1章(6) 歪みの坂道
カンテラの光が、港の夜を橙の色へ染め付けた。
整備された石畳は暖色に照らされて、潮風で湿っているらしい地べたがにわかに強い光を反射して歩むほどに後ろへ過ぎ去ってゆく。
眼前には、3人ばかりの人影と、がっしりとした鳥類が見える。
鳥類の肩羽のあたりには大きな背嚢のようなものがくくりつけられて、ずんぐりとした体躯をより広く見せている。
カンテラの光を受けて体色は赤っぽくみえるが、本来はやや水色がかったような羽毛を持っていると思われた。
足はやや短く、頭部は比較的に大きく、嘴もまた立派である。
気性は穏やかで、実に大人しい。
荷物を運搬する業者が、その鳥を手綱で引いて先導をしている。
その後ろに、ネルガン、セトナと続く。
ゆるい坂道が、点々とした灯りのなかにずうっと続いている。
両脇には段々の家並みが連なって、夜空を薄めるように煙突から白い煙がたなびいていた。
焼けた魚の匂いがする。
もうそんな時間か。
その間にも通行人が数人ばかりすれ違って、坂の上へ下へとはけてゆく。
アスラは右の手に灯りを持ち、左の手ですぐに剣を抜けるように遊ばせていた。
護衛の仕事である。
アスラは、執務室での会話のすぐ後に、正式に護衛を引き受けることをネルガンに申し伝えた。
賃金の相場についてだが、用心棒代表ドーブ・エットラにいくらかの知恵を借り、標準よりもやや割り増しという程度に落ち着くこととなった。
ネルガンには複雑な心境があったらしい。
もう少し報酬を払うなどと、多少食い下がってきたりなどした。
これは中々に興味深い反応である。
彼の中で、アスラ・カルナという人物へ払うべき報酬の最低基準額というのが定められていたらしい。
少なくともそれは標準以上である。
ケチな商売人であれば安く済めば御の字という感受があっても良いが、彼に限ってそれはないようだった。
アスラは、力強い足取りで坂を登ってゆくネルガンの背を見た。
タフな男だ。
彼は、実際どの程度状況を飲み込めているのか。
あるいは、何らかの事実を伏せているという線も否定できない。
様々な意味で本件は危うい橋であると思っておいた方が良いだろう。
〈守り人〉という民族が外界でどう見られているかということも含めて、慎重に立ち回る必要がある。
ネルガンは馬鹿な男ではない。
今回の反応にしてもそうだ。
アスラは船に乗る名目上の役割を全うした。
コルビンスとの約束。
それは、ドーブ・エットラを家族のもとへ返すこと。
奴は、またな、ありがとう、と言葉を残して自宅へと帰って行った。
今度酒でも飲もう、と笑顔で言われた。
まあ、付き合わんこともない。
約束は果たした。
アスラの秘された本懐であった、外界へ出るという目的も達した。
船内であったようなアスラに実害があるような不穏も、個人、あるいは商会に属しているであろうネルガンの問題へと移り変わった。
もはや、〈聖地〉の剣客アスラを縛り付けることは叶わない。
故にこそ、高額な報酬で釣ったのだ。
流出の防止、といったところか。
まあ、命を張るということへの対価は如何に、という論軸もある。
これの適正額など定めようがない。
アスラは、奥ゆかしさから高額な報酬を辞退したわけではなかった。
先立つものとして金子という価値交換媒体を高く評価している。
ただ、現状を鑑みればアスラよりも明確にその金を欲している人らがいるのだ。
それは、テザムとコルビンスの遺族である。
ネルガンは後日テザムの遺族へと遺品を返納しにゆくようだ。
その際に、慰労金を渡す、とも言っていた。
アスラは、そちらに資金を回してくれ、と彼に頼んだのだ。
この港の拝金主義の風潮は、僅か数時間の観察でも十分に見て取れた。
収入の減少は、命の存続に直結する可能性もある。
