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守り人は眠らない  作者: ボノボの親戚
1章 風花の港
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1章(4) 東の玄関口


 ネルガンは船の執務室で、机に肘をつきながら頭を抑えていた。

 煌々とした朝日が背後の窓から差し込んで、背中に熱さを感じる。

 屋内は明るい。

 船材に使われた傷みにくい種類の樹の木目は、まるで揺蕩う煙が光に透かされて模様を映しているようにも見える。

 視線を落とせば、何度も作図を試み、くたびれた海図が、己の落とした影の中に敷かれていた。

 インクが所々滲んで、線は揺れる船上のためか少しばかり歪んでいるものもある。

 ネルガンは、青い瞳を細めた。

 昨日の夜半、急に見知った空が帰ってきた。

 かの島、〈聖地(サリア)〉の海を渡りきり、この世の袋小路から抜け出たのだ。

 ネルガンには分からなかった。

 我々に何が起きていて、そして、何が状況を変えて見せたのか。

 

 アスラが、気になることを言っていた。

 歌が聞こえた、と。

 これも、〈邪聴(デル・ドマス)〉の成せる技なのか。

 雪の降りしきる闇の中に、ぼんやりと浮かび上がるようにあった、船らしきもの。

 そこに佇む、女性の人影。

 ネルガンの視力ではそれを明確に捉えることは叶わなかったが、そのものが歌をうたっているように見えた、と彼は言っていた。

 そして、セトナについてだ。

 アスラは微かに探りを入れるように、あの子が同じような歌をうたったことを(ほの)めかせた。

 深く話を掘ってみれば、件のテザム・オンモルに対して、セトナが不思議な歌をうたったらしい。

 状況としては、憔悴したような様子のテザムから、精神的な救いを求めての哀訴がなされたようだ。

 この船を沈めようと暗躍しておいて、よくも臆面もなくそんなことを頼めたものだ、とネルガンはにわかに憤りを覚えたが、やり場のない感情をくすぶらせても仕方がない。

 あの子が無事で本当によかった。

 しかし、かの唄(・・・)がうたわれたことはうまくない。

 幸いなことに、その用途としては、一応問題のない範囲だろう。

 あの子に再度注意を促す必要はあるが。


 セトナは、間違いなく〈中央大陸(アルマ・ネコン)〉の東岸部において屈指の祈り手だ。

 しかし、それはあの子の全てを品評しての評価ではない。

 〈氷唄(ひはい)〉。

 ネルガンは、便宜上かの唄をそう呼称している。

 これこそが、セトナが秘める本質的な異能。

 通常の水主(かこ)が行うような、祈りの歌などとは一線を画す、それこそ大呪法と言ってもいいような奇跡の中の奇跡があれなのだ。

 文字通り、確実に雪を、氷を招く美しい唄。

 どんな嵐も、風雨も、静かな雪景色へと変えて見せる。

 稀有な呪いだろう。

 それだけ(・・・・)でも。


 かの歌が、もしかすると今回の遭難に寄与しているのか。

 はっきりと言うが、ネルガンも〈氷唄ひはい〉の全てを理解しているわけではない。

 加えて言えば、あの子のことも。

 今でも、セトナに会った時のことを思い出す。

 夏の熱帯夜の未明。

 月の明かりと共にあの子は現れた。

 冷たく、暖かい記憶。

 分かっていることは、あの子の持つ力は、まず人に見せびらかす類のものではないということ。

 無論、〈氷唄〉の担い手はセトナだ。

 本来であればあの子のしたいようにするべきで、介在しない方が良いことは承知している。

 しかし、あの子は優しい。

 世の醜悪さを知らない。

 強大な力というのは、富や名声を呼ぶが、同じく嫉妬や破滅をも誘引する。

 力を持つことが、本当に幸せなのか、とネルガンは時たま思う。

 まさに、彼、アスラがそうではないのか。

 彼を槍玉にあげるのは大変に申し訳ないが、かの剣士が幸福かと言われれば、どうだろうか。

 〈聖地サリア〉の神獣に引けを取らないほどの慮外の武力。

 しかし、彼はたった一人で衰滅を享受していた。

 沈黙の中で、墓標の中で、孤独に。

 背景は分からないし、彼の過去も知らない。

 ただ、彼の抜きん出た力が、それを招いたのではないか、とそう考えてしまう。

 本船のクルーも、アスラの人格はともかくとして、彼の持つ異常な戦闘能力に少ない畏怖を覚えて、易々と近づけないのだ。

 加うるに、アスラの冷静な判断力が己の立ち位置を正しく認知し、諍いを避けるために人を遠ざけるような、冷たい人生を歩ませたのではないか、と。

 力を持つこと、賢いこと、それらが必ずしも幸せと結びつくとは限らない。

 言い方は悪いが、愚鈍で蒙昧な人間の方が、案外と幸福そうに日常を送っているものだ。

 それは、不必要な注目を浴びず、深く物事を考えない楽観が、世を鮮やかに見せているだけなのかもしれないが、主観でそう感じ取れるのであれば何ら不都合はない。

 平穏とは、凡人のみが享受できる何よりの幸い。

 逆説的に、安穏に営みがしたいのであれば、目立たず、慎まやかに生きるべきだ、ということにもなる。

 一人の大人として、どうしてもあの子には人並みの幸せを味あわせてあげたい。

 あの子も孤独の中にあった。

 己が道標になるかは分からないが、身を焼くほどの眩ゆさに満ちた方角へとセトナを導くのだけは避けたい。

 

