1章(5) 港の暗闇
傾いた日の光が、黄昏の色調を帯びながら湾内に満ちていた。
金色と言ってもいい。
そこへ、滑るようにネルガンの船が進んでゆく。
何らかの香辛料であろう、鼻をつくような匂いがにわかに漂ってくる。
整備された岸壁に打ち付けた波は、太陽そのものを映して一瞬まばゆく光を投げて、また黄金の海へと帰って行った。
段々とそこへ満ちる人々の喧騒が大きくなって、潮騒の音が退く。
アスラは驚いた。
これほどの混雑は見たことがない。
ドーブやネルガンは大して驚いていないことからも、これはこの地の平均的なものであるということが窺える。
これに匹敵するのは、かの賊どもの終わりのない挙兵のみだろう。
戦という凄惨な舞台でみたそれとはあまりに異なる。
この地の生命の熱気はどうだ。
ドーブらが〈聖地〉などと呼称する、島の豊かさとは全く別種の栄華。
まさに、人類の繁茂を象徴するような光景。
人とはこれほど居るものなのか、と分析を拒否した間抜けな感想が出そうになる。
己も田舎ものなのかもしれないな、とアスラは内心で苦笑した。
甲板では水夫らが慌ただしく動き回っている。
接岸の準備だ。
陸へある程度まで近接すると、水先案内人が小舟を出して船の停泊場所まで導くという流れがあるようだ。
ぎしぎしと帆が畳まれて、速度が落ちてゆく。
作業を手伝おうか、と水夫の連中を突いてみれば、あんたは剣士、おれたちは水夫、とぴしゃりと断られてしまった。
仕事を奪うな、ということだ。
流石に10日近くも作業を観察していれば船上の業務の概ねも頭に入ったので、実践して感覚のキャリブレーションでもしようと思っていたのだが、魂胆が外れた。
まあ、彼らの言う通りである。
雇用というのは、労役に対して賃金を支払う訳であるから、その労働機会を奪われるのは避けるべき事柄であるということだろう。
一種の権利の侵害ともいえるかもしれない。
ドーブも負傷して手本のような穀つぶしと化してはいたが、彼の場合は〈船飲み〉という化け物を一過的にでも追い払ったという功績があるので大目に見られているだけだろう。
そもそも、アスラが彼の代役を買って出たようなものである。
厳しいようだが、海上でのリソース管理は思ったよりもずっとシビアだ。
忖度抜きで過酷な仕事である。
さて、いよいよ外界における第一歩が近づいてきている訳だが、やはり穏やかならぬ雰囲気はある。
ネルガンは先ほどの検疫において随分神経質になっているように思われた。
入港できるか否かがそこで篩別されるわけであるから、気がかりなのはそうだろうが、それのみではない。
何らかの介入を恐れていたのだ。
テザムは結果として自死を選んでしまったわけだが、それは即ち良心の呵責のようなものか、あるいは処罰、ペナルティのようなものを恐れてそうせざるを得なかった、と推理すべきである。
つまり、この船が帰港するのを見られたのなら、彼にとって不都合な何かが起こる、ということだろう。
監視をするものか、あるいは隠者のようなものが見張っている可能性は高い。
船ごと沈めようなどという大掛かりな策であったことからも、権力者かあるいは、母体の大きい組織などが手引きをしていたのは、想像に難くない。
それで言えば、テザムの近親者などが心配だ。
人質を取られているケースなどは、容易に想像できるのだから。
アスラは周囲を警戒しながら、舳先の方へと歩いた。
逆光になっている場所もあるが、その程度でまやかされる視界はもっていない。
それにしても人が多い。
褐色肌の人種が大半を占めているように思われる。
日焼けをしているのか、あるいは元々の肌の色が褐色なのか、アスラとしては見慣れた色合いがあって少しばかり心地が良い。
しかし、この人数の中に斥候など潜ませられたら、流石に見分けるのは難しい。
〈雨琴耳〉に届く音が多すぎて、アスラはにわかに頭が痛くなってきた。
情報が濁流のように入ってくる。
これだから人混みは苦が手だ。
ドーブ曰く、〈雨琴耳〉を持つものはノイローゼにかかりやすく、人里を離れた地域に居を構えるケースが多いらしい。
ひとえに、この〈邪聴〉の持ち主は耳が良すぎて、全く気が休まらず、精神を病んでしまうのだとか。
彼はそれを天恵であり呪いと形容していたが、なるほど上手い捉え方だ。
秀でるというのは、必ずしも幸福なことではない。
実のところ、アスラも静かな方が好みである。
がらがらと騒々しい音に不意に後ろを振り返れば、ネルガンが絶妙な操舵をしながら、船員に指示を飛ばしていた。
器用なものだ。
その時、マストの上の観測主から、ネルガンへと伝達があった。
水先案内人がついたらしい。
船の少し先を見れば、光の中に小舟が浮かんでいる。
徒手信号で数回やりとりがなされて、船が追随した。
交信に隠された符牒がないか念の為に目を凝らすが、主だった収穫もない。
まともに信号の解読ができないのは痛い所だ。
なんとはなしに、停泊の区画の指示があったように思われたが定かではない。
それにしてもネルガンの操舵はうまいものだ。
ドーブ曰く、停泊している船が多い港など、へっぽこ操舵主では到底務まらないらしい。
なんと操舵の代理などという職種すらあるというのだから、その難易度が窺い知れる。
風、複雑な海流、速度、それらを計算しながら船という大質量を御すのだ。
その当事者たるネルガンは、今少しばかりの雑談をしている。