無論、現在において一文無しのアスラにも同様のことがいえるのだろうが、幸か不幸か友達もいなければ家族もいない。
自分一人など、どうとでもなる。
坂の上から、家族とみられる一団が降りてきた。
子供らは親と手を繋いで、その両親は少し困ったような顔で元気な先導を受けている。
転ぶなよ、とアスラは内心苦笑した。
テザム・オンモルには子供がいるらしいことを先ほどネルガンが漏らしていた。
奴は、もしかすると己の家族を守ろうとしていたのか。
遺品には、何らかの信仰を思わせる装飾品もあった。
それを抱いてテザムは死んだ。
奴は、神へと救いを求めたのだろうか。
邪悪な人間だった。
〈船飲み〉をおびき寄せ、数十名もの命を海へと引き摺り込もうとした悪漢。
だが、人は愛するもののためになら、どんな悪鬼にも変貌しうるもの。
憐憫の情などはない。
仮に指示をされていたとしても、脅されていたとしても、実行したのは己だ。
その業は、責任は、必ず背負い込まねばならないのだから。
「アスラ殿。
先ほど申し上げたが、明日は商会館へと向かいます。
道中での護衛をお願いしたく。
その後は、セトナに街を案内して貰おうかと思います。
立地などは把握しておいて損はないですから」
ネルガンが振り向きながら言った。
商人というのは、義理の生き物であるとネルガンは口にしていた。
今回の非情な一件は商人の組織である『風の縁の会』が噛んでいる可能性がある中で何をいっているのだ、と思うところではある。
ただ、これは一種の社交という意味合いを含むようである。
報告は足で行い、礼には礼で答え、結果は儲けで語る。
これは昔かたぎなやり方らしいが、ネルガンはそのような振る舞いが好ましいようだ。
「やった!
アスラさん美味しいもの食べにいきましょう」
セトナが破顔している。
まあ無理もない。
船上の食事というのはかなり淡白なものだ。
下手をすると傷みかけのものを口にするというケースもままあるらしい。
陸に上がったら何をしたいか、と問うと船乗りは必ず『飯、ベット、女』というようだ。
暖かく新鮮な食事と、揺れない清潔な寝床。
最後は恋人なのか、妻なのか、あるいは淫売のようなものがこの地域にもあるのか。
極限の環境に置かれた人間は、主たる欲求が優位になるということだろう。
彼女の場合はご飯という訳だ。
「落ち着きなさいセトナ。
案内というのが主眼なのだ。
アスラ殿にご迷惑を掛けぬように。
いやはや、お見苦しい所を…。
この子はいつまで経ってもこの調子でして…」
「ごめんなさい…」
ネルガンがため息を吐きながら言葉をこぼす。
セトナは若干しなびたか。
歩く速度が落ちたからか、荷運びの業者と少しばかり距離がはなれている。
アスラの〈雨琴耳〉が、妙な音を拾った。
首を傾げて、音源の場所を探る。
昼間よりも音が減ったので、より鋭敏に音を聞き分けることができている。
鋭く短い声。
これは悲鳴だ。
少し下の地区だろう。
「ネルガン。
下で悲鳴が聞こえた」
アスラは剣に手を這わせたまま端的に言葉を紡いだ。
知らぬ間に声が落ちる。
ネルガンは、なんですと、と少しばかり驚嘆している。
え、とセトナがたじろぐ。
カンテラの光がか細く闇を照らす。
「いや、なるほど。
アスラ殿は耳が良いのでしたね。
恐らくは貧民区画でなにか起こったのでしょう。
危険な地域です。
近づくべきではありません」
アスラは坂の下を見下ろした。
闇の中に点々と明かりが灯されている。
揚場の倉庫の付近は松明の火が焚かれて、警邏の兵士もカンテラを手に巡回している。
その少しばかり上。
居住区画の最下層。
そこには、ほとんど灯りがない。
蝋燭や油を手に入れることができないのか。
少し登れば、ぽつぽつと光がある。
目線をずうっと動かす。
アスラは、翻って坂の上層を見た。
夜空には星。
青い月。
それを背に、荘厳な屋敷が斜面に立ち並んで、窓からは眩しい光が漏れている。
