧しいものらでいえば、輪をかけてそうだ。
例えば豊かなものが貧しいものに襲われたとして、世間は格差が人を鬼に変えた、と取る。
〈始教〉が、その信徒が、という認識の仕方はしないのだ。
あの優しい〈始教〉でさえ、病めるものを癒しきれないのか、という諦念さえ呼ぶだろう。
繋がる。
全てが繋がってゆく。
頭の中に、輪が重なる。
ゴーウェン・ロッドの金の輪に、〈始教〉の二重の輪が重なって見える。
これは、この一件は、2つの陰謀が船の上で交錯したもの。
商会における、旧会長派の資金洗浄。
そして、そして。
〈氷唄〉の力を恐れた〈始教〉が、セトナ・デ=ヨビスを暗殺するために仕組んだ策謀。
輪は2つあった。
2つあったのだ。
吐き気がする。
なんだこれは。
どれほど悪辣な手段なのだ。
ネルガンは、向かいの窓から弱く差し込む光の帯を見た。
花瓶が透けて転がる先に、先ほどよりも広がった暗い水たまりがある。
その中に、白い花が花弁を酷く歪ませながら水に浸っていた。
数枚の花びらは無残に散らされて、闇の中に孤独に浮かんでいる。
滴る水の流れにそって、その一枚は床へと消えていった。
カレナのすすり泣く声が、暗い応接間に鈍く響く。
テザムは、神に見捨てられたのか。
奴は、人質を取られていたこともありうる、とアスラは述べた。
テザムが信じた神は、奴を救わなかった。
捧げた祈りは、奴を本当の暗闇へと導いた。
全ては、組織のため。
信者の一人や二人、いなくなっても何ら影響はない。
そうだ。
〈氷唄〉こそ、始まりの神へと唾を吐く、まことの魔の術。
だが、テザムは〈氷唄〉にこそ神を見たのか。
無垢なる風花に、セトナの深い慈悲を見出したのか。
分からない。
テザムが、どのような心情だったのか。
安堵なのか、歓喜なのか。
それとも、〈始神〉は結局己を救ってくれなかったという悲哀なのか。
「テザム殿の慰労金については、本日お渡し致します」
ネルガンは、目眩を覚えながらも姿勢を正した。
もはや、商人としてできるのはこれだけだ。
テザムのことは、言葉に尽くせぬほどの不幸だとは思う。
カレナの身を引き裂かれるような絶望も、だんだんと心に刺さり込んでくる。
しかし、それどころではない。
恐れていた事態が起こった。
絶対に起こってはならぬことが。
〈氷唄〉の本当の効力が、世に知れてしまった。
それも、何より危惧していた形で問題は進行しつつある。
〈始教〉。
その主な資金源は、塩の利権。
流通がこれほど発達した世の中にあって、保存食というものは引き合いが多い。
20日から30日は腐らない食糧は、軍隊などにとってみても魅力のあるものといえる。
だが、それの作成には長大な時間と、大量の塩がいる。
特に、容易に補給ができない海上において、塩漬けの肉は必需品。
塩の寡占を行なっている〈始教〉を快く思わない団体は多く、それこそ『風の縁の会』もそうだ。
では、呪いはどうだ、という話がある。
船には水主もつく。
呪い師が食料に保存の呪いをかければ、それで事足りる。
だが、それは出来ない。
ダメなのだ。
この世には〈壁〉がある。
〈始神〉は、この世を創られた際に、人の限界を定めた。
この世におこりうる超常、奇跡の限界を。
生きとし生けるものは、すべてある〈壁〉を持つ。
それは、生命の冒涜を赦さぬ、神の箱庭の境界線。
命の残り香は、その〈壁〉の、この世の強い警戒心の去らぬ証拠なのだ。
呪いは効かず、仮に効いたとしても、世界は命を穢されたことに怒り狂い、呪い師におぞましい復讐を試みるだろう。
ただ、〈氷唄〉は違う。
万物は世界の理から切り離され、凍てついた時の中で保存される。
神に唾を吐く術。
そして、色褪せぬ永遠を呼ぶ術。
〈始教〉はセトナを許さぬだろう。
信仰も、そして糧さえも、あの子の力は根こそぎ奪い去ってしまうだろうから。
用語集
・風の縁の会
通称、商会。中央大陸東岸部および東大陸西岸部において大きな勢力を持つ商人のギルド。風の中を飛ぶ海鳥のシンボルが旗印。
船乗りの神とも呼ばれる冒険家『カイ・エッテム』が、約400年前に船乗りの互助の会を設立し、それが後に今の形の商会となっていった。カイは商会内で神聖視されており、同時代に使用された古典の東アルヤート語は高度な教養として通っていたり、互助の会の設立当時の古文書、風の記しは殆ど聖遺物のような扱いを受けている。
海上貿易を主戦場にしているが、陸運などについても事業としては行なっている。自警の意味合いで私兵を相当量抱え込んでおり、その点で若干国家との折り合いは悪い。ただ、いずれの国も莫大な利益を生む商人の集まりを無碍にはできないのが実情で、自警ができる組織であるため、海賊などに対して自国の海軍戦力をさかずに交易を行えるメリットもあるのだ。
先代の会長が亡くなって以来、じわじわと利益が減少しており、そのせいもあってか、内部の派閥争いが熾烈になってきている。現会長派、旧会長派の2大派閥が売り上げのしのぎを削っている。作中では、司書ニマンが現会長派閥。ネルガン、ゴーウェン支店長が旧会長派閥に属している。