舵は右は左へと回されて、その間にも絶えず微調節をしているようだ。
指先で舵を弄ぶような瞬間すらある。
まあこれは、相当な熟練と言えるだろう。
港の向かって右側の区画にネルガンの船は案内を受けた。
大小様々な倉庫が立ち並んでいる場所で、まさに揚場といったところである。
この区画は、俗に内泊と呼ばれるようだ。
波が比較的穏やかな場所で、長期で停泊する予定の船や、あるいは社会的地位のある者らがここに案内される。
風待ち、あるいは簡単な補給だけを済ませてすぐに出航する船などは外泊と呼ばれる外縁部に錨を下ろすらしい。
ネルガンの船は当然ながら商船であるので、荷下ろしやその手続きのために内泊に停泊をするということだ。
この港というのは、なにかにつけて費用が発生するらしい。
例えば、先ほどの検疫。
今船を先導している水先案内。
停泊する場所の料金。
積荷を港に卸す際の手間賃。
外界の常識のないアスラからすれば甚だ阿漕にみえる構造だが、あるいはそのような参入障壁を設けねばどうしようもない輩が悪さを働くのだろうとも思う。
毒と薬は表裏一体である。
それでなくとも、この港の規模の大きさを考えれば管理や維持には多大なコストを必要とする筈。
強欲に見えるほどの吸い上げを行わなければ、この繁栄の輝きは保たれないということの証左か。
赤く燃える炉に、薪をくべ続けるようなものだ。
燃料がなければ、たやすく火は消えてしまうのだから。
船の眼前に、石で建造されたらしい波止場が迫ってくる。
水先案内の船はするりと横に避けて、この船から十分な距離を確保しつつある。
ネルガンが大きく舵を回して船を動かす。
どうにも船尾を陸側につけるようだ。
つまり、船を反対にしなければならない。
視界がゆっくりと波止場から動いて、黄昏の光に満ちた湾内と、点々と泊まった船の群像へと移り変わる。
さて、いよいよ投錨を行うようだ。
この場合は停泊ということもあるが、方向転換という意味合いもある。
黄昏の光の中を、水夫らが走り回る。
随分と近くなった街の活気を押し返すように、大声や足音が甲板を埋めてゆく。
左右で微妙な観測を行う水夫らから情報を吸い上げて、ネルガンが操舵の微調節を行なっている。
ほとんど動いていないような状態だが、まだ止まってはいない。
船尾を接岸させる意図だが、これは場所を取らないというメリットがあるようだ。
随分と息の詰まるような文化だとは思うが、効率的なことは嫌いではない。
水夫らが甲板の中央部に集まってくる。
その一角には、巨大な鉄の塊が寝かされていた。
いや、正確にいえば縄や固定具などで厳重に安置されていると称するのが正しい。
錨だ。
これを運び出して船首の丈夫な梁に吊るすのだ。
縄が解かれ、水夫らが10数人の束になって大声を上げる。
甲板がミシミシと悲鳴を上げた。
ゆっくりと錆びた鉄塊が持ち上がる。
船首の方へとその一団がのろのろと上がってゆき、怒号や悲鳴に近い声を吐きながら、やっと梁にそれを吊るした。
総員疲労困憊である。
こんなことをするくらいであれば梁に錨を吊ったままにしておけばいいのではという論もあるのだろうが、これがそうもいかないようだ。
大質量の錨を船首に吊ったままにしておけば、船全体の重量のバランスが崩れてしまう。
嵐などが発生すれば、転覆の危険性はより高まる。
よって、船の中心近くに動かないように固定しておくのが吉と、そのようになる訳だ。
大きな声が上げられて錨が落とされた。
船首の水飛沫と共に、船全体が揺れる。
丈夫であろう梁の滑車が金切り声のような音を立てた。
とぐろを巻くように置かれていた太い縄が、海に吸われるようになくなってゆく。
水夫連中が潜ってゆくロープに注意を払いながら、感覚を澄ませている。
これで終わりではないのだ。
錨を落とした後に海底に引っ掛けねばならない。
さほど深くはないのか、すぐにロープは大人しくなって、殆ど動きを止めた。
一旦ここで固定をするようだ。
ネルガンも舵をさらに切って、船を旋回させる。
鎖塔の間から夕焼けの空が見えた。
金色の海が視界いっぱいに広がって、眩いほどだ。
船がいくらか傾くのを感じる。
ロープが少し緊張している。
錨が支点となって船が回っているのだ。
方向転換が終わり、一時固定のロープが解放された。
僅かに帆が張られて船が後退する。
右舷の側には既に停泊した船があり、注意を払う必要がありそうだ。
船尾の水夫がおおまかな距離などを大声でネルガンに流している。
ロープが再度動き出して、ある程度の量が吐き出された。
帆はすでに畳まれて、速度はないようなものだ。
水夫らが安全確認を行いながら、太いロープを引いてゆく。
ある程度引いた所でぴんと張られて、船首の梁の近辺に巻いて固定される。
これでやっと停泊が完了した訳だ。
素晴らしいものを拝見させていただいた、とアスラは感嘆の心持ちだった。
海の男というのは大したものだ。
できれば、コルビンスの勇姿も見てみたかった。
何やら船尾の方でやり取りがなされている。
どうにも、陸側から丈夫な板が渡されているようだ。
ついに上陸、そして荷下ろしという運びになるだろう。
木の板を踏みしめる音が鳴って、岸から何者かが船へと登ってくる。
海からの逆光に目を微かに細めながら、四十がらみと思われる身綺麗な男が姿をあらわした。
褐色の肌こそしているが、水夫や漁師といったような職務についているような人種ではなさそうだ。
