↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
守り人は眠らない  作者: ボノボの親戚
1章 風花の港
18/21

1章(7) 保険の謎


 ネルガンはアスラとセトナを連れて波止場まで来ていた。

 内泊(うちどまり)に停泊した船が立ち並んで、ゆらゆらと静かに浮き沈みをしている。

 湾内の独特な磯臭さがかすかに匂う。

 近くの市場から生鮮食品の生臭さと、香辛料の刺激臭が混じったかおりが漂ってきていた。

 それに、船のタールの薬品めいたエッセンスも加わって、いよいよ混沌とした香気がそこに完成している。

 斜角の鋭い朝の日差しが海を青白く光らせて、水質が随分良く見えた。

 名前も知らない貝が、澄んだ波にうたれながら、波止場の壁にへばりついている。

 陸の方へ目を向ければ、ひたすらに人が行き交う様子がある。

 靴の音が鳴り止まない。

 挨拶、指示、注意、怒号、感謝、それらが積み重なって雑音になっていた。

 周囲に満ちる音量は溢れんばかりで、一つ一つを正確に拾うことさえできない。

 まあ、常人であれば、なのだろうが。

 ネルガンは、昨日改めて助力を請うた護衛を見た。

 包帯に塗れた頭部。

 その合間から、長いまつ毛が覆い被さったつり気味の翠眼(すいがん)が覗く。

 ぴく、と彼の目尻のあたりが動いた。

 今ちょうど、遠くで大きめの音がしただろうか。

 常人の耳には、雑多な環境音の一つにしか聞こえない。

 ただ、彼はどうだろうか。

 よこしまなる聴覚を持つ彼は。


 〈雨琴耳(リスア・クルニク)〉。

 〈始神(テン・ウレズ)〉が人に賜った、音楽の才能の最高峰。

 あらゆる音を拾い、そしてその音律をワインのソムリエのように味わい、豊かに聞き分ける。

 一説によれば、音が見えるように聴こえるとさえ言われるのだ。

 ただ、それは高尚なる技芸が集う場であればこその光曜。

 〈雨琴耳〉には恐ろしい逸話があるとドーブが言っていた。

 名の由来になった雨琴(クルーニク)という珍しい楽器は木製で、雨の木(クルナル)という不思議な植物を材料にする。

 その木材は徹底的な乾燥が必要で、雨琴を作る際には外形をある程度削りだしてから、工房に吊るして一年以上は置いておくらしい。

 この光景。

 雨琴(クルーニク)が、天井から吊られるこの姿。

 〈雨琴耳〉を持つものは、『同じような姿になる』などと言われているようなのだ。

 首を吊る、と。

 恐ろしい話だ。

 まさしく人に過ぎたる才能。

 〈始教(テーナ)〉において、人が平等でないことは、人を愛したり、あるいは感謝をしたりするためにあるという。

 そして、才能に恵まれた、神に愛されたものは、その愛を余人に注ぐべきなのだと。

 ネルガンはこの教えに思うところがある。

 仮に、その才能が身を焼くとしたら。

 あるいは、その周囲の余人すらも焼き尽くすほどの業火だとしたら。

 世は、そのものに感謝をするのだろうか。

 

