第27話『命がけの取引』
「ジーナ……?」
聞き慣れない名前に、エリスの顔を見た。
エリスは口の端に残った血を舐め取り、男を睨んだまま深く息を吐いた。
真っ赤に濡れ、大きな穴が開いたパーカーの下には、もう傷は残っていなかった。
男が、何事もなかったようにエリスの横を通り抜け、白い箱のそばに座るイクシオンに近づいていく。
「止まりなさい!」
ポルフォルが咄嗟に藍色の槍を突き出し、男の進路を遮った。
「その方は、我々がこのまま——」
「ポルフォル。下がって」
エリスの低い声に、突き出された槍の切っ先がぴたりと止まった。
「僕の後ろで、固まっていて」
「ですが——」
「いいから」
ポルフォルが悔しげに槍を引き、ロイドの隣まで下がった。
「ひっ……ぅ……」
「大丈夫。大丈夫よ」
私は泣きじゃくるテュフォンの背中を撫でて、強く抱きしめた。
男はこちらを一瞥して、再び歩き始める。
イクシオンのそばにしゃがみ込み、その頭に手を置いた。
「お父様……」
「待たせましたね」
すがるように顔を上げたイクシオンの頭を、ゆっくりと撫でた。
イクシオンは強張っていた肩から力を抜き、その手のひらへ額を寄せる。
「すみません。私の不手際で……」
「お話は、後で聞きましょう」
男は手を離して立ち上がり、イクシオンの横へ一歩ずれてから、こちらへ向き直った。
「名前を改められたのでしたね。失礼しました、エリス様」
「覚えてるなら、最初からそう呼んでほしいか、なっ!」
エリスが胸元の血をすくい取り、固めて男に向けて投げつけた。
血の塊は宙に赤い線を引いて飛び、鈍い音を立てて、男の胸の真ん中にぽっかりと大きな穴を開けた。
「――っ」
思わず息を呑んだときには、もう穴の縁が内側へ動き始めていた。
赤い肉が隙間を埋め、裂けたスーツの奥に、傷のない肌が戻っていく。
男は動じた様子もなく、肩をすくめた。
「相変わらず手荒なようで」
「お返しだよ、バーカ」
エリスが、指に残った血を乱暴に振り払った。
地面が赤く染まるのを見届けて、男は姿勢を正す。
「……さて。挨拶が遅れました。私は、『冥王』プルートの忠臣、カロンと申します」
片手を胸に当て、丁寧に腰を折った。
丸く破れたスーツの布地が、その動きに合わせて揺れる。
誰も答えず、重い沈黙が広がる中、ポルフォルが二本の槍を握り直した。
「……何をしにいらしたのです?」
「先ほど申し上げたとおり、血液を受け取りに」
目鼻のない仮面が、地面に並ぶ白い箱へ向き、それからイクシオンへ移る。
「それと、娘の引き取りも必要なようですね」
「その方は、町の方々や観光客を襲っていますわ。見逃すわけにはまいりません」
互いに睨み合ったままだったが、やがて、男がやれやれと首を振った。
「では、交渉しましょう」
「交渉?」
「娘と、娘が集めて保管していた血液を渡していただきたい。そうしてくだされば、これ以上、何もせずに帰ります」
「断ったら?」
「ここで戦うことになります」
ポルフォルが、苛立ちを隠さずに足を踏み出した。
エリスが片腕でポルフォルを制し、男に挑発的な笑みを向けた。
「ずいぶん強気じゃん。そっちに勝ち目があるとでも?」
「……まあ。勝てないでしょうね」
あっさりとした返事に、イクシオンが驚いたようにカロンを見上げた。
カロンはそちらを見ようともせず、こちらに仮面を向けたまま言葉をつないだ。
「ですが……」
白い面が、ゆっくりと動いた。
先頭に立つエリスから、槍を構えるポルフォルへ。
それからロイドへ、さらに後ろにいる私たちへと向き、ぴたりと止まった。
「自分の色を持たない未熟な騎士が二人。戦えない魔女が一人に、魔力が多いだけの子供が一人……」
テュフォンが、私の服を掴んでいた手にぎゅっと力を込めた。
