1章(9) 二つの輪 前編
「さあ、さあ、寄っといで!
今朝揚げたての新鮮な魚だよ!
この四本の綺麗なすじの入り方!
極上の葉魚でしょう!」
「内陸の方から旬の野菜を卸してるんだ!
エフィーデ人参がなんと3本で100ローアだよ!
4本なら120でいいよ!
つまり、灰銀貨が1枚!
カンタル銀貨でも買えるよ!
そこの綺麗な奥さん、どう?」
海の匂いがする。
そこに様々な食品や香辛料、それに人が身に着ける香油や抹香の匂いが混ざり合って、鼻が麻痺の寸前にあった。
高くなった太陽で空気が随分と暑さをおびてきたが、海の風がそれを冷まして湿らせる。
なんという商人の数だ。
地べたに布を広げた簡素な露店や、木組みや石組みの立派な店舗をかまえる商店など、様々な色がある。
怒号に近いような呼び込みが絶えず襲い来た。
客の声も負けずに大きい。
勘弁してほしい。
アスラは、耳をおさえるのを我慢している己を褒め称えたい気分だった。
腹から絞っているのが分かる大音声。
戦士が武に命を捧げるように、商売人も商いに命を賭けている。
朝方も少しだけ経験したが、これがバークスプエルト名物の湾岸市である。
「おおう。
すごい人ですよね。
朝よりも少し多いかも…。
あっ、ごめんなさい!」
セトナが人を避けながらそんなことを言っている。
長い杖を握る腕は脇が閉められて、人の流れを搔い潜りやすいように工夫をしているようだ。
この街の人口密度はおかしい。
先ほど街中をある程度散策したが、細い路地などに入らなければどこにでも人が溢れている。
人口が多く、また入港する人間も多いだけだとは思うが、どこからか人が生えてきているのでは、などと馬鹿な考えが浮かんでは消える。
生態的に〈守り人〉の方がそれに近いのに、少数の民族であったのはなんの皮肉だろうか。
なんにせよ、警戒を強めて損はない。
セトナには隣を離れないように申し述べてあるが、杞憂であった。
これでは離れようがない。
ただ、この状態でも良い方なのだ。
身にまとう人払いが効いている。
アスラの、異教の祈祷師と形容して過言はない威圧的な服装が人を微かに遠ざけるのだ。
今もまさに、ぎょっとした表情の女性が素早く目線を伏せて通りすがってゆく。
気味悪がられてはいるが、これはこれで便利と思ってしまうのは人でなしなのだろうか。
目立つのは良くないが、護衛はしやすい。
一種の機能美だ。
アスラは後方に注意を向けた。
数百という気配があるが、そのうちの一つに神経を尖らせる。
付かず離れず、加えて何かに気を取られることもない。
例の尾行をしている輩だ。
これまた、なんということはない男であった。
少し身長が高く、若干髭の剃り残しがあり、若くも年老いてもいない。
身につけた衣服からは、駆け出しの商人にも、現場仕事の人間にも見える。
アスラが評するに、一般的な外界人の特徴を備えた人物。
合理性はある。
何故なら、特徴のある容姿や服装は諜報には向かないからだ。
アスラは今一種の防諜を行なっているが、これも囮という前提があるからこそ成立しているといっていい。
虎の毛皮に白い鳥の脚に赤い蛇の腕では駄目なのだ。
尾行や潜入などできる訳がない。
尾行だが、熟練のプロではない、というのがアスラの感想だ。
確かにある程度の場慣れはしていそうだが、徹底的に一般の人間であると偽装をしていない。
例えば、周囲とコミュニケーションも取らない。
これは、俯瞰をすればやや不審である。
市場の人間の呼び込みに、適当に返事などをしても良い。
その程度であれば注意が散ることもないし、周囲から浮くこともない。
費用対効果が高い行動。
あえてそう振る舞っている可能性もあるが、とりあえず目に見えるメリットがない。
時間がないか、能力がないか。
逆にいえば、動きが掴みやすそうだ。
これが、そう錯誤させるための演技や作為でなければ、だが。
「あっ、海瓜。
アスラさん食べたことあります?」
セトナが何かを発見した。
地べたに布を敷いて、その上に木箱を置いただけの簡素な露店である。
そこに、アスラの瞳と同じ翡翠の色に近い作物が積んであった。
これが海瓜か。
一部はバケツの中に張った水で冷やしているらしい。
店主と、その手伝いをしている子供が声を掛けてくる。
「やあ、呪い師様たち!
水を飲むより海瓜さ。
なんてったって、甘くて塩の味さえするんだからね。
〈始神〉様もびっくりさ。
こんなにお得な果物はないと思わないかい?」
「美味しいですよ!
あの…そっちの怖い呪い師の人もどうですか?」
可愛い。
日焼けをした、短髪の男児。
どのくらいの歳だろうか。
仕事をちゃんと手伝って、偉いではないか。
アスラの思惑を他所に、店主が少し子供を叱る。
怖い、などという言葉は客引きとして相応しくない、とのこと。
この教導がこの子にとって有益なものになればいいが。
躾をしておくんダナ、と抜かりなく演技をすればセトナがむっつりする。
どうすればいいというのだ。
「一つ下さい!
