1章(8) 国と金と信仰
アスラは商会館への護衛の道すがら、ネルガンとやりとりをしながら頭を悩ませていた。
ネルガンは、先ほど気づきを得た。
それは、本件が資金洗浄と呼ばれるスキームの一環であったかもしれない、ということのようだ。
はっきりと言う。
分からない。
なんだ資金洗浄というのは。
アスラは己の無知を知った。
ネルガンに軽く説明をして貰ったが、ようするに表に出せないような金を裏で動かして、最終的にミソのついていない状態にする、ということらしい。
今回でいえば保険金や、その還付金が綺麗な状態になったものということだ。
ゴーウェン氏は秘密裏にネルガンの船と荷物に保険をかけて、金を運ぶ器にしていた。
それが成功しても失敗しても、金が流れる。
ここで肝になるのが、その金はゴーウェン氏にとっては扱いにくいものだが、保険機関にとってはそうではない金である、ということ。
「アスラ殿の育った島は金という文化が無かったのでしたな」
「そうダ」
わざとらしく舌を重くして発音を悪くする。
セトナが物を言いたげに此方を見ているが、これはネルガンと今朝話し合って決めたこと。
セトナにも共有をしている。
この場ではどうでもよい。
『通貨』。
つまり金は、二つの要素によって価値を持つとネルガンは言う。
アスラは歩きながら、ネルガンから渡された硬貨に目を落とした。
扁平な鈍い色の金属。
円状に整形されて、何らかの押印が施してある。
通貨の価値の一つは、材質。
単に、高価な材料を用いたものであれば、価値は担保される。
二つ目に、押印による信用。
流通している通貨には何らかの刻印や、あるいは細工がしてあるものだという。
その印が、信用の保証をする。
ここでの信用というのは、発行している機関や枠組みの権力や安定性、知名度などによる総合的な評価ということになるだろう。
では、資金洗浄とは何を洗うものなのか。
アスラは手元の通貨を弄んだ。
指から指へ転がすと、押印が眩しく光る。
これを洗う。
信用を。
例えば、ある商人が母国と敵対している国との取引を秘密裏に行なっていたとする。
それは高額な報酬が得られるが、手に入るのは敵国の刻印が押された貨幣だ。
そうなれば、いかに利益を積み上げたとしても、母国ではそれを運用することはできない。
何故ならば、敵国の通貨を大量に保有していれば、それは己が売国の類をしていると言いふらすようなものだからだ。
国という信用が、首を絞める。
では、どうするか。
ここで、資金洗浄という概念が出てくる。
その敵国の通貨を扱える商人や機関などを経由し、別の資産へと姿を変えさせる。
アスラはふと考えた。
貨幣を溶融させてしまえばどうか。
施された押印さえなくなればいいのだから、多少の価値の目減りが発生してもインゴットにしてしまう方が楽なのではないか、と。
だが、そう簡単にはいかないようだ。
通貨によっては刻印そのものが価値の大半を占め、また加工自体が困難なものもあるらしい。
そもそも、鋳潰しや削りなどで通貨を損なうことは、各国とも厳しく禁じている、とネルガンは冷やかな視線をこちらへ投げていた。
アスラは唸った。
うまく法の整備がなされている。
アスラは右手の硬貨を人差し指と中指で挟んで握った。
次の瞬間には硬貨は消えている。
セトナが、えっ、とびっくりしていた。
まあ、ちょっとした手品だ。
「どこにいったんですか?」
「こっちダ」
と、アスラは左の手で硬貨を見せた。
資金洗浄もこれに近い。
一度見失わせて右手から左手に移せば、仮にそれが異なるコインでも、同じコインでも見分けはつかない。
ようは、世間がそれを追えなくなればいいのだ。
正直、知的好奇心がくすぐられる内容ではある。
アスラはこのような話が好きだ。
だが、コルビンスとテザムのことを考えればただ面白がっている訳にもいかない。
敵方はどの程度までこの計画を知っていたのか。
アスラは眼前の雑踏を見渡した。
まるで、己の思考を映したような酷いひしめき方だ。
ゴーウェン氏の立てた資金洗浄の流れは素人のアスラからすれば殆ど隙のないもの。
船を沈めてはならず、また無事に帰してもならない。
中途半端に工作を行えば、グルと思われる保険の査察員がそれを見咎める。