 ネルガンは、執務机のある引き出しを引いた。

 若干のかすれたような音がして、小さな細工箱が現れる。

 古い民芸品のようなそれを手に取り、指先で側面に小さな圧迫を加える。

 波の音に浸かってしまうほどの微細な音。

 細工箱が開いた。

 中には、澄んだ硝子のようにも見える、なんらかの破片が一つばかり置かれている。

 周囲には、僅かながら、白い煙のようなものが漂っている。

 これは何か。

 宝石か、あるいは遺物か、などと思うものもいるだろう。

 違う。

 ネルガンはそれに掌を近づけた。

 暗がりに入ったような冷たい空気がまといつく。

 氷。

 それも、溶けることのない氷だ。

 手の暗がりの中、それをじっと見つめる。 

 ネルガンは、しばししてそっと箱を閉じた。

 分からない。

 分からないことが多すぎる。

 しかし、どうしてか嫌な予感がする。

 何か、粘ついたような悪寒が、心にへばりついて離れない。

 ネルガンは、氷の入った細工箱をまた引き出しの奥底へと仕舞い込んだ。

 波の音が嫌に大きく聞こえた。



 ♢



 〈聖地〉より抜け出たらしいその日の朝、アスラが不意に言った。

 おれは釣りをするぞ、と。

 その時、ネルガンは混乱した。

 この男は頭が回るので、何か裏があるのではないか、と何もかもをも勘繰ってしまう。

 つまり、こういうことらしい。

 暇つぶしということではなく、魚を釣ってその種類を判別することで、当船の大まかな海域や座標を割り出そう、というのだ。

 〈聖地〉から脱した可能性が高いとはいえ、海のどこに出たかは不明瞭だ。

 全く考えにないような海域へと放り出されたことも、考えた方がいいだろう。

 なるほど良い手だった。

 彼はとにかく地に足がついていて冷静だ。

 傷んでしまった食料の切れ端などを餌に、アスラは黙々と釣りを始めた。

 大義名分として食糧集めでもあり、船員らも若干訝しげに身構えたが、すぐに、客人は優雅なものだな、と若干の嫌味に移り変わっていった。

 テザムの死の翌日ということもあり、船上の雰囲気は暗い。

 かの水夫が企てていたであろう邪悪な計画は、船員には共有していない。

 つまり、何かに耐えかねて自死を選んだ不幸なもの、というような認識がなされているだろう。

 陰鬱にもなる。

 だが、そんなことを気にするアスラではなかった。

 釣りの腕も良いのか、そこそこの頻度で魚が釣り上げられ、休憩中の豪胆な水夫らは、腕組みをしながら彼とぽつぽつ話もしていたようだ。

 もとより彼は積極的にコミュニケーションを図るタイプではないが、訥弁というほどでもない。

 ドーブの所感によれば、アスラは話し方を失念していたそうだ。

 馬鹿な、と言いたいところだが、彼の身の上を考えると否定はできない。

 それに、かの島の暦。

 我々の常識を遥かに飛び越えるような理があってもおかしくはない。

 彼の年齢というのが非常に気になる。

 並のものではない諦観と、それに伴う大樹のような泰然とした精神性を感じる。

 

 水夫らは、もともと海に詳しいものが多い。

 漁師の息子、などというケースも珍しくはない。

 魚の検分はそう時間もかからずにとり行われた。

 アスラが釣り上げた魚は、なんと〈中央大陸〉東岸部で見られるような種類が多かった。

 それは、この船が交易に出発した港に近い、ということを意味していた。

 ネルガンはやっと光明を見たような気持ちになった。

 そして、同時に意味のわからなさも感じたが。

 確かに、理論の上では、この船が今浮かんでいそうなのは、〈中央大陸〉と異国の大陸を隔てる海のどこか。

 〈船飲み〉に出会うまで辿っていた航路の地点から、船の進路が方角を考えずにばらけたとしたらば、良い方に転がれば〈中央大陸〉寄りの近海という着地もあるだろう。

 ただ、気になるのはやはりあの島だ。

 〈聖地〉の島は、一体どこに存在していたのか。

 以前にも思考を巡らせたことがあったが、あれほどの大きな島が航路の中にあって、他の船らが気付かない筈はない。

 それこそ迷い込んだものは帰れない、などという状況でもあれば話は別だが。

 否定はできないだろう。

 かの金色の虎のことを勘案すれば、人類が踏み込んで良い場所ではない。

 この旅は、どうにも不幸が重なったような印象が強いが、案外逆なのかもしれない、とネルガンは思うのだった。

 〈船飲み〉に襲われ、コルビンスは亡くなり、テザムも自ら命を絶って、何という妄言を吐くのだ、と己でも思う。

 しかし、あれほどの危機に瀕してなお、この船はまだ浮いている。

 魔境のような場所からもどうにか脱した。

 神の御加護は、案外とあったのではないか。

 そう思うのは、罪なことなのだろうか。


 船には幾分か明るい雰囲気が広がってきた。

 アスラの釣りが、無事に近海へと戻って来れたのかもしれない、という印象を強めたからだ。 

 少し涙ぐむような船員もいた。

 それは、そうだろう。

 安堵しないわけがない。

 当船はそれだけの冒険をしてきたのだ。

 帰れる。

 今度こそは、裏付けもある程度できる。

 この船が発った陸地へと近づいてきている。

 被害はある。

 船は損傷し、クルーの数名は帰らぬ人となった。

 ドーブにも怪我は残り、船員らにも浅くない心の傷があるだろう。

 しかし、帰りつけるのだ。

 目的の地へと。

 ネルガンは少し胸が熱くなった。

 クルーらは、立派に己の職務を果たしてみせた。

 誇りを持って欲しい。

 荷物も無事である。

 我々は、生き残ったのだ。

 数々の危難を払いのけて、死地、あの地獄から生還したのだから。

 