食べやすく割って頂けると助かります!」
まいどあり、というよく分からない掛け声と共に冷やしてある海瓜が古ぼけたまな板に乗せられる。
店主は鉈を思い切り振り下ろすと、見事に実が割れた。
ごろ、と半球状になった内側の果肉は橙の色をして瑞々しい。
手際よく形が整形されて、最終的に三角に切り出される。
セトナは懐から銀貨を取り出して店主に渡した。
まじまじとそれを観察した店主は、ひと拍子を置いて、確かに頂戴しました、と笑顔になった。
材質などを確かめたのか。
「アスラさんどうぞ。
このあたりの名産なんですよ。
船でもずっと護衛をして下さっていたので、甘いもの。
疲れが取れますよ」
「おれは食わなイ」
「えっ…。
お嫌いでしたか…」
来るべき時がきた。
アスラはこれを恐れていたのだ。
今日は本来なら飲食を控えるべきである。
果物であれば甚大な影響はないと思うが、何にせよ芳しくはない。
アスラにとって食事というものはとても難しい。
大切なもの、しかし、重要ではないもの。
アスラは目の前の状況に目を向けた。
セトナが実に不安そうな顔をしている。
店主とその子供にも、怪訝な表情が湛えられていた。
なんだこいつは、という感情が透けて見える。
彼女の好意は分かる。
重々承知しているが、実際のところ体調が良くないのだ。
「お前は何故おれを気にかけル?
おれは護衛、お前はその対象だロウ」
少し話をずらす。
受けたセトナは少し口を噤んでから、アスラの目をじっとみた。
貧しい人々への祈りをしていた際にのぞいた、憂いを帯びた灰色の瞳。
「あの…。
あまり触れるべきではないことだと思うんですけど…。
アスラさんは一人ぼっちで暮らしてたって…。
だから、美味しいものを食べたら少しは気が楽になるかもしれないって思って…」
アスラは様々な事象に合点がいった。
セトナが妙に懐っこいのも、希薄な関係値の中で身の上話を振ってきたのも、一種の共感によるものというわけだ。
この子は、孤独だったのだ。
彼女は己が味わった痛みや寂しさといったものを人に味わわせてはならない、とそう心に決めて日々を過ごしているのだろう。
「押しつけがましいですけど…。
お父さんが、暖かいパンをくれたことを今でも覚えているんです。
嬉しかった。
ご飯を食べれば、人は元気になりますから」
セトナはちいさくはにかんだ。
日の光がよく当たる。
眩しいものだ。
その通りだ。
本当にその通りなのだ。
人なら。
「…そうダナ。
一つクレ」
「はいどうぞ!
でも、そうなると思ったよりいっぱいありますね…。
持てるかな」
「なら、ここで食ってきな。
お嬢ちゃん美人だから、サービスだ」
店主が粋な計らいを見せて、露店の隅を空けてくれた。
ありがとうございます、とセトナが破顔している。
裏を探れば、美味しそうに食べてくれそうなモデルを用意するという手なのかもしれない。
結果として、セトナの善意に負けてしまった。
本来であれば誤った決断である。
しかし、彼女のはにかんだ顔が、なぜか心地よかった。
美味しいものを食べれば、幸せ。
誰でも思いつきそうな安易な理論だ。
例えば、『食べて・寝て・笑う』。
当たり前のことが何より大切であるという心がけ。
嫌いではない。
アスラも同じような人生の指針を持っている。
にこやかなセトナから海瓜が一つ手渡された。
薄い皮に、たっぷりと橙の果肉がついている。
手甲越しでも冷えているのが分かった。
日に当たらぬように気をつけながら、僅かに口元の包帯を取り払う。
小さな口でかぶりつけば、僅かな塩味と甘味を感じる。
歯切れが良い。
さく、さく、と冷たい果肉が潰れてゆく。
中には小さな種があって、これは飲んでも吐き出しても良いらしい。
口の中身を嚥下すれば、なんとなく清涼感があるような気もする。
なるほど、これは暑い季節に向いているかもしれない。
しかし酷いものだ、とアスラは種を転がす己の舌にやるせなさを感じた。
この舌は実にポンコツで、戦士として調子が良い日は碌に機能をしない。
一方、このように過食の閾値すれすれを行く時はとたんに味覚が鮮やかになってくる。
昔からそうなのだが、不便極まる仕様だ。
「美味しいですか?」
「美味イ」
セトナは猛烈に笑顔になった。
それを聞いた店主が、この通り異国の人にも人気だよ、と声を張り上げている。
商魂逞しいとは、まさにこのこと。
手伝いの子供がよそ見をしながら、女の子かな、口が小さい、とアスラを何やら揶揄している。
正しいが、アスラは微かに遺憾だった。
馬鹿なことを言うものではない。
これは、アスラが小さいのではなく、周囲が大きいのだ。
「アスラさん食べるの遅いですもんね」
セトナがどこか得意げになっている。
明確な中傷だが、これはその通りなのだ。
食事という面においてアスラは確実に全ての人類の下をゆく。
料理も一生懸命にやっているのだが、中々上達しない。
人の動きを模倣するのは容易いが、それでは愛がない。
妻や子供らに美味しいものを作ってやりたかった。
人生とはなんともままならない。
アスラは小さな口で憮然と海瓜にかぶりついた。
無心で海瓜を頬張るセトナを横目にアスラは尾行者の気配を追いかけた。
こちらに注意を払ってはいるが、仕掛けてはこない。
泳がされているのか。
アスラがそんなことを考えていると、露店に幼い少年が現れた。
客だ。
しかし、店主は煙たい表情を浮かべている。
見れば、幼い少年の格好は酷いものだ。
服はつぎ当てだらけの粗悪なもので、手足も垢にまみれてぼろぼろで、頭髪は伸び散らかってふけにまみれていた。
身分は低い。
恐らくは貧民街の子供。
「なんだ。
悪いが、金がなけりゃ商品は売れないぞ」
「冷やかしはお断りです」
固い口調。
警戒と拒絶にまみれた心情が透けて見える。
セトナは悲しい顔をしている。
だが、彼も商売人である以上は対価を要求しなければならない。
不公平というのは、人が最も嫌うものだ。
「あれ、タカロ君じゃないですか」
「え。
あっ、セトナだ!
