第23話『湯気の楽園』
高速道路を降りて、緑の山に挟まれた川沿いの道へ入る。
しばらくすると、『ようこそ! おにおこ町へ!』と書かれた看板が見えてきた。
大きな橋を渡り、対岸へ車を進める。
「あ、見て! 鬼がお風呂入ってる!」
後部座席で、テュフォンが窓の外を指さした。
橋のたもとには、頭に手ぬぐいを載せ、湯船に浸かった鬼の像が立っていた。
「僕らも早く入りたいねー……あっ、温泉まんじゅう!」
「あちらは創業百年を超える老舗ですわ。お店で蒸したてをいただけるのですって!」
助手席のポルフォルまで、窓の方へ身を寄せていた。
「それから、あの石段を上がったところに展望台があって……ああ、足湯も! 写真で見た通りですわね!」
「詳しいのね」
「ええ! 来る前に、ひととおり調べて――」
ポルフォルがこちらを振り向いて、はっとした表情を浮かべた。
「……こほん。まずは、お宿ですわね。荷物を持ったまま歩くのは、大変ですもの」
「道、分かる?」
「はい。この先を右ですわ」
ポルフォルは膝の上で手帳を開き、旅館への道を案内してくれた。
旅館は、通りを少し上った先にあった。
瓦屋根となまこ壁が目を引く、古風な建物だった。
玄関の大きな暖簾をくぐると、木と畳の匂いがする中、年配の女性が私たちを出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
女性に名前を伝え、宿帳にサインを書いた。
隣では、ポルフォルが封筒から宿泊券を取り出していた。
私たちの部屋は二階の奥。
ポルフォルの一人部屋も、同じ廊下にあるらしい。
「あの。この子も、お風呂に入って大丈夫ですか?」
手続きが済むのを待っていたテュフォンが、腕に抱いたエキドナを見せた。
「お部屋のお風呂でしたら、専用の湯桶をご用意できますよ。湯船とは分けて、お使いください」
「ほんと! ありがとうございます!」
テュフォンが頭を下げると、エキドナもその腕から頭を垂らした。
「よかったね、エキドナちゃん」
テュフォンが、小さな頭を指先で優しく撫でた。
「広ーい!」
畳敷きの部屋の奥に、低い椅子と小さなテーブルが置かれている。
ガラス戸の向こうには板張りのテラスがあり、その一角に、石で囲まれた湯船があった。
絶えず注がれるお湯が、縁から静かに溢れていた。
「ずっと入ってられそうじゃん!」
「同感。のぼせない程度にしないとね」
鞄を下ろし、私は座卓のそばに腰を落ち着けた。
畳に手をつくと、そのまま寝転がりたくなってくる。
「運転、お疲れ様でした。お茶をお持ちしますね」
「ありがとー、ロイド」
テュフォンはエリスと並んで、窓の外を覗き込んでいた。
石塀の向こうに、緑色の絨毯が広がっている。
新緑が風に揺れ、さわさわと葉の擦れる音が聞こえてきた。
「ライラー。お茶飲んだら、散歩しに行こうよ」
「少し休んでからね」
「もちろん! 僕もまずは、お菓子を――」
エリスが座卓の菓子鉢へ手を伸ばしたところで、部屋の外から声がした。
「失礼してもよろしいかしら」
襖を開けると、荷物を置いてきたポルフォルが、手帳を抱えて立っていた。
中へ招き入れ、一緒に座卓を囲む。
「さっき、散歩に出ようって話してたんだけど、あなたも一緒にどう?」
「まあ。それでしたら――」
ポルフォルは手帳を開き、座卓へ広げた。
貼り込まれた地図には、色とりどりの小さな付箋がびっしりと並んでいる。
「まずは川沿いを下って、こちらのお店へ。それから、橋を渡ると、階段を上らずに展望台へ行けますわ。戻る途中に足湯もありますし……」
指が、地図の上をするすると動いていく。
「おおー、旅行ガイド顔負けだね」
「せっかくの機会ですもの。限られた時間を有効に使うためにも、下調べは重要ですわ」
ページをめくると、店ごとの営業時間まで書き込まれていた。
エリスが真剣な顔で、その前へ座り直す。
「ところで先生。食べ歩きの時間は……」
「もちろん、織り込み済みですわ」
「おおっ! さすがです、せんせー!」
お茶を運んできたロイドが、広げた地図を避けて湯呑みを並べた。
ポルフォルの案内は、たしかに見事だった。
混み始める前に、蒸したてのまんじゅうを買えた。
展望台からは、川沿いに並ぶ旅館と、赤い欄干の橋を見渡せた。
坂を下りた先の店では、ちょうど焼き上がったばかりの串団子が店先に並んだ。
「はー、んまーい! もう一本食べよっかなー」
「さっき、まんじゅうも食べたでしょ」
「知ってる? ライラ。カロリーは大食いに弱いから、実質ゼロカロリーなんだよ」
よく分からない理屈を聞きながら、私も団子をかじった。