立派な門が備えられて、武装した門番すら立たせている家屋も少なくない。
ネルガンが、どうされました、と問うてくる。
荷運びの業者も、あれ、などと大きな鳥を止めて立ち止まった。
アスラは彼らと目線を合わせずに、緩やかな坂の道を見つめた。
美しく敷き詰められた石畳で、歩みやすいように見える。
歪み。
勝者と敗者、などと形容すると酷か。
あるいは、積み上げるものと、奪われるものなのか。
なんだこの街は。
豊かな場所だと思ったが、ひどく貧しくもある。
気味の悪い場所だ。
歪みの坂の上に、この港は建っている。
そして、その頂上に商会館はあるのだ。
アスラが視線を坂の道へと戻すと、セトナが悲しげな表情で貧民地区を見ていた。
形の良い眉は傾いて曇り、ややつり気味の灰色の眼差しは、憂いが満ちている。
「大丈夫かえ?」
アスラは静かに言った。
何らかの感情が彼女の中を暴れている。
セトナは頷くわけでもなく、はい、とこぼした。
その横顔は、テザムを思いやる時の表情をより悲痛にしたもののようだった。
行きたいのか、悲鳴の上がった場所へ。
知り合いか。
いや、アスラ以外には声も碌に届いていないはず。
優しさが、彼女を駆り立てているのか。
どうにかして、痛みを、歪みをなくそうとしているのか。
無理だ。
何もかもに手を差し出すことはできない。
人は、他人の痛みまで背負い込めるほどに強くはできていない。
アスラは、手に下げるカンテラを見た。
淡く、されど優しい光に、羽虫が群がっている。
それが、暗い影となって、広がる明かりを虫食いにしていた。
足を止めるアスラたちの脇を、坂の通行人が通りすがってゆく。
無数の足音が、遠くで聞こえた叫び声を埋もれさせる。
行こう、とネルガンが言った。
アスラは、諸手を胸に抱いて口をつぐんでいるセトナを見た。
夜風は、少し肌寒い。
♢
アスラは見知らぬ天井を見ていた。
弱い光の濃淡で、石造りの頑健そうな作りがにわかに窺える。
閉め切られた窓から、朝日ともいえぬ薄い光が差し込んでいた。
潮騒の音が小さく聞こえている。
ふう、とアスラは息を吐いた。
丁寧なつくりの寝具が身体を押し返して、心地がよい。
上掛けも手触りがよく、指を滑らせても引っかかりは殆どない。
寝た。
危うくまた睡眠を放棄する所であった。
くそ人間にならぬためにも、自己管理は重要である。
上半身を起こすと、上掛けが胸から落ちて、太もものあたりに重なる。
上掛けは白いが、アスラの肌も負けじと白い。
手持ちの寝巻きは仕立て直さずに、上だけを持ってきた。
大きさはまったく合っていないが、少なくとも身体の大部分はカバーできる。
襟ぐりが広いので、右の細い鎖骨は露見して、肩さえも殆どが見えてしまっている。
アスラはつんとした表情のまま襟を整えた。
結い込んだ長髪を解くと、黒い絹のように髪がこぼれる。
花の香り。
赤い花の香油だ。
どうしてか、少し寂しくなる。
アスラは、まつ毛の長い翡翠の瞳を数回瞬かせた。
ここは、ネルガンの屋敷の一室である。
正確には客間であり、アスラはここへと居候をさせて貰うという運びになった。
部屋はそれなりの広さがある。
箪笥なども備えられており、長期での滞在も想定されているようだ。
鼻で深く息を吸い込めば、調度品の香りが入ってくる。
少し甘いような木の匂い。
嫌いではない。
寝具の中に忍ばせておいた剣を手に取って立ち上がる。
白鳥の鉤爪を用いた長い靴に足を通す。
流石に街歩きでかの日喰い鳥の凶器を晒すわけにはいかないので、儀礼的な被せ物をしてある。
保管の際に使うようなものだが、致し方ない。
アスラは仮宿の寝具を整えながら昨夜のことを思い返した。
昨日は、深夜を過ぎるあたりまで番をしていた。
ネルガンが帰港をした初日、旅の疲れも色濃いであろう夜。
