第24話『烈火轟雷』
川の向こうに、旅館の窓明かりが並んでいた。
下駄の音や、酔客の笑い声、土産物屋から漏れる音楽が響いている。
その賑わいを背に、ポルフォルは細い路地へ入った。
足元の石に触れかけたレースの裾を持ち上げ、もう一方の手でスマートフォンを確かめる。
地図に記された印は、昼間、手帳で眺めていた観光名所とは別の場所だった。
最後の一か所についても、先ほど立ち寄った警備の詰め所で確認を済ませている。
「……この辺り、ですわね」
画面を消し、ハンドバッグへしまった。
路地の先には、営業をやめた共同浴場があった。
窓には板が打ちつけられ、入口の看板も半ば外れかけている。
建物に沿って流れる細い水路から、白い湯気が立ち上っていた。
ポルフォルは浴場の手前で足を止めると、わざとらしく周囲を見回した。
「困りましたわ。お宿へ戻る道、こちらで合っていたかしら」
返事はなく、鈴虫の音だけが聞こえてくる。
もう少し進んで街灯の下に立ち、ハンドバッグの中を探るふりをした。
しばらくそうしていると、浴場脇の暗がりに、小さな赤い光が灯った。
「お姉さん。観光客?」
指先に炎を灯した少女が、こちらを見ていた。
額には二本の角が生え、くたびれた上着の裾から細い尾が覗いている。
「ええ。道に迷ってしまって」
「そっか。ここ、あんまり来ない方がいいよ」
少女は笑顔を浮かべ、街灯の下へ歩み寄った。
明かりを受けた赤い瞳には、猫のような縦長の瞳孔が見える。
ポルフォルは両手を胸元へ寄せ、半歩下がった。
「そうなんですの? どうして?」
「夜は、不審者が多くて危ないからね。ほら、誰もいないでしょ」
少女の視線が、一度だけ路地の入口へ動く。
大通りからここまで入ってくる人影はなかった。
「襲われたりするかも」
「まあ。それは――」
「こんなふうに、ね!」
少女が踏み込み、ポルフォルの口元へ手を伸ばした。
その指が触れる寸前、ポルフォルは手首を掴んだ。
懐へ入り、背を向けるように腰をひねる。
「――え」
少女の足が地面を離れた。
小柄な身体がポルフォルの肩を越え、背中から石畳へ叩きつけられる。
「がっ……!」
「やはり、現れやがりましたわね」
少女が尾を振るった。
ポルフォルは手を放して退き、その一撃をかわす。
少女は勢いのまま地面を転がり、浴場の入口近くまで離れてから身を起こした。
その間に、ポルフォルは腰の左右から二本の短い柄を引き抜いていた。
金属の擦れる音とともに、折り畳まれていた槍が伸びる。
右手には紅色、左手には藍色。
かちりと固定された二本の穂先が、街灯の明かりを鈍く反射した。
「わたくしは、虹彩騎士団、減法部隊の『紫色』。ポルフォルと申します。自分の身は自分で守れますので、悪しからず」
「……うっそだろ」
少女が顔を引きつらせる。
その指先で、消えかけていた火が大きく膨らんだ。
「騎士団とか、最悪……っ!」
炎を地面へ叩きつけると、二人の間に火の壁が立ち上がった。
ポルフォルが紅色の槍で薙ぎ払った時には、少女はすでに浴場脇の路地へ駆け込んでいた。
「逃がしませんわ!」
ポルフォルも石畳を蹴り、その後を追った。
路地は、浴場の壁と水路に挟まれていた。
少女は狭い道を一気に駆け抜けると、突き当たりで水路の縁を蹴り、裏庭を囲う低い塀へ飛び乗った。
そこで振り返り、追ってくるポルフォルへ腕を振る。
指先から散った血が、空中で燃え上がった。
ポルフォルは塀の手前で身を低くし、頭上を通り過ぎる火の塊をやり過ごした。
背後の浴場に炎がぶつかり、吹き返した熱風がドレスの裾をあおる。
その隙に、少女の姿は塀の向こうへ消えていた。
「血式……やはり、吸血鬼ですのね」