帰って来てたのかー!」
セトナは少年と知り合いらしい。
いや、この子のことだ。
貧しい子供たちに何らかの行動をしていてもおかしくない。
単純に友達ということもあるだろう。
愛や友情に身分や立場など関係ないのだから。
「世間話は他所でやるんだな。
客じゃなきゃ帰んな」
「待てよ!
今日はあるんだ!
これ見てくれよ!
昨日の夜に港で2枚くらい拾ってさ。
重いし、多分価値がある貨幣だろ!」
「盗んだんじゃないだろうな?」
「盗んでないや!」
タカロ少年は大事そうに握りしめていた硬貨を店主に見せた。
手汗で少し湿っているらしいそれを、店主は胡散臭そうに受け取り、光にかざすように高く掲げてみせた。
黒い。
何の金属だろうか。
店主は、表面、側面、裏面とそれをしげしげと確認している。
手伝いの少年も、珍しそう、と言葉を漏らしていた。
セトナも同様である。
「どこの通貨だ?
つくりは丁寧だから偽造通貨の類じゃないとは思うが…。
中央大陸で一般に流通している貨幣ではないぞ」
店主はそう言って幼い少年に貨幣を返した。
タカロ少年はいかにも意気消沈して、なんだよ、と不貞腐れている。
冷めた、熱の生じないやりとり。
しかし、それに反応を示したものがいた。
尾行者だ。
店主が、受け取った黒い貨幣を高く持ち上げたその瞬間。
男は明らかに動揺した。
生唾を飲み込み、貨幣を凝視している。
アスラの背負う背嚢など、眼中にないといっていい。
思わぬ収穫かもしれない。
「小僧。
この店の瓜が欲しければ、おれが代わりに代金を出してヤル。
そのかわりに、その硬貨を一枚もラウ。
儀式の品に丁度良イ」
アスラは幼い少年にそう言葉を投げた。
タカロ少年は、びく、と怯えた様子でアスラを見た後に、手の硬貨と海瓜へ交互に視線を走らせる。
最終的に瓜へと目がいって、変な呪いをかけたら許さないぞ、とおっかなびっくり威圧をしてみせた。
良い度胸だ。
もっとも、アスラは呪いなど使えないが。
セトナが、悪い呪いを使ったら私が注意するよ、と言い添えると安心したようだ。
ついでに、彼女は自分の海瓜をひとかけらタカロ少年にあげている。
油断なく優しい。
「良シ。
店主。
この子供に瓜を3ツ」
タカロ少年は3つも、といかにも喜んでいた。
セトナもどこか嬉しそうにしている。
アスラは懐からネルガンに渡された貨幣の袋を出した。
計算の上の代金を店主へと渡す。
例のごとくしっかりと貨幣を検分した店主は、最後に頷いた。
幼い少年は、手の硬貨を一枚恐る恐る渡してきた。
アスラはしっかりとそれを受け取り、懐へとしまった。
店主はタカロ少年に大きな瓜を3つ渡すと、落として割るなよ、とぶっきらぼうな優しさを披露して腰に手を当てている。
うん、あんがと、と少年は去ってゆく。
最後に、また遊びにきてよ、とセトナに言い残して。
「やっぱりアスラさん優しい」
「打算ダ」
海瓜を平らげたセトナとそんなやりとりをしながら店を後にする。
アスラは少年の消えた先を追った。
尾行の男だが、今やアスラに強い興味を示していない。
正確には、より簡単そうな標的ができた、というわけだ。
先の少年が拾ったという硬貨。
これこそが渦中の品か。
アスラにこの硬貨を詳しく識別することはできないが、少なくとも今回の資金洗浄に絡んでいることは明白。
尾行の男は、恐らくその出所を探ろうとしている。
行動と結果から、そう判断するのが自然。
タガロ少年の手には硬貨が一枚残っている。
これを奪取しながら、情報を抜きたい筈だ。
「こっちダ」
セトナを呼びながら人の海をかきわける。
瓜を持ったタカロ少年は雑踏に埋もれていたが、じきに下層の住宅街を目指して走って行くのが見えた。
今は、坂の入り口あたりか。
幸い、大きな海瓜を持っており、子供の足なので速度はない。
尾行の男も小走りでその後を追う。
少年が貧民街の入り口に入ってゆく。
その背を追う男は、殆ど追いついていた。
途中で速度を上げたのだ。
見失うのをよほど恐れたと見える。
アスラとセトナもその場に走った。
貧民街の入り口は、つんとした悪臭が漂う。
地べたに捨てられた生ゴミが腐敗した臭いだ。
足元には、黒くなった野菜の破片や、魚の食べられない部分などが落ちている。
数匹の蝿が、やかましく宙を飛び回っていた。
「坊主、他に覚えていることはないのか?