 吉報は続いた。

 翌日、別の船の姿を捉えることができた。

 今度は存在も怪しいような幽霊船ではなく、現実にある船だ。

 ネルガンはいよいよ高揚した。

 操舵を一時的に他のクルーに任せ、青空へとそびえるマストの上へとよじ登って望遠鏡を覗き込んだ。

 ピントが合うように筒を長くさせながら、丸い景色に齧り付く。

 それは商船であった。

 ネルガンもよく見知った造りの船。

 間違いなく、この船と同じ仕様のもの。

 下に降りた際に、アスラが船首の方角へとにわかに目を細めながら、船についての質問をいくつかしてきた。

 敵船ではないか、とわずかに警戒をしてたらしい。

 ネルガンは逆に、あなたこそ、どんな眼をしているのだ、という言葉が口から出かかったが、どうにか押し留めた。

 よく考えなくとも、望遠鏡並の視力を持っているのはおかしい。

 彼は間違いなく〈邪聴デル・ドマス〉の耳を持っているが、併せて〈邪視デル・オロイ〉の持ち主である可能性も高い。

 観測手としても桁違いに優秀そうであるが、彼はできることが多すぎて何をさせるべきか迷う。

 この船と同郷の船です、とネルガンはアスラに言った。

 そうか、とアスラはネルガンに視線を合わせて翡翠色の眼を細めた。

 包帯の内で、小さく微笑んだようだ。

 彼はまつ毛が長いので、柔和な表情を取ると存外以上に女性的に見える。

 声がやや高めなのも、それを助長しているかもしれない。

 ドーブの言うとおり、彼は幾分か態度が柔らかくなってきている。

 気を許したというより、やはり対人の感覚が戻ってきているのだろう。

 少なくとも、超然とした威圧感は大分薄らいできているか。

 穿った見かたをすれば、これも一種の適応だろう。

 人間というのは、所詮は社会性の生き物だ。

 言い方や態度一つで、快くなったり、一方で不快になったりする。

 所作を優しくしたり、言葉を柔らかくするのは、非常に効率的な処世術と断じていい。

 ややもすると若干飄々とした空気を纏いつつある彼も、当然それを心得ている筈。

 一層と厄介な人種になりつつあると、ネルガンはため息を吐いた。

 