槍の石突きで地面を突き、塀を跳び越える。
向こうは、敷石の隙間に草の伸びた裏庭だった。
片側には浴場の外壁が続き、反対の山側には、背丈を越す石塀が立っている。
浴場の壁際には古い石柱が残り、石塀の下には、ひび割れた湯桶がいくつも積まれていた。
少女は庭の中央まで逃げていたが、着地したポルフォルを見るなり足を止めた。
手の甲に歯を立て、振り向きざまに血を撒き散らす。
「こっち、来んな!」
弧を描いた血が燃え上がり、庭を横切る炎の帯となった。
ポルフォルは浴場側へ跳び、手近な石柱の陰に入った。
火はすぐ後を追って柱の表面を焦がしたが、ポルフォルが反対側へ抜け出した時には、その勢いも薄れていた。
炎の向こうで、少女が傷ついた手を握り直している。
「サラマンダーの発火能力。後天性の吸血鬼ですわね」
紅色の槍を低く構え、藍色の槍を胸元へ引く。
少女が次の血を振るうより早く、ポルフォルは火の途切れたところを抜け、間合いを詰めた。
紅色の穂先が上着の袖をかすめると、少女は浴場側へ身をひねった。
その動きに合わせて振り回された尾が、ポルフォルの脇腹へ迫る。
それを藍色の柄で受け止め、押し返す。
同時に右の槍を引き戻し、尾の下から石突きを突き込んだ。
「ぐっ!」
脇腹を打たれた少女が、浴場の外壁近くまで弾き飛ばされた。
両足で踏みとどまり、倒れる寸前に片手を敷石へつく。
その指の下から、赤い筋が走った。
追撃に移りかけたポルフォルは足を止め、後ろへ跳んだ。
直前まで立っていた場所から炎が噴き上がり、逃げ遅れた肩のフリルを焼く。
「っ……!」
焦げた布が落ちる中、着地した足で踏み込み直す。
炎越しに突き出した藍色の槍を、少女は身を伏せてかわした。
穂先が、その背後にある浴場の外壁へ浅く刺さる。
ポルフォルが引き抜こうとするより早く、少女は目の前の柄を掴んだ。
「捕まえた!」
「こちらの台詞ですわ!」
ポルフォルは左腕を引き、少女ごと槍を引き抜いた。
踏ん張る間もなく前へ引き出されたその手首を、紅色の柄で打つ。
指が緩んだところへ、さらに肩からぶつかろうとした。
だが、接触する寸前、少女の口元から赤い滴が飛んだ。
唇を噛み切ったのだと気づいた時には、すでに二人の間で火が弾けていた。
ポルフォルは顔を背け、踏み込んだ足で爆風をこらえた。
一方の少女は庭を横切るように転がり、石塀際の湯桶にぶつかって止まる。
二人の間を、黒い煙が低く流れていった。
少女は湯桶の陰に膝をつき、口元を拭っていた。
その手についた血はまだ濡れていたが、裂けた唇の方は、もう塞がり始めている。
ポルフォルは庭の中央へ回り込み、槍を構え直した。
これで少女が路地へ戻ろうとすれば、その前を横切ることになる。
「もう、おやめなさい。これ以上血を使っても、あなたが動けなくなるだけですわ」
「……余裕かよ」
少女が湯桶に手をかけ、立ち上がった。
上着の腹の辺りには、石突きで打たれた跡が残っている。
「そりゃそうだよな。騎士様だもんな」
うつむいた少女の足元に、小さな火が灯った。
一つ、二つと、少女が両手を広げるにつれ、先ほどの攻防で庭に散った血が、次々と赤い光を帯びていく。
離れていた炎が細く繋がり、敷石の上に大きな円を描いた。
それが、少女とポルフォルの間でゆっくりと起き上がる。
内側にも何本もの炎が走り、燃え盛る車輪を形作った。
その隙間から、赤い瞳がポルフォルを睨んでいた。
「血式――『火輪』!」
炎の輪が、敷石を削って走り出した。
ポルフォルは退かずに両足を開き、二本の槍を引き構える。
「機構の使用を申請……許可」
緑色の瞳が光った。
紅色と藍色の穂先にも黄色い光が重なり、柄を握る指の間で、細い電気が弾ける。