その硬貨と一緒に高く買うからよ」
「だから言ったろ。
揚場で拾ったんだよ。
月の光が偶然に反射して、これが落ちてるのが分かったんだ。
最初は貝だと思ったけどさ」
アスラの耳が会話を拾う。
貧民街を入って少しの、閑散とした路地に男らの姿があった。
男とタカロ少年がやりとりの応酬をしている。
目立たない場所で尋問という訳だ。
やはり、この男は先ほどの貨幣の出所を知りたいのだ。
仕込みと怪しんでもいいが、その線は薄い。
そのような作戦は極めて非効率だ。
まずアスラが少年を見い出し、少年が見せた硬貨によって尾行の男が動揺したと気取らせ、走る少年を男が追うということを確認させなければならない。
相手の認知に依存しすぎた策だ。
しかし、揚場。
揚場か。
アスラの頭に何かが引っ掛かる。
底荷を引き出した際の金属音。
あの時の説明から、破損した錨の破片のようなものかと思っていた。
もしかすると。
見れば、次第に男が焦り出した。
語調が荒くなり、身振り手振りも激しくなる。
よほど情報を集めたいようだ。
「坊主、知っていることを話せよ。
なあ。
身のためだぜ」
「な、なんだよ」
脅迫めいた言葉だ。
セトナが不安そうにそれを見つめていた。
タカロ少年が心配なのだろう。
護衛としてはよろしくないが、直接揺さぶってみよう。
介入する、とセトナにいうと、彼女は少しほっとした顔をした。
まあ、利害の一致だ。
アスラは、セトナを伴って静かに両者へと近寄った。
影になっている路地に入ったので、一気に涼しくなる。
生ゴミが臭う。
「お前はおれたちをつけていた男ダナ?」
不意に現れて側に寄ってきたアスラを、尾行の男はぎょっとして見た。
少年との会話に集中していたようだ。
なるほど、焦燥がうかがえる。
「なんのことかな?」
「これだロウ?」
アスラは懐から少年に貰った貨幣を取り出した。
鈍く光る黒い硬貨。
男は目を皿のようにしてそれを追う。
強い執着が漏れ出している。
やはり、これが欲しいのか。
「どこへ隠した?
うまくやったつもりだろうが、まだ終わっていないぞ」
しめた。
乗ってきた。
アスラは内心でほくそ笑んだ。
粗暴な金の亡者という印象はもういらない。
この場では、丁寧さや高貴さのようなものがきっと役立つ筈だ。
関係者であることを匂わせる。
「我々の動きに隙はない。
お分かりの筈ではないかえ?」
これは、〈東アルヤート語〉の古い使い方のようだ。
アスラもそれは知らなかったが、効果はある。
男は息を飲んだ。
彼の中で様々な可能性が蠢いている。
ネルガン曰く、これは商会内でも相当に高度な教養とされる言葉使いだという。
見え方が変わった筈だ。
怪しい祈祷師から、謎の教養人へと。
男は汗を垂らしながら、剣呑な雰囲気をまとい始めた。
少年はアスラと男の顔を交互にみている。
セトナが後ろについて、少年の海瓜を一つ抱えてあげていた。
「俺たちが遅きに失した、と」
「昨日は夜遅くに船の点検かえ?」
男はかすかに怒気を放った。
嫌味な言い方が一定の効果を発揮している。
なるほど。
つまり、この男らは昨晩船に乗り込んだ連中と何らかの連携を取っている可能性が高い。
「舐めた口叩くじゃねえか。
勝った気か?」
「無論だ。
洗い物はもう済んだ。
洗い残しもここにある。
今さら何をするのかえ?」
そう言ってアスラは黒い硬貨を弄んだ。
洗い物は済んだ。
つまり、資金洗浄は終わったというカマ。
男は忌々しくそれを見つめている。
汗が垂れ落ちて、一方で唇は乾いていた。
息が荒い。
指先が、貧乏ゆすりの代わりのように細かく動いている。
「てめえら商会の良いご身分の連中が使う、そのお堅い口調が気にいらねえ。
洋上で手出しされなかったからって、調子に乗るなよ。
ここは陸だぜ」
不意にそんなことが口走られた。
何をいっている。
『手出しされなかった』だと。
どういうことだ。
このやり取りから、この男は商会の一派である可能性は高い。
しかし、手を出していないという。
確かにゴーウェン氏の計画は完璧に近かった。
けれども、海上での妨害工作についてはもしかすると有効なのではないか、という仮説も依然としてあった。
だがこの男の発言を信じるならば、『荷を失ってはならない』『船を沈めてはならない』に近いではないか。
商会として、『風の縁の会』として困るということだ。
これらが、先の黒い硬貨を狙っているのは明らかだ。
秘密裏に黒い硬貨が運ばれていて、それがどこに隠されていたのか、ということにもおおよそ見当がついた。
着実に真相へと近づいている。
だが。
それ以上に気味が悪い。
ずっと抱いていた違和感が、黒い泥の塊のように形をもつ。
では、テザムは。
テザム・オンモルは。
奴は何のために、誰のために〈船飲み〉を呼んだのだ。
「結構。
では、拙は忙しい。
貴殿の健闘を祈る」
「ちっ。
なら…そいつをよこしやがれ!」
男は唾を吐き捨てて、次の瞬間にはアスラの手の硬貨に手を伸ばしてきた。
瞬発力のある動き。
アスラは一歩だけ後ろに下がってそれを躱した。
結った髪と髪飾りが揺れる。
「穏やかでないな。
野蛮な手かえ?」
「どのみち成果がなきゃ切り捨てられるんだ。
少しはやれそうだが、そんな服装じゃまともに動けないんじゃないか?