ゴーウェン氏に致命的な打撃を与える方法は、一見するとないように思える。
そうだ。
〈船飲み〉ですら有効ではないのだ。
天災を騙れる大ががりな手立てであったとしても、ゴーウェン氏の鉄壁のロジックを破ることは叶わない。
つまり、敵はゴーウェン氏の手のひらで踊らされているという可能性がまずある。
コルビンスは意味もない策謀のために死んだのかもしれない、と世の無情を感じざるをえないが、一旦それはいい。
一方で、アスラの知らない知識や情報がまだあり、〈船飲み〉を動員する作戦はその背景のため、という含みもまたある。
ただ、現状においてテザムが行おうとしていた心中めいた工作の有効性が見出せない。
奴は、感謝をしていた。
テザムの最後の表情が頭を過ぎる。
ーーありがとう。
憑き物が落ちたような、穏やかな顔だった。
彼の信じる神は、彼を救いはしなかった。
ゆえに、テザムは海の巫女たるセトナに救いを見たのだ。
かの、『氷の唄』に。
もしかすると、全ては狂気なのか。
〈船飲み〉を呼ぶ笛も、彼の私物だったのか。
いや、違う、とアスラはかぶりを振った。
ちら、とセトナがこちらを見る。
分からない。
けれども、どうしてだろうか。
違和感がある。
破壊工作。
資金洗浄。
商会。
ネルガンの推論は悪くない。
実際に、ゴーウェン氏は金を回す動きをしていた。
それを阻止、あるいは邪魔をしたい勢力。
お家騒動の一環。
納得できる箇所は多い。
しかし、どうして喉に何かつかえているような不快感があるのか。
細い棘が刺さり込んでいるような。
思考を深めようとするアスラの耳に、大きな鐘の音が入り込んできた。
殴りつけられるような音。
坂の上にあるらしい、大きな寺院のような施設からそれが響いてくる。
耳が痛い。
ダメだ。
街の雑音が思考を散らす。
周囲が騒がしすぎて、考えがまともな形をなさない。
アスラは軽く頭を振った。
鈍い頭痛があり、先ほどからどうにも気分が優れない。
若干の倦怠感すらあるだろう。
身体が重たく感じる。
「あの…。
アスラさん平気ですか?
耳が良すぎて大変らしいことはお父さんから聞いたのですが…」
セトナが心配そうに尋ねてくる。
優しい子だ。
大丈夫さ、と笑って返しておく。
とはいえ、実情はあまり芳しくないかもしれない。
この不調は、恐らく聴覚に起因するものではない。
『食べ過ぎ』だ。
もっとも、常人の感覚とは全く異なるものだろうが。
ネルガン宅で口にした軽食で、閾値を超えたのだ。
市場で購入した、塩漬けの魚が挟まったパン。
美味かったが、最後の方でにわかに嫌な予感がしていたのだ。
アスラは内心で頭を抱えた。
昨晩の発言から鑑みるに、セトナは街歩きで物を食べたがる筈。
厳しい戦いになる。
できれば帰りたい。
固いものがこすり合わされるような音が響いている。
昨晩見たような荷運び用の大きな鳥が、あちこちで引かれていた。
数えるのも馬鹿らしいような通行人をかき分けながら、坂の道を登ってゆく。
身なりからすると、殆どは商売人のように思われる。
大きい荷物に護衛。
遠い地域から、この港を目指して旅をしてきたのだろうか。
一方で下から坂を登っていくのは、これから旅に出るものなのだろう。
海産物や交易の品を、内陸に届けるのだろうか。
石畳が眩しい。
アスラは、少しだけ空を見上げた。
良い天気だ。
気持ちの悪さが、すこしだけ晴れる。
坂の上には、青い空と白い雲が鮮やかに広がっている。
風は、海の湿り気を含んでいてやや冷涼な気もする。
季節として夏なのだろうか。
外界の暦が良くわからない。
島と比較すれば涼しいことは間違いないが、汗をかいているものも見かけられる。
アスラは久しく汗をかいていないので感覚を忘れてしまったが、基本的には暑さを感じる時の生理現象だった筈。
まあ、多分暑い方だろう、とアスラは結論をつけた。
念の為、セトナには定期的に水分を取るように注意喚起した方が良い気もする。
できれば、それで彼女の腹が満たされてくれればいいが、とアスラはこっそり思った。
「もう少しです。
人の流入が増えるので、気をつけて下さい」
ネルガンが振り返りながら言った。
頂上が近いのだ。
アスラ達が今いる道は、大路坂と呼ばれており、バークスプエルト港を縦断する最も大きな坂の道である。