ネルガンが一瞬執務室へと引っ込んで、数種の紙束を手に甲板へと戻ってきた。
事務的な手続きがなされるようだ。
視界の端に、景色とは異なる金の光が見える。
ドーブだ。
知らぬ間にどこからか生えてきた。
少し時間がかかるぜ、などと軽妙そうにアスラへと言葉を投げながら寄ってくる。
まあ、暇つぶしといった所だろう。
結構なことだが、実際のところ油断は禁物だ。
先の検疫官もそうだが、この港で労務をしている人間は信用ならない。
その気になれば、いくらでも悪意のある工作が可能だろう。
検疫では難癖をつける。
禁制の品が存在しているようであれば、荷解きの際にそれを忍ばせる。
書類上のやりとりであれば、改竄して不備を指摘する。
無論、それらは倫理観上厳しい行為になるとは思うので、当文化圏でも何らかの罪と規定されている可能性は高いが、法を捻じ曲げることができる力を持つものなどが首謀をすれば話は変わる。
これほどの栄えた地だ。
富んでいるものは果てしなく富んでいるだろう。
価値交換媒体を神器のように振り回す、理外の怪物がいても不自然ではない。
「ドーブ、ネルガンとやりとりをしているものは知っているかえ?」
「商会の人間だよ。
俺も顔くらいは知ってる」
商会。
度々耳にしてきた組織だ。
正式な名称は『風の縁の会』。
〈中央大陸〉の東岸部において最も勢力があるといっていい、漁業、造船業、海運業などを取り仕切る団体。
ネルガンから聞いたが、この組織の保有する力というのは生半なものではないらしい。
アスラは、夕闇が垂れ込めつつある岸辺を見た。
倉庫の近くともあって力自慢と見られる屈強な男たちが威勢よく荷物を運搬しているのだが、その中に武装した集団の姿を見出すことができる。
頑強そうな皮を鱗のように紡いだ鎧に、恐らくは鉄製の武具。
彼らはいわゆる警備兵であり、どうにも商会の私兵であるらしい。
海賊対策や、一種の国境警備という意味合いで、この港に兵力を配置する優先度は高いだろう。
しかし、それは本来国という母体が主導すべきことで、『風の縁の会』が踏み込んで良い領分なのか、という疑問が出てくる。
即ち、この構図から導かれるのは、商会が国と蜜月の関係性があるか、あるいは国も手出しができないほどに権力を有しているか、というような推察だ。
今回の〈船飲み〉の一件。
どうだろうか。
大きな組織の影。
ネルガンは同商会に属している。
積荷や船、そして人員を失うのは商会にとって痛手だろう。
しかし、それ以上に利益が出るような構造さえあれば営利上は何ら問題はない、などと考えるのは冷血が過ぎるか。
話を聞けば『商い』と言うのは、原則として利益を追求するような傾向がある。
法や道徳を軽視している訳ではないだろうが、それを侵すことのリスクとリターンが定量できるのであれば、それは投資と何ら変わらない。
商会は十分仮想敵になり得ると身構えておくのが無難だ。
『風の縁の会』が今回の陰謀に一枚噛んでいるのであれば、当船を取り巻く事象の力学が何よりも重要。
この船を沈めることが『商い』になる筈だ。
何にどのような価値がつけられ、また負債となりうるのか。
秘された情報が必ずある。
この件からは、何やら薄気味の悪い腐臭を感じる。
あるいは、同族嫌悪か。
アスラは人でなしは嫌いだが、話自体は合うことが多い。
実にいけ好かないが。
「しかし、どうにか帰ってこれたよ。
あんたとコルビンスに感謝しなきゃな」
ドーブがふと、そんなことを溢した。
アスラは彼を見上げた。
海風が静かにドーブのブロンドの髪を撫でている。
橙の光が、褐色の肌を半分鮮やかに、もう半分を藍色の陰に塗っていた。
包帯の巻かれた筋肉質の腕は、腰に吊られた剣に添えられている。
彼曰く、『使えない剣』だったか。
何か、寂寥感のあるような黒い眼差しが夕闇の街に投げられて、その雑踏を漠然と見渡しているようだ。
ドーブからすれば、この旅は激動のものだっただろう。
亡き親友に、思いを馳せているのか。
疲れもきっと残っている。
「コルビンスにだけでいいよ」
アスラはドーブにそう言った。
本心だった。
コルビンス・ラスコ。
衰弱した髭もじゃの水夫。
半日に満たないような交流だった。
消えかけた命の灯火を、眩く、高潔に燃やし切ってかの水夫は逝った。
死の美学などという言葉は、安っぽいような美談、綺麗事だとアスラは思う。
けれども、コルビンスは優しい奴だった。
彼はただ、ドーブ・エットラの身を案じていた。
それが、それだけが、コルビンスにとっての何よりの恐怖だったのだろう。
馬鹿な男だ。
そんなものを怖がるな。
死が目の前にあって、そのような考えに及ぶことがどれほど尊いか、彼は知っているのだろうか。
馬鹿な男だった。
「そういう訳にはいかないぜ。
随分世話になったからな…」
ドーブは視線だけをこちらへ向けてはにかんだ。
伸びてきている無精髭が、夕日で赤っぽい色に染められていた。
アスラは肩をすくめた。
今回の一件。
船長であるネルガンにはある程度の恩を売ることができている。
それがこの外界においてどれほどの価値をもつのかは定かではないが、歩み出しとしては悪くはないだろう。
テザム・オンモルを自死に追い込んでしまったことは痛恨の極みではあるが。
「お前の好きにすればいいさ。
しかし、お前はまだ船に乗るのかや?