敵方からすれば悪くない状況だ。
『風の縁の会』が強行な手段に出るなら今では、とアスラは見た。
結果としてそうはならなかった。
先日、ネルガン宅を訪ねたものは誰もいない。
ただ、不穏の影はあった。
外部から訪ねたものはいないが、ネルガン宅の周辺には人影があった。
どうにも、商会のコミュニティーによって見回りがなされていたようなのだ。
これは何かといえば、長期で家を空ける際のセキュリティーということになる。
つまり、一種の互助とも言ってよく、出張の多い商人はしばしば利用する仕組みのようだ。
現状を踏まえればそれが単なる警備だったなどと楽観はできない。
何らかの偵察か、あるいは仕込みのようなものがあったやも、と身構えるべきである。
昨晩、ネルガンと共に侵入者の痕跡がないかなどを探った。
埃の厚さや、家具の位置。
不審な足跡の有無。
倉庫や金庫の中身。
どれも、荒らされたり、動かされたりという形跡は見出せなかった。
明らかな工作はない。
一旦はそう考えて良い。
アスラは頭を振った。
前に垂れた黒い髪が再び背の方へと流れる。
長い耳に絡んでしまった毛束を手櫛で直すのも忘れない。
結いこんでしまってもいいが、軽く行水を行いたい。
整然と整えられた寝具を見て小さく満足したアスラは自室を後にした。
立て付けの良い扉が殆ど軋みもなく閉まると、青白い廊下が見えた。
夜明け前。
数個ある明かり窓から、微弱な光量が流れ込んでいる。
アスラは足音もなく廊下を歩いた。
複雑なつくりのこの長い靴で音を立てないのは中々に難しいが、既に慣れた。
念の為に気配は薄めておいた方が良い。
アスラの客室は2階にある。
短い廊下も終わり、石造りの階段が見えてきた。
アスラはその壁に手を這わせた。
暗くて視界が悪い訳ではない。
丁寧なつくりだ、と感心したのだ。
やや白っぽいような石の表面は綺麗にならされて、がたつきもなく精緻に詰んではかさねられている。
良い仕事だ。
アスラは懸命に職務を果たす人間が嫌いではない。
アスラは階段を降りながら耳を澄ませた。
朝を迎えていない港町の控えめな環境音に身を浸す。
このくらいの時間帯であれば聴力を高めても大きな問題はない。
アスラの耳が上下に動いた。
微かな違和感。
人の気配がある。
屋内ではなく、ネルガン宅の庭。
ただ、妙に希薄だ。
この世にとろける雪のような淡い気配。
ふと、アスラは思い当たった。
これはセトナだ。
どうにも、庭先で何かをしているらしい。
彼女には自室があるはず。
わざわざ外へと出る必要があるのか。
ただでさえ今は緊張感が高まっている。
加えて、セトナは朝に弱い。
わざわざこの時間に起床するだろうか。
一階には静かな暗闇があった。
玄関の扉は少しばかり開かれて、闇の中に青い線が走っているように見える。
暖炉には熾火が残って、暖かな色を音もなくそこへ出している。
アスラは暖炉の近くに寄った。
微細な香り。
少しの酸っぱさのようなものを感じる。
乾燥しきっていない生木の匂いだ。
アスラは、火かき棒も使わずに燻る炭を持ち上げた。
赤い光が暖炉の闇を流れて、熱が強くなる。
火はまだ消えていない。
大丈夫だろう。
炭を掴んで黒くなった指先に、ふ、と小さく吐息をかけてアスラは玄関へと向かった。
そっと玄関の扉を押す。
物音は殆どしなかった。
淡く青い色が外に広がっている。
空気は冷えていた。
薄い海霧がしっとりと垂れおちて、外気を曇らせている。
髪の毛先が遊ぶ。
弱い風が吹いているようだ。
アスラは二歩ほど歩いて後ろを振り返った。
ネルガンの家は大きい。
無論、それはアスラの感覚であって、この港の最上位層とは比べるべくもないが、少なくとも小さな庭があり、そして門もある。
生活水準は低くない。
セトナの姿はすぐに見出すことができた。
