1章(12) 流氷の少女 前編
ネルガンは、商会館のロビーの椅子に腰掛けて、白い石の敷かれた床を見ていた。
焦燥が身を焼く。
磨き抜いた靴の底が、意識もせずに上下をしてしまう。
硬質な短い音が、心臓の早鐘のように鳴った。
周囲の商人らが、若干の嫌な顔をしているだろうか。
礼節がなっていないだとか、優雅ではない、などと考えているのかもしれない。
玄関の前には、いくつもの足跡がついている。
滲むような、透かされたような、汚れが重なり合う。
清掃は適宜されているが、へばりつく泥や埃は落ち切らない。
セトナをどうするべきか。
〈始教〉があの子の真価を察したのであれば、何らかの庇護は必要だ。
つまり、最も簡単な方法として『風の縁の会』に事の真相を打ち明けて、セトナを守ってもらうという手がある。
しかし、これは諸刃の剣。
商人は、あくまでも冷たい生き物だ。
優れたものほど己が利益になるものに敏感で、そのためなら多少の冷血な行為など平気で行う。
セトナが、商会に使い潰される可能性は高いだろう。
劣化を完全に止めるという保存の術など、流通革命を起こせるといっていいもの。
飼い殺しにするのが穏当であり、万が一にでも流出するとなれば、商会は身を翻してセトナを狙う。
あの子の人生は。
自由に満ちた人生が、なくなってしまう。
ネルガンは撫でつけた赤い髪に、ゆっくりと手を這わせた。
乱れた毛束が手のひらからこぼれる。
隣の簡素な机で、何某かが会話をしていた。
若い商人見習いだろうか。
まぶされた香水の匂いが漂ってくる。
絢爛な服だ。
王都のクコリール洋裁房で仕立てられたものだろう。
ソルテナオ金貨が何枚と必要になるほどの高級品。
「私はオリマジル家の次男坊でして…。
こちらの服も父からの心遣いによるものなのです」
貴族の長男以外が商会へと修行に出されるのは、ごく当たり前のこと。
豊かに生まれるというのも、また才能なのだろう。
カレナ・オンモルの姿が思い出される。
幽鬼のような痩せ細った姿に、色の褪せた服。
今にも穴が空いてしまいそうな靴。
彼女が去ってゆく姿を、商会館の人間は奇異の目で見ていた。
なんとなく事情を察しているらしい商人は、不幸なことです、といかにも同情をした風を装いながら、毛ほどの感情も篭っていない口調でカレナを見送っていた。
彼女の、薄汚れた服装を軽蔑していたようだ。
この場に、フォーマルなこの館に相応しくない、と思っていたのではないだろうか。
適度に裕福に生まれれば、自由があり、そして金があり、教養を身につけられる可能性は高くなる。
全ては、程度なのだ。
劣悪な環境に生まれれば、命をつなぐことすらも難しい。
しかし一方で、自由であるためには才能を捨てなければならない。
本来であれば、天資などというのは羨望されるもの。
人を豊かにし、幸福へと導く一等の要素。
しかしそれが、ある閾値を超えると当人へ牙を剥く。
世は、恐らく歪んでいる。
明かり窓の白い光を映しあげた床に、黒い影が投げられた。
街の反対の側から、大きな鐘の音が響いてくる。
昼の鐘。
ネルガンは、俯いていた顔を上げた。
海鳥が音に驚いて、一斉に飛び立ったようだ。
けたたましい鳴き声と、羽音が響き渡る鐘の音の中に混じりこむ。
なんにしても、アスラとセトナと合流する必要がある。
彼らも、何らかの収穫があったのだろうか。
商会館の玄関を出る。
少し天候が回復してきたからなのか、若干目が眩んだ。
白っぽさが退くと、臨海部特有の磯臭さと香油などの強い匂いが混じった風が身体を洗う。
数人の衛兵が固める先に、商人らが列を成している。
アスラとセトナはいるだろうか。
彼の装いは非常に目立つ。
かの虎の、金色の光を探せばいい。
しばしの捜索の後、商会館の前に走る道の右の側からそれらしき人物が歩んでくるのが見えた。
後ろには、青っぽい服の呪い師風の女性。
アスラとセトナだ。
ネルガンは深呼吸をして足を踏み出した。
「ご無事であられたか、ネルガン殿」
夜の風のように涼やかな、高めの声。
翡翠の瞳をした護衛の剣士が、包帯まみれの風采でそう尋ねてくる。
控えめな香油の香り。
長いらしい耳には袋が被さって、後ろで一部結い纏めているらしい髪の毛にも、半球状の白い被せ物がしてある。
はたはたと、複雑な織り込み方がなされている白地の服が海風にはためく。
背嚢はそのままだ。
仕掛けた罠は上手くいったのだろうか。
「ええ。
一定の情報収集もできました。
アスラ殿の方は何か収穫が?」
「あった。
だが、ここでは共有できない」
さすが、と評価するべきだろう。
資金洗浄における現会長派の尻尾でも捕まえたのか。
しかし、アスラの得た情報は相対的に価値が下がるかもしれない。
この問題における真の敵は商会ではない。
二つの輪。
〈始教〉だ。
「…そうですか。
何にしても、ご無事で何よりです。
一旦、私の家へと戻りましょう。