おれが思うに、かなり危うい職だ。
お前も妻と娘があるんだろう?
これを機に、陸上での護衛などに就いた方が家族も安心するのではないかえ?」
これは、かねてより疑問に思っていたことだ。
船乗りというのは稼ぎはいいらしいのだが、同時に大きな危険が伴う業種である。
今回の〈船飲み〉の襲撃はイレギュラーだったとしても、補給ができないような海上で彷徨うということだけでも大概のものだ。
水主が呪いで飲料水を生み出せるにしても、軽い気持ちでは望めない類の労務であることは明白。
それこそ、家族があって養う必要があるともなれば、この変数の多さはリスキーが極まる。
水夫らのように船に乗るということ自体が前提になるのであればともかく、ドーブは剣士だ。
船の護衛ではなく、街や、あるいは陸運の用心棒という選択肢もあるのではないだろうか。
「…まあ、そうだろうな。
あんたの言う通りだ。
本当なら、船に乗るのは辞めた方がいいだろう」
アスラはにわかに翡翠の眼を細めた。
てっきり、望外の稼ぎがあるのだ、などとそのような回答が得られると思ったが、何やら歯切れが悪い。
要領を得ないような返答。
ドーブは相変わらず港の雑踏に視線を向けている。
「…訳があるのか?」
聞くべきが迷った。
あるいは、パーソナルな話題になる可能性もある。
彼に興味がない訳ではないが、深入りはすべきではない。
誰しもが触れてほしくない箇所があり、それは肌を撫でているうちに傷跡を悪意なく引っ掻いてしまうようなものだ。
心の事故といってもいい。
アスラは別にドーブの過去を掘り返そうというつもりはない。
それでなくとも彼は今傷心だろう。
これのみで、この話題は終わりにする。
「まあな。
ちょっと人探しをね。
風聞で、東の大陸の港でその人を見たっていう噂が立ったんだ」
人探し。
つまり、この護衛の仕事はそのついでのものであったということか。
とはいえ、彼には家庭がある。
ちょっとやそっとの目的で長期間家を空けるということは考え難い。
彼にとって、あるいは彼の近親者にとって重い意味を持つ人探しであったという可能性が高いだろう。
それこそ、行方知らずになった血縁者を探す、などというのが分かりやすい。
「そうか」
決めていた通りに話を切ることにした。
少しの間沈黙が降りる。
倉庫の方で指示を出してるような声が無数に飛び交う。
海風が穏やかに通り抜けて、アスラの髪飾りを揺らした。
少し涼しくなってきただろうか。
「…今回も見つからなかったよ」
ドーブが、呟くように言った。
この話題をまだ続けるようだ。
アスラの気のせいでなければ、どうにもこの話をすると彼は少しセンチメンタルな雰囲気を纏うような気がする。
やはり、この青年にとって大切な人間を探しているのだろう。
「長く探しているのかえ?」
少しばかり話につきあう。
上辺を擦る程度でいい。
ドーブは若干目を細め、腰の剣を静かに一瞥した。
橙の光が、古そうな剣を淡く照らしている。
この使えない剣と、なにか関連があるのか。
粗い作りのくたびれた鞘に、滑り止めすらも巻かれていない柄。
アスラも少しの間彼の剣を没収して最低限のメンテナンスをしたが、はっきりと言って酷いものだ。
鉄は悪く、鍛えも芳しくなく、拵は粗雑。
刀工の魂の入っていない、鉄の延べ板。
なまくらだ。
実際に振った訳ではないが、その程度は検めれば造作もなく分かることである。
「…ああ。
探している。
ずっとな」
ドーブの言葉は、黄昏の闇の中に溶けていくようだった。
アスラは、何かその中に、様々な感情が注がれているように思えた。
船が、おだやかな波に揺れている。
アスラは、ドーブの目線を追った。
やはり、港の雑踏がその先には広がっている。
赤い光に照らされた、人々の海。
その中に、ドーブ・エットラが何を見ているのか。
アスラには分からなかった。
♢
日はさらに傾いて、バークスプエルト港は夜の中に浸かろうとしていた。
ぽつぽつと段々の坂に松明が灯されて、一日の労務が終わったと思われる連中が重くも軽い足取りで捌けていっている。
若干ではあるが、満ち溢れていた喧騒も退く。
ただ、揚場では、今だに接岸した船から荷物が下ろされていた。
駆け込みの船が港に押し寄せて、どこも大変な混雑になっている。
どうにも入港には刻限が定められているようで、その間際である日暮れの前は常に忙しくなるらしい。
当船もようやく荷揚げがなされるようだ。
これは人員が不足していて後回しにされた、などということではない。
あの後ネルガンは、執務室で商会の係員と何やらやりとりをしていた。
ドーブ曰く、この船の荷物というのは、少々複雑な事情があるらしい。
ネルガンが行なっている商売は、卸し、および運輸、というような区分になるか。
彼は、その商いの中で荷主と呼ばれる荷物の責任者を務めている。
この仕事の大まかな流れとしては、始点で荷物を仕入れ、安全に航海をするために人員を雇い、終点で荷を売り払うことで差額の分の利益を得る、という構造だ。
仕入れる荷物の選定は荷主が行い、その価値や普遍性、あるいは劣化などを考慮した上で値段の交渉を行なって、利益が残るようにことを運ぶ。
事業としての重心は荷主にあり、故にこそ己の選択や行動に責というのが生じる。
これが一般の運輸の常道であるらしい。
では、本件はどうなのか。
どうにも、『風の縁の会』に依頼された荷物の運搬ということになるらしい。