 ネルガンはアスラから視線を外して、後列につく男を見た。

 今朝、家を訪ねてきた人間。

 四十がらみの、少し白髪が混じった紳士風の身なり。

 話を聞けば、保険の査察員のようだ。

 玄関で幾らかやり取りをしたが、何らかの含みがありそうな発言は無かった。

 それが、かえって不気味である。

 船が全損しかけた大事故の査察だというのに、男の態度はやや淡々としているように思えた。

 これは大きな金額が動く保険の査察だ。

 悪意のある偽装があるかもしれない、と通常の査察員なら神経を尖らす。

 それほどの熟練なのか、あるいは。

 男は、船の状態のチェックと、ネルガンへの詳しいヒアリングを行うつもりである、と言った。

 これから、実際に査察員である彼を案内して、船を見てもらう。

 不正がない、問題がないと判断されれば、例の無断でかけられていた保険が下りるというわけだ。


 どうするべきか、とネルガンは思案した。

 渦中のゴーウェン支店長に手紙を出すべきか否か、ということだ。

 内情が今ひとつ掴めない。

 保険は秘密裏に掛けられてはいたが、どのみち履行される際にはそれを掛けていた事実が明るみに出てしまう。

 今がまさにそうだ。

 連絡を取るのが常道ではある。

 その権利もあるだろう。

 ただ、下手をすると、それが黒幕の逆鱗に触れて、本格的に潰しにかかられるという含みもまたある。

 ゴーウェン支店長の目論見が分からない。

 基本的に、探りは静かに入れるべきだ。

 まあ、いっそのこと逃げてしまえば良いのでは、とどこかで思う。

 この港から離れて、新天地で商いを行う。

 最悪そうなる可能性もある。

 だが、商売の基盤を失うのは痛い。

 人間の浅はかさといえばそうだろうが、積み上げたものへの未練はどうしてもある。


 見覚えのある船が視界に現れてきた。

 この近辺だろう。

 アスラが短く、あれだな、と言った。

 やや小ぶりの商船が、ぷかぷかと海に浮かんでいる。

 脇の他船を通り過ぎると、それなりに傷んだ船体が顕になる。

 水面の光の反射で、やや明るめの色調を帯びているだろうか。

 戦友。

 こいつも、あの過酷な旅を生き延びたクルーなのだ。

 よく走ってくれた。

 よくぞ〈船飲み〉の攻撃を耐えてくれた。

 誰も褒めなければ、己が褒める。

 君のおかげで、我々は生きてここに着くことができたのだ。

 ありがとう。

 ネルガンは、心中で真摯に頭を下げた。


 揚場の近くの係員を呼んで、船尾へ丈夫な板を渡してもらう。

 査察員、ネルガン、セトナ、アスラの順で船に乗り込む。

 セトナが乗り込む際に、気をつけなさい、とアスラが声を掛けていた。

 セトナはどこかおどおどしながら、はい、と返事をしたようだ。

 気のせいでなければ、今朝方からセトナがアスラに対して若干の気まずさを感じているような気がする。

 あの子とアスラは少し似ている。

 過分な力、孤独。

 もしかすると、優しさもそうかもしれない。

 ただ、アスラはその全てが危うい域に達していると感じる。

 特にネルガンが分からなかったのは、報酬を辞退した件だ。

 コルビンスを手当てし、手厚く弔ってくれたということについては、善性もあるのだろうが、打算もあると思って良い行為。

 そうでなければあり得ない。

 誰とも会えぬような孤独を抱いたまま、どうして見ず知らずの他人に献身ができるのか。

 そうだ。

 高額の報酬の辞退。

 これは誰へのアピールになる。

 このような行為は、神以外に喜ばれはしない。

 そして、神はいらっしゃるが、人に何かをしてくれるわけではない。

 気をもんでくれるのも、傷を癒してくれるのも、この世の人間だ。 

 度し難い精神。

 何度か見たことのある、まことの信仰心という名の狂気を抱く輩。

 セトナも、アスラの深淵に触れたのかもしれない。


 「ネルガン様。

 先ほどあらましを伺いましたが、この船は〈船飲み〉と呼ばれる怪物に襲われたということでよろしいですか?」


 査察員が静かに尋ねてくる。

 ネルガンは少し遠くなりかけた現実に目を向けた。

 アスラのことは一旦いいのだ。

 その間も、査察員は甲板や、手すり、船倉の入り口などを検分している。

 手元には書類が挟まった板が携えられて、状況を細かく記録しているようだ。

 場合によっては簡素な絵も添えられて、そのクオリティも高い。

 明らかな熟練。

 気を抜ける相手ではない。

 どちらから衝撃があったか、生物はどの程度の大きさか、何日前のことか、などを淡々と、しかし鋭く質問してくる。

 たまにとぼけたふりをして、最初の方に聞いたことを繰り返し聞いてくることもあった。

 なるほど、ぬかりがない。

 妙な落ち着きは、プロフェッショナル故の態度であったと取るべきだ。

 変に言い間違えなどで矛盾など作ろうものであれば、この査察員はその穴を広げて保険を不履行にするかもしれない。

 怪しい保険ではあるが、船の修繕費は必要だ。

 どのような真意があるのかは知らないが、貰えるものは貰っておいて損はない。

 

 ネルガンが査察員とやりとりしている間、アスラとセトナも執務室の前に並んで、甲板を見渡していた。

 しばしすると、アスラが首を傾げ始めた。

 右舷側の船首のあたりをじっと注視している。

 セトナがなにやらアスラと話しをしたのも束の間、船首のあたりに2人で歩いてゆく。

 何やら雑談をしているように見える。

 しかし、アスラの眼光は鋭い。

 先ほど船首の検分は終わった。

 両者がそこへ行っても問題はない。

 アスラは、いや、少し疲れたな、などと屈みながら、右舷の甲板を見つめている。

 セトナはよく分からないようだが、そうですね、などと話を合わせている。

 どうした。

 何かあったのか。

 査察員に一声かけて、彼らの元へとゆく。

 アスラは、素っ気ない様子で床を撫でていた。

 湿って、白っぽいような光を帯びた甲板。

 彼は視線を少し上げた。

 翡翠の目は、船の縁にある手すりを映している。

 これがなんだというのか。

 