なだらかで長い坂道が、ずうっと先まで続いている。
ネルガンの居住区画は比較的に上部にあり、目指す商会館からはそこまで遠くない。
アスラは周囲を見渡した。
この辺りの区画になると、警邏をしている兵士が増えてくる。
実際、この歪みの坂に表れている格差は社会問題になっているようだ。
貧民層が富裕層を襲う、などということもあるとネルガンは口にしていた。
誰が悪い、という単純なものではないだろう。
成功は悪ではない。
そして、それを呪うのもまた悪ではない。
そんなことを考えていると、傾斜が殆ど無くなっていた。
坂の上へと到着したようだ。
人にぶつからないように歩きながら後ろを振り返る。
家屋の色とりどりの屋根が、坂に茂る野草の花のように下へ広がっている。
湾岸では人が蟻のように行き来して、船に乗ったり降りたりと作業をしていた。
海が陽光に照っている。
風が気持ち良い。
やはり、下の市場から香ばしい匂いが登ってくるようだ。
髪飾りが不思議なかおりに揺らされる。
坂の入り口には、立派な備えの門があった。
見上げるほどに高い。
城砦と言われても納得をしてしまうような、石造りの頑健な備えだ。
バークスプエルト港は、富が集まる要所。
それはつまり、豊かさを簒奪せんとする凶賊に侵される可能性もあるということに他ならない。
この立派な門や、あるいは海に連なる鎖塔から逆算すれば、そのような考えのものは数多くいるということ。
治安はさほど良くない、と見るべきか。
いや、黄虎や白鳥が棲むかの島の森よりはずっと命の危険はないのだろうが。
それでなくともここは国の境。
砦を築いて守りを固めるのは、戦術として当たり前ではある。
エフィーデなる国の経済と国防の要所が、他ならぬこのバークスプエルト港というわけだ。
立派な建物を横目に見ながらネルガンの背を追う。
非常に丁寧に織られたことが分かるシャツの背中には、異物感のある背嚢が背負われていた。
これは仕込みだ。
ちょっとした揺さぶりに使う。
アスラはすぐ前を歩く商人風の男らが、こちらを見ながら何かを話しているのを察知した。
言語が分からない。
どうにも先ほどから、奇異の目線が多い。
すれ違う人々や兵士がこちらを凝視するのがわかる。
日が高く視認性が高いので、アスラの衣服がかなり目立つようだ。
門の近くにいた警備とみられる兵士も、極めて胡乱げな表情でこちらを睨みつけていた。
この坂の最上部はいわゆる上流階級の人間が多く、アスラのように強い異文化を主張する人種は殆どいないと言っていい。
異物、蛮人などと冷ややかに見られている可能性が高い。
ネルガンがこちらを振り返ったり、簡単なやりとりをしていなかったら、兵士に臨検などを試みられていた含みもある。
帯剣しているというのも良くないだろう。
アスラは闘争の島で育ったため、武具を帯びることは当然という認識があったが、この文化圏では異なるようだ。
街を管理する側から言えば、武装した人間が内部に満ち溢れることは穏やかではない。
クーデターや革命の恐れがあるからだ。
どうしているかといえば、入港できる武装人員の総数を取り決めているようだ。
それも、一つの団体での上限や、持ち込み可能な武具の選別ということもなされるらしい。
アスラの場合、それなりの数の武装を持ち込んだ訳だが、ネルガンの口利きで入港できたという例になるだろうか。
商会の力、と取ることもできるかもしれないが。
護衛や傭兵の類は高い入港料を徴収される傾向にあるらしいのだが、それは船の主であるネルガンが払い出している。
そういった意味でも、彼には恩がある。
最悪、武力での強行な手段でもって外界への一歩を踏み出さねばならない線もあった訳だ。
アスラが本件に手を貸す理由の一つである。
さて、いよいよだ。
視界に荘厳な作りの屋敷が見えてきた。
『風の縁の会』の本拠地。
商会館。
ネルガンはじっと館を睨みながら歩を進めている。
この建物に出入りをしているのは、いずれも洗練された格好をしているものばかり。
文化の違うアスラがなぜそう判断できるかといえば、アスラも服を仕立てるからだ。
本職とまではいかないだろうが、見立ては悪くない自負がある。