 そして、〈聖地〉の海から脱して三日後。

 ついに陸が見えた。

 観測をする水夫が大声をあげて、陸地の近接を知らせた。

 ただ、これはまだ港ではない。

 我々が目指す、〈東の玄関口イーサ・ラ・エンテログ〉では。

 港の近海には、小さな島々がある。

 人が住めるような大きさはなく、基本は無人島だ。

 ある程度の薮があり、ほとんどは砂浜で形成されている。

 種籾を散らしてできたような島々を総称して、播種諸島セフィドレスなどとも呼ばれたりする。

 アスラはドーブと一緒にそれを望んでいるようで、ドーブが指を指しながら何やら説明をしているようだ。

 あの二人も随分と気安くなったような気もする。

 超人アスラも、ドーブには少しばかり気を許しているような印象だ。

 話によれば、彼らはコルビンスを一緒に弔ってくれたらしい。

 短い期間ながらも、深い交友がそこにあったのだろう。

 剣士という共通点もある。


 そして、同日の昼下がりのことである。

 播種諸島セフィドレスを過ぎたあたりから、船の数が一気に多くなった。

 水平線を見渡せば、行きの船も、戻りの船も、数多くが視界に入る。

 ある程度接近した船には、徒手信号で簡単な情報交換を行う。

 近くで海賊はいないか。

 天気はどうか。

 どこへ行く予定で、何か特記に値するような予備情報はないか。

 観測手が二人一組となって、望遠鏡で相手の徒手信号を読み、こちらの意図をまた信号で伝える。

 これは非常に大切なことで、このやりとりが生きるか死ぬかの帰路になるケースすらある。

 アスラがそれを興味深そうに眺めている。

 彼の眼を持ってすれば、一人で観測と信号発信が可能だろう。

 近くの水夫がアスラに何かを言っている。

 手で簡単な徒手信号をやって見せているようだ。

 少しの笑い声が起きた。

 実に〈聖地〉から航海を開始して10日弱ほどになるが、幾分かアスラが馴染み始めているようだ。

 彼は身なりや戦闘能力こそ尋常ではないが、それ以外は理知的で物腰も丁寧である。

 害意がないということ、そこまで取っ付きにくい態度ではなくなったこと、これが交友の敷居を下げたらしい。

 ドーブも一役どころか二役くらいは買っていそうではあるが、まあ良いことではあるだろう。

 手強い交渉相手ではあったが、基本的には同胞を手厚く弔ってくれた恩人なのだ。

 礼を言いたいものも多いはず。


 海は、高い位置にある太陽を照り返して、ぎらぎらと輝いている。

 光を溜め込んだ面がゆらゆらと揺れて、青い景色の中に散らされていた。

 前を通った船が残した白っぽい帯が、それを上から塗るように不透明にしている。

 その軌跡の先。

 先導をする別の商船の彼方に、大きな、大きな陸地が見えた。

 塗装されたタールの薬っぽい匂いが、どうしてかあまりに爽やかなように感じられる。

 船が、あるところに集まるように進路を取って、光の海の中を泳いでゆく。