庭先にある小さな木の傍で佇んでいる。
寝巻きのままだ。
長い杖を立てかけて、背を正して立ち、そして少しこうべを垂れている。
彼女は呪い師。
一種の祈りか。
あるいは、精神統一のようなものと見るべきだろう。
そもそも、呪い師は戦士のように鍛錬をするのだろうか。
世界には声があるのだと、ドーブは言っていた。
この世と語ることができるものを呪い師と呼ぶのだ、と。
とすれば、外語の習得のようなものだろうか。
例えば、日常会話を越えた深い所での意思疎通ができるように、ニッチな文法や、難しい単語や、スラングのような知識を増やす。
つまりは、ある言語に通暁して、細かな心の機微までも拾えるようになる、というようなことが呪いを強くするのでは、とアスラは勝手に考えている。
非常に興味深い。
セトナが集中しているのであれば水を指すのは不粋だ。
ただ、アスラも一応護衛という立場がある。
ネルガンは彼女に事件の全容を伝えていないが、何らかの危険が迫っているということは含ませているようだ。
船で見たような不用心な動き。
祈りを屋内で行うのはどうか、と提案をしても良い。
いくら個人の家の敷地とはいえ、外からの干渉がないということはない。
悪意を持っているものならば尚更である。
ネルガンにとって、セトナは痛点。
それは、彼女が水手であるから、などという訳ではない。
「おはよう、セトナ。
不用意に外へ出ると、また父上に怒られてしまうぞ」
うわあ、などとセトナはお手本のように驚いた。
肩ほどの栗色の髪を乱しながら振り返って、猫の目にも見えるような灰色の瞳をこちらに向けてくる。
セトナの本名は、『セトナ・デ=ヨビス』。
つまり、ネルガンの娘なのである。
ただ、血縁はないようだ。
ネルガンは、燃えるような赤毛に青い瞳をしている。
鼻はやや低めで、目は垂れ気味で比較的に細いつくりである。
一方のセトナは栗毛にグレーの瞳で、鼻は高く、目はつり気味で大きい。
端的に評価して、ネルガンの面影は彼女にはない。
親子関係を示唆するようなやりとりは船上でも数回あったのだが、その点がアスラを惑わせた。
まさか、血の繋がりのない父と娘であったとは。
とはいえ、そこに何か思う所がある訳ではない。
ネルガンがセトナを愛し、育み、導いているのであれば、彼は立派な父だ。
そして、彼のもとで健やかに、優しく育っているのであれば、セトナはネルガンの自慢の娘だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「アスラさん…ですか?
女の子…。
いや、男の子?」
驚きも一転、セトナはしげしげとこちらを観察しだした。
なるほど、そのように見えているのか、とアスラは豊かな眉を少しばかり上げた。
包帯を完全に解いた姿を見せるのは、ドーブを含めて彼女で2人目だ。
セトナの言を客観的な意見として取れば、どうにも中々に中性的な容姿をしているらしい。
まあ、どうだろうか。
そんな気もする。
アスラが評するに、この身体の肌の色を除く容姿の特徴というのは、若年のカルナ氏に多い類の形態、形質ではある。
顔立ちだけでみれば、息子と娘に似ていないこともない。
カルナ氏は外貌において、比較的に男女の差が少ないのだ。
「その質問なら女の子、ということになるな。
まあ、子などという年齢ではないがね」
アスラは苦笑を浮かべながらそう言った。
女のひと、などとセトナはより一層こちらを注視している。
口が小さく開かれたままで、若干間が抜けて見えるだろうか。
「綺麗な人かもとは思ったけど…」
だんだんと眉を傾けたセトナは、少しむすっとした表情を浮かべた。
それを受けたアスラは肩をすくめた。
わずかながら彼女から怒りを感じる。
なんだこれは。
一種の嫉妬心のようなものを励起してしまったのか。
「なんか不公平です…」