装飾もそうだが、非常に精緻な細工が施された衣服が多い。
生地も上質だ。
手間のかかる衣料は、高額な商品であることは明白だろう。
それらを身に纏うのは、成功者の物欲か、あるいはブランディングか。
舐められないため、という含みもあるような気もする。
ネルガンも良い衣服を見繕って着てきていることからも、そのような価値観があると判断して良い。
何事も身なり、見た目から、ということか。
威圧的な衣服のアスラも反省する所がある気もするが、護衛であれば一概に選択の誤りとも断じられない。
何らかの恐怖でも覚えてくれれば、それで御の字ではないか。
眼前に、大きな屋敷が横たわっている。
商会館。
基礎は石、太陽の光を反射してみせる潔白な白亜の外壁。
4階層はあるであろう大きさで、無数にある窓には透過性の高い何らかの建材がはめ込まれている。
石英のような鉱石を薄く加工したものか、あるいは硝子の一種か。
屋根の瓦は深い海を思わせるような紺の色。
建物の頂上には、風の中を飛ぶ海鳥のモチーフが描かれた旗が風に泳いでいた。
実に素晴らしい建物だ。
清潔感があり、存在感もあり、間違いなく豪華ではあるが、華美すぎないフォーマルさもまたある。
あるいは、権威を主張しながらも、絢爛すぎないように調節をしているのか。
何かの政治的意思を感じなくもない。
ネルガンとは、ここで別れる。
商会館の内部に護衛の類は連れ込めないからだ。
あくまでも、商人の領域。
アスラはまじまじと周囲を観察した。
雇い主とみられる人間と別れた護衛が、踵を返して大路坂へと帰ってゆく。
交通を阻害しないよう、この場所で長く待機するのは禁止されているらしい。
単に、武装した勢力が固まるのを阻止しているとも取れる。
何にせよ、合流する時間を取り決めて、そのタイミングでネルガンを迎えに行くという流れになるだろう。
時間については、先ほど聞いた鐘の音が教えてくれるようだ。
入り口の付近まで近づく。
アスラの異様な格好も相まって、玄関の脇に立つ商会の兵士は目に見えて注意を向けてくる。
小さな声で、恐ろしい、護衛か、気味が悪いなどと商人連中が囁くのが耳に入ってきた。
相当な注目を集めている。
アスラは内心ほくそ笑んだ。
これでいい。
「ありがとうございます。
では、セトナをよろしく頼みます。
昼を過ぎた鐘が鳴ったらば、商会館に迎えに来ていただきたい」
「金次第ダ」
アスラは拙い発音で言葉を紡いだ。
片言に近い。
受けたネルガンは、厳しい顔で背嚢をアスラの方に渡した。
書類や小さな器具が入りそうなくらいの、丈夫なつくりのもの。
セトナは少し緊張しているか。
ただ、小声で、カタコト可愛いかも、などと凄まじく緊張感のない発言をしたことをアスラの耳は拾っていた。
先の通り、これは仕込みだ。
現状最も不利な点はこちらの情報の少なさ。
結局のところ、敵が誰でどこまで情報を持っているのか分からない。
受動的になるのは悪手。
つまり、囮になってでも敵を釣った方が良い。
リスキーだが、攻める。
本件の不明点の一つは、保険機関のメリットの少なさ。
彼らは絶えず金を動かさなければならないが、恐らくその動き単体では大きな利益が出るような構造にはなっていない。
そもそも、高い等級の保険に対する多量の払い込みがどう行われたのか、というのがアスラの気になる所だ。
ネルガンの説明では、少なくともミソのついた金を一旦保険機関に渡す必要があるだろう。
そうでなければ、資金洗浄が成立しないのだから。
昨晩にネルガンの船に何者かが侵入を試みたことも忘れてはならない。
帰港をした際、ネルガンは書類が狙われているのでは、と推理していた。
アスラもその線はなくはないと思う。
例えば、ゴーウェン氏が保険機関に対して何らかの便宜をはかる約束をした、ということはあり得る。
その密約の書類を敵対勢力が狙っている。
あるいは、故あって表に出さない類の権利書というのはどうだ。
ゴーウェン氏が保有しているのは世間的に不味いが、保険機関ならば問題がない。
それなら、資産になる。
ゴーウェン氏からすれば埋没費用になる資金を使える状態に変えられ、保険機関としてもその権利を得ることに大きな意味があれば、双方に利益が出る。
この背嚢。