貴方の言う通り、ここで話し込むのは褒められたものではない」
ネルガンは少し左右に首を振った。
アスラもつられて周囲を見渡す。
商人だらけだ。
武器を帯びる護衛の連中も数多い。
アスラの言う通り、内密の話ができるような環境ではない。
もしかすると、〈始教〉の信徒が混ざっているかもしれない。
「では」
アスラは、頷いて少し後ろに下がった。
代わりに、セトナが前へと出てくる。
何も変わりはない。
ネルガンは、ほっと胸を撫で下ろした。
街中は〈始教〉の信徒も数多い。
貧民街などに近づけば、その大半が信者といっていいだろう。
それでなくとも危険が伴う地区ではあるので、アスラ随伴とはいえ足を運んではいないと思うが。
「セトナ、アスラ殿にご迷惑をお掛けしなかったか」
「してません。
…恐らく」
「うむ…。
まあ、とりあえず何事もなさそうで良かったよ。
それでは、行こう」
アスラとセトナはそれぞれ相槌を打って歩き出した。
ネルガンもそれに続く。
人混みを割るようにして、道へと出る。
アスラの威圧感のある服装が、やはりというか丁度良い人避けになっている。
そうだ、とネルガンは思い出した。
慰労金だ。
カレナ・オンモルとの話が終わった後、書類の手続きをした。
それは受領されて、今数枚の金貨が懐にある。
今回のケースでは、テザム・オンモル、そしてコルビンス・ラスコが航海中に命を落とした。
いずれも復路での落命になるため、給与の満額が遺族へと渡る。
無論、色をつけるつもりであった。
偽善だとも思う。
しかし、金は必要だ。
命を軽く扱っている訳ではないが、現金化しなければならない事実もまたある。
帰宅をする前に、この弔いにも決着をつけなければ。
「アスラ殿、セトナ。
自宅に戻る前に寄るところが…」
アスラはそっと振り返って、翡翠の瞳を細めた。
セトナは、どこでしょう、と微笑んでいる。
口が、随分重たかった。
♢
雲の多い空の下に、やや暗く見える住宅が立ち並んでいた。
坂の下側、つまりは貧民街に程近い、中層の区画。
一応、最低限の治安は維持されているといえる。
ただ、衛士の巡回は形ばかりで、厳密な見回りなど期待できないだろう。
光量の問題もあるかもしれないが、どの家屋も古ぼけて見えた。
下層から、形容し難い匂いが上がってくる。
中層も中頃になってくると気にならないが、貧民街と接している中層下部は衛生面での悪影響が強い。
いわば、境目。
ここが、貧者とそうでないものの境界なのだ。
テザムとカレナの家は、ここにある。
誰もが押し黙っていた。
港の喧騒と、その中に響く靴の硬い音がずうっと長く聞こえる。
セトナは慰労金を渡しに行く話をすると、みるみると眉を落とした。
はい、と短く答えて視線は地べたへと向けられた。
一方でアスラは、そうか、と短く応えた。
淡々としながらも、彼は海の方へと顔を向けた。
髪飾りが風に揺られて、甘い花の香りが匂ったものだ。
テザム・オンモルは、海の中へと弔われた。
そして、コルビンスも小舟で母なる海へと還っていったそうだ。
海上で亡くなった水夫の葬式は、決まって水葬だ。
彼は海原の先に、彼らの魂を見ているのか。
ネルガンには、分からなかった。
路地の中から、子供らの声が聞こえた。
鈍く見える家並みの中で、それは場違いなほどに喜色に満ちて、反響した。
数え歌だろうか。
鞠のようなものを叩く音がする。
「一つ港は、人の声。
二つ港は、船めぐる。
三つ港は、水満ちて。
四つ港は、夜もなく。
五つ港は、いつの世も。
六つ港は、睦まじく。
七つ港は、懐かしく。
八つ港は、やつれても。
九つ港は、心して。
とうとう、神様いらっしゃる。
風まき、波割り、お水主様。
お神様を、連れて来い。
うたげじゃ、うたげじゃ、飲め、騒げ。
夜が明けるまで、終わるまで。
お神様が、やってくる」
古い歌だ。
〈風海祭〉における、海の神様を歌ったもの、とされている。
つまり、〈海の主〉を。
とても大きな祭事だ。
そろそろ、準備がなされてもおかしくはない。
かの祭りは、死者への鎮魂をする祭りでもある。
この街中に篝火を焚いて、大きな灯台のようにする。
そして、死者の魂がこのバークスプエルトに辿り着けるようにするのだ。
セトナら水主は、殆どが〈海の主〉を信仰している。
ネルガンも詳しくは知らないが、どうにも呪いについても一定の効能があるようだ。
海の神を信ずれば、海は少しだけ言葉に騙されやすくなるという。
つまり、信仰そのものが呪いの土壌になっているようなのだ。
確か、〈境界の法則〉などと呪い師たちは呼んだはずだ。
世界は、己と近いものに騙されやすい。
海の神を信仰することが、海そのものに近づくことなのだとネルガンは思う。
人の世と同じだ。
商人の界隈で身綺麗なものが易々と信頼を得やすいのも、また必定のことなのである。
誰にも好みがある、ということだ。