卸しではなく、やや運輸に寄ったような仕事の内容。
まあ、これはいい。
ただ、ネルガンは積んでいる荷物の詳細を知らないようなのだ。
アスラは、なんだそれは、と思わずドーブに言ってしまった。
ネルガンに限って短慮はないと思いたいが、不穏がすぎる。
この船が置かれている社会的な座標を考慮すれば、どうしても怪しい因子となるであろう背景である。
では、なんらかの不穏が、明確にそこにあるのか。
完全にそうでもない、というのがドーブの見解だった。
このような依頼は往々にしてあることらしい。
彼曰く、帳簿類、あるいは契約書、それに付随する書状あたりが荷物なのではないか、とのことだ。
この船にはセトナという極めて優秀な水主がついている。
ネルガンの操舵も見事なものだった。
商会にとって重要な意味を持つ取引き、あるいは異国の支部との大規模な情報交換などは、腕ききの船乗りに行なってもらいたいというのが実情だろう。
偶然に、それに類するタスクが商会内で生まれ、偶然に優良な商船が空いていた。
ネルガンは商会の有力者からヘッドハンティングを受けて、それをバークスプエルト港へと届ける役目を仰せつかった。
そんなような流れがあるのではないか、とのことだ。
なるほど、一定の納得ができるだけの推理ではある。
アスラはじっと揚場を見ていた。
石を積まれて組まれたであろう頑健そうな倉庫の影が、藍色の空の中に並んでいる。
屋根はやや傾斜し、それがずうっと連なっているので、天に巨大なのこぎりが向けられているようにも見える。
「これらはすべて商会の倉庫なのかえ?」
「大体はそうだな。
でも大体さ。
例えばあの奥の方にある一際大きいのは塩の倉庫なんだが、商会の管理しているものじゃないしな」
闇の中にうっすらと見える巨大な倉庫をドーブが指差した。
港の西の方にあるもので、石の材質や作りが、他の倉庫と少々異なっているような趣きがあるだろうか。
アスラが目を凝らせば、ここにも警備の兵がいるようだ。
けれども、これまた毛色が違う。
何らかのモチーフが掲げられた、やや華美な装飾がある防具を身につけた兵士が警邏をしている。
かすかに夕日の紅の光を照り返すあれは、金属の鎖帷子だろうか。
ともすれば、商会の私兵よりも装備の質は良いかもしれない。
あれは国の正規軍、あるいはその他の公権力か。
商会が港のすべてを牛耳っているわけではない、ということの表れか。
船尾の方を見れば、ネルガンの姿があった。
先ほどまで陸へと上がって、何らかのやりとりをしていたのだ。
彼は非常に難しい顔をして、じっと坂の上の方、あの塩の倉庫とはまた異なる方角にある、一際大きな建物を見ている。
この港というのは、緩やかなすり鉢のようになった坂に、建造物が連なり、その間を路地が通るようにして上へと伸びているのだが、その最上部に、異質な存在感を放つ家屋があった。
敷地の面積は並の家の十倍はあり、四階建ての荘厳な建て付けは、多くの窓が取られて屋内では明かりが灯され、この夕闇の中に牙を立てる怪物のように見える。
ドーブが教えてくれた。
商会、『風の縁の会』の本部だ。
アスラが評するに、この街は上の階層ほど裕福な人種が多いような傾向があると思われる。
これはただ、船の上から観察した街のあり方と、そして建造物の質などから推察した軽薄な分析だが、そう遠くはない程度には確信が持てる。
水は低いところに満ちるが、富は高いところに満ちるのか。
人の業、摂理を乱す在り方が、そこに匂い立つような気がする。
ネルガンと話をする必要がある、とアスラは思った。
〈船飲み〉によって歪んだらしい手すりから離れて、階段を上がる。
ネルガンはアスラを見つけると、向こうから寄ってきた。
彼も何か話があるらしい。
アスラは船の暗い執務室に通されて、ネルガンもすぐに入室してくる。
窓からは暗い街がかすかに窺える。
インクと紙の匂いが、港に満ちる様々な香りに混じりこんで、それらを薄めた。
扉が丁寧に閉じられると、〈雨琴耳〉に入ってくる音が俄かに落ち着いて、少し気が楽になる。
壁のランプに何らかの器具で火をつけたネルガンは、静かに己の椅子へと腰掛けた。
ランプの光の加減か、妙に暗い表情に見える。
彼の青い瞳が、小さく灯りを照り返していた。
「アスラ殿。
まずは、本航海において大変にお世話になりました。
心より感謝申し上げます」
「滅相もない。
己のなすべき役目を果たしたまでのこと」
ネルガンはあくまでも丁寧である。
ただ、声色からは帰郷の歓喜は感じられない。
神経質になっているような、張り詰めた固さがにわかに滲む。
「アスラ殿。
折り入ってお頼みしたいことがあります。
この港において、私とセトナの護衛をお頼みしたいのです」
アスラはかすかに目を細めた。
護衛。
分からないこともない。
彼も、一連の陰謀がこれのみでは終わらないと踏んでいるのだろう。
この船が巻き込まれた事件は、今現在においても何を目的に据えた策謀だったのかが判然としない。
もしかすると、ネルガンやセトナを狙ったものであった可能性もある。
「条件の交渉はさせていただくが、お受けすることはできる。
しかし、ネルガン殿は商会に属している筈。
ことの背景を共有し、組織として動いた方が良いのでは?」
己でも野暮なことを聞くと思う。
彼がこのようなことを頼んだということは、つまりどういうことか。
ネルガンはじっとアスラの瞳を見た。