契約書の数枚なら容易に収まる。
外から見れば、中身など判別できない。
それも、商会館の前で、群衆がいる中で護衛らしき人物に譲渡する。
この時点で、一人で行動をするネルガンからある程度注意を逸らすという効力があるが、当然それは副次的なもの。
背嚢についての質問や、あるいは奪取しようとする輩があれば、それは関係者による干渉と見ることができる。
それが敵か味方かまでの判別は難しいが、強硬な手段なら敵、穏便な手ならば少し泳がせてから判断すればいい。
幸い、耳には自信がある。
「セトナ、くれぐれもアスラ殿にご迷惑をお掛けしないように。
暑いから、気をつけなさい」
「はい。
お父さんも気をつけて」
「早くしロ。
時は金なリダ」
見ての通り、先ほどからアスラは猿芝居をうっている。
もう一つの仕込みは、護衛、つまりアスラが取り込みやすい人間のように振る舞うこと。
異郷の欲深い用心棒、というイメージだ。
安易かつ陳腐な肉付けではあるが、逆に言えば分かりやすくもある。
仮想敵に時間の猶予がないのであれば、どうしてもゴーウェン側の情報の抽出がしたい筈だ。
つまり、側近の買収という手を誘引する。
言語の質を落とし、金に目が眩んでいるように振る舞えば、アスラの装いと相まって、買収の標的として理想的に映るだろう。
二重の餌。
とはいえ、これも引き際が肝心だ。
目立つ格好で粗野に振る舞えば、権力を用いての干渉を許す大義名分になる。
一応、策は考えた。
野蛮な振る舞いと装いは世を忍ぶ仮の姿で、本来は密命を帯びた勅使である、というような身代わりをする。
それを信用させる因子は2つ。
アスラの話す〈東アルヤート語〉。
学習の仕方の問題なのか、高い教養を感じる話し方になっているようだ。
そして、ネルガンの出自。
ネルガンには一応の確認を取ったが、最悪『スリラリア』の名前を用いていいとのこと。
彼はやはり、高貴な出自を持つようだ。
ハッタリには使えるだろう。
ネルガンは、最後に小さくセトナをハグした。
セトナは少し恥ずかしそうだったが、危険な状況ということで嫌がることなくそれを受け入れている。
その一瞬、ネルガンとアスラの視線が交錯した。
アスラは小さく頷く。
ネルガンは、では、とはにかんで商会館へと入って行った。
扉が一瞬開かれて、彼が館に飲まれる。
セトナは若干ながら表情が暗い。
ネルガンは、館の内部で何らかの情報収集を試みる筈だ。
アスラも無論そのつもりである。
背嚢をしっかりと背負って周囲の様子を探る。
相変わらず視線を集めているが、あからさまな反応はない。
ここは人気の多い商会館の目の前だ。
下手に動けば目立つ。
想定されるのは、尾行か、奇襲か、あるいは兵士などを用いた尋問。
嫌な展開としては、手を出されないこと。
あるいは、この罠を逆利用されること。
罠に手を出されなければ、こちらは情報が増えない上に、干渉が無かったという事実のみが残る。
敵はこれを狙っていない、そもそも敵はいない、と誤認させることもできるだろう。
そして、最も厳しいのが偽の情報などを掴まされること。
例えば敵が買収を試みてきたとして、その最中にそれとなく内部事情を滲ませるような言動があれば、こちらは賢しらに上手くいった、と思い込むこともあるだろう。
それが本当は、まったくの嘘であっても。
情報を抽出できたとしても、それの信憑性は精査する必要がある。
油断はできない。
「行くゾ」
セトナに言葉を投げる。
彼女は不安そうな表情を消して、はい、と頷いた。
やれることをやるしかない。
アスラとセトナは商会館から歩き出した。
セトナは、薄い空の色をしたような法衣をはためかせながら軽快に歩む。
かん、かん、と手の杖が石畳を叩いている。
少し顔が明るくなったか。
セトナの灰色の大きな瞳に、青い空の色が薄く透けるように映されていた。
栗色の髪と相まって、どこか子鹿のようにも見える。
「では、アスラさんに街を案内しますね。
とりあえず、坂の上から行きますよ」
「好きにシロ。
…ごめんね」
小声で付け足すと、セトナは笑顔になりそうになって辞めた。
若干得意げな雰囲気を出しながら彼女は歩き出す。
アスラは改めて青い空を見た。
異国の風が長い髪を弄ぶ。