例えば、セトナの持つ黒い杖は、ある海域でのみ取れる巨大な黒珊瑚を加工したもの。
あれも、海へと近づく工夫なのである。
それでも、〈氷唄〉だけは説明ができない。
この世は、どうしてあれほどの魔の術を許すのだろうか。
子供らの声が遠ざかる中、ネルガンは一軒の家を見出した。
茶色っぽい煉瓦の、古そうな家屋。
太陽がかげっていることもあってか、どこか湿っているような冷たさがあるように感じられた。
懐に抱いた金貨の袋が、酷く重みを増している。
ノックをしようとして、手が止まった。
喉が渇く。
生唾を飲み込むが、それは粘り気だけがあって、どこか泡立つように体の奥へ落ちて行った。
セトナが、お父さん…と弱々しく呟くのが聞こえた。
耳いっぱいに風の音がする。
いけない。
責任を果たさねば。
テザムにどういう背景があったにせよ、船長は船員の死に真摯でなければならない。
甘い香りがした。
アスラがつけているらしい香油の匂いが、風上にいる彼の髪から流れてくる。
余韻もなく、目の前から消えてゆくような香りだ。
アスラは少しだけ首を動かしてこちらを見た。
まつ毛の長い翡翠の瞳は、暗い色の住宅街を映していた。
しかし、まるで新緑の森のように鮮やかだ。
ただ、じっとその中に立つネルガンを見据えている。
ネルガンは、木製の扉に腕を伸ばした。
手の甲で二つばかり叩く。
ぼやけたような、湿ったような音がした。
海風で変色した扉は、黒ずんで、嫌に大きく見えた。
アスラの服がはためく音が聞こえる。
海鳥の鳴き声が、渡る風の中に織り込まれるように響いていた。
少しの物音がした。
木が軋むような、そんなような音。
扉が、ゆっくりと開かれた。
光量の少ない屋内から、乱れた茶色の髪の、やや鷲鼻が目立つ女性が姿を現した。
青白い顔色に、張りの失われた荒れた肌は、彼女を必要以上に神経質に見せている。
カレナ・オンモル。
少し前に会ったばかりだが、それが遥かな昔のようにも思える。
彫りの深い眼窩の影からこちらを睨め付ける黒っぽい瞳は、先ほどの通り冷たかった。
ネルガンは、丁寧に挨拶をした。
カレナは何も返さなかった。
「カレナ殿。
先ほどお話させて頂いた通り、テザム・オンモル殿の慰労金の方をお渡しに参りました。
ソルテナオ金貨が5枚。
ご確認ください。
『風の縁の会』を代表致しまして、心からお悔やみ申しあげます」
カレナは、金貨の入った袋を受け取り、ほんの一瞬見た。
「…これが、夫の値段なの」
カレナは、袋を両の腕で抱いた。
数枚の金貨が擦れて、小さな乾いた音を出す。
色のあせた服の裾は、幾つもの糸が垂れていた。
ネルガンは、息が苦しくなった。
確かにテザム・オンモルは悪党だった。
しかし、人が死んでそこに残るのは、この一家が数ヶ月から半年ほど生活ができる程度の金額だ。
仕方のないこと。
人が死ぬたびに、莫大な金を払い出すことはできない。
船の旅では、嵐や飢餓、あるいは海賊などに手を出されることもあり、人の命が失われることも多い。
不運があれば、誰でもこうなるのだ。
ネルガンも、ドーブも、それこそセトナも、誰であろうと数枚の金貨へと姿を変えるだろう。
手切れ金。
労わっているという、個人を偲んでいるという、社会的な姿勢や体裁のための金。
「おれが殺した」
また、甘い匂いがした。
暗闇から聞こえてくるような、冷たい声。
ネルガンは、思わず振り返った。
包帯まみれの剣士は、翡翠色の瞳で、睨め付けるわけでも、憐れむわけでもなくカレナを見ている。
ネルガンは微かに口を開けてしまった。
待て。
待ってくれ。
この男の抱く狂気に付き合っている場合ではない。
「…なんですって。
どういうこと」
カレナもまた、声を低く、冷え切ったものへと変えた。
言い方が悪すぎる。
アスラはそれを受けてさえ、何一つ表情を動かさなかった。
あるいは、顔に巻かれた包帯で細かい感情の機微が拾えぬということも否定はできないが。
この男はどうしたのだ。
あれほど頭が切れるのに、なぜ馬鹿正直に遺族にそんなことを投げつける。
「テザム殿は、一種の悪事に加担していた。
それを詳らかにするため、おれがある作戦を考案した。
その作戦はテザム殿を精神的に追い詰め、結果的に彼は服毒をした」
アスラは静けさを纏いながら、そう言った。
詳細こそ隠しているが、起きた事実を淡々と乗せたもの。
なんとはなしに、ネルガンは分かっていた。
この男は逃げない。
例えば、結果的にその作戦を採用したのはネルガンだ。
それは、船長であるネルガンの責任問題であり、己は可能性の一つを生み出しただけ、と目を背けることもできる。
いや、常人ならそうするだろう。
あるいは、作戦を考えたのは自分でも、服毒をすることを選んだのはテザムだ、などとするのが精神衛生上穏当だ。
事実から目を逸らさずに、故人の遺族へと向き合える人間がどれだけいる。
ネルガンは、恐ろしかった。