恨むんなら、そんな仮装をしている自分を恨むんだな」
男はついに懐のナイフを取り出した。
すこし間合いが広がる。
なるほど、ひとけのない場所を選んだのも、力づくの手に及ぶ事前の準備という訳だ。
セトナが怯えながらもタカロ少年を背後に庇っている。
事前に指示を出して、彼女らには距離を取って貰っていた。
短慮、というわけでもないか。
手段を選んではいられない状況と見るべきだ。
少なくとも、商会の敵対派閥については焦っている。
結果、この男に強い皺寄せがきているのだろう。
処分、あるいは厳罰、信用の失墜などが背後にありそうな含みがある。
アスラが何やら上位者でありそうなこともそれに輪をかけているのか。
「そいつを寄越せ。
隠し場所も教えるんだな。
そうすりゃ、痛い目を見ずに済む」
「そうしたいが、消えてしまった」
アスラは手の黒い硬貨を消して見せた。
手品だ。
男はいよいよいきりたって、ナイフを振り翳してくる。
踏み込みの深い刺突。
技は冴えている。
多少は短剣の心得があるらしい。
もう少し引っ張って情報を抜き出してもいいが、近くにセトナと無関係の少年がいる。
危険の排除が先決だ。
セトナは息を飲んで少年の目を覆っていた。
アスラは男とすれ違うように懐へ入り込んだ。
手首を取り、ナイフを絡めるように、握り込んだものを離させるように己の手を這わせる。
地べたに金属音が鳴った。
ナイフがはたき落とされて、男は愕然とした表情のまま慣性で前へと動き続ける。
アスラは旋風が巻くように襟を取り、そして、握ったままの左の手を吊り込むように前傾した。
腰が支点となって、慣性の力が弧を描く。
男の身体は浮き上がり、そして生ゴミの散らばった地べたへと投げ捨てられた。
刺激臭が舞い上がる。
男は、くそったれが、と言い捨てた。
その首元に、アスラが剣を撫でるように当てた。
水が滴るような動き。
物騒な音の一つすらしない。
男は口を開いたまま、アスラを見上げている。
憤りは退いて、畏怖のようなものが浮き上がる。
「何かを話しても、話さなくても良い。
それによって、おれは何かをするかもしれないし、しないかもしれない。
現状において、何が一番有益かを吟味してみてくれ」
静かな声が出る。
アスラは、無機質な翡翠の瞳で男を見下ろしていた。
男は生唾を飲み込んだ。
黒っぽい目は泳ぎ、汗が吹き出ている。
「ま、参った!
俺らは幹部連中の命令で、ある貨幣を追っていただけなんだ!」
男は続いて、貨幣の名前を挙げた。
アスラがそれを聞き流すと、また別の名前を挙げた。
滔々と適当な言を吐く。
知っていながら、とぼけているのだこの男は。
こちらが本気で脅していないことを見透かしている。
腐っても諜報を任されているだけのことはある。
ただ、それは半分合っていて、半分間違っているのだ。
アスラとしては剣を抜き放って向かってくるような輩は切り捨てて当然と見る。
この男、悪くすればタカロ少年を害していた可能性もあるだろう。
事態をややこしくしないために、脅しで留まっているだけだ。
その後も幾つかの話が出されたが、合っていそうでも、合っていなさそうでもある。
時間の無駄だった。
セトナが、男を厳しい目で見つめていた。
衛兵が、尾行をしていた男を連れてゆく。
検挙、というのが近いのだろうか。
アスラ、セトナ、タカロ少年の3人の証言が証拠となった。
通行人に金を握らせて、呼んできて貰った。
これで、禍根は残らない。
拘留の期間は不明だが、戦力も削いだ。
タカロ少年はセトナ、アスラ、去って行った男を三角に見ている。
このような腹の探り合いに巻き込んでしまって、この子には申し訳がない。
ただ、その甲斐あって多少は実りのある結果だった。
あの軽いやりとり。
『手を出さなかった』。
なんのことはない事実のように、男はそれを口にした。
無論、これをそのまま信用して動く訳にはいかない。
ネルガンとのすり合わせが必要だ。
一刻も早く。
「あの、アスラさん。
ありがとうございました」
「仕事だからね」
「なんで素直じゃないんですか…。
偏屈もの」
セトナがお礼を言いながらむすっとしている。
青っぽい法衣に、緑の色が乗っている。
手には、海瓜が抱かれていた。
タカロ少年のものだ。
「怖い呪い師すげーな!