焼けた醤油が香ばしく、もっちりとした食感がまた楽しい。
隣でポルフォルが串を持ち上げ――そのまま、下ろした。
「少々、お待ちくださいませ」
通りの向こうで、車椅子の前輪が敷石の隙間にはまっていた。
ポルフォルは私に串を預けると、すぐに駆け寄り、車椅子を押していた男性へ声をかけた。
片手で前輪を持ち上げ、平らなところへ下ろす。
何度も頭を下げる二人に、丁寧なお辞儀を返していた。
「お待たせいたしましたわ」
戻ってきたポルフォルへ、預かっていた串を渡す。
「流石、騎士様ね」
「あれくらい、当然ですわ」
ポルフォルは笑って、ようやく一口食べた。
その後も、足湯に行けばお湯に落ちた手ぬぐいを拾い上げ、橋の上では観光客に頼まれて何枚も写真を撮ってあげていた。
土産物屋の前で迷子が泣いていれば、すぐにしゃがんで目線を合わせ、店員と一緒に親御さんを探して回る。
そのたびに立ち止まって待つことになり、最後にポルフォルが「すみません」と戻ってきた頃には、目当てにしていたからくり時計の時間はとうに過ぎていた。
「次は、一時間後だって」
テュフォンが指した案内板には、次の時刻が書かれていた。
ポルフォルは、固く閉ざされたからくり時計の小窓を見上げ、それから手帳を開いた。
「……あら、そう。でしたら、今日はここまでにいたしましょう。そろそろ旅館へ戻りませんと、夕食が遅くなってしまいますわ」
「そっかー。じゃあ明日、また来よっ」
「ええ。もちろんですわ」
手帳の隅に小さく印をつけ、旅館へ続く坂道を見上げる。
「よーし。戻ったら温泉だー! 疲れた身体をいたわってあげなければ!」
「ほとんど食べてただけなのに、よく言うわ」
呆れてため息をつく私の横で、テュフォンがくすくすと肩を揺らした。
* * *
「……あぁー」
肩までお湯に沈むと、思わず声が漏れた。
浮力に身を任せ、全身の力をだらりと抜く。
「ライラ、おっさんみたい」
「うるさいわねー……誰かに見られるわけでもないんだから、いいじゃないのー……」
くすくす笑っていたエリスも、
「んはぁー……」
湯船へ身体を沈めると、すぐに気の抜けたため息を吐いた。
宿の人によれば、同じ旅館に泊まっている客なら、一緒に部屋のお風呂を使っても構わないらしい。
そんなわけで、ポルフォルも交えた五人で、露天風呂を満喫していた。
湯船の脇には、エキドナ用の桶が置かれている。
浅く張ったお湯の中を、小さな身体がゆっくりと回っていた。
「エキドナちゃんも、気持ちよさそう」
テュフォンが湯船の縁に両手を載せ、桶を覗き込む。
「滑らないようにね」
「はーい」
返事をして振り向いた顔が、だいぶ赤くなっていた。
「テュフォン様。一度、上がりましょうか」
「えー。でも、もうちょっと……」
ロイドに答えながら、テュフォンが両手を頬へ当てる。
隣にいたポルフォルが、その手を取った。
「続きは、涼んでからですわ。さ、ゆっくり立って」
身体を支えながら、一緒に湯船を出る。
用意してあったタオルでテュフォンを包み、脱衣所の椅子へ座らせた。
私も腰を浮かせかけると、戸口の向こうから声がした。
「ライラお姉ちゃん、気にしないで。ちょっと、あつくなっただけ」
「そう。無理はしないでね」
「うん」
「こちらは、わたくしが。ロイド、お水をお願いしますわ」
「はい。すぐにお持ちします」
ロイドも湯船を出ていった。
途中でエキドナの桶を持ち上げ、脱衣所へ運んでいく。
ガラス戸が半分ほど閉まり、やがて中から、ゆっくり飲むように促す声が聞こえてきた。
湯船へ流れ込むお湯の音を聞きながら、ぼーっと空を眺めていた。
隣では、エリスも石の縁に頭を預けている。
「ねえ、エリス」
「なあにー」
「パーキングエリアで話してた、百年前のこと」
赤い目が、こちらを向いた。
「結局、どうして騎士団に味方したの?」
「んえー? まあ、あれだよ。冥王ってやつと仲が悪かったってだけ」
湯船から手を出し、顔に垂れた髪を払うと、小さな波が湯船の縁へ広がった。
「……それだけ?」
「……まあ、なんていうの? 虹彩騎士の『黒色』に、ぼっこぼこにされたんだよね」
「……はい?」
思わず身体を起こした。
「ほんっと強くてねー。ひどい目に遭った」
エリスは両腕をお湯から出し、私に見せた。
「腕も脚も取られて、直したと思ったら、今度は首と胴が離れ離れ。気づけば血の一滴も出やしない」
「うぇ、考えただけで気分悪くなってきた」
「んで、死にかけたところで、騎士団についたら仲間もまとめて見逃してくれるってね」
白い腕が、また湯の中へ沈む。
部屋の方から、小さなくしゃみが聞こえた。
続いてポルフォルの声と、ロイドが何