「厳密な公平などないさ」
「アスラさんの弱点は?」
「唐突によく分からないことを…。
まあ、最たるものは人でなしという点だろうな。
おれは人を殺すからね」
セトナの眉が下がる。
口もつぐまれた。
会話の流れの上とはいえ、やや毒が強いか。
当然、彼女は快く思わないだろう。
だが、真実だ。
アスラはそうして生きてきた。
こればかりは嘘偽りなく伝える必要がある。
戦士という人種としての責務だ。
アスラは人を殺す。
ゆえに世は、アスラ・カルナを嫌っていい。
そして、殺していい。
「護衛だからですか?」
「どうだろうな」
「そうでなければ、酷いです」
セトナは強い口調でいった。
優しい子だ。
そして、強い子だ。
声には少しの悲しみが滲んでいる。
「なら、酷いのかもな」
アスラは静かに言った。
夜の中に溶けるような声が出た。
セトナは慣れていなさそうにこちらを睨んでいる。
海風が、彼女の栗色の髪の毛をなぶる。
「そんな人には見えません。
ドーブさんも、アスラさんは優しい方だと言っていました」
「優しくない人などいないよ。
大概は優しい面があり、また、異なる面がある」
「丁寧に手当をしてくれたと」
「器用なほうでね」
「コルビンスさんを手厚く弔ってくれたって」
「やり方を教わっただけさ」
「…意地悪。
偏屈」
セトナは不機嫌そうに頬を膨らませた。
アスラはやはり肩をすくめた。
どうにもこの年頃の子に対して苦手な意識がある。
「そうだな」
意地は悪いだろう。
事実、アスラには人を遠ざけるような物言いの癖がある。
他人に期待を抱かせるのも、また抱くのも好まない。
「そういうところです」
杖を抱え直しながら、彼女はむっとした顔で言う。
ものいいは感情的ではあるが、事実を提示し続けているあたり理性的でもある。
おかしな娘だ。
「優しい人ほど、自分は優しくないって言います」
「そうかえ?」
「そうなんです」
即答だった。
アスラは思わず笑ってしまった。
セトナが、むむ、とむっつりしている。
どうしてこの娘はムキになっているのか。
きっと理屈ではないのだろう。
彼女には彼女の価値観があり、当然許しがたい精神性というのも存在する。
それに抵触したという訳だ。
さっぱり分からない。
まさか、このような怒り方があるとは。
「なんで笑うんですか」
「笑うのが趣味でね」
「意地悪…。
偏屈…。
耳ぴこ…」
セトナはご機嫌斜めのまま、意味不明な悪口を言い出した。
これは、ドーブ・エットラが口にしていた謎の中傷。
少し、沈黙が降りた。
夜明け前の庭に、かすかな鳥の鳴き声が落ちる。
空の色が、少しだけ薄くなっている。
雲の形が朧げながら立ち上がって、赤いような色がつき始めた。
夜明けが近い。
セトナはふと視線を下げた。
その先には、夜露をつけた雑草が見える。
植物の絨毯。
我々の足跡がそこにある。
名も知らぬ草は踏まれて荒らされ、葉は歪み、そして傷み、伸び盛る他の命の中に埋もれていた。
セトナから先ほどまでの勢いが消える。
その横顔に、昨夜の表情が重なった。
貧民区画を見下ろしていた時の顔。
アスラは、静かに訊いた。
「気になっているのか」
セトナの肩がわずかに揺れる。
風が少し強くなった。
彼女の栗色の髪と、アスラの長い黒髪がなびく。
「…何がです?」
「昨夜のことだ」
貧民区画と呼ばれた場所から聞こえた悲鳴。
誤魔化しは通じないと思ったのか。
彼女は少し黙った。
冷たい海風だけが吹いている。
「アスラさんは、本当に聞こえたんですね」
アスラはゆっくりと頷いた。
耳は澄んでいた。
声の質からして、成人の男性。
怪我でもしたような調子だった。
「聞こえた」
セトナは杖の先を見つめた。
黒っぽい、長い炭のようにも見える長杖。
それを両手で抱えて、口を結んでいる。
今度は迷うような沈黙が降りる。