「ごもっともな意見です。
しかし、どうにも安易にそうする訳にはいかないかもしれない」
ネルガンは目線を振って、執務机の上へとアスラを誘導した。
紙が置かれている。
航海にも耐えられるであろう、極めて丈夫そうな作りの書類だ。
ランプの不安定な光の中で、それが淡く照らされている。
「私は本航海の復路である依頼を受けました。
商会の異国の支部にある支店長からのご用命で、荷物を運んでいたのです。
荷の詳細は伏せられていました。
それが、書類ということだけは朧げに知らされていましたが」
ドーブの言っていたことは概ね正しかったらしい。
ネルガンは続けた。
商会には半期の決算の時期が迫っており、この前後の月などにはしばしばこのような依頼が出される。
支店長の代理人が船に同乗するケースが多いが、その程度によるという。
本帳簿の輸送であれば間違いなく支店長当人か代理人がつく。
しかし、その写しや、比較的重用度の低い雑費を記帳したものであれば、信頼ある商会員に一任する例もなくはない。
特に、この時期というのは商会内も多忙を極めるため、運良く舞い込むかもしれない大きな仕事という認識で、声がけがあるのを待つ商人もいるようだ。
商会からの信頼と、大金を得ることができる委託業務ともいえるだろう。
「先ほど委任状と目録が確認され、無事に荷揚げができるという状態にまでなりました。
報酬も契約の通りの額が支払われる。
多くの犠牲を払いましたが、当船は役割を全うしました。
商売としては、これは成功と定義して良いでしょう。
その船が、大きく損傷したのが出費として痛い所ですが…」
手続きの上で明らかに怪しい点はなく、また契約もつつがなく履行されるような雰囲気がある。
これは良い傾向だろう。
船の損傷については航行こそできるが、無視できるものではないことは間違いない。
彼の得るはずだった利益は修繕の費用と相殺されて、大きく削られるのではないだろうか。
「しかし、船の補修について、興味深いことがありました。
アスラ殿は、『保険』というものをご存知ですか?」
保険。
単語としては承知しているし、熟語としての意味も恐らくは分かっている筈だ。
そんな外界の語彙のことをきいてくる筈はない。
つまり、この文化圏での独特の制度か何かのことを彼はいっているのだろう。
いいや、知らない、とアスラは首を振った。
「一種の予防策、と言えば伝わるでしょうか。
船は高額な乗り物です。
我々商人は不測の事態での破産を避けるため、平時に一定の金を払うことで、事故の際の修理費を肩代わりしてもらう仕組みを作りました。
それが『保険』です」
ネルガンは続けた。
緊急時に発生した費用の一部を負担してくれるという、優秀なセーフティーネット。
何もなければ無為に金を払い続けるだけにはなるが、何か起きた時には心強いという、ある種の仮想の積み立てといえるような構造のあるもの。
無論、それも商売ということらしく、加入にかかる費用はそれなり以上で、損益の分岐点の見極めは非常にシビアであるとのこと。
特に船舶の保険は加入の際の査定も非常に厳しく、船の状態をくまなく調べられる上に、行き先、航海の目的、荷物の種類、人員など、それらを総合的に評価されて審査される。
アスラは少し辟易とした気持ちになった。
不幸や災厄すらも商機と評価して、抜かりなく金銭に換算するシステムを当然のように構築するとは。
賢いが、同時に不快だ。
やはり、道徳の境界線というのは金脈になり得るものなのだろう。
まあ、恐怖や不安というのは誰しもが嫌うものだとアスラも思う。
それらを解消する一助になりうる制度だと思えば、そう悪くないかもしれないが。
「問題はたった一点。
この船に対して、知らぬ間に保険が掛けられていたということです」
ネルガンは視線を執務室の机に落とした。
水に強いらしいインクが、紙の上をはしっている。
力強い筆跡で書かれたサインが、その終わりの際に置いてある。
これが、その保険にまつわる書類なのだろう。
綴り方を見ても、ネルガンの執務室にある彼の丁寧な文字の筆致とは違う。
つまり、何者かが無断で交わしたもの。
今回のケースは、どのような歪さがあるのだろうか。
例えば、この船が沈んだらば、それを補償するために契約者に対して多額の金銭が支払われる。
わかりやすく悪意があり、また利益構造があり、〈船飲み〉によって船を沈める動機にもなる。
しかし、ネルガンの口ぶりからすると、そうではないような含みもある。
「明日には、保険の査定員がこの船の確認に来る。
乗員の数人には、聴取がなされるかもしれません。
〈船飲み〉の痕跡は明らかだ。
分損の保険金がおりるでしょう。
私は怒りに震えました。
この船が、あるいはクルー達が、強欲な何者かに弄ばれたのではないかと。
ただ、その被保険者は。
保険金の受け取り人は。
どうしてか、私になっていた」
じりじりとランプの火が燃える。
光量が増えて、また減って、部屋を大きくも小さくも見せる。
アスラは、己の細い顎に手を添えた。
一連の流れを考えれば、保険金目当ての襲撃が妥当だ。
しかし、被保険者にネルガンがいる。
これでは、話が全く変わってくる。
「重ねて言いますが、船の保険は安くない。
それも、本船にかけられた保険は極めて等級の高いものでした。
契約者は、今回の依頼者。
『風の縁の会』東大陸湾岸支店長のゴーウェン・ロッド」
