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普通の魔女と、グレーの家族  作者: ネコメガネ
第三章『温泉旅行』
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第27話『命がけの取引』


「ジーナ……?」


 聞き慣れない名前に、エリスの顔を見た。


 エリスは口の端に残った血を舐め取り、男を睨んだまま深く息を吐いた。


 真っ赤に濡れ、大きな穴が開いたパーカーの下には、もう傷は残っていなかった。


 男が、何事もなかったようにエリスの横を通り抜け、白い箱のそばに座るイクシオンに近づいていく。


「止まりなさい!」


 ポルフォルが咄嗟に藍色の槍を突き出し、男の進路を遮った。


「その方は、我々がこのまま——」


「ポルフォル。下がって」


 エリスの低い声に、突き出された槍の切っ先がぴたりと止まった。


「僕の後ろで、固まっていて」


「ですが——」


「いいから」


 ポルフォルが悔しげに槍を引き、ロイドの隣まで下がった。


「ひっ……ぅ……」


「大丈夫。大丈夫よ」


 私は泣きじゃくるテュフォンの背中を撫でて、強く抱きしめた。


 男はこちらを一瞥して、再び歩き始める。


 イクシオンのそばにしゃがみ込み、その頭に手を置いた。


「お父様……」


「待たせましたね」


 すがるように顔を上げたイクシオンの頭を、ゆっくりと撫でた。


 イクシオンは強張っていた肩から力を抜き、その手のひらへ額を寄せる。


「すみません。私の不手際で……」


「お話は、後で聞きましょう」


 男は手を離して立ち上がり、イクシオンの横へ一歩ずれてから、こちらへ向き直った。


「名前を改められたのでしたね。失礼しました、エリス様」


「覚えてるなら、最初からそう呼んでほしいか、なっ!」


 エリスが胸元の血をすくい取り、固めて男に向けて投げつけた。


 血の塊は宙に赤い線を引いて飛び、鈍い音を立てて、男の胸の真ん中にぽっかりと大きな穴を開けた。


「――っ」


 思わず息を呑んだときには、もう穴の縁が内側へ動き始めていた。


 赤い肉が隙間を埋め、裂けたスーツの奥に、傷のない肌が戻っていく。


 男は動じた様子もなく、肩をすくめた。


「相変わらず手荒なようで」


「お返しだよ、バーカ」


 エリスが、指に残った血を乱暴に振り払った。


 地面が赤く染まるのを見届けて、男は姿勢を正す。


「……さて。挨拶が遅れました。私は、『冥王』プルートの忠臣、カロンと申します」


 片手を胸に当て、丁寧に腰を折った。


 丸く破れたスーツの布地が、その動きに合わせて揺れる。


 誰も答えず、重い沈黙が広がる中、ポルフォルが二本の槍を握り直した。


「……何をしにいらしたのです?」


「先ほど申し上げたとおり、血液を受け取りに」


 目鼻のない仮面が、地面に並ぶ白い箱へ向き、それからイクシオンへ移る。


「それと、娘の引き取りも必要なようですね」


「その方は、町の方々や観光客を襲っていますわ。見逃すわけにはまいりません」


 互いに睨み合ったままだったが、やがて、男がやれやれと首を振った。


「では、交渉しましょう」


「交渉?」


「娘と、娘が集めて保管していた血液を渡していただきたい。そうしてくだされば、これ以上、何もせずに帰ります」


「断ったら?」


「ここで戦うことになります」


 ポルフォルが、苛立ちを隠さずに足を踏み出した。


 エリスが片腕でポルフォルを制し、男に挑発的な笑みを向けた。


「ずいぶん強気じゃん。そっちに勝ち目があるとでも?」


「……まあ。勝てないでしょうね」


 あっさりとした返事に、イクシオンが驚いたようにカロンを見上げた。


 カロンはそちらを見ようともせず、こちらに仮面を向けたまま言葉をつないだ。


「ですが……」


 白い面が、ゆっくりと動いた。


 先頭に立つエリスから、槍を構えるポルフォルへ。


 それからロイドへ、さらに後ろにいる私たちへと向き、ぴたりと止まった。