「私、お父さんに拾って貰ったんです」
綺麗で、静かな声だった。
アスラは何も言わない。
黙然と続きを待つ。
湿った海霧が流れる。
遠くの空に、光が立ち上がり始めた。
夜と朝の境界が曖昧になる。
「とても、寒い記憶があるんです。
雪ばかりが降る夢。
お母さんが、不思議な歌をうたっているんです。
お母さんは泣きそうで、その歌が耳に残るんです」
彼女は言葉を切った。
あの歌か。
天候すら変えて見せる雪の歌。
彼女がいうお母さんとは、ネルガンの妻のことではないのだろう。
実の母親。
セトナの澄んだ灰色の瞳が遠くを見る。
屋敷の壁も、庭木も、その先の港町も越えて。
さらに下。
光の届かない場所を。
「お父さんは、泣いている私を拾ったんです。
いてもたってもいられなくて、気がつけばあやしていたって言ってました。
でも、泣いている人なんて、泣きたい人なんて、いっぱいいるから」
降り積もる新雪のように静謐な独白。
脆く、湿り気がある。
「お父さんは、私を自分の籍に入れるために、たくさんのものを諦めたみたいなんです。
昔は偉い人だったって。
お父さんがどうして私を拾ってくれたかは分からないけど…。
私はきっと運が良かっただけ。
できることなんてないけど…。
寝ていたら、怖くなるんです。
だから、祈るんです。
神様は本当は優しいから、きっとこの世界を良くしてくれる。
そう思って…」
そんな神などいないよ、とアスラは言いかけてやめた。
よほど酷いことを口にする所だった。
彼女には、彼女の信仰がある。
〈守り人〉とは違う。
無情の神を崇めている訳ではないのだ。
美しい宗教ではあるだろう。
ただ、祈りが何かを変えるのか、とは思う。
何を動かす。
何を感化する。
神は、本当に人を救うのか。
あの人の、笑った顔が脳裏をよぎる。
眩しい、眩しい、太陽のような笑顔。
どうしてあの人は死んだ。
神は。
神など。
碌なものではない。
「アスラさんは、神様を信じますか」
セトナが不意に問いを投げてくる。
良い問いかけだ。
鋭く重い。
「信じない。
ただ、神はいる」
「信じないのに、いるとは思うんですか?」
「思うんじゃないさ。
いるんだよ。
神は」
セトナが怪訝な顔をした。
なるほど、よく分からない言だろう。
どういう意味か、と考えるだろう。
確証は。
根拠は。
だが、事実だ。
神はいる。
いるのだ。
これを否定することはできない。
なぜなら、それはアスラという人間の人生に嘘をつくことになるからだ。
そうだろう、『アスラ・ウシール・アンラ=マンユ・パブ=ダ・アセド・ラ=スーヤイルム・カルナ』。
神はいる。
神らしきものが。
正確には、いたのだ。
「会ったことがあるのですか…?」
セトナは、控えめながら興味を示している。
〈聖地〉という秘境が、彼女に何らかのバイアスをかけているのか。
あり得ないようなことが起こりうると。
それは半分正しく、半分誤っている。
〈守り人〉という種族そのものが、彼女の考えを遥かに通り越して異質なのだ。
「いや、ないよ。
おれは会うことができない」
無情の神、パブ=ダ。
心をちぎった戦士。
悟りを得たもの。
かの島の狂った信仰。
どだい、外界の民に理解することはできないだろう。
「アスラさんは何者なのですか…?」
抽象的でありながら、酷く核心をついた質問だ。
セトナの中には、謎が渦巻いているのだろう。
アスラという人物の輪郭がぼやけている。
だが、そうなのだ。
そんな程度の人物なのだ。
世をとらえているようで、考えているようで、何も解していない。
何もかもが分からない。
選択は正しかったのか。
戦士になりきれず、人にもなりきれず。
中途半端で暗愚な人間だ。
それが人格としてにじみ出る。
「ごろつきだよ」
アスラは翡翠の瞳で静かに朝焼けをみた。
赤でも青でもない空。