 陸は段々の坂になって、色とりどりの屋根がまるで人の手の入っていない花畑のように咲き乱れている。

 円形状になった石造りの港には、落ち葉が浮いて留まる小川の澱みように、数えきれないほどの船が揺れながら停泊している。

 まだ声は聞こえないが、航海を終えた海の男らの歓声と、今から海へと出る連中の鼓舞が、心へと響いてくるようだ。

 港の入り口を塞ぐように、巨大で、長大な金属の鎖が、錆の赤ちゃけた色を青い海面に浮かべている。

 それを渡している高い鎖塔が、だんだんと迫る。

 〈中央大陸〉は東部の国家、エフィーデ王国。

 やや冷涼な気候だが、四季の区切りがはっきりとしており、西部にこそ一部砂漠地域も抱えるが、それ以外は緑豊かな、自然と人の国。

 その東端には、〈中央大陸〉屈指の港がある。

 すなわち、〈東の玄関口イーサ・ラ・エンテログ〉。

 文化が交わる場所、欲望が滴る場所。

 貿易港、バークスプエルトである。



 ♢

 

 

 港への入港は、まず検疫を受ける必要がある。

 幸いなことに、ピークの時間は過ぎている。

 入港が最も混み合うのは夜明け付近だ。

 光の少ない夜間は接岸に大きな危険が伴うため、港は閉鎖される。

 故に、沖合などで夜明けを待って、早朝に船が大挙する例が多いのだ。

 季節的な要因でいえば、エフィーデでは1年の終わりの頃に風向きが西寄りに変わるということがある。

 東への交易はその前に行わなければいけないため、年の暮れの前は大変な混雑ぶりを見ることができたりもする。

 今はどうかといえば、実のところ混み合っている時期ではある。

 それは近々大きな市と祭りが催されるためだ。

 この国においても、有数の規模の催し物といっていいだろう。

 販売権を買うのも大変ではあるが、商売人からすれば絶好の商機だ。 

 それに備えて宿を取るものも、船をつけるものもいる。

 ここは、商売の聖地といって相違ない。

 

 商会の案内人が、小舟で入港を待つ船へと近づいてくる。

 検疫官だ。

 ネルガンは右舷の側を見た。

 港からそれなりに離れた場所に、船が2隻ほど浮かんでいる。

 マストの天辺には青く染め上げられた旗が高々と掲げられていた。 

 あれは検疫で弾かれた船だ。

 一定の期間を経て、また検疫を受ける必要がある。

 バークスプエルト港は異国との交易をする不可抗力として、未知の病などが持ち込まれるケースがしばしば見られる。

 検疫は、それを水際で防止する措置なのだ。

 例えば、流行性の病人を幾人も乗せた船があって、それを温情でもなんでも、一旦受け入れでもすれば、経済活動に大きな打撃を受けることは自明の理だ。

 下手をすれば、敵国がそのような攻撃を仕組んでくるというケースも考えられる。

 薄情なようだが、検疫は必要なのだ。

 国の心臓部であるからこそ、文化の中心であるからこそ、臆病に、慎重になる。

 