赤い花の香油の匂いが少し流れて、こちらを振り返って怪訝な顔をする商人もいる。
仕事の途中ではあるが、まあ、観光というか外の世界を見分するのは地味に楽しみではあった。
責務も、そして楽しみも懸命にこなすのが人生の深みである。
彼女は、あの人は空から見ているだろうか。
思う通りにはいかない。
食事などがまさにそうだ。
元の通りにはならない。
けれども、致し方がない。
やれる範囲で思い切り、彼女が見たかった景色を目に焼き付ければいい。
まだ、『アスラ』はここにいる。
人が多くなってきた。
また、大路坂の門のあたりまで来たのだ。
セトナが口を開く。
ここは街の入り口で、大路坂に通じている。
入り口の門は歴史のあるもので、建造されてから数百年は経過しているのだとか。
〈東の玄関口〉ことバークスプエルトはエフィーデ王国という国の中にある港だが、この門や鎖塔はさらに古い時代の遺物らしい。
塩害がある中で随分物持ちがいいが、セトナの話によれば何らかの呪いが掛けられているとのこと。
アスラは納得がいった。
賊どもの船の残骸も潮風に晒されていながら、相当に保存状態が良いものが散見された。
状態の劣化を防ぐ術などがあるのか。
実に便利だが、思うところもある。
大路坂をすぎて南に歩くと、これまた立派な屋敷があった。
商会館よりも遥かに贅沢な作りだ。
レンガと金属を用いた擁壁がはりめぐらされ、門にはたおやかな女性の彫刻がなされている。
母屋は商会館と同じく4階建てで、石造りの何らかの獣と見られる装飾が至る所に彫られた壁に、数十本の柱。
庭は広く、見れば小さな泉すらある。
セトナ曰く、港湾公邸とのこと。
つまり、ここを統治している人間の邸宅だ。
この港は商会の勢力が強いが、結局は国の一部ではある。
見るものを圧倒する華美な屋敷は、己の権力を主張するものに違いない。
結局のところ、徴税をしているのは国。
この街を保有しているのもまた国。
商会は金満で強い権威を持ちながらも、やはり国家には及ばないということか。
あるいは、良い友人として付き合っているかもしれない。
商人は金を運ぶ連中だ。
アスラは、不意に妙な匂いを嗅いだ。
頂上の横に伸びる道を歩んでいるのだが、先から焚香の匂いが漂ってくる。
何かと思えば、宗教的な装いのものが増えてきていた。
これは、とアスラは思った。
例のうるさい鐘を鳴らす寺院だが、あれは坂の最上部にあった。
もしかすると、著名な宗教施設なのか。
アスラの考えの通り、セトナはそこを目指しているようだ。
街の南の側。
恐らく岩山を削って建造されたであろう寺が見えてくる。
「もうすぐ、〈始教〉の寺院です。
ここもとても歴史があるお寺で、この国でも最古の寺院なんて呼ばれているみたいです。
〈始神〉様を信仰している人たちは、ここで神様に祈るんです。
私は海の神様を信仰しているので中には入れないんですけど…」
セトナは難しい顔でそう言った。
〈始教〉。
〈始神〉という創造神を神として崇める宗教団体。
しかし、なるほど、この港街の中でも信仰が異なるのか。
考えようによるが、信じる神というのはある意味で言語だ。
〈守り人〉などが顕著だろうが、敬虔な信仰は慣習や営みに深く根ざすものではないかと思う。
それは、暗に諍いの種となる含みがあるということ。
思想など、統一されていた方が統治しやすいに決まっているのだから。
ただ、ここは様々な文化が交わる貿易の要所。
強権的な弾圧は商売の間口を狭めるだろう。
管理に気を使いながらも、ある程度は自由にやらせているのでは、というのがアスラの所感だ。
〈始教〉の寺院は遠巻きに見ることになった。
これも、圧巻の歴史的建造物である。
黒っぽい岩石を削ってこさえられたであろう本殿は、門も柱も灰色がかって風化をしているが、かえって厳かな功を感じる。
至るところに、輪っかのような装飾が見えた。
宗教的な意味があるのか。
香木の香りが、寺院一帯に満ちている。
深く奥行きのある匂いが、ここを静謐な地のように思わせているのかもしれない。
建物の中から、何やら歌が聞こえる。
神に捧げるものだろうか。
見知らぬ楽器の演奏もなされているようだ。
「〈始教〉はとても優しい宗教なんです。
この街の貧しい方たちに、お金の支援もしているんですよ。