 「どうかしたのですか?」


 「この船に誰か上がったな」


 「なに…?」


 アスラの低い呟きに、ネルガンもつられて声が低くなった。

 咄嗟に背後を振り返る。

 少し離れた場所で、あの鋭い査察員が書類板に熱心にペンを走らせていた。

 まだこちらには気づいていない。

 ネルガンは査察員の視線を遮るように自分の体を影にした。

 アスラは、じっと手すりを見ている。

 ネルガンは手すりに寄って、よくよくそれを眺めてみた。

 目を凝らせば、ある箇所に擦れたような跡がある。

 ロープか何かが通ったような痕跡。

 アスラは、ネルガン殿も少し休まれたらどうか、などと穏やかに言う。

 屈め、ということか。

 アスラが甲板へと目配せをする。

 セトナも難しい顔をしながらそれを覗き込む。

 甲板に、傷がついている。

 何か、鋭いものが食い込んだような跡。

 確かにそう言われればそのようなものに見えなくもないが、この程度の傷は無数にある。

 腑に落ちていなさそうな態度が分かったのか、彼は目線で合図をした。

 アスラは、手すりをよく見てみろ、とそのような態度だ。

 何らかの確信があるようだ。

 ネルガンは、いや、良い風ですな、と再度手すりに寄った。

 アスラも、うん、と適当に相槌を打つ。

 歩んでゆくと、ある箇所で太陽の光がちょうど手すりに反射する。

 一瞬の違和感。

 光の反射が少し曇る場所がある。

 見れば、妙な汚れが残っていた。

 靴の跡。

 そうか、とネルガンは合点がいった。

 確かに侵入の痕跡だ。

 甲板の足跡は判別不能だが、手すりについた足跡は話が違う。

 海上で、そんな場所に足をかけるものはいない。

 それも、これは海側ではなく船側を向いた足跡だ。

 船員のものではない。

 何者かが、この船に侵入したのだ。

 恐らくは、夜半。

 湾岸警備の目を掻い潜るために海から、秘密裏に。

 鉤爪のようなものを甲板に投げ、それを伝って海から上がり、手すりを踏み越えた。

 証拠を追えば、そのような光景が幻視できる。

 

 「誰なんですか?」


 小声でセトナが言う。

 少し不安そうだ。

 アスラは、手すりに静かに歩み寄った。

 悪魔のような真っ赤な手が、丁寧に手すりを撫でてゆく。

 瞳は閉じられて、指先の感覚に集中しているようだ。

 

 「武装はしているかもな。

 長ものを手すりにぶつけている」


 小さく涼やかな声が海風に溶ける。

 アスラは手すりの外側かつその裏側を撫でている。

 触覚も鋭敏なのだろうか。

 いや、彼はきっとあらゆる情報の解像度が高い。

 

 「武装…。

 人のいない船に派遣する人員としては物々しいですな」


 ネルガンは、背後で手元に目を落としている査察員に聞こえぬよう、極力声を潜めて応じた。


 「あるいは、万が一のことも考えたのかもしれぬ。

 それだけ、この船に興味があったと見るべきだな」


 アスラもまた、査察員の方には一切視線を向けず、冷然と言葉を返す。

 しかし、なぜ。

 荷揚げは終わっていたはずだ。

 造船所へと送られるこの船に、乗っているものは全くないと言っていい。

 執務室に置いてある家具類も、一旦引き上げてしまっている。

 いや、逆に考えれば、荷揚げをした荷物の中に目的のものはなかった、とするべきなのか。

 

 「どんな興味でしょうか…?」


 セトナがアスラに聞く。

 

 「荷揚げが終わったような船に持つ興味さ。

 例えば、荷物が船に残されていたら、という線を消す。

 あるいは、人がいないという点の方が魅力的なのかもしれない。

 何らかの工作をするとかな」


 工作、と言っても何をするのだろうか。

 荷物をすでに下ろし終わった船だ。

 例えば、禁制品などを忍ばせて荷揚げの際に問題にする、などということは考え辛い。

 なにせ、目録との照合も済んでいる。

 

 「どういう工作でしょう?」


 「例えば、柱でもくり抜いて、その中に禁制品などを仕込めばいいのではないか?

