そばぼうろ・3
どこに行っても「カメラさん」と呼ばれるカメラマンの僕。
僕には秘密の(でもないけど)専属モデル(68)がいる。
日常の中の深いところ。おやつのお供にどうぞ。
そばぼうろの写真はかなり出来が良かった。
自分自身が素直にそう感じるのは珍しい。正直な写真という印象だった。
思い切って地元では有名な写真コンクールへの出品を決めた。
咲子さんに了承を得にいくと咲子さんは庭の水まきをしているところだった。
雫をたたえた赤いナスタチウムが目にきらきら映る。
「構わないけど、それっていい写真のコンクールなんでしょう?モデルがわたしなんかでいいのかしら?」
咲子さんでなくてはならないのだ、などとは何となく言いづらかった。
構図も絞りの具合も、全てとてもいいのだ。そんな風に説得した。
晩夏の空に入道雲の下、ナスタチウムがゆらゆらと揺れていた。
秋口。コンクール入賞の電話は僕の心をとても驚かせた。
秋に入賞作品の展覧会があります。来週の日曜日には講評も聞けますので、ぜひ会場へお越し下さい。
電話を切ると胸が高鳴り、すぐ咲子さんに伝えたくなったが気持ちを抑えた。
コンクールへの出品自体、学生の頃以来のことで喜びよりも混乱の方が勝っていた。
こういうことは落ち着いてから伝えたいし、なんだか夢のような気がしていた。
講評会の当日、僕はいつもより丁寧にアイロンをかけたシャツに一番上等なネクタイという出立ちで会場に向かった。
初秋の日曜日は生憎の雨降りだった。焦げ茶の傘の下で胸のどきどきは止まらなかった。
もう作品の設営は済んでいるらしく、待合室からも、オフホワイトの額縁をまとった咲子さんの写真がちらりと見えた。誇らしいような怯えるような、自分自身がわからない心持ちで他の入賞者たちに混ざった。
しばらくすると待合室に咲子さんと同じくらいの年齢と思われる女性が入ってきた。いかにも厳格そうな、きびきびとした所作の老婦人だった。
「お待たせしました。この度の選者で本日の講評員を務めます、菊池と申します。早速講評会をはじめたく思います」
菊池先生は一つ一つの作品の講評を始めた。
「逆光で犬のシルエットだけを抜いた夕日へのアプローチが非常に巧みです」
「この構図で他のものに対し、月が一点だけこの配置ということが残念です」
「被写体に対し、適正な光の取り入れ方には好感が持てます」
淡々とした物言いには隙がなく、適切な解説ばかりが会場に響いた。そばぼうろの咲子さんはもうすぐだ。
僕はいっそ帰ってしまいたいような気持ちだった。
いよいよ、きた。
「構図、露出、光へのアプローチ。どの点をとっても良作と言えるでしょう。モデルの表情にもよくフォーカスできています。」
こちらの想いとは全く裏腹に、菊池先生は淡々と褒めるだけ褒めて次に移った。
褒められたというのに僕は何か理不尽な目にあったような気がした。
あの時のそばぼうろの甘さも、ミルクのまろやかさも、咲子さんの瞳に入る虹のような光の美しさも全てがないがしろにされたような気がしたのだ。
「以上となりますが、毎年出品されている方も非常に腕が上がってきています。来年もいいお写真を拝見できることを期待しております」
菊池先生は会釈程度頭を下げ、講評会はお開きとなった。
皆散り散りに帰っていき、先生と二人きりになっていた。先生は何らかのメモを取っている。
気づくより先に声が前に出た。
「いい写真って、先生、何でしょう?」
会場のライトグレーのカーペットには夕方のわずかな光がにじみ、ゆらゆらと印象的だった。
菊池先生は僕を見つめた。中年のカメラマン、それもプロとは思えない質問だ。
「それ、聞いてどうするおつもりですか?」
先生の指摘は鋭い。そう、この答えは自分で導き出すものだ。
「ご自身の芸術への信念が生きている写真だと私は思っています。では、また来年」
メモをぱたんと閉じると先生は去った。
かつかつという足音だけが耳に残った。
帰りの雨は静かだった。傘はささなかった。
深く考えるためには傘よりも杖が欲しかったからだ。
芸術。
信念。
生命。
傘に体重を預けながらその日は長く歩いた。
家に着く頃には雨は上がろうとしていた。