悪人でもなんでも、人を死に追いやったという事実が。
少しだけ安心した自分がいる。
何故だか、逃避をしない彼が有り難い。
「あんたが殺したの…」
カレナの声は、もう一段低くなった。
後退りをするように、家の暗闇の中に戻ってゆく。
何か、嫌な感じがする。
カレナの目は、双眸は、酷く座っているように思えた。
ネルガンもまた、一歩、二歩と後ろへ下がった。
息を飲むようにしているセトナを背後に庇い、扉の先に広がる黒い闇を見つめる。
アスラは逆に、一歩前へと進み出た。
海風が彼の髪飾りを弄ぶ。
花の香りがする。
床を踏む音が聞こえた。
それも、急ぎ足といっていい。
何かを家の奥から持って来ようというのか。
一瞬、扉の枠の中に広がる闇の中に、鈍い色の光が見えた。
ネルガンは思わず、ああ、などという間抜けな声を出してしまった。
セトナも呆然とそれを見つめていた。
鋭い光は、入り口へと走り寄ってくる。
そしてそれは、助走の勢いと共にアスラの腹もとへと突き立てられた。
アスラは、少しだけたたらを踏んだ。
なぜか、随分と硬質な音がした。
カレナは、ゆっくりとアスラを見上げた。
前傾をする姿勢のため、彼の顔は幾分か高い位置にある。
翡翠の瞳は、冷たくカレナを見据えている。
アスラは何一つ動かなかった。
カレナの手には、調理用と見られる刃物が握られている。
ネルガンは、すぐ脇の石畳の地べたを見た。
欠け折れた刃が、密着する2人を曇ったような色で映し込んでいた。
ネルガンは思わず唾を飲み込んだ。
カレナは勢いをつけて、アスラの腹部へと刃物を突き立てた。
しかし、そこには金の虎の毛皮が巻かれている。
刃は負けた。
かの、この世の具現といってもいいような理不尽をもたらした聖なる獣。
カレナの抵抗は、その理不尽に握りつぶされたのだ。
「この顔を忘れるな」
アスラはそう言って、さらに一歩前へとカレナを押した。
カレナは、どこか怯えたような表情で家の中へと戻される。
状況を理解しきれていないのだ。
欠けた包丁らしいものは、毛皮に埋もれながらもそのまま腹元にある。
アスラは、真っ赤な手甲をうなじのあたりに這わせた。
包帯が、ゆっくりと解かれてゆく。
アスラの上半身は、扉の上部にある雨除けのひさしの影の中にあった。
湿ったような色の包帯は手に握られて、彼の素肌が露出した。
白い。
死人のようだ。
後ろからで良く見えないが、つんとした小ぶりの鼻と、血がしたたったように赤い唇が見える。
男か。
いや、女にも見える。
たおやかで、どこか作り物めいたような造形の美が、斜め後ろからでもなんとはなしに窺える。
「貴女は、おれを殺す権利がある。
力を溜めて、殺しに来るのだ」
包帯に遮られていない声は、いつも以上に中性的に聞こえた。
少女のように華やかでもあり、修験者のように重くもある。
ハスキーな、冷たい声質。
カレナは、化け物…と呟きながら後ずさった。
そのうちに棚らしい家具へとぶつかって、背中を寄り掛けるようにくずおれた。
欠けた包丁が落とされて、耳障りな金属音が鳴る。
床に落ちる涙の雫が、暗い家の中に何度か光った。
すすり泣く声が、ずっとしていた。
ネルガンは、腰を屈めて、地べたに落ちている折れた包丁を拾った。
使い込まれており、傷だらけで、刃先は随分の摩耗があった。
人の限界。
社会の限界。
世界には決して敵わない。
アスラの言葉の余響が、耳の中に残った。
誠実な言葉ではある。
だが、それは修羅の価値観だ。
カレナは、アスラを憎むだろう。
そして、それを頼りに生き延びるかもしれない。
しかし、無情だ。
あまりにも。
これは、呪いに近い。
ネルガンは、ふとアスラの故郷に立ち並んだ無数の墓標を思い出した。
何故か、彼の纏う白い服が、数多の血潮に染まって赤くなっているように思える。
セトナが、背中に身を寄せて来ている。
少し震えているようだ。
怖いのだろうか。
悲しいのだろうか。
分からない。
分からなかった。
♢
空の明るい箇所が段々と真上からずれてきている。
晴れとも、曇りとも形容できないような具合だった。
湿り気があり、蒸し暑くもあり、涼しいようでもあった。
帰りの道では、〈風海祭〉の準備らしい動きが少しばかり見られた。
篝火を焚く燭台がまばらに準備されて、本祭の日に間に合うように天日で干されている。
海と風の絵付けがなされた、鮮やかな色が、街並みの中にたまに現れては視界から消えてゆく。
天候は良いとは言えないが、物置に仕舞い込んでおくよりは良い。
祭りの日は、迫っている。
自宅へ戻ると、どっと疲れが押し寄せてきた。
居間の椅子を引いて、品もなく体重を預けるように腰掛ける。
アスラが丁寧に玄関扉を閉めた。
セトナは、換気のためか、少し窓を開けている。
暗い屋内が少しばかり明るくなった。
慰労金の手渡しも終わった。
正確には、テザムの遺族への、だが。
コルビンスの慰労金は、まだ渡せていない。