 船の修理の最中に気づかせれば、否応なくネルガンには密輸の嫌疑がかかるだろう。

 おれも法には詳しくないが、『身に覚えがない』などと弁解を試みても、証拠がある以上は裁かれるのではないかえ?」


 「そんな、酷い…」

 

 「穏やかではないですな…」


 あなたもそうだが、と続けて言葉が出そうになってネルガンは堪えた。

 なるほど、その通りだ。

 背中に嫌な汗が流れる。

 高潔なようでいて、時にあまりにも邪悪な思考を忍ばせる。

 どのような人生を歩んだのだ。

 あるいは、文化、宗教観からの価値観なのか。

 先の異常な優しさもそうだ。

 普遍の善悪のその先に、彼は独自の尺度を持っている。

 (かね)だけで、この怪物を御せるなどと思わない方がいいだろう。

 あるいは、第三者から琴線に触れるような条件が提示され、アスラが勧誘されるというケースも想定するべきだ。

 故にこそ、悩ましい。

 彼に情報を渡しすぎれば、それがそのまま仮想敵に渡るという懸念もある。

 

 「あくまで例だ。

 共同出資での密輸疑惑となれば、商会もそれに一枚噛んでいるのでは、と世間は見るとおれは思う。

 商会が身内を潰す手としては、上策というほどでもないだろう。

 何にしても、干渉があったらしい事実は大きい。

 敵方の真意は未だに汲めないが…。

 ネルガン殿、心当たりはないのか?」


 アスラの探るような視線がネルガンを捉えた。

 彼はおそらく、こちらが情報の全てを流していないということを承知している。

 翡翠の瞳。

 強い風が渡る大草原を写したような彼の眼。

 なぜだろうか。

 かの島を去る時の、光の風が思い出される。

 人智を超えた何か。

 不穏と認識できぬような、撫でられるような不穏。

 ネルガンは、視線を合わせることができなかった。

 だめだ。

 許してくれアスラ。

 内部事情を易々と漏らすわけにはいかない。

 商人というのは、徹頭徹尾、数字と情報を宝とする生き物だ。

 彼には恩がある。

 信頼に足るような思慮深さも持っている。

 しかし、彼が有能であっても、篤実であっても、商会の息のかかったものではないとしても、全幅の信頼を置くことができない。

 出会って10日程度しか経っていないような関係性。

 ただでさえ、彼は計り知れない。

 信頼しきれない人間へと機密を共有することが、どうしてもできない。

 無能を許してくれ、異郷の賢者よ。

 こちらが巻き込んで置いて、踏ん切りがつかない凡夫を。


 「商会のお家騒動である可能性が高い、という程度です…。

 無論、憶測を重ねれば推論もできますが、確信は持てません」


 事実ではある。

 危険ではあるが、『風の縁の会』の本部に乗り込んである程度の探りを入れる他にはない。

 あるいは、人間の作った〈聖地サリア〉ともいうべき陸の孤島の内部であれば、本性を現す妖魔もいるやもしれない。

 幸いなことは2つある。

 まず、あの場所に警備兵以外の武力は介入できないということ。

 アスラという鬼札を手放すことにはなるが、それは敵方も同じ。

 如何に権勢を誇る大商人であっても、かの館の内部では暴力を振りかざすことはできない。

 そして、業腹ながら2つ目。

 出自だ。

 既に生家の家名は捨てたつもりではあるが、ネルガンという人間はそれなりの血族を背後に持つ、と評価されてはいる。

 事実、名乗っている『デ=ヨビス』の家名はいまだ一定の力があるだろう。

 母方の血筋であるデ=ヨビス家は、地方の豪農としては有力で、商会にも少額の出資をしているような関係性だ。

 しかし、強権とは言い難い。

 良いお守りという程度の効力。

 かの商会館で跳梁跋扈しているのは、人とも思えぬ妖怪変化ばかり。

 魔除けの札だけではどうにもならない。

 気になったのは、保険の書類に記載された名前だ。

 なぜ、ゴーウェン支店長は『スリラリア』の家名を入れた。

 はったりか。

 あるいは、何らかの意味を持つ行為なのか。

 確かに、虚仮威こけおどしとしては期待できるものだ。

 ただ、実情は伴わない。

 父上とは、絶縁をして久しいのだから。


 「そうか」


 アスラはやはり静かに頷いた。

 海風が彼の長い髪飾りを揺らしている。

 彼はきっと気付いているだろう。

 こちらが情報の全てを開示していないことに。