あいつめちゃくちゃ早かったのに!」
タカロ少年は、目をキラキラとさせている。
なぜ戦闘は子供の関心を引くのだろうか。
実際どうかといえば、あの男の主戦場は戦闘員だろう。
手には短剣を使い込んだ形跡があった。
あるいは、ドーブ・エットラあたりと勝負をさせてもそう悪い結果にはならないと思う。
奴が、腕の立つ用心棒という地位であることを考えれば、この地域ではそれなりの使い手であったと評価を定めるべきだ。
強いという自負があったからこそ、力押しの手を打った。
「あの、この海瓜をこの子のお家に届けてあげようと思うんです。
貧民街を見ませんか?
嫌がる人も多いけど…。
この子たちの暮らす所だって、ちゃんとこの街だから」
♢
そこは酷い地区だった。
富を蓄えたものたちの最上区画、商人や名うての職人らが暮らす中層とは全く異なっている。
家屋は木製か、あるいは崩れかかったような石の作りで、屋根が抜けているような例もあり、外壁はどこも補修の跡だらけだった。
中層までは整然としていた家並みも、まるで取ってつけたように乱雑で統一感のないものになっている。
刺激臭がしているのは、先の通りゴミの腐敗か、し尿などによるものだろう。
ネズミが這い回り、蜚蠊が跋扈し、蝿がそこら中を飛んでいた。
衛生環境は最悪に近い。
焚き火などが頻繁に路端で行われており、市場で出たような魚のくずなどをそこで調理しているようだ。
これでは、火災のリスクも高い。
総じて、まるで別の世界のような劣悪さだった。
道中で、少年はぽつぽつと話をした。
タカロ少年の家は貧民街の中ではやや上の程度の家だという。
それでも、食うものにも困る有様らしい。
稼ぎがないのかといえば、父の調子が悪いという。
腕のいい漁師だったが、病気がちになって貧困に。
けれども、〈始教〉の援助にも縋らずに、漁に出ては休んで、漁に出ては休んで、とどうにか食いつないでいる。
タカロ少年はそんな父が好きで、頑張って欲しい。
今日は父が漁に出た日らしく、それも大漁であったとのこと。
そのお祝いとして海瓜を父にあげたい、とのことだ。
なんて良い子なのだろうか。
頭を撫でくりまわしてやりたい。
アスラも子供の親だった。
このようなことをされたら、どれほど嬉しいものか。
タカロ少年の父は頑迷なのが分かる。
それは賢いことではないが、矜持のない人間こそ詰まらない。
区画のやや奥まった場所に、タカロ少年の家はあった。
例に漏れず、家屋の状態は良くない。
外壁はひび割れがいくつも走っている。
玄関から、随分と生臭い臭いがした。
これは、市場の魚を販売していた辺りで嗅いだものに近い。
海の香り。
漁師ともあって、頻繁に魚を捌くのだろう。
「帰ったよ!
父ちゃん海瓜買ってきた!
あと、セトナも来た!
強い変な呪い師も!」
タカロ少年はそう言って玄関を潜った。
セトナも続く。
アスラは少しだけ離れて未だ外にいる。
タカロとセトナの姿が暗闇に浮いてみえる。
光に泳ぐ埃が、セトナの法衣のまわりをきらきらと流れていた。
「…タカロどうした。
そんなもんどこで買った」
力のない声だ。
小さな家屋の暗がりの中、壁際に背をつけて俯く影がある。
細身で日焼けをしており、顎に髭を蓄えている。
ほつれが目立つシャツ、シミだらけのズボン。
タカロの父だ。
随分と気分が落ちているように見える。
タカロ少年の言うことが正しければ、漁は成功した筈。
体調が悪いのか。
「後ろの変な呪い師が買ってくれたんだ!
父ちゃん今日は大漁だったんだろ?
