第25話『サクリファイス・オブリージュ』
朝、布団の中で目を開けると、障子の向こうが明るくなっていた。
隣では、エリスが掛け布団を抱えて眠っている。
その向こうの布団からは、テュフォンの足だけが出ていた。
起き上がって布団をかけ直すと、枕元のエキドナが頭を上げた。
「おはよう」
小声で挨拶し、眼鏡をかける。
窓際の椅子には、ロイドが座っていた。
こちらに気づくと立ち上がり、少し声を落とす。
「おはようございます、ライラ様」
「おはよ。ポルフォルは、帰ってきた?」
「まだです。先ほど、間もなく戻ると連絡がありました」
昨夜も、寝る前に一度、ロイドが連絡を受けていた。
無事ではあるけれど、仕事が長引いているとか。
「せっかくの旅行なのに、大変ね……」
座卓の端には、紫色の車の駒が置かれたままだった。
顔を洗って部屋へ戻り、タオルを畳んでいると、襖の向こうから声がした。
「おはようございます。遅くなりましたわ」
襖を開けたロイドの肩越しに、ポルフォルの顔が見えた。
そのまま視線を下げて、手が止まる。
「……ちょっと。その格好、どうしたの?」
ドレスの右袖が、ほとんどなくなっていた。
裾の白いレースにも、黒い焦げ目がついている。
ポルフォルは自分の服を見下ろすと、何でもないように裾を払った。
「少し、汚してしまって」
「汚したで済む状態じゃないでしょ。入って」
「ですが、畳が――」
手にしていたタオルを、座布団の上へ広げる。
「これならいいでしょ」
ポルフォルは口を閉じ、おとなしく腰を下ろした。
ロイドがその横へ膝をつき、裂けた袖の下を覗き込む。
右肘に巻かれた薄い布の隙間から、黒い亀裂が見えた。
「腕も、ケガしてるじゃない」
「軽微な損傷ですわ。指も動きますし、自己修復の範囲内ですもの。すぐに――」
「外装の下を確認します。少し、腕を伸ばしてください」
ロイドに促され、ポルフォルが肘を伸ばした。
途中で指先が震え、口元がわずかに引きつる。
「……すぐ治る、とは言い切れませんね」
ロイドは鞄から道具入れを取り出すと、小さな端子を肘の内側へ接続した。
私は二人のそばへ腰を下ろす。
「何をしてきたの?」
「申し訳ありませんが、任務に関わることを、一般の方へお話しするわけには――」
「おはよー……あれ、ポルフォル。帰ってたんだ」
布団の方から、眠そうな声がした。
髪をあちこちへ跳ねさせたエリスが、起き上がって鼻をひくつかせる。
「……血の匂い。吸血鬼かな?」
ポルフォルの肩が、ぴくりと動いた。
「お、当たった?」
「な、どうして……」
「僕も吸血鬼だからね。匂いを嗅いだりすれば、なんとなく分かるよ」
エリスは這うように座卓まで来ると、ポルフォルの鞄を指した。
「そこにも、入ってるでしょ」
ロイドが顔を上げた。
ポルフォルはしばらく迷ってから、左手で鞄を引き寄せる。
「……事件の概要だけでしたら、お話しできますわ」
取り出された小さな透明の袋が、座卓へ置かれた。
中には、焦げた布切れと、赤黒く汚れた石片が入っている。
おにおこ町では、少し前から、観光客が血を奪われる被害が出ていたらしい。
夜、人気のない道で声をかけられ、気がつくと道端に座り込んでいた。
立ち上がろうとしても、めまいがして動けず、手や首には小さな傷が残っていた。
そんな訴えが、何件も寄せられているという。
「命を落とした方は、今のところ確認されていませんわ。ですが、治療が必要になった方もいらっしゃいます」
ポルフォルは、袋の中の石片へ目を落とした。
「近年、各地の観光地で、同様の事件が起きていますの。ギルドへの依頼で解決したものもありますが、この町の件は、まだ」
「それで、見回りに?」
「はい。被害の多い道を調べ、狙われやすそうな格好で歩いておりましたの」
焼け残ったフリルを、左手でつまむ。
「現れたのは、サラマンダーの少女でした。ですが、血を操っていたことから、後天的な吸血鬼と見て間違いありませんわ」
「サラマンダーなのに、吸血鬼でもあるの?」
「僕みたいな純粋な吸血鬼もいれば、あとから変わった子もいるんだよね」
エリスが私へ顔を向けた。
「人間とか、獣人とか、天使とか。ほかの種族から変わった子が、いわゆる眷属ってやつだね。まあ、元の種族の性質は残るから、サラマンダーなら火も使えるってわけ」
「血を操る精度は、純粋な吸血鬼ほどではありませんが……それでも、かなり厄介でしたわ」
ポルフォルは、ロイドに支えられた右腕を見た。
「あと少しのところで、逃がしてしまいました。その後、周辺の捜索や現場の確認をしていたら、この時間に」
「だからって、一晩中は流石に……」
「騎士ですもの。これは、わたくしの責務です」
ロイドが端子を外し、道具入れから細い補修材を取り出した。
それを肘の内側へ、慎重に貼っていく。
「信号の乱れは、接続部の損傷によるものでした。ひとまず、これで改善するかと」
「ありがとう……早いですわね」