 どうするのだ、ネルガン。

 どうすれば、彼を信じ抜くことができる。


 懊悩するネルガンの耳に査察員の声が届いた。

 中年の男は、姿勢を正して船倉への入り口あたりに佇んでいる。

 船内の査察をするようだ。

 少し話し込みすぎたか。

 幸い、小休憩というような芝居を打った甲斐あって不審がられてはいない。

 背を向ける形になったので、男の行動は追えなかった。

 とはいえ、アスラが査察員に対して警戒をしてくれていたことは明らかだ。

 仕込みなどはされていないだろう。

 査察員の男と二人、ランプを片手に、がらんどうになった船倉へと降りてゆく。

 タールの匂いが強まる。

 光の差し込むハッチを離れると、ランプの橙の光のみが暗い船内に広がった。

 査察員は几帳面そうに壁を撫でたり、ネルガンに許可を取って強めに叩いたりなどをしている。 

 この類の人種の中には、船大工などをも経験しているような辣腕がしばしばいる。

 人を診るのは医者、子供なら親、船なら船大工だ。

 手つき、あるいは耳の当て方などからいっても、この査察員は間違いなく造船関係の職歴がある。

 粛々と書類と睨めっこをするばかりの青瓢箪あおびょうたんではない。

 本当にかなりの人材だ。

 これほどの男であれば、港社会でも知られているはず。

 何者だ。


 男とやり取りをしながら船内を下ってゆく。

 いよいよ船倉も検分が終わり、船底が顔を出した。

 暗闇。

 ランプの光だけでは照らしきれない空間。

 中々に珍しい光景ではある。

 通常、バランスを保つため底荷バラストが完全に抜かれることはない。

 今回に関しては、損傷の酷い当船が造船所へと送られるための特別な措置。

 査察員は最後まで手を抜くことなく、船底をくまなく調べている。

 実際、この区画は丁寧に見る必要はある。

 例えば、船が沈みそう、水漏れがあるなどと、水を入れて自作自演を行う可能性もあるのだ。

 損傷が人為的なものでないか、全体としてダメージの入り方にひずみはないか、そういったことをよくよく鑑みた上でこれに保険が適用されるか否か、ということを判断する必要がある。

 査察員はひとしきり調べ終えたのか、ランプを壁に吊るし、手元の書類に再びペンを走らせている。

 ネルガンはそれを黙って見つめた。

 男の吊るした灯りと、ネルガンのランプのみが闇の船底に光る。

 査察員は一つ頷いた。

 ペンが止まる。

 記入は終わったらしい。

 ランプが回収されて、ネルガンの方へと橙の光が歩んでくる。

 

 「ありがとうございました。

 これにて、貴船においての保険査察は終了致します。

 私の方では、貴船は何らかの大質量を持った第三者に右舷の側から大きな力をかけられた、と状況を判断致しました。

 審査の成否の方までは今現在言及できませんが、事故に遭った可能性は非常に高い、というケースに該当するかと」


 男は淡い光に影を深くしながらそう言った。

 暗に、今現在ではシロだ、ということを伝えているのだ。

 額の大きな船舶保険にはなるので造船所あたりで再度詳しい審査がなされる可能性は高いが、ひとまずは安心か。

 

 「こちらこそ、ありがとうございました。

 しかし、大変な熟練ぶりで。

 保険の仕事は長くされているのですか?」


 この男は何者だ。

 保険の査察員というのは、比較的にエリートが多いのはそうだ。

 いわば水際の監督役。

 無能では務まらない。

 そのような背景がある中でも、この男は上澄みだろう。

 

 「それなりには長く。

 さて、ネルガン様。

 最後に申しておきたいことが」

 

 男はほんのかすかに微笑んで、事務的な口調に戻った。

 打ち合わせの日取りだろうか。

 あるいは、確認事項の擦り合わせか。

 なんでしょう、とネルガンは言った。


 「お気をつけて」


 ネルガンは思わず青い目を細めた。

 なんだと。

 どういう意味だ。

 男は船倉の闇の中でランプを片手にこちらを見ている。

 不安定な光で、うようよと影が動く。

 

 「貴方は誰だ?」


 ネルガンは短く尋ねた。

 仕立ての良い衣服に身を包んだ、品のある中年。

 若干の皺が刻まれた顔には、穏やかな表情が湛えられている。

 男は、あいも変わらず闇の中に静かに佇んでいた。

 