彼の近親者は、元妻ということになるだろう。
自宅を訪ねたが、返事はなかった。
待ってもよかったが、その前に情報共有をしたかった。
〈始教〉という大きな影が、セトナに迫っている。
できれば、アスラの力を借りたい。
〈氷唄〉のことを共有しなければならないが、致し方ない。
有り難いのは、彼がどこの派閥にも属していないということ。
彼ならば、アスラならば、ある程度セトナを傀儡にしないという予想ができる。
それ以前に、アスラがその気になれば、秘めたる武力で持ってしてある程度の我儘が効くだろう。
相対的に、セトナの持つ力の価値を低くしてくれるのは、彼くらいなものだ。
「さて、ひと騒動ありましたが…。
なんにしても、情報の交換をしましょう。
アスラ殿、何か得られたことはありますか?」
先ほど刃を向けられた剣士は、いかにも冷静に頷いた。
例の如く、包帯まみれの恐ろしげな風貌へと戻っている。
しかしながら、何一つささくれ立った調子を感じない。
恐るべき胆力である。
あのようなことを、茶飯の如く行なってきているという凄みを痛烈に感じる。
一方で、先ほどからセトナがずっと曇った顔をしている。
精神力の差、だろうか。
「幾つかある。
簡潔に、概要だけ述べさせて頂こう。
商会の手先と思われる男が釣れた。
その男は、黒い貨幣を追っていた。
そして、やり取りの中で、『海上で手出しはしていない・してはならなかった』というような言葉を発していた。
ここからは推測も入るが、本件は商会と、何か別の組織の陰謀が重なったものである可能性がある」
ネルガンは両の眼を大きく開かざるを得なかった。
最高に近い成果ではないだろうか。
アスラは、ネルガンが商会で辿り着いた真相に、殆ど迫っている。
唯一、〈氷唄〉に対する知識が、それを阻んでいたのだろう。
やはり、この男は凄まじい。
「ネルガン殿、一つお聞きしたいが…。
〈始教〉という組織はご存知か?」
思わず、え、という声が出かけた。
なんだ、どういうことだ。
この流れで、どうして〈始教〉が出てくる。
確かに本件の核心は、セトナを快く思わない〈始教〉がテザムを操って仕掛けた暗殺ではある。
だがその真実に辿りつくことは至難。
いや、殆ど無理に近い。
なぜなら彼は、〈氷唄〉の本当の力を知らない。
いかに明晰な頭脳を持っていたとしても、情報が足りなければそれを組み上げることはできない。
「勿論。
大きな宗教ですから。
私は信仰をしていませんが…。
それが、どうしたのでしょうか?」
「単刀直入に申させて頂くが…。
本件はもしかすると、〈始教〉が絡んだものであるかもしれない。
それも、標的は貴殿の息女のセトナであるやも」
不思議と驚かなかった。
何か、確信めいたものがある。
アスラは、辿り着いたのだ。
二つの輪に。
しかし、どうして。
どうやって。
セトナはそれを聞いて、えっ、と驚嘆している。
あの子には、ずっと情報を秘してきた。
しかし、流石に開示をしなければならないだろう。
テザム・オンモルが、セトナを狙って〈船飲み〉を呼び、そして良心の呵責によって、服毒をしたということを。
「…やはり、貴方は頭が良い。
実の所、私も似たような推理に至ったのです。
しかし、どうしてその結論が出せるのですか?」
ここが、何よりも肝要。
なぜなら、〈始教〉とセトナを結びつけるものは、〈氷唄〉以外にない。
逆説的に、アスラは〈氷唄〉にまつわる情報を、どこかから抽出した、ということになる。
「貧民街で、セトナがある術を使っていた。
テザムにも見せていた、風花を呼ぶ呪いだ。
それはどうにも、食料を長い期間劣化なく保存できる力があるもの、ということが分かった」
「なに…!?
セトナ、まさか〈氷唄〉を使ったのか!
それも、人前で保存の唄を!?
あれほど、使ってはならんと言っていた筈だ…!」
「ご、ごめんなさい…。
でも…」
セトナが弱々しく答える。
慄くような、力が抜けてゆくような、視界が赤くなるような、様々な感覚があった。
そうか。
そうだったのか。
何もかもが腑に落ちてくる。
どうして、〈始教〉がセトナの力を知っていたのか。
どうして、アスラが真実に辿り着けたのか。
それはそうだ。
ネルガンはセトナの力を他言したことはなかった。
セトナ自身にも、決して使ってはならない、と口を酸っぱくして注意していた。
だからこそ、〈氷唄〉は世に見つけられる筈はないのだ、と思い込んでいた。
だが、セトナが何らかの理由で力を使っていたら。
それも、〈始教〉信者の多い貧民街で。
必定として、それは〈始教〉の耳に入るだろう。
塩の権利を破壊する劇物として、毒物として、セトナは彼らの怨敵となる。
当たり前のこと。
そうなるのは、避けられぬこと。
「なんということだ…。
なんという、ことなのだ…。
セトナ、正直に答えなさい。
人前で何度〈氷唄〉を使って、食料を保存した?