 「全員、血色をよくしておけ」


 ネルガンは、大きな声でそういった。

 少しばかり冗談めいた雰囲気も混じっている。

 水夫らと護衛連中は、おう、と返事をして笑った。

 検疫は実際に緊張する瞬間である。

 特に、当船などは道中の疲労も抜け切ってはいない。

 そのためにも、数日は休養日を取ったのだ。

 明らかに満身創痍の状態で検疫など受ければ、病と勘違いを受けて、入港を断られる可能性もある。

 そうなれば、海の上で長い期間を過ごさなければならない。

 商会から食料や水は買えるので飢えの心配はないが、割高の金額になるため、商売人としては痛手だ。

 それに、港を前にして待ちぼうけを食らうなどと、精神的にも厳しいところがある。


 問題は2つある。

 まずは、アスラだ。

 彼は常に包帯を巻いている。

 これが不確定要素になる。

 信仰のためというのは嘘ではないだろうが、その下がどうなっているかはわからない。

 何もないとか、傷などであればいい。

 ただ、妙なあざだとか、痘痕あばただとか、通常の人間とは異なる特徴などがあれば、たとえそれが問題のないものであっても、検疫で弾かれる例はある。

 それで一定期間様子を見て、また同じような状態であれば、入港という流れになるわけだ。 

 幸いまだ時間がある。

 ネルガンはドーブの脇で港に渡された鎖を見ているアスラに声をかけた。


 「もし、アスラ殿。

 少しよろしいですか?」


 アスラは、うん、と翻った。

 白地の服と長い髪飾りが海風にそよいでいる。

 その面貌は包帯に隠されて見えず、〈邪聴〉も袋が被されてしっかりとは分からない。

 釣り気味の翡翠の瞳だけが、涼やかにこちらを捉えている。

 

 「当船はこれから入港いたしますが、検疫という検査が必要でしてな」


 アスラは、先ほどの顔色をよくしろ、という件か、と形の良い眉を上げた。

 話が早い。

 ドーブが、そういやこのままだとダメだな、と言葉を続けている。

 そうだ。

 少なくとも顔色がわかるようでないといけない。

 疑わしい場合は、服を脱がされるという例もある。

 原則的には、巻いた包帯を取り、検疫官に顔を見せなければ。

 仮に宗教上の理由があったとしても、丁寧に説明をし、それに準ずるような検査は確実に受ける必要がある。

 ただ、実際にそのような例はある。

 ここは異文化が交わる場所であり、異なる価値観への理解は通常の都市などより遥かに進んでいる。

 可能であれば素顔を晒してもらうのが早いが、そうでない場合は多少の時間はかかるだろうが、折衷案を考えての検疫、ということになるだろう。

 検疫官によっては、特殊な検査を嫌うというケースもあるので、一概にはいえないが。

 実際、人を選ぶが袖の下・・・あたりの方が早いような気もする。

 ダーティーではあるが、賄賂は有用である。

 アスラへの貸になると思えば、悪くはない。

 今後のこと・・・・・もある。


 「話の流れからして、素顔を見せる必要があるということかえ?」


 そうなのです、とネルガンは端的に言葉を返した。

 重ねて言うが、理解が早くて助かる。

 さて、どうだろうか。

 個人的には彼の素顔がちょっと気になるところではある。

 ただ、ネルガンも信仰を無碍にはできまい、とも思う。

 それは一種の文化の否定だ。

 郷に入ればというのはそうだろうが、譲れない箇所もあるだろう。

 

 「承知した。

 どのような形式で行うのかを伺っても?」

 