 「査察員です」


 先の通り、保険の審査というのは極めて厳格だ。

 ある意味で、これは事件の捜査などよりも神経質に行われると言っていいだろう。

 ゴーウェン支店長がこの船に保険を掛けた意味。

 これはやはり慰労金、加うるに、保険の審査という防壁を設ける為ではないのか。

 外力によって生半な手立てで船を沈めようとすれば、腕利きの保険査察員によってそれは見咎められる。

 つまりは、事件性が見出される可能性があるということだ。

 そうなれば、商会内部への聞き込み、査問ということも想定される。

 〈船飲み〉という大掛かりすぎる手は、ゴーウェン支店長が設けた保険の防壁を崩すためのもの、とすれば納得はいきやすい。

 この様子からして保険機関はゴーウェン支店長とグルか、あるいは強い利害関係で結ばれているような印象を受ける。

 お気をつけて、という先ほどの言葉。

 これほどの腕を持つ保険査察員が、船上にあった侵入の痕跡を見逃すわけがない。

 知っているのだ、この男は。

 何が起きているのかを。

 今後はどうなる。

 荷は渡った。

 今は商会の荷揚げ倉庫の中だ。

 しかし、何が。

 誰に渡った。

 

 「ネルガン様、僭越ながら一つご質問をしたく。

 比較的新しい穿孔の痕跡が船底にありました。

 修理はされておりましたが…。

 これは搭乗員が?」


 男は少しばかり目を細めながら尋ねてくる。

 穿孔。

 テザムの工作だろう。

 流石の観察眼だ。

 暗くても違和感を見過ごすことはないのだ。

 しかし、この男は何を聞きたい。

 踏み込んでみるか。


 「そうです。

 どのような意図かは分かりませんが」

 

 査察員は顎に手を当てた。

 何かを考え込んでいるらしい。

 誰が行ったか、本意は何なのか、それは伏せて事実だけを投げた。

 どう反応する。


 「なるほど…。

 ネルガン様、やはり気をつけた方がよろしい。

 穿孔が、無思慮な思いつきや狂気の沙汰であれば結構。

 しかし、どうにもそうではなさそうです」

 

 分かるような、分からないような言。

 テザムの行為は度をすぎていた、ということだろうか。

 つまり、船を沈めるようなことの運びは本来あまり望ましくない、と。

 それほどに逼迫した状況なのか。

 

 「どういうことです?」


 ネルガンはランプで男を照らしながらそう訊いた。

 聞くのはタダだ。

 なんでもいい。

 情報が欲しい。


 「私が伝えられることは少ない。

 しかし、一つだけ言えるとすれば、この船は沈めてはならないのです。

 何故ならそれは、あまりにも勿体ない行為だからです」

 

 男は、灯の橙の光を見ながらそう言った。

 手のランプが高く掲げられる。

 船底が少しばかり広く照らされて、薄く色づく。

 微かに黄金(こがね)の色を帯びたがらんどうの空間を、男は黙って見渡していた。


 「さて、ネルガン様。

 本当に最後になりますが、これを」


 男は装いを正して懐から一枚の書類を取り出した。

 暗いながらも、それが上質な紙であることが一目でわかるほどの滑らかな裏面。

 ネルガンは近づいてそれを手に取った。

 男がランプを少し持ち上げる。

 書類に光が当たって、黒いインクに闇が残るように文字が浮かび上がる。


 「これは…」


 「本契約における特約の別添書類です。

 個別契約とも言えるでしょうか。

 簡潔にまとめますと、全損での満額支払いでない場合において、一定の掛け金を還付するという内容です。

 ご一読いただきますよう」


 なんだその特約は。

 そんな契約をして、保険機関になんの得があるというのか。

 確かに保険契約上、そのようなことはありうる。

 払った保険料を取り戻さんと、悪辣な輩がわざと船を痛めつける例がしばしばある。

 ならば、安全な航行ができた場合は、掛け金の何割かを戻してやり、ある程度溜飲を下げてやろう、という考えだ。

 しかし、それは長期の保険であったり、損傷での分損がおりないケースのみを対象とする。

 利益を確保してからの予防策。

 進んで利益を薄くするような構造などあり得ない。

 ただでさえ博打めいた雰囲気のある商売なのだから。

 

 「あなた方には何の得があるのです?」


 ネルガンは思わず聞いていた。

 男はじっとネルガンの青い目をみつめて、笑みを深くした。


 「すべては、需要と供給です。

 良い取引にしていただきました。

 ありがとうございます、ネルガン様」


 からっぽの船底の空間に男の声が響く。

 それは少し反響して、重なるように聞こえた。

 ありがとう、ありがとう。

 ネルガンには、男の顔にほんのわずかながら安堵あんどのようなものがあるような気がした。



 ♢



 査察が終わり、簡単な食事を市場で購入してネルガン一行は自宅へと戻った。

 頭が痛くなりそうな謎の山積。

 商会館に行く前に少しばかりの情報の整理が必要だ。

 保険の査察員は、新たな情報を投げて寄越した。

 良い取引にしていただいた(・・・・・・・)