いいか、嘘偽りなく答えるんだ」
「あ、あの…。
5回…。
今回で5回目です。
でも、でも、困ってる方たちがいて…」
優しさか。
それはそうだろう。
この子は優しい子だ。
ネルガンは頭を抱えた。
頭痛のようなものがある気がする。
何かが痛い。
息をするのを忘れてしまいそうだ。
誰かの為を思って行なったこと。
しかし、その慈悲が、今回の陰謀を巻き起こしたのだ。
言い方を悪くすれば、少なくともコルビンスについては、セトナの優しさによって命を落としたと言ってもいいだろう。
机の上に、金貨の袋がある。
渡しそびれた、コルビンスの慰労金。
それを握りしめる。
5回。
使ってはならない、と申し述べておいて5回。
吐き気のようなものがする。
汗が知らないうちに垂れてくる。
「いいかい、セトナ。
困っている人がいたとして、そして、仮に助けられたとしても、今度からは我慢しなさい」
努めて、穏やかに言った。
鋭利な言葉が出かかって、どうにか喉の奥にそれを押し込める。
セトナは灰色の瞳を瞼で少し覆いながら、しかし意思のこもった声で言った。
「……できません。
目の前で泣いている人がいて、私が助けられるのなら助けます」
「基本的にはいい。
だが、〈氷唄〉は使ってはいけない」
「…でも、助けられるんです。
唄の一つで、呪いの一つで」
危うい。
これは、経済的な観念からも危険な行為なのだ。
本来、呪いというのは高級技でありながらも、同時に忌避されるもの。
当たり前だ。
奇跡を呼ぶ技など、既存の産業を脅かすのは自明の理なのだから。
ゆえにこそ、所属する組織の資格があってこそ初めて市民権を得る。
だが、資格があるからといって何をしても良いわけではない。
その呪いを、組織が認可しなければならないのだ。
これは、どちらが先にあるのかは難しい。
組織が強大なので呪いが許されるのか、あるいは呪いが許されるから組織が強大なのか。
そのような観点からも、本件は極めて危うい橋なのだ。
「セトナ、理解しなさい…。
強い力は、余計な苦労を呼ぶのだ」
「…でも、目の前で苦労している人もいます」
「お前の言うことは正しい。
だが、分かるだろう?
アスラ殿の推理は恐らく正しいぞ。
〈船飲み〉を呼んでいたらしい笛もある。
〈始教〉は、お前を狙っているんだ」
「〈始教〉の信者のみなさんは、優しい方々です。
…そんなこと、しないと思います」
ネルガンの心の奥に、少しずつ黒い感情が溜まってきた。
この子は分かっているのか。
自分の力がどれほど強力で、社会に絶大なる影響力を持つのかを。
考え方は正しいが、正しいだけではならぬのがこの世だ。
「いい加減にしなさい。
金輪際、〈氷唄〉で食料の保存は止めるんだ」
「できません」
「ダメだ。
してはいけない」
「…できません」
何かが、堰をこえたような気がした。
黒い濁流が、滝のように落ちてくる。
飲み込んでいた言葉が、それに押されて口から出た。
「言うべきかどうか迷った。
いいか、セトナ。
〈氷唄〉は、食料保存の既得権を破壊する。
それはつまり、〈始教〉が塩による大きな利益を無くす、ということだ。
幾人もの人間が、路頭に迷うかもしれない。
〈始教〉は自分たちを守ろうとしたのだ。
今回の件で、テザムとコルビンスが落命をした。
これは、〈始教〉がお前を殺そうとして、その結果亡くなったものだ。
だが、遠因はお前にある。
〈氷唄〉さえなければ、こうはならなかった。
お前の力が、お前の浅慮が、彼らを死に追いやった、とも取れッ……!」
途中で、アスラが中に割って入ってきた。
こちらの肩をそっと押さえて、首を横に振っている。
翡翠の瞳には、憂いが湛えられていた。
ネルガンは我に還った。
セトナは灰色の瞳にいっぱいの涙を溜めて、黒い杖を握りしめていた。
息は荒く、肩は震えていた。
ネルガンは、息の吸い方が分からなくなった。
饒舌に回っていた口が、急に乾きだす。
「私、私…」
セトナの大きな瞳から、涙の粒がこぼれた。
目は真っ赤になり、鼻の頭も朱がさしているだろうか。
杖にしがみついて、しかし、身体を支えることができずに姿勢が低くなってゆく。
その途中で、アスラがセトナの肩を静かに抱いた。
「少し休んだ方が良いだろう。
ネルガン殿、よろしいか?」
アスラは例のごとく淡々とそう述べた。
ネルガンは、頷くことしかできなかった。
アスラはセトナを支えながら、彼女の部屋へと歩んでゆく。
靴の音がやみ、扉が軋む音が響いて、最後に静かになった。
外の音が、やたらに大きく聞こえた。
少し、変わった匂いがする。
〈風海祭〉の準備で、様々な祭具が物置から出されているからだろう。
ふと、机の傷跡を見る。
深い傷だ。
しかし、気にならないといえば、気にならない。
大丈夫だ。
ネルガンは、意味もない思考を数度繰り返した。
アスラが、音もなく戻ってくる。
静謐な緑の瞳がこちらを捉えた。
アスラは、しばらく目線を合わせて、夜風のように言葉を紡いだ。