 当然のことだろう。

 通常の検疫であれば、まず船員の数を教え、検疫官が離れた位置から顔色を伺う。

 疑わしい場合は服を脱がせて、腹部、背部などを詳しく検査される。

 基本的には甲板に数人並べられ、検疫官が高い位置から見下ろして確認するような傾向があるだろうか。

 ただ、これは通常のケースだ。

 プライバシーが必要な場合などは、これに限らない。

 例えば要人や、それこそ素顔を晒すことが何らかの理由で難しい場合。

 そうした場合は、船の別室や、場合によれば近くの離島で、という例もある。

 いずれも別料金がかかると思った方が良い。

 アスラは、瞳を閉じて時たま頷きながらそれを聞いた。


 「ありがとう。

 では、可能であれば別室にて行なっていただければ有り難いが…。

 ネルガン殿におかれては、例の虎の毛皮の代金から当該費用を支払っていただきたい。

 その可否はどうかえ?」


 「できます。

 では、私の方から検疫官に話を通しておきますので。

 アスラ殿におかれては、私の執務室での検疫ということでよろしいですか?」


 アスラは、宜しくお願いする、と返した。

 彼には少し前まで通貨などという概念がなかったはずなのだが、これを鑑みるに一定以上の理解を示しているようだ。

 ネルガンもアスラとの約束を果たすために、この数日一般常識などを幾らか彼に教授していた。

 アスラはやはり聡明で、覚えるのが速く、噛み砕くのもまた同様に上手かった。

 一流の商人などとは比較できないだろうが、その辺の未熟な手伝いなどよりは知識を深めているような気配もある。

 彼は知的好奇心が旺盛なのだ。


 さて、アスラはこれでいい。

 2つ目の問題は、さらに抜本的なものになる。

 ようは、検疫そのものに外力がかかっている場合だ。

 これは、はっきりと言えばどうしようもない。

 当船が巻き込まれたなんらかの陰謀。

 これは、アスラも言っていたが、大きな力を持った組織が裏で手引きをしている可能性が高い。

 とすれば、その権力によって検疫官を傀儡にし、汚染船という烙印を押し付け、街に入れずに弱らせる、という手も大いに考えられる訳だ。

 〈船飲み〉という化け物さえ用いた大掛かりな作戦。

 テザム・オンモルは出航時からいたクルーであり、破壊工作は復路において行われたことを考えれば、仕込みがあったのは異国と捉えることもできるが、絶対はない。

 この街にも不穏が潜んでいてもおかしくないのだ。

 

