カヌレ・その1
新しいおやつがあらわれました。
▶️食べてみる
先日の展覧会の講評中、菊池先生の言葉がひとつ、引っかかった。
青いトルコキキョウがわさわさと生けてある、それを写した作品へのコメントだ。
ひと通り話した後、先生は
「どんな花でも、枯れますし萎れます」
と一瞬しんみりと表情を曇らせた。
多くの人は作品に集中していたけれど、僕はその瞬間を見てしまった。
だから、写真に撮るのです。といった類のコメントかな?と思うと、先生は特に何も続けないで次の作品にいってしまった。
あの言葉は先生の心の中から出てきたのだろう。
展覧会後、気持ちの整理…というか「魂の置きどころ」を整えつつある僕(いかにも表現者的でこういうワードはすこぶる苦手なんだけど)にはそれだけが思い起こされた。
*
咲子さんはいつも同じ時間に同じ行動を守っている。一日のルーティンが素晴らしく確かだ。
その咲子さんが珍しく三時のおやつを置き去りに本に食い入っている。
少し前に出た恋愛もので、僕は書き味があまり好みでなく読まない作家の本だった。
咲子さんの没頭ぶりは素晴らしく、ロッキングチェアの上で夢でもみているかのような珍しい眼をしている。チェアは使い込まれた光沢を持ったマホガニー製だ。
僕はといえば、いつもおやつをご一緒する長机の上でカメラの手入れをしている。
現場では二台構えで振り回しているが、こういったものほど日頃の細やかな手入れが命である。
読書のお邪魔にならない程度に、エアダスターでセンサーまわりの埃を飛ばしていく。
「カヌレット…」
やっと本から顔を上げて静かな第一声がこれだった。
「それがヒロインの名前?」
恍惚とした表情で、咲子さんの唇の端にはうっすらと微笑みまで乗っている。
登場人物に意識を持っていかれているのかなぁ…没頭って大事だよなぁ。僕もカメラの知識やセミナーなんかで心を奪われる体験はしているので気持ちはわかるよ、とフォローに入ろうと思ったら、咲子さんは膨れっ面に変わった。
「俊ちゃんって、ときどきものすごく無粋よね」
そこまで言われるようなことを言っただろうか?
咲子さんの読書における世界観に差し障ったらしい。
咲子さんは読み終えた小説をぽんと、長机の上に置き、表紙を僕に見せてくれた。
表紙には、イラストだが美味しそうな洋菓子が何種類か描かれていた。
フィナンシェ、レモンタルト、ビスケット…。そういえば主人公はパティシエだとか何とか帯にあった気がする。
「これよ、これ」
咲子さんの指先には茶色い独特の形の焼き菓子のようなものが描かれていた。話によれば、カヌレットという洋菓子だという。
本来はもう幾分か大きめの「カヌレ」というのがあるが、カヌレットはそれをミニサイズに仕立てたもので量り売りなんかで買うらしい。
「外はサクッと硬めで、でも中はしっとりしてるの。生地には洋酒を入れるのよ」
一人住まいが長い分、料理は人並み程度できるが、お菓子作りとなると話は別だ。ふぅん、とうなづくしかない。
常日頃よりさばさばとした咲子さんだが一度へそを曲げるとなかなかに手強くなる。刺激せず、かつ無関心でないことをアピールしなければならない。
非常に難易度の高いミッションである。
「ふぅんって…俊ちゃんはお菓子には興味が薄うございますか」
ほら、しくじった。
咲子さんは台所で温かなほうじ茶を二人分淹れ、きらきらと砂糖衣輝く大学芋を机の中央に置いた。
いや、そんなことはないよ?でもあんまり作ったこととかないからさ、といった弁明の言葉が霞んで消えるほど、つやめいて美しい照りである。
「これ、咲子さんのお手製?綺麗だね」
「そうかしら?私、洋菓子はてんでダメで…こういうのしか作れないのよ」
よくわからないけれど美味しいことには変わりなさそうだ。
3時を半時回った中で本日のおやつとなった。それこそ外はサクッと、中はしっとりしている。さつまいも自体も甘く、冗談抜きに本当に美味しい。
そして美味しいものには人を笑顔にする力が宿っている。膨れっ面だった咲子さんに笑顔が戻ってきたことが僕は何より嬉しかった。
三つ目の大学芋を取ろうとしたとき、ふと思い出したように咲子さんが口を開いた。
「そういえば、百花荘の一階のテナントあったじゃない?あそこお店が入るらしいの」
「へぇ。何が入ってもすぐ潰れてたのに。何屋がたつの?」
「それがね…」
洋菓子店だという。
僕らが住む町には菓子屋はあまり思い当たらない。
「カヌレット、あるかしら?楽しみねぇ」
大学芋も、美味しいけどなぁ。もぐもぐ、のほほんと頬張る僕のもとに、当の洋菓子店から撮影依頼の連絡が入ったのは次の日のことであった。