ネルガンは、机の書類に指を置いた。
崩しながらも達筆な手跡で、その人物の署名がなされている。
その先をなぞってゆけば、ネルガンの名前が記されている。
『ネルガン・セペリアノ・ホルヘ・デ=ヨビス・レ・スリラリア』。
アスラは微かに頭を捻った。
これが彼の本名なのだろうか。
自己紹介の際に口にしていない部分がある。
「質問をしたいのだが…。
本件のように、他人の財産に対して保険は掛けられるのかえ?」
彼の名前は一旦置いておき、気になったことをネルガンに投げる。
ネルガンは、流石にアスラ殿は頭が回る、と俄かに口角を上げた。
影を湛えた、シニカルな笑みである。
「掛けられません。
通常であれば。
保険は自身が所有する財産に対してかけるもの。
歪な保険利益の関係性では、査定など通る筈はない。
ただ、今回は掛けられる。
私は荷主。
しかし、一部は商会との共同出資という形を取っているのです。
つまり、この荷も、あるいは船も、私のものでもあり、また商会のものでもある」
資産の境界を曖昧にする共同出資ゆえの抜け道。
確かに商会の所有物であれば、契約主体にはなれる。
「それは、商会にも利益がでるのかや?」
「ええ。
商会側にも一定の補償が下りる契約です」
純粋に保険金が目当てであれば、ネルガンまで被保険者に含めるのはおかしい。
商会は、単に己の財産だからと船と荷に保険を掛けて、それらを全損させればいい。
受取人は、当然商会のみ。
ネルガンは不幸な運び手でよいのだ。
何らかのカモフラージュか。
だが、何に対して、どのような事象に対しての迷彩になる。
むしろ、無断で高額な保険を掛けたという事実のみに着目すべきか。
保険を掛けるということは、ネルガンのいう通り、暗にそれが危険であったり、重要であったりと吹聴するようなもの。
つまり、支店長のゴーウェンは、それをネルガンや乗員に重要だとは思われたくなかった。
保険は、ネルガンの道行きを助けるものなのか。
実際、彼は損害を免れている。
この船へと託された書類らしきものは何だ。
重要度の低い紙の束なのか。
あるいは、書類ということさえ嘘で、何らかの枢要な物資だったのか。
「なるほど。
保険のことは概ね分かった。
しかし、なればこそ、商会にかけあってみても良いのでは?」
ゴーウェン支店長が何らかの重要な仕事をネルガンに振ったのであれば、それは商会内でも水面下で一部に共有されていると見るべきだ。
荷物は商会が受領するのだから、内部に協力者がいないわけがない。
危険な航海を終えたネルガンを、流石に無下には扱わない筈。
加えて、荷物自体もすでに港に届けられているのだ。
書類の到着を妨害したいのであれば、今になってネルガンらを襲っても実利は無いに等しい。
人質を取るにしても、分かりやすい権力者や、その近親者を攫った方が効力がある。
「問題は、誰が何を狙っていたのか、ということになる。
震源は、書類に違いない。
そして、恐らく。
恐らくですが、本件は商会内での紛争の一端であるかもしれない。
ゴーウェン支店長は、私への一種の成功報酬、つまりは手切れ金か、あるいは遺族への慰労金のつもりでこの保険をかけたと見るべきです」
内紛。
お家騒動か。
商会の私兵などをつければ、それが敵方の工作員の類であるという懸念もつきまとう。
アスラという完全な部外者を雇う意味は、やはりそこにあるのだろう。
しかし、一方でどうなのだろうか、という感情もある。
アスラとしては、ネルガンの推論には一部納得できかねる箇所があるのだ。
荷物の輸送を妨げたいという目的に対して、わざわざ〈船飲み〉を動員するような策を弄するのか、という点。
非効率で迂遠な手だ。
仮に保険金目当てということであれば、自然災害を偽装する装置としては理解できないでもないが、基本的には大業すぎる。
商会に絶大な権威があるのであれば、その持ち前の力で押さえつけて、不条理を飲ませればそれでいい。
荷物の押収で終わる話だ。
できない理由があるか、あるいはそれを行うことを忌避しているのか。
そもそも、支店長なる役職のゴーウェン・ロットはなぜネルガンに肩入れする。
いくらこの船のクルーが優秀であるとはいえ、商会が血眼になって探すような何かを預け、高額な保険で庇護をするのはなぜだ。
「心当たりが何かあるのかえ?」
ネルガンが、この赤毛の商人が頼りだ。
アスラは外の世界を何も知らない。
ランプの光が揺れている。
ネルガンの青い瞳も。
執務室の暗闇が蠢く。
「もしかすると、というものは幾つかあります。
いずれも、劇物になるでしょう。
ゴーウェン支店長は、30年近くも商会に籍を置かれている功労者です。
私も随分お世話になった。
熱く、そして冷たい、商人の鑑のようなお人だ。
何らかの懐刀を持っていてもおかしくはない」
彼はゴーウェンと懇意なのか。
何か、深い交友がありそうな含みを感じる。
あるいは、その縁で仕事を振られたのか。
「商会には派閥が多い。
特に、現会長の体制になってからはよりそれが顕著になったといえます。
何にせよ、重要な荷物が運ばれていた事実がどこからか漏洩しているのであれば、この船のクルーそのものが狙われる可能性は否定できない。
何某かへとそれを預けたのではないか、と勘繰るのも無理はないでしょうから。
特に私か、あるいはその近親者は考えが及びやすい所です」
ネルガンは一瞬、執務机のどこかの箇所に目を走らせた。