「貴殿に拾ってもらった、とあの子は言っていた。
そして、パンを貰ったことが何より嬉しかったと」
心臓を撫でられているような息苦しさを感じる。
気がつけば、視線を外していた。
机の上には、金貨の袋がある。
そして、編まれた篭には、今朝買ってきたパンが4つほど入っている。
その近くには、天板に引っ掻いたような大きな傷がついていた。
ネルガンは、どうしてか、それに手のひらを置いた。
撫でると、確かに深い溝がある。
窓の光を映し込んだ白っぽい机に、薄い線が走っている。
肘をついて、手を組んだ。
その上に、顔を乗せる。
青白い光。
ネルガンは、ぼうっとそれを見つめていた。
♢
夕闇が垂れ込め始めた。
薄暗くなりつつある屋内で、ネルガンは未だに動けずにいた。
重要な局面だ。
アスラを頼ろうとしているのであれば、彼に話をした方が良い。
しかし、人と話す気が起きなかった。
彼はたまに茶を淹れてくれたり、大きな物音を立てないように掃除をしてくれたりした。
穏やかだった。
今は、暗い廊下の壁を拭いてくれているようだ。
脇目で見れば、服にたすきをかけて、効率よくてきぱきとした動きをしていることが分かる。
所作は性格を表すというが、徹頭徹尾丁寧で几帳面である。
あれで、狂人のような精神性をしていると、誰が思うだろうか。
「アスラ殿は、どうお考えですか…」
小さく、呟くように口にする。
独り言のように思えるだろうが、アスラは別次元に耳がいい。
ぴこぴこと長い耳がうごいて、ちら、とこちらを見た。
服のほこりを、ぽんぽん、と叩いて雑巾を片手に歩んでくる。
「先ほどの件かえ?」
「そうです」
「セトナを傷つけただろうな」
痛烈な指摘が入った。
客観的な事実。
この男は超然としているようでいて、案外感情の機微に敏感だ。
「間違っていたと思いますか?」
「どこに基準を置くかだろう。
強い注意喚起目的ならば、毒になりかねないが概ね成功。
セトナの気持ちに寄り添うのであれば、誤り。
社会上の通念などから論じれば、一定の正当性はあるんじゃないかえ?」
安易な成否を答えてはくれない。
考えろ、ということだろう。
腹の中で、後悔と自己弁護がぐるぐると回っている。
アスラは少し目を細めて、どこか苦笑めいた調子でネルガンの肩に手を置いた。
ネルガンは思わず彼を見上げた。
「後で謝ればいいさ。
親と子供なんて、そんなものだよ」
それは、恐ろしく地に足がついた言葉だった。
ネルガンは失礼ながら耳を疑った。
超人アスラからこのような発言が出るとは。
父性というか、母性というか、そのようなものを強く思わせる言葉。
「アスラさんも、お子さんがいらっしゃるのですか?」
「もう居ないさ。
おれも嫌われていたよ。
人殺しだからね」
そう言って、アスラは微笑んだ。
近頃、彼は良く笑うようになった。
しかし、彼の過去を掘り返すのが恐ろしい。
どうしてか、地の底に繋がるような虚が、そこら中に空いている気がしてならない。
だが、有り難かった。
「ままなりませんな…」
「子供は自分じゃない。
それに、子供からしても、親は自分を全て肯定してくれる機構などではない。
ちょっとした衝突や、意見の食い違いがあって然るべきだろう。
自分の意思がない人間ほど、不気味なものはないよ」
「アスラ殿は、少々我が強いようですな」
「ままならないね」
思った以上にウィットに富んだ返しが飛んできた。
アスラはもうひとつはにかんで、廊下の方へと戻って行った。
完璧な人間などいない。
あのアスラでさえ、思い悩むことがあるのだ。
廊下の暗がりに歩いてゆくアスラを見ていると、不意に耳がぴこぴこ動いて、彼は体を翻した。
そっと雑巾を置くと、玄関の方を鋭く睨みながら剣に手をかけている。
何かあったのか。
「どうされました」
「門の前に、武装した人間がいるな」
「まさか、〈始教〉が?」
アスラは、どうだろうな、と言って玄関の方へと歩んでゆく。
金属の擦れる音がした。
門が開かれたのだ。
アスラがそれと合わせるように玄関の扉を開いた。
茜色の光が広がる。
夕暮れの海を背景に、衛士風の身なりをした人間が2人連れ立って門を潜ろうとしていた。
ネルガンも玄関口に寄って、よくよくと見た。
商会の私兵でもなく、〈始教〉の僧兵でもない。
これは、国の衛士だ。
治安維持などに携わる公的な兵士。
しかし、どうして商人の家などを訪ねる。
あるいは、商会の敵対派閥の政治的介入か。
「どうなされた?」
アスラがいかにも穏やかな口調で尋ねる。
衛士2人はどこかおっかなびっくりの様子でアスラを観察していた。
少しだけ2人でやり取りをし、うち1人がアスラの方へと向かってくる。
「お前、名前は?」
「アスラと申す」
「そうか。
では、アスラ。
お前に、一種の暴行の嫌疑がかかっている。
数人からの通報があった。
いずれも、貧民街でのものだ」
「ナイフで襲われた件かえ?