「私の機体には、診断機能もありますので」
「……そう……でしたわね」
ポルフォルは一瞬だけ視線を揺らして、すぐに笑顔を浮かべて、右手を開いたり閉じたりした。
確かめるように、滑らかに動く右手を見ていた。
「せっかくの休暇なのに……」
私の言葉に、ポルフォルは腕を下ろした。
「違いますわ。人命がかかっているときに、休暇を理由に断る権利は、わたくしにはありません」
「そんなことは……」
「『ノブレス・オブリージュ』。力を持つ者が、その力を使う。高貴なる者として、当然の務めですわ」
ポルフォルはまっすぐにこちらを見た。
「まだ、見習いですけどね」
返す言葉を考えていると、布団の方でもぞもぞと動く気配がした。
「……ポルフォルお姉ちゃん?」
テュフォンが起き上がっていた。
眠そうに目をこすり、焦げたドレスを見て手を止める。
「ど、どうしたの? それ、痛くない?」
「あら、起こしてしまいましたわね。心配いりませんわ」
ポルフォルは右手を持ち上げた。
「ほら、もう動きますもの」
指先をゆっくり振ってみせたが、テュフォンの眉は下がったままだった。
ロイドが、道具入れの蓋を閉じる。
「エリス様、一つお願いがあります」
「んー? ロイドのお願いって珍しいかも。なぁに?」
「ポルフォルに、力を貸していただけませんか」
ポルフォルが、勢いよく隣を向いた。
「ロイド、何を――」
「私も協力します」
ロイドは、ポルフォルへ向き直った。
「今回、正式な任務の割り当てはなかったはずです。休暇の申請を出したうえで、ご自分の判断で調査を始めたのでしょう」
「それは……」
「その申請は、休暇を取るためのものです。独断で調査を進めるためではありません」
ロイドは目を逸らさず、続けた。
「私たちは、騎士であるのと同時に、まだ子供でもあります。無理をしては、いけません」
ポルフォルが、膝へ視線を下ろす。
「……わたくしは、生まれたばかりのあなたと違って……」
言いかけて、口を閉じた。
右の指を左手で包み、しばらくそのままでいる。
エリスが、大きくあくびをした。
「ふぁ……僕はいいよ。昨日、案内してくれたお礼も兼ねて」
「……感謝されたくて、やったわけではありませんわよ」
「まあまあ。感謝するかはともかくとして、このままじゃいつまでたっても一緒に遊べないからね」
座卓の端にあった紫色の駒を、指先でポルフォルの前へ滑らせた。
ポルフォルは、それをじっと見下ろす。
私は空の湯呑みを取り、急須からお茶を注いだ。
「早く解決できるに越したことはないでしょ」
湯呑みを、ポルフォルの手の近くへ置く。
「それで時間が余ったら、昨日の観光の続きをしましょうよ。案内役がいないと、どうせグダグダして、ろくに回れないだろうし」
ポルフォルが湯呑みに手を伸ばした。
しばらく両手で包んでいたが、やがて一口だけ飲み、静かに座卓へ戻す。
「……エリスさん」
「はいよ」
「わたくしに、お力を貸していただけますか」
「もーちのろーん」
エリスが二本の指を立ててみせた。
「じゃあ、とりあえず朝ご飯にしよう! 三度の飯よりなんとやら!」
「エリス様。それは、ご飯よりも別のことが好きだという意味です」
そんなやり取りをしながら、エリスとロイドが着替えようと席を立つ。
二人を見て、ポルフォルは小さく笑った。
膝から手を離し、立ち上がりかけたところで、袖のなくなった右腕へ目を落とす。
「わたくしも、着替えてまいりますわ」
「ええ、ゆっくりでいいわよ」
出ていく背中を見送り、私も着替えに手を伸ばした。
* * *
「んはー、空気が美味い!」
朝食を終えて外へ出ると、エリスは旅館の前で大きく息を吸った。
ポルフォルは昨日と同じニットに着替え、右肘を薄い保護材で覆っている。
荷物は旅館に預け、手には例の袋を持っていた。
「で、どうやって探すの?」
「んー……まずは、その袋、開けてみて」
エリスが中の石片へ顔を近づける。
わずかに眉を上げ、それから目を閉じた。
川から吹いてきた風に、髪の先が揺れる。
「……あっちかな」
指した先は、旅館の裏に見える山だった。
「分かりますの?」
「近くにいるみたい。血の匂いなら、どんだけ離れてても……離れすぎると分かんないけど、これくらいなら分かるよ」
「高性能なのかよく分からないけど、助かるわね」
ロイドは山を見上げ、腰の刀に手を添える。
「ライラ様とテュフォン様は、宿でお待ちになりますか?」
「……場所を探すところまでは、一緒に行くわ。危なくなったら、すぐ下がる」
「このメンバーなら、待っててもらうより、一緒にいる方が安全かもね」
エリスが、いつもの調子で頷いた。
「道が狭いところは、先に確認してから進みましょう」
ロイドはテュフォンの靴紐を確かめ、立ち上がった。
テュフォンが私の手を握る。
彼女の手首に巻きついていたエキドナも、山の方へ頭を持ち上げた。
「よろしくお願いします、エリスさん、ロイド」
ポルフォルの声に、二人がそれぞれ頷き返した。