 これをどう取る。

 ゴーウェン支店長は保険機関に特級の保険を依頼した。

 依頼人は当人だが、受取人はネルガンと商会。

 正確には、ネルガンと今回の依頼主である商会の東大陸西岸支店。

 加えて、還付金の特約までもが契約されていたという事実。

 ネルガンが保険機関ならば、そのような狂った保険契約など結ばない。

 今回であれば、分損の保険金と還付金の額はかなりのものになる。

 特約には還付額は分損の程度による、と記載されているので、今回の査察の結果そうなったのだろう。

 何にせよ、利益を吐き出していることに違いはない。

 利権か。

 あるいは、口利きのようなものをしてもらうためか。

 だめだ、分からない。

 ネルガンは机に肘をついて眉間の辺りを揉みしだいた。

 どうにも思考が鈍い。

 様々なことを頭に思い描いているからなのか、考えがまとまらない。

 ネルガンは視界を少しばかり上げて玄関付近を見た。

 異教の呪い師のような出で立ちの人間らしきものが、窓から静かに外を伺いながら佇んでいる。

 結い込まれた黒い髪が風に揺れて、白い衣服と共に僅かに広がった。

 アスラ。

 彼ならどう見る。

 外界の知識そのものは希薄だ。

 しかし、物事の本質を捉える力、俯瞰する能力は異常といっていい。

 答えが欲しい。

 神でも何でもいい。

 頼む、頼む。

 どうにか。


 「アスラ殿、よろしいですか?」


 アスラは、うん、と振り返った。

 ともすれば少女のようにも聞こえる声。

 次いで、いかにも怜悧な翡翠色の瞳がこちらを捉える。

 頼む、アスラ。

 どうにか状況を噛み砕いてくれ。

 ネルガンは保険の査察員とのやり取りと、最後に示された特約の書簡をアスラへと開示した。

 彼は瞳を閉じながら黙って話を聞いて、時たま耳をぴこぴこさせた。

 〈聖地サリア〉でのファーストコンタクトを思い出す。

 頼む。

 底知れない洞察をここでももう一つばかり見せてくれ。

 あるいは、異なる価値観でもいい。

 聞き終わって、アスラはしばらく瞑目した。

 考えを深めているのだろう。

 しかし、暫しの後に首が振られた。

 ダメか。

 それはそうだ。

 彼は情報の全てを収集できているわけではない。

 いかに明晰な頭脳を持っていても、ピースの無いパズルが解ける訳が無い。

 投げろ、ネルガン。

 彼に情報の一切を投げてしまえ。

 そう自暴自棄に考えていると、アスラがまつ毛の長い目を伏せて、床のあたりに視線を這わせながら、このようなことを言った。


 「ネルガン殿、心を静かに。

 少し気が(はや)っている。

 おれは学がないが、細かな視点についてはお教えできるかもしれない。

 本事象について因子を分解するのはどうかえ?

 例えば、先の保険というのはどうじゃ?」


 冷や水をかけるようにアスラは言葉を紡ぐ。

 はっ、と我に帰る。

 随分とストレスを受けて情緒がおかしくなっていた。

 深呼吸を一つ。

 (まぶた)を落として暗闇を呼ぶ。

 束の間の静寂。

 少しばかりだが、気が落ち着いただろうか。

 しかし、分析か。

 いかにも彼が得意としそうなジャンルだ。

 改めて情報を見つめ直そうという訳か。

 ネルガンはもう一つ息を吐いて頭を回した。

 保険。

 これは、商売人が大きな損害を免れるために契約するもの。

 長期で少額を払い、有事には大金を得る。

 保険機関は少額の利益を積み続け、問題があればそれを吐き出す。

 アスラはやはり床のあたりを見ながら小さく頷いている。

 

 「今回はどうなっている?」


 今回でいえば、ゴーウェン支店長、ネルガン、保険機関の3者がそこに介在している。

 ゴーウェン支店長から保険機関へと金が動き、ネルガンを庇護する。

 有事には保険機関から巨額の保険金がネルガンとゴーウェン支店長へと舞い込む。

 平時であっても、還付金という名目でゴーウェン支店長およびネルガンの元へと金が動く。

 唯一、ネルガンだけが得をするような格好だ。

 これでは金が己の場所にとどまらないではないか。

 ゴーウェン支店長にも、保険機関にも。

 他に利益のある構造でなければおかしいだろう。

 アスラは伏せた目をさらに細めた。

 