神様は本当に平等になるように世界を作らなかったけど、それを平等にするのが人の愛なんだって教えがあるんです」
「人を幸せにするのは金ダ」
格差の生じたこの街に最低限の秩序を保たせるために、この宗教は自浄の役割を果たしているのか。
心や精神のみでは人は救えない。
だが、金も併せれば、人を救える可能性は高い。
教義で精神を、活動で体を支えて人を導くのだろう。
しかし、どうやって活動の収入を得ているのか。
信者からの寄付か。
いや、それのみではか細い。
観察をしていると、見覚えのある印があった。
真ん中がくり抜かれたような二重の丸。
あれは確か、港で見た巨大な塩の倉庫にも刻まれていたか。
やはり、何らかの商売は行なっているのだ。
セトナは辿々しくだが、印の説明をしてくれた。
丸は〈始神〉の作った世界が無尽に広がっていることを意味して、真ん中のくり抜かれた部分は、それ以前の無の世界を示す。
輪というのは神を表していて、〈始教〉にとって大切なモチーフなのだとか。
なるほど、面白い。
セトナが、では、行きましょうか、と杖で地面を叩く。
フン、とアスラは返事をして踵を返した。
その後、中層の辺りを歩いた。
主に中間層の住宅街といった所だが、興味深い施設も幾つかあった。
最たるものは公館である。
これは、この国の公館ではなく、外国のもののようだ。
件のゴーウェン氏の支店がある国を含め、近隣の友好国の大使などが駐在する場所だという。
当然ながら港である以上は、外交というものがなされる。
領主の公邸よりも低い位置にあるあたり、これも政治の匂いを感じる。
アスラは、ある場所で足を止めた。
セトナが、あ、やっぱり気になるんですね、と言っている。
重い木がぶつかり合う音。
そして、力を込めて地べたを踏みしめる音。
懐かしい。
それは、鮮やかながら無骨な建物だった。
赤い煉瓦を積まれてできた外観は、殆ど装飾がない。
外の庭には打ち込みようの丸太が並び、子供らがそれに木剣を打ち下ろしている。
近くで、師とみられる人物が弟子の悪癖や技について品評をしていた。
植えられた木が、その陽だまりに静かに影を投げている。
「剣道院といいます。
そうですね…。
練兵場というのが分かりやすいと思います」
市民が剣や槍を習う場所。
主にある程度裕福な商人の息子や、荒くれだが才能のある若者が、兵士や衛兵を目指して日夜汗を流すという。
ドーブ・エットラも剣道院で剣を学んだのだとか。
アスラは、恥ずかしながら少しばかり感動があった。
武術を子供に学ばせるのは、正直複雑な心境がある。
アスラはそれを、魔道への一歩であるとさえ思っている節があった。
ただ、この外の世界で、親しんだ文化に近いものが根付いているという事実。
有難い、というのは違う。
だが、それに近いような形容し難い感受がある。
ほっとする、というのが近いのか。
この剣道院が、ここは別の世界ではない、とそう言ってくれている気がする。
「この剣道院も古い歴史がある施設なんです。
大昔にすごい剣士がいて、その人が剣道院を開いたみたいです。
剣道院では、そのすごい剣士を剣導師様って呼ぶんです。
兵士の人や剣士の人は、剣導師様を神様として信仰している人もいるんですよ」
「金さえ寄越せば、そいつでも斬ルゼ」
剣導師という方に罰当たりではあるが、歯牙にもかけない雰囲気で粗暴そうに返す。
セトナが灰色の大きな目を半分にして、ずっと昔にお亡くなりになられてますよ、と真面目に返してきた。
斬るまでもなイナ、と肩をすくめると、セトナはむっつりした。
まあ、アスラにも思うところはある。
剣に神などいない。
仮に、数多くの人を斬ったなどという武勇があったとして、それは褒められたものだろうか。
人が死ぬのだ。
どんな人間にも家族や友人がおり、また大切なものがあり、良心がある。
この港の文化を否定するつもりはない。
けれど、アスラは剣の神様とやらがあまり好きではないかもしれない。
私怨に近いが、武術の神に快い印象がないのだ。
剣道院を過ぎ、響いていた雄叫びや木剣の音が遠のく。
声だけを聞いていても熱くなる。
その点、武道はいい。
セトナがちょっと暑くなってきました、と抜け目なく影に入りながら歩いている。