暗いだけだ。
セトナは、音もなく首を振った。
どうしてか、悲しそうな顔をしていた。
彼女の栗色の髪が左右に振られて、そっとおさまる。
アスラはセトナに翡翠の瞳を向けると、困ったように小さく微笑んだ。
ごめんね、と気づけばそんな言葉が零れていた。
♢
太陽が登ってから随分の時間が経った。
セトナはあの後ちょろちょろと顔を窺いに来てはもごもごして帰ってゆく。
若干の気まずさがあるのか。
それでなくとも多感な時期だろう。
無理をしてアスラと関わることもない。
ネルガンもじきに起床してきたので、朝食をこさえる運びとなった。
ただ、長期で家を空けていたので、食料がないとのことである。
これは無理もない。
先日陸に上がったのは、かなり遅い時間であった。
市場なども殆どが閉まっていた。
夕食こそ船の保存食の残りで賄ったが、いよいよ買い出しに行く必要があるということだ。
どこに敵がいるか分からないという状況がある以上、動く際の人員の配置は難しい。
アスラ、セトナ、ネルガンで動くのはやや大業ではあるが、少なくともアスラの目が届く範囲に警護の対象者は全ておさまる。
一方でネルガン邸は留守になるので、何らかの工作をされるリスクは上がるだろう。
誰かを家に残すのであれば、ある程度の防犯にはなるが、同時にアスラの庇護下からは外れる。
一人でいるところを襲われる危険もある。
悩ましい。
机を挟んで、ネルガンと簡単な議論をする。
セトナはかしこまって、お茶の注がれたコップを両手で握っている。
何かを発酵させたような、深い匂い。
茶葉が少し気になるが、それどころではない。
アスラが腕を組んでネルガンの話を聞いているその最中であった。
アスラの耳がかすかな足音を拾った。
人の気配。
包帯を巻いた口元に指を立てる。
ネルガンは咄嗟に黙り込み、セトナも黒い杖を手にした。
ぬらぬらと光る赤い蛇の手甲を剣に這わせて、玄関口による。
アスラは窓に目を向けた。
かがみながら、外を見る。
門を開けて、何者かが敷地に入ってくる。
男だ。
四十がらみだろうか。
服の襟は綺麗に折り込まれ、袖は清潔で、皺はほとんどない。
黒いズボンもタイトで、やぼったくない印象だ。
格好からすると、商人か、あるいは富裕層。
ネルガンを呼んで姿を確認させる。
彼は首を振った。
知人ではない。
アスラは改めて耳を立てたが、敷地内にその男以外の気配はない。
ぴこぴこと動くアスラの耳に、セトナが首をあちこちへと振って忙しない。
じきに扉が叩かれた。
アスラはネルガンと目線を合わせて少し目配せをした。
己が応対することを伝えたのだ。
ドアのノブを引いて、ゆっくりと玄関を開ける。
蝶番がきしむ音が低く鳴った。
「失礼。
ネルガン様のお宅とお見…」
男は言いかけて、明らかに動揺した。
家の暗がりの中からアスラが出てきたからだ。
顔いっぱいに巻かれた包帯、虎の毛皮、禍々しい手甲、呪術めいた靴に古そうな長剣。
これに威圧を受けないというのは難しいとは、ドーブ・エットラの談である。
「なにかご用事かえ?」
男は生唾を飲み込んだ。
しかし、すぐさま表情をとりつくろうと、一歩たじろぎながらも姿勢を正した。
「失礼…。
異郷のお方。
ネルガン様はご在宅か?」
用語集
・パブ=ダ神
「守り人」に崇められている神。無情の神とも。
戦の神であり、裁きの神であり、死の神でもある。地上に武術を興したとされる文字通りの「武術の神」で、戦士の父とも呼称される。もとは地上で暮らす戦士であったとされ、神霊に導かれて修行をつみ、穢れた心をちぎり果たすことでついに神の座に至った。
天上天下で無双とされる強さを持ち、万物の命を刈り取る魔剣「鎌の剣」を筆頭に、「光の衣」、「瑞光の脚絆」、「金色の蓮」、「千里眼」、「地獄耳」など数多くの強大な『力』を持つ。