 「私見だが、金が絶えず動いているように思えるな。

 有事であっても平時であっても、必ず金のやり取りがある」


 アスラは真っ赤な手のひらから鋭い爪の指を立てて、歪な動きを再現している。

 ゴーウェン支店長から、保険機関へ。

 保険機関から、ゴーウェン支店長と、ネルガンへ。

 いや、待て。

 その動きには、もう一本、隠された導管が伸びるのではないか。

 ネルガンから、ゴーウェン支店長へ。

 ネルガン・セペリアノ・ホルヘ・デ=ヨビスは、ゴーウェン・ロッドに幾つかの恩がある。

 駆け出しの商人だった頃、数回出資をしてもらったこともあった。

 勢力としては、ゴーウェン支店長の一派といってもいいくらいだ。

 つまり、ネルガンの元に流れた資金は、正当な商売の配当や上納という形で、容易にゴーウェン支店長の元へとさかのぼらせることができる。

 これは、だ。

 ネルガンは机に円を描いた。

 金の循環。

 アスラは、緑色の瞳でじっとそれを見つめていた。

 何ということだ。

 朧げながら、ようやっと概形が掴まえられた。

 間違いなく商会のお家騒動。

 そうだ。

 これは、保険などではない。

 船が沈めば、莫大な保険金が東大陸西岸支店へと流れる。

 船が無事に着けば、己と己の派閥の人間へと綺麗な金が還付する。

 資金洗浄マネーロンダリングに近しい何か。

 狸じじいめ。

 なんという面倒ごとに巻き込んでくれたのだ。

 やはり怪物だ、あのお方は。

 血は通っているが、温度は殆どない。

 

 「ありがとうございます、アスラ殿。

 少し。

 ほんの少しですが、足がかりがつきました」


 ネルガンはアスラの瞳をじっと見つめながら言った。

 アスラはしばらく視線を交錯させて、少しばかり微笑んだ。

 よかった、とそれのみを口にして彼は警戒に戻った。

 未だに謎は多い。

 テザムの工作はどんな意図があったか。

 保険機関になんの利益があるのか。

 この船に侵入したのは、どこの誰なのか。

 ゴーウェン支店長はどうして資金洗浄めいた動きを試みたのか。

 ネルガンは立ち上がって、シャツの襟を正した。

 さる仕立て屋にオーダーをして作らせた、一等の上下だ。

 社交の場でも通用しえるもの。

 十分に風格は出るだろう。

 階段室から、軽快な音が響いてきた。

 セトナが少しの緊張と、楽しみを纏いながら降りてくる。

 やや水色がかった涼しげな色調の外套。

 靴も、お気に入りなどと言っていたものに履き替えているようだ。

 街歩きの準備ができた、ということ。

 緊張感は兎も角として、やる気があるのは良いだろう。

 さて、情報収集といこう。

 アスラとセトナは、この港町を見て回る。

 そして、ネルガンは商会のお膝元へ。

 それなりに長い航海をしたので、内情も変わっているだろう。

 いざ、『風の縁の会(トス・コルマ)』へ。

 我々の道行きに、よい風の導きがありますことを。




用語集


雨琴耳リスア・クルニク

邪聴(デル・ドマス)の一種。地獄耳とも呼ばれる。

先細りで尖った形質の耳介が大きな特徴。雨琴クルーニクという楽器に良く似た耳ということで、雨琴耳と呼ばれるようになった、と一般には伝聞されている。

考えられないほどの広い音域まで聴覚を澄ませることができる耳で、音楽の才能としては最高峰のものであるとされる。雨琴耳を持つというだけで、楽団や宮廷歌人への推薦、推挙が生じ得るほどの絶大なブランドを持つ。その一方で、保有者を蝕む呪いという側面も強く、あまりにも多くの音が聞こえるということに悩むものも極めて多い。

この耳を有名にしたのは高名な楽器工房の職人であり、その人物も雨琴耳の持ち主であった。その職人は最終的に精神を病んで首を吊って亡くなったが、その妻が耳を呪ってこう言った。この耳は、夫を雨琴クルーニクにした、と。職人の妻は見てしまったのだ。工房で吊られて乾燥される雨琴の中に、己の伴侶らしき人影があることを。故に、『雨琴耳』。ある風土でのみ伝わる、本当の雨琴耳の起源である。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。