その手首に巻きついていたエキドナが、警戒するように頭を持ち上げた。
「ふむ。祝福の力を受けたスライムもいますね」
カロンの仮面が、エリスに向き直る。
「あなたが私を殺したとき、何人残っているでしょうか?」
変わらず穏やかな口調に、エリスが強く拳を握り込んだ。
「ポルフォル」
テュフォンのしゃくり上げる声だけが聞こえてくる中、ロイドがポルフォルに語りかけた。
「先ほどの攻撃は、我々の反応可能速度を超えていました。このまま交戦すれば、ライラ様たちを守りながら勝利することは、不可能に近いです」
カロンに切っ先を向けたまま、隣を見た。
「この場の指揮官はあなたです。判断は、あなたにお任せします」
その声は、今朝、旅館でポルフォルの腕を診ていたときと同じように、静かで落ち着いていた。
「ですが、どうか冷静な判断を。私は、要求を受け入れるべきだと進言します」
ポルフォルが、ロイドを見た。
何かを言いかけたが、言葉にできずに口を閉ざす。
カロンも、そのそばに座るイクシオンも、何も言わずに、じっとこちらを見つめている。
「……ひっ、う……」
テュフォンの小さな泣き声が漏れた。
押し当てられた顔から、温かい涙が服へじわりと染みてくる。
ポルフォルはエリス、ロイド、私を順に見て、それからテュフォンの背中に目を落とした。
長い沈黙の後、槍の穂先が、地面の方へゆっくりと傾いた。
「……条件がありますわ」
「聞きましょう」
カロンが、わずかに顎を引いた。
「この町には、二度と手を出さないこと。あなたも、イクシオンさんも。おにおこ町で、同じ被害を起こさないと約束なさい」
「もちろん」
返事はすぐに返ってきた。
「騎士団が目を付けた場所で、何度も犯行を繰り返すような、無駄なことをする気はありません」
ポルフォルの唇が、きつく結ばれる。
カロンは満足そうに頷くと、もう一度丁寧に腰を折った。
「では、交渉成立ですね」
「……ええ」
絞り出すように返事をして、ポルフォルはエリスに顔を向けた。
「エリスさん。拘束を、解いてくださいませ」
「……ん」
エリスが指先を軽く動かした。
赤い鎖が端からほどけ、イクシオンは自由になった手を地面について立ち上がった。
「箱をお願いします」
「はい」
カロンが二つの箱を両腕で軽々と抱え上げ、残った一つをイクシオンが大事そうに抱えた。
カロンはそのまま石段の方へ歩き出し、広場の端で足を止めた。
白い仮面がこちらを向く。
「では、よい休暇をお過ごしください」
小さく会釈をして、イクシオンと二人で石段を下りていった。
こつ、こつ、と硬い靴音が、広場から少しずつ遠ざかっていった。
しばらくして、エリスは石段の方を見つめたまま、横に伸ばしていた腕を下ろした。
ロイドが石段の手前へ進み、下の様子を確かめてから、刀を鞘へと納める。
「……申し訳ございません」
ポルフォルは、エリスに頭を下げていた。
「ご協力いただいたうえに、かばっていただいて……」
右肘を曲げ、槍を握った手を胸元へ引き寄せる。
「気にしないでいいよー。ほら、もう治ってるし」
エリスが裂けたパーカーを指で広げ、傷のなくなった胸元を見せた。
ポルフォルは顔を上げたが、視線は地面に落としたままだった。
エリスは服から手を離すと、その場にいる私たちを見回した。
泣き止んだテュフォンの顔を覗き込み、それから、ロイドとポルフォルにも目を向ける。
「じゃ、帰ろっか」
エリスが石段へ向かって歩き出す。
ポルフォルは二本の槍を畳み、短くなった柄を腰へ戻すと、うつむき加減にその後ろに続いた。
石段の手前で待っていたロイドが、こちらを振り返る。
私は頷き、テュフォンと手をつないで、一段目にゆっくりと足を下ろした。