「双槍型参式の制限を解除」
火輪が迫るにつれ、足元の影が濃く、短くなっていった。
ポルフォルはその中心を見据え、腰をひねる。
「メリン先輩、お借りしますわ」
踏み込んだ足が、敷石を鳴らした。
「双槍型参式――『模倣・黄色の一閃』!」
二本の槍が交差し、黄色い閃光が火の輪を断ち切った。
崩れた炎が浴場の外壁と石塀へ飛び散り、軒先から瓦の欠片が降ってくる。
ポルフォルはその下を走り抜け、石塀際の少女へ迫った。
少女は湯桶を蹴り倒し、横へ逃れようとした。
だが、踏み出そうとした先に藍色の穂先が突きつけられ、行き場を失った足が止まる。
その喉元へ、紅色の槍が伸びた。
「……っ!」
後ずさった背中が石塀に触れる。
少女は塀を蹴ろうと片足を引いたが、その膝にも藍色の柄が添えられた。
「終わりですわ」
ポルフォルは槍を動かさず、わずかに肩を下げた。
「両手を上げなさい」
少女は、すぐには従わなかった。
紅色の刃から目を逸らし、血に濡れた右手を、腹の前で握り込む。
「……違う」
震える唇から、小さな声が漏れた。
「まだ、まだやれるんだ……っ」
「聞こえていますの? 手を開いて、ゆっくり上げなさい」
返事はなかった。少女はうつむいたまま、握り合わせた両手に力を込める。
「役目を……果たさないと……」
ポルフォルの視線が、その顔から手元へ落ちた。
きつく重なった指の間から、血が滴っていた。
「……あなた」
紅色の穂先が、ほんのわずかに下がった。
その瞬間、少女が両手を突き出した。握り固められていた血の塊が、二人の間へ放られ、白く燃え上がる。
「っ!」
ポルフォルは右腕で顔をかばい、左の槍で火の塊を横へ弾いた。
だが、十分に遠ざける間もなく、それは石塀にぶつかって爆発した。
間近から吹きつけた炎が、右の袖を消し飛ばす。
続いて肘の外側が裂け、衝撃に緩んだ指から紅色の槍が滑り落ちた。
柄が石畳を打つ音に、石塀を蹴る音が重なる。
煙の向こうで、少女の尾が翻った。
「待ちなさい!」
ポルフォルは藍色の槍を突き出した。
穂先が上着の裾を捉えたものの、布は少女の跳躍に耐えきれずに裂けた。
切れ端だけを残し、その姿が塀の向こうへ消える。
ポルフォルも後を追い、石塀の上端へ右手をかけた。
肘の奥で、火花が散った。
身体を引き上げようとしても、指が閉じきらない。
石を掴み損ねた手が滑り、ポルフォルは庭へ足を戻した。
その間にも、少女の足音は山の方へ遠ざかっていく。
「……っ。しくじり、ましたわ……っ!」
右腕を引き寄せると、裂けた肘から、もう一度小さな火花が弾けた。
* * *
敷石に残る火は、もうほとんど消えていた。
藍色の槍を腰へ戻したポルフォルは、水路から汲んだ水を、最後の一か所へかけた。
白い蒸気が立ち上り、焦げた草の匂いが強くなる。
路地の方から、警備員が呼ぶ声がした。
「こちらですわ。犯人は、山の方へ逃走。周囲の確認を、お願いいたします」
普段と同じ声で返し、足元に残っていた紅色の槍を左手で拾い上げる。
柄には、黒い焦げ跡がついていた。親指で軽くこすってみたが、消えなかった。
ポルフォルは槍を石塀に立てかけ、その下へ屈んだ。
少女が逃げる直前に落とした血が、敷石にこびりついている。
ハンドバッグから小さな採取袋を取り出し、血のついた石片と、ちぎれた上着の布を入れた。
採取袋をしまって、代わりにスマートフォンを取り出す。
無事であることと、後処理のため帰りが遅くなることを打ち込むと、ロイドにそれを送って、画面を伏せた。
右手を、もう一度握る。
「……まだ、動きますわね」
ポルフォルは指の動きを確かめ、紅色の槍を手元へ引き寄せた。
腰の藍色の槍も外すと、二本を胸に抱えて立ち上がった。