お祝いに父ちゃんが好きなやつあげる!」
タカロは海瓜を一生懸命に見せている。
本当に健気な子だ。
なけなしの金で贈り物などと。
自分の衣服や靴などを買ってもいいものを。
「だめだ…。
売れなかった」
「え?」
「取れたさ、沢山な。
大漁だった。
けれど、売れなかったんだ」
タカロの父は、ゆっくりと指差しをしてみせた。
部屋の隅、比較的に涼しそうな場所に何かが置かれていた。
水につけられた桶の中に、大量の魚が入れられている。
これは漁の成果物か。
玄関から臭ってきた生臭さはこのため。
タカロ少年が近くに寄って、それを一つ出した。
見たことのない魚だが、立派な獲物だ。
艶は良く、特段傷んでもいない。
売り物にならないようには見えなかった。
「な、なんで?」
「腕だけじゃどうにもならねえんだ。
捌ける魚の量にも限りがある。
俺のつての商人は、俺よりも安定して魚を卸せる漁師と懇意になった。
おれは魚の売り先が殆どねえ。
最近は比較的に豊漁だしな。
かといって、魚は保存もきかねえ…。
塩は高えしな」
タカロ少年は項垂れた。
地べたに置かれた海瓜は、すっかりぬるくなってしまっている。
父は、悪いな、祝ってもらったのに、とゆっくり頭を撫でている。
アスラは改めて魚の樽を観察した。
相当な量だ。
これは個人で処理しきれるものではない。
火を通すにしても、全体の1割も消費できないだろう。
いっそのこと周囲に配ってしまうのはどうか。
それなら、食料を無駄にせずに済む。
無償だが、恩は売れる。
セトナにそれとなくうかがってみる。
「ダメ、かもしれません…。
市場を通さない個人的な売買は殆ど禁止なんです。
あと、大きな規模でお裾分けとかをするのも。
それは、市場の価格への影響が出るみたいなんです」
そうか、取り締まりがあるのだ。
市場での製品の売買は、利益を担保するために価格を厳正に定めているのだろう。
漁師が勝手に大量の魚を配りでもすれば、商人連中は快く思わない。
悪くすれば、今後の取引が無くなってしまうかもしれない。
なんというジレンマなのだろうか。
魚が取れても売れない。
それを保存しようとしても、塩は高い。
もはや、タカロの父が漁をしてきた産物は、ゆっくりと傷んでゆくだけだ。
仮に、明日漁獲量が少なくて注文がきたとしても、その時には新鮮ではなくなる。
つまり、結局売れはしない。
「なあ、父ちゃん…。
やっぱり〈始教〉に助けて貰った方がいいよ」
「駄目だ。
あれは人を堕落させる。
援助とはいうが、人は必ずその収入や支援に頼るぞ。
そうなれば、腑抜けのできあがりだ。
俺はぼろぼろの漁師だが、海の男だ。
まだ立てる」
タカロの父の言い分もわからないでもない。
己の力でどうにもならなくなった時に助けを求めるのは賢明な判断だ。
悪いことではない。
ただ、それに依存するようなことがあれば話が変わってくる。
結局人は己の足で立たねばならない。
いよいよとなった際、世間は弱者を助けない。
悪い捉え方をすれば、援助を打ち切る、などと弱みを握られる可能性すらある。
「けど…」
タカロ少年は俯いて、見れば少しの涙さえも湛えていた。
父の努力が報われなくて悲しいのか。
セトナが口をつぐんでそれを見ている。
彼女も泣きそうだ。
外界の民は脆い。
すぐに倒れてしまう。
タカロの言い分もまた正しい。
無理をせずに静養できる期間があった方がいいのはそうだ。
「…私。
私がどうにかします」
押し黙っていたセトナが言葉を発した。
強い意思を込めた声。
海瓜を置いて、手の黒い杖を握り込んでいる。
手があるのか。
何らかの人脈か、法の穴を抜けるような好手か。
いや、違う。
セトナ・デ=ヨビスは水手。
つまりは、呪い師だ。
なにか、良い術があるというのか。
「でも、どうやって…」
タカロはじっとセトナを見た。
彼女はタカロのぼさぼさの頭をそっと撫でると、父へと向き合った。
差し込む光が彼女を照らす。
タカロの父には逆光で、少しばかり神々しく見えているかもしれない。
彼は、少し目を細めている。
「金はないぞ」
「私が好きでやります」
了承が取れたと思ったらしいセトナは、魚の樽に向き合った。
タカロも、父も、そしてアスラもじっと彼女を見守った。
術が始まる。
透き通るような声が屋内を満たす。
アスラはにわかに驚いた。
これは、例の唄。
風花を呼び、テザムを葬送してみせた、硝子細工のような呪い。
アスラは周囲を見渡した。
どうしてか、雪はない。
セトナは目の前の魚の樽に祈りを捧げるように唄を紡いでいる。
やがて張られた水には氷が張り、周囲には霜がつき、中に収められた魚はみるみると凍てつく。
周囲の気温も下がってきた。
玄関から吹き込む風は、夏とは思えないほどに寒い。
なるほど、冷やす、ということか。
良い策かもしれない。
これならば、少なくとも食用にはなるだろう。
アスラも島では常夜の薮以外では目にするものではないが、氷は保存に良い。
無論、そこは白鳥の巣であるから、リスクとリターンは重々考えるべきだが。
唄が続く。
テザムに聞かせた際にも、ここまで深くは歌っていなかった。
あの時は、彼女が自ら中断したのだ。
そのセトナは、一心に歌唱を続けている。
透明の糸が重なり合うような音が響き渡る。
すると、少しずつ状況が変わってきた。
気温が元に戻ってきている。
樽についた霜は剥がれ、氷は溶け出し、魚は元の通りに水に浸る。
冷却ができていない。
なんだこれは、とアスラは首を傾げた。
タカロ少年も、父もよく分からないという顔をしている。
アスラは、不意に後ろを振り返った。
耳の奥に何かが聞こえる。
この街の喧騒の中に混じる、水晶のような音。
いや、これも唄だ。
セトナではない何かが、唄を返している。
それは、海の底から響いてきているようにも思える。
セトナはついに術を終えた。
魚の樽は静かに水を湛えて、魚を浸し込んでいる。
何も変化がない。
アスラは目を細めた。
いや、待て。
少し、ほんの少しだが違うような気がする。
タカロ少年が魚を一匹手に取った。
先ほどより、若干彩度が鈍い。
呪いは掛けられたのだ。
しかし、どんな効能がある。
「セトナ、これ…」
タカロがセトナに尋ねる。
セトナはゆっくり瞳を開いた。
灰色の瞳から、一雫の涙が溢れた。
泣いているのか。
「大丈夫。
その魚は、しばらく傷まないよ」
セトナはどこか儚い笑みでそう言った。
アスラはぴく、と眉を動かした。
保存、なのだろうか。
これは、何の呪いだ。
ネルガンは、この唄を禁じていた。
それはつまり、一般の常識や世間の価値観からして、それが許されざる類の効能を持つということ。
あるいは、体に強い負担がかかり、寿命を縮めるなどもあるか。
〈耳の深酒〉であったか。
呪い師の病。
アスラは首を捻った。
だが、これが強力なのだろうか。
船乗りの多いこの港において、食料保存の呪いなどはまさしく引き合いが多いだろう。
水手に必要な能力とされていてもいい。
建造物に対する劣化防止の呪いもあるのだから。
「すげー!