引き出し、だろうか。
彼は、それきり黙り込んだ。
執務机に両手を組んで、その上に顎髭を乗せ、床なのか、あるいは空間なのか、部屋の闇の中を覗いている。
執務室の外で、鈍重な足音が甲板を行き交う。
船倉から次々と荷物が運び出されて、倉庫と見られる場所へ運搬されているようだ。
アスラは執務室の扉をわずかに開けた。
荷揚げの係員が一抱えもの木箱を担いで、船尾に渡された陸地への板へ、荒い息を吐いて歩んでいる。
完全に日が落ちる前に作業を終えたいのか、係員からはやや急いているような雰囲気を感じた。
陸地では、朧げなランプの光がぽつぽつと闇の中に浮いて見える。
荷物は次々に下ろされて、暗闇の港の中へと消えてゆく。
商会の荷であるという証なのか、風の中を飛ぶような海鳥が、全てに描かれている。
この荷物のどこかに隠された書物。
あるいは、この荷物の全てが災いの呼び水なのか。
コルビンス。
そしてテザム。
彼らを死地へと追いやった闇は近い。
アスラは、執務室を後にして甲板へと出た。
ランプの明かりが無くなって、紺色に近い世界が広がる。
荷揚げの係員に照明を持つ者が増えている。
足元が良くないので、荷物の運搬も一苦労だろう。
しばらくそれを見ていると、やがて底荷と呼ばれる船の重りが船倉から顔を出した。
これは航海をする上で船のバランスを保つものである。
この船の積載能力を鑑みると、今回の運搬物では重しが足りないということで、底荷を多く積み込んでいたようだ。
ネルガンの話によれば、この船は損傷が大きいので、造船所で保管され、すぐに修理に回される。
船体を極限まで軽くする必要があるため、底荷を完全に除去する必要があるらしい。
喫水を浅くさせて船底が傷つくのを避け、また造船所内で船への負担を軽減する効果があるようだ。
荷揚げの作業も終わりが見えてきて、その後は各乗組員の私物をおろすなどしてこの船を引き上げるということになりそうだ。
アスラが見納めになるかもしれない甲板を見下ろしていると、下の階層の扉が開いた。
セトナだ。
荷造りが終わったのだろうか。
あ、お邪魔ですか、と押した扉を戻しながら係員に尋ねている。
幾らかやりとりがあって、彼女の姿が見えた。
例の法衣のような丁寧な作りの服に、甲板と同じ色の暗めのブーツを履いている。
きょろきょろと涼やかな目で周囲を見回して、憮然と作業を見下ろすアスラと視線が交錯するのは、さほど時間が掛からなかった。
アスラさん、と美しい声で名前が呼ばれる。
彼女は、はにかんでいるようだ。
アスラは、人が笑うのが好きだ。
笑顔の多い女性もまた嫌いではない。
こんばんは、とアスラは静かに言った。
気のせいでなければ、多少懐かれているような雰囲気を感じる。
ぱたぱたとセトナが階段を登ってくる。
こちらに来ようというのか。
果たして、ネルガンとの部屋を出ないという約束はまともに機能しているのだろうか、とアスラは思った。
アスラは船の護衛という役職ではあるので、近くに来るという選択自体は悪くない。
ただ、部屋を出るという行動そのものが良くないのではないだろうか。
はあ、とアスラは気付けばため息を吐いていた。
耳が少し痛い。
鈍い頭痛もあるだろうか。
じゃじゃ馬娘セトナを横目に、薄暗い甲板を再度俯瞰する。
係員が3人ががりになって、底荷を引きずりだしている。
丈夫そうな袋には、何かが目一杯詰まっているようだ。
砂か、あるいは石か。
破損した錨の破片ということもあるようだ。
動きがあるたびに、袋からかすかに金属音が聞こえる。
とはいっても、港の環境音に容易に埋もれてしまう程度のものだ。
揚げられた底荷は、回収業者が買い取るらしい。
そして、それを必要な船に売る。
廃棄物が出ず、仲介は儲かり、船乗りも底荷の調達には困らない。
うまい制度だ。
アスラは、暗闇の港を睨んだ。
黒い坂道を、人の黒い流れが登ってゆく。
松明の光が、その輪郭を小さく切り取って影を投げる。
冷涼な海風が髪飾りをなぶり、裾の長い服がはためいた。
〈雨琴耳〉を、無理の無い範囲で思い切り澄ます。
ありとあらゆる音が際限なく拾い上げられ、脳が悲鳴を上げた。
近づくセトナの足音、倉庫での運搬の指示、何らかの獣の鳴き声、武装した兵士の布ずれ。
夜半になってもこれか、とアスラは聴力を抑えた。
やれることはやる。
乗り掛かった船だ。
ただ、〈守り人〉に外界は向かないのかもしれないとアスラは思う。
自然と、天意と共にあった民族だ。
ここは、人の毒が濃い。
軽快な足取りで、セトナが楽しげに側に寄ってくる。
「陸ですね」
と謎の発言がなされた。
彼女の栗色の髪の毛が、静かに風に遊ばれている。
自分のペースを持っている子だ。
だからこそ、世界の声が聞こえるのかもしれない。
「暗くてよく見えないよ」
アスラは穏やかに苦笑した。
用語集
・荷主
運輸業における荷物の主。出資者。
湾岸貿易の商人らは、概ねこの形態の経済活動を行う。
中央海の近海での商業は発達しており、商人は自分の本拠地から動かなくなりつつある。つまり、運送を専門の業者に委託するようになっている。この場合は発荷主(純粋な荷主)、運送業者、そして受け取り主(客)という関係が生まれて、業者の船には己の代理人を乗せる。専属の運輸業者を抱えている商人も少なくない。
端的にいって、ネルガンのような昔気質なやり方の商人(荷主)は、近年かなり珍しい。