あれは、衛士方に事情を説明した筈だが…」
「いや、その他に数件の通報があった。
真偽の程は定かではないがな」
アスラから簡単な説明があったが、彼が手を出したのは商会の斥候のみの筈。
つまり、これは虚偽の通報だ。
貧民街からのものとなれば、いかにも〈始教〉が怪しい。
「では、不当なものである可能性がありますな。
彼は現在商会付きの護衛です。
不適格な逮捕などは、商会への挑発行為に当たります」
ネルガンは前に出て、毅然とそう言った。
今アスラを失う訳にはいかない。
彼の人格からしても、誰かを害してそれを隠蔽するような小賢しいタイプではない。
つまり、これは何らかの作為が働いていると見るべきだ。
アスラを排斥しようという意思が。
「…そうなるだろうな。
はっきりと言うが、何らかのやっかみによる苦情だと踏んでいる。
あんた、随分と怖い格好してるからな。
身なりは大事だぜ。
とはいえ、ちょいと詰所までは来て貰えないか?
我々も一応調書を取る必要があるんでな」
衛士は、ため息を吐きながらそう言った。
役人の仕事上、致し方ないということか。
下手に反抗でもしようものなら、事態をややこしくする可能性も高い。
幸いなのは、商会の後ろ盾だ。
これで、完全にニュートラルな状態であれば、アスラは不当逮捕をされていた可能性もある。
だが、少しの間アスラが抜けるのは穏やかではない。
かといって、全員で移動しようにもセトナは動けるような状態にない。
「承知した。
代わりといっては何だが、この家に商会の私兵を呼んで来ることは可能かえ?」
ネルガンの考えを見透かすように、アスラがそう提案をした。
良い策だ。
この家から護衛が居なくなることを防ぎながら、〈始教〉の信徒などが紛れる可能性を低くしている。
商会は都合上、船乗りの神や、海の神を信仰している人種が多いのだ。
知り合いには、確実に〈始教〉以外の信仰を持っている人間もいる。
「うむ。
手早く頼む。
我々も日暮れまでには終えたいのだ」
衛士は拒絶をすることなく頷いた。
丁度よく、知り合いの商人が道を通りかかっているのをネルガンは見逃さなかった。
声を掛け、特定の人間を呼んでくるように頼み、金を握らせる。
男は快諾して、走って行った。
少しすると、男はネルガンの知り合いだという私兵を2名ほど連れてきた。
ネルガンは私兵にチップを渡して、日暮れまでここを見張ってくれないか、と頼んだ。
少し難色を示されたが、倍の賃金を払うことで今度こそ快諾された。
足元を見るのが上手い交渉だ。
呼んできている以上、こちらの立場が弱いのは明らかなのだ。
「では、少し出てくる。
ネルガン殿、気をつけるのじゃ。
何かが、動き出しているかもしれない」
アスラはそう言い残して、夕焼けの中へと吸い込まれてゆく。
衛士の佩びる鞘に納められた剣の金属音が、彼の両脇で鳴っていた。
橙に染められた白地の服が風にはためいて、遠ざかる。
じきに、雑踏にうもれて、影すらも見出せなくなった。
夕日が、海を燃えるように照らしている。
黒っぽい船がその中に並び、ゆらゆらと揺れていた。
ネルガンは契約した私兵に声をかけて、周囲を見張らせた。
道には、祭りの空の燭台が少しずつ並び始めている。
セトナは、まだ起きない。
ぬるい海風が、じっとりと吹いていた。
海鳥の鳴き声が、乾いたようにそこへと注がれている。
活気ある街並みの中に落ちる影は、段々と深く、長くなっていた。
用語集
・風海祭
バークスプエルト港で催される大きな祭り。10日間に渡って開催されることから、10日祭りとも呼ばれる。
海の主と呼ばれる神を祀ったものであり、一年の航海の安全を祈願し、また、その年に亡くなった船乗りたちを追悼する。街中に飾り燭台を並べて灯りをともすのだが、これは、港へ無事に帰ってこれる、夜でも街が見える、という暗示がそこにある。また、その眩い明かりで死者の魂を港へと導き、宴を開くことで冥府での安寧を祈るのである。
同時期に大きな市が開かれることでも有名で、風海祭の前後が一年で最も賑わうのはこのためでもある。商会の決算時期とも重なっており、船乗りの神カイ・エッテムにちなんだ出し物なども企画される。総じて、エフィーデ王国においても有数の祭事であるといえるだろう。