 その後、前の船が何やら手間取ってかなり待たされたが、日が暮れる前に検疫を受けることができた。

 検疫官はネルガンも知らない人間で、やや髪の後退した若めの男性である。

 聞けば、本来担当しているものが体調不良で寝込んでおり、別部署ながら経験のある彼が代役を頼まれたのだとか。

 引き継ぎも碌になされずに現場に放り込まれて、まだ勘が戻っていない、とのことだ。

 即席の人物であるということを警戒すればいいのか、喜べばいいのかは微妙である。

 ネルガンは名を名乗り、顔をよくよく見せたが、特筆した反応は無かった。

 これは、悪くない傾向だろう。

 例の〈船飲み〉による作戦の失敗などをもカバーするセーフティネットを設けるのであれば、ネルガン一行が戻れば検疫で弾け、などという指示があってもおかしくはない。

 彼に、コルビンスとテザムが航海中に亡くなり、船員が減ったことを告げた。

 その代わりに、補給をした島で新たに乗組員を迎えた、と。

 検疫官は船の状態などを見ながら頷いた。

 何らかの海難に遭ったとでも思っているのだろう。

 検疫官は、故人にこの世の温かな抱擁がありますように、と事務的に告げ、書類に数を書き込んだ。

 他にメモなども取っていない。


 アスラの宗教的な事情を話せば、別室での検査を快諾してくれた。

 特殊なアスラは最後に回され、それ以外の人物はテキパキと検査がなされて、全て問題がないと判断された。

 ネルガンは胸を撫で下ろした。

 最後に、アスラが執務室へと入り、そして検疫官が入った。

 いくつか会話がなされて、随分の間沈黙が降りる。

 長い。

 もしかすると、何か問題があったのか、とネルガンは気が気でなかった。

 見れば、セトナもそわそわとしている。

 アスラが心配なのか。

 彼が弾かれれば、帰港は叶わない。

 部屋から、再び声が聞こえ出した。

 ここでもやり取りの応酬があった。

 扉が開かれる。

 検疫官が、どこかぼうっとした表情で甲板へと出てきた。

 何があった。


 「何らかの所見などありましたか?」


 ネルガンは端的にそう聞いた。

 どうしてこれほどに夢見心地なのか。


 「あるといえば…。

 まあ、あるというか…」


 何を煮え切らないことを言っているのだ、彼は。

 その瞬間、ネルガンの中に緊張が走った。

 素顔を見たことがあるドーブ曰く、アスラの顔は綺麗だそうだ。

 つまり、彼の感覚が間違っていなければ、通る可能性は高い。

 この曖昧な態度は、揺すり、という可能性もある。

 検疫官というのは、最も賄賂を受け取りやすい地位といっても過言ではない。

 非常に悪質なケースでは、上司からの指示で金を巻き上げていた、ということも過去にはあった。

 ただ、他の例もある。

 それは、何らかの圧力があって、難癖をつけられるということだ。

 この場合、前述の通り、想定は最悪のものになる。

 彼の一声で、この船は衛生的に怪しい船、となる。

 港にはまず入れないだろう。

 海の上で、ゆっくりと干からびるのを待つしかない。

 敵は、商会の中か、あるいは外の有力な団体、下手をすれば国というケースもあるか。

 

 「不適、ということですか?」


 「ああ、いや…。

 失礼しました。

 問題はありません。

 では、開門を指示して参りますので」


 はあ、と思わずネルガンは生返事をしてしまった。

 ネルガンは渋い顔をしたまま首を傾げた。

 勿体ぶったような態度だったが、結局通ったのか。

 なんだあの青年は。

 脅かしてくれる。

 遅れてアスラが執務室から出てくる。

 包帯の巻き方が変わっているので、確かに素顔を見せたらしい。

 セトナが、良かった、と安堵の表情を浮かべている。

 アスラは海風で絡みつく髪飾りを頭を振って整えると、口を開いた。

 

 「少し探りを入れたが、彼はテザムのことは知らないようだな」

 

 中性的な声色で、淡々と彼はいう。

 アスラは、縄を伝って降りてゆく検疫官を翡翠の瞳で冷然と見ていた。

 息を吐くように人を信用していないアスラもアスラだが、この抜け目のなさは恐ろしくも頼りがいがある。

 彼も、この検疫で何かをされるかもしれないという推理をしたのだろう。

 小舟が遠ざかってゆき、灰色がかった鎖塔の近くまで寄ると、大きな音がして水飛沫が上がった。

 鎖が下ろされたのだ。

 水面に浮かんでいた障害物は沈み、眼前には大きな塔が二つあるばかりである。

 その両脇を通り抜けて港へ入る。

 海風が、塔の間だけ強くなって、髪がなぶられる。

 湾内は陽光で満たされて、あまりに白く見えた。

 水夫らが、ようし、と拳を天に掲げているのが見える。

 ドーブも、うおお、と声をあげている。

 不意に肩を組まれたらしいアスラが、良かったな、と困ったように微笑んでいるのがなんだか面白い。

 この達成感はどうだ。

 船乗りしか味わえない、故郷の風の喉越し。

 長かった。

 本当に長かった。

 これさえ終えれば、あとは事務手続きと荷下ろしのみだ。

 ゆっくりと色鮮やかな港が近づいてくる。

 日が、少しばかり傾いてきた。

 帰って来れた。

 旅は、終わったのだ。

 





 

用語集


中央大陸アルマ・ネコン

5大陸の中央に位置する陸塊。南部は温暖な気候が広く分布し、北部はおおむね寒冷な気候が占める。西岸部および大陸中央には雨量の少ない砂漠気候地域が存在し、特に中央砂漠アルマ・ラスート、あるいは日照りの地(スクロ・タスチー)と呼ばれる内陸の岩石砂漠は、人流と交易を阻む難所と化している。原住の民族は中央人(アルマール)と呼ばれるものたちであるが、他民族の入植と種族間の内紛による人口減少によって今やマイノリティとなっている。

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― 新着の感想 ―
アスラさん鼻もいいのかな。味覚はあんまりなんだっけ
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