肩ほどの栗色の髪をかき上げて、首元に風を通すことを試みているようだ。
暑いというわりには汗をかいていない気もする。
軟弱だナ、と強めの返しをしたらばセトナは若干むっつりした。
耳ぴこ、という謎の語句が小さく呟かれる。
なんだそれは流行っているのか。
アスラに外界の若者の気持ちは分からなかった。
そうして、中層のそれなりに太い道を歩いているその時であった。
アスラの耳が、やや不審な物音を聞き分けた。
走っては止まり、走っては止まる。
道に出る訳でもなく、路地から入って出てを繰り返すような動き。
足音は、比較的に抑えられているように感じる。
動きがあった。
偵察とみるべきだ。
足音からも武装は最低限度のものだろう。
素知らぬ風を装いながら緊張感を注ぐ。
すぐに仕掛けてくることはないだろうが、魚が釣れたかもしれない。
背嚢を狙っているのか、あるいはアスラ自身を目当てにしているのか。
アスラは、ちら、と横目で斜め後ろの家屋の影を見た。
通行人の流れの奥に、何者かが潜んでいる。
尾行され始めたのはつい先ほど。
上層では警邏の衛士も多く、裕福そうな建物の周囲は大概私兵が固めている。
潜むことは難しい。
それで、中層に入ってからつけはじめたのだろう。
この作戦最大の懸念は、セトナまで危険に晒す点だ。
正面からの武力行使なら対処できるが、搦手で来られると脆い。
実のところ、アスラは少し気になることがある。
先ほどのネルガンとセトナのハグ。
親子の交流として美しい光景ではあったが、アスラが敵対者であれば少し疑う。
どういうことかといえば、アスラの背嚢はダミーで、何気ないやり取りのうちに何かをセトナに受け渡したのでは、ということ。
彼女の服は長い。
書類を仕舞っておくスペースはありそうにみえる。
人間というのは、己の賢さを過信するもの。
アスラというデコイを見抜き、セトナが何らかの機密書類を持っているのでは、と思い込む可能性がある。
また、実際に何かを渡している、ということも十分にありうる。
アスラは所詮部外者だ。
ネルガン親子の中で大切な物の受け渡しがあってもそれはおかしいことではない。
ふう、と息を一つ吐く。
体調はやはりあまり良くはない。
無論、動けないだとか、倒れてしまう、ということはないが、やや思考が鈍い。
〈力〉の濁りも感じる。
街中の戦闘、となれば戦争で慣れ親しんだ平地での乱戦とは毛色が異なる。
密林での動きが近いか。
周囲に人が多く、剣を振り回すのは危険だろう。
かといって、白鳥の靴には被せ物をしており、すぐには使えない。
赤蛇の手甲のかぎ爪か、あるいは投擲武器の方が取り回しが良く目立たない。
セトナは一応戦闘の経験があるようだ。
やはりというか、海運において水手をやっていれば、海賊まがいの輩と遭遇することもある。
とはいっても、慣れているという訳ではないとアスラは見る。
咄嗟の状況では動けないと踏んでおいた方が良い。
もともと、アスラの仕事は護衛なのだ。
今は、セトナ・デ=ヨビスを害意から守るのが先決。
罠も重要だが、子供の命のほうが重い。
ネルガンは当初この作戦に難色を示していた。
当たり前だ。
己の娘が危険に晒されるのを喜ぶ親など居ない。
だからこそ、アスラが守るのだ。
一回市場までいきましょう、とセトナが笑顔をたたえながらいう。
小腹が空いてきたのか。
ここからが正念場。
さて、大人らしく気張るか、とアスラは背嚢を背負い直した。
用語集
・始教
中央大陸で古くから信仰されてきた宗教。創世神である始神を祀る。
二重の輪のモチーフが特徴的で、小さな輪は始神が現れる前の無の世界、大きな輪は現れた後の無尽に広がる世界を表す。始神を唯一神とはしておらず、他信仰の神もある程度は許容している。
世界が平等でないのは人が人を愛するため、という教義を持ち、慈善活動などを積極的に行っている。始教が行う貧しいものたちへの出資や、就職の支援などによって健全な生活が送れているものも多い。
中央大陸においても有数の宗教団体と言ってよく、信者の数は圧倒的。港町であるバークスプエルトでは、海の神や商売の神にやや押されている。ビジネス面でいえば、祈祷師(呪い師)の派遣や、塩の利権によって大きな利益をあげている。