「自分の色を持たない未熟な騎士が二人。戦えない魔女が一人に、魔力が多いだけの子供が一人……」


 テュフォンが、私の服を掴んでいた手にぎゅっと力を込めた。


 その手首に巻きついていたエキドナが、警戒するように頭を持ち上げた。


「ふむ。祝福の力を受けたスライムもいますね」


 カロンの仮面が、エリスに向き直る。


「あなたが私を殺したとき、何人残っているでしょうか?」


 変わらず穏やかな口調に、エリスが強く拳を握り込んだ。


「ポルフォル」


 テュフォンのしゃくり上げる声だけが聞こえてくる中、ロイドがポルフォルに語りかけた。


「先ほどの攻撃は、我々の反応可能速度を超えていました。このまま交戦すれば、ライラ様たちを守りながら勝利することは、不可能に近いです」


 カロンに切っ先を向けたまま、隣を見た。


「この場の指揮官はあなたです。判断は、あなたにお任せします」


 その声は、今朝、旅館でポルフォルの腕を診ていたときと同じように、静かで落ち着いていた。


「ですが、どうか冷静な判断を。私は、要求を受け入れるべきだと進言します」


 ポルフォルが、ロイドを見た。


 何かを言いかけたが、言葉にできずに口を閉ざす。


 カロンも、そのそばに座るイクシオンも、何も言わずに、じっとこちらを見つめている。


「……ひっ、う……」


 テュフォンの小さな泣き声が漏れた。


 押し当てられた顔から、温かい涙が服へじわりと染みてくる。


 ポルフォルはエリス、ロイド、私を順に見て、それからテュフォンの背中に目を落とした。


 長い沈黙の後、槍の穂先が、地面の方へゆっくりと傾いた。


「……条件がありますわ」


「聞きましょう」


 カロンが、わずかに顎を引いた。


「この町には、二度と手を出さないこと。あなたも、イクシオンさんも。おにおこ町で、同じ被害を起こさないと約束なさい」


「もちろん」


 返事はすぐに返ってきた。


「騎士団が目を付けた場所で、何度も犯行を繰り返すような、無駄なことをする気はありません」


 ポルフォルの唇が、きつく結ばれる。


 カロンは満足そうに頷くと、もう一度丁寧に腰を折った。


「では、交渉成立ですね」


「……ええ」


 絞り出すように返事をして、ポルフォルはエリスに顔を向けた。


「エリスさん。拘束を、解いてくださいませ」


「……ん」


 エリスが指先を軽く動かした。


 赤い鎖が端からほどけ、イクシオンは自由になった手を地面について立ち上がった。


「箱をお願いします」


「はい」


 カロンが二つの箱を両腕で軽々と抱え上げ、残った一つをイクシオンが大事そうに抱えた。


 カロンはそのまま石段の方へ歩き出し、広場の端で足を止めた。


 白い仮面がこちらを向く。


「では、よい休暇をお過ごしください」


 小さく会釈をして、イクシオンと二人で石段を下りていった。


 こつ、こつ、と硬い靴音が、広場から少しずつ遠ざかっていった。




 しばらくして、エリスは石段の方を見つめたまま、横に伸ばしていた腕を下ろした。


 ロイドが石段の手前へ進み、下の様子を確かめてから、刀を鞘へと納める。


「……申し訳ございません」


 ポルフォルは、エリスに頭を下げていた。


「ご協力いただいたうえに、かばっていただいて……」


 右肘を曲げ、槍を握った手を胸元へ引き寄せる。


「気にしないでいいよー。ほら、もう治ってるし」


 エリスが裂けたパーカーを指で広げ、傷のなくなった胸元を見せた。


 ポルフォルは顔を上げたが、視線は地面に落としたままだった。


 エリスは服から手を離すと、その場にいる私たちを見回した。


 泣き止んだテュフォンの顔を覗き込み、それから、ロイドとポルフォルにも目を向ける。


「じゃ、帰ろっか」


 エリスが石段へ向かって歩き出す。


 ポルフォルは二本の槍を畳み、短くなった柄を腰へ戻すと、うつむき加減にその後ろに続いた。


 石段の手前で待っていたロイドが、こちらを振り返る。


 私は頷き、テュフォンと手をつないで、一段目にゆっくりと足を下ろした。

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