じゃあ、あの話も本当なの?
俺の友達がセトナに呪いをかけてもらった魚が1年もったっていってたんだ。
見せてもらったことがあるけど、ずっと釣ったばっかりみたいだった。
てっきり見せるたびに別のやつを持ってきてたんだと思ったけど、本当に腐らなかったんだ!」
何だと、とアスラは思考を止めた。
1年。
タカロは1年といったのか。
外界の暦は詳しくないが、相当に長い期間であることは間違いない。
馬鹿な。
それだけの期間、食料を傷ませずに保たせることができるだと。
それも、新鮮な状態のままで。
もしかするかもしれない。
ネルガンがこの唄を禁じていた訳は、ここにあるのではないか。
島での保存食作成の際に、ネルガンとドーブが言っていた。
少なくとも船旅における食料の保存については、殆どが塩漬けだという。
ちゃんと長期間持たせるには、その方法が確実で手っ取り早い。
つまり、それは保存の呪い師がいたとしても、数が多くないか、あるいは効果が薄いということではないか。
もし、1年も保つような保存食を生産できたら。
それも、あの唄が効くものであれば、本当に何でも対象にできる。
例えば、手の込んだ料理。
例えば、魚のように足がはやいもの。
全てを1年間劣化なく保たせることができるとしたら。
ーーありがとう、ありがとう。
テザム・オンモル。
〈船飲み〉を招き、船ごと海に沈もうとした。
それは、非合理なほどに大業な策だった。
ーー例えば、あの奥の方にある一際大きいのは塩の倉庫なんだが。
ドーブ・エットラが説明をしていた。
湾岸の巨大な塩の倉庫。
二つの輪が重なったモチーフが掲げられていた。
ーー問題は、誰が何を狙っていたのか、ということになる。
ネルガンは、怪しい保険の件から商会のお家騒動と推理していた。
テザムの一件は、敵対派閥の工作だと。
そして、そこに金の輪があることをネルガンは見出した。
ーー洋上で手出しされなかったからって、調子に乗るなよ。
だが、先ほどの商会の手先と見られる男は、それを否定した。
商会は資金洗浄をめぐって黒い貨幣を追ってはいたが、何らかの理由で船を沈めてはならなかった。
ーー俺の友達がセトナに呪いをかけてもらった魚が1年もったっていってたんだ。
何にでも施せる保存の呪い。
それも、1年という長期に渡って劣化さえしないほどの効力。
ネルガンが何かを恐れて禁じていた術。
しかし、タカロの話では過去にもそれは使われている。
タカロが、セトナに抱きつく。
勢い余って、抱きつかれたセトナは少したたらを踏んだ。
ありがとう、とタカロは感謝だけをまっすぐに伝えている。
父も、すまない、と目が赤い。
くたびれた漁師服を日焼けした大きな手で握りしめて、深く息を吐いている。
いいの、とセトナは穏やかに微笑んでいた。
灰色の瞳から落ちる涙の雫の跡が、太陽を湿らせながら映す。
風が穏やかに吹いていた。
暖かな日差しが、抱き合っているセトナとタカロを静謐に照らしている。
無償の愛が、虐げられる人々を癒してみせた。
己の才能を惜しみなく他人に注いだ、清廉なる祈り。
称えられるべき行為。
しかし。
しかし。
(ネルガン、ネルガン。
おれは今、心から嫌な推理をしている。
どうする。
どうすればいい)
陰謀が、重なっていたとしたら。
商会という金の輪と、もう一つの穢れた輪が偶然に重なっていたとしたら。
それが、話を複雑にしていたとしたら。
全ては想像のうえのこと。
真実は全く異なるということもあるだろう。
けれど。
けれども、この一件は、おぞましい悪夢のような出来事である可能性がある。
優しいものは、生きられない。
優しいものを、この世は決して許さぬのだから。
用語集
・海瓜
エフィーデ王国の東岸部の名産品。
緑の果皮に橙の果肉が特徴の果物で、すっきりとした甘さとほのかな塩味がある。冷やして食べるのが通であり、湧き水などでキンキンに冷たくした海瓜を暑い中でむしゃぶりつくのは格別の旨さ。白っぽい種が複数入っているが、取り出してもそのまま嚥下しても良い。子供は種を飛ばして遊んだりもする。
やや高級なものであり、日持ちはしない。新鮮な海瓜は高値で取引されるが、夏場はそれに見合う価値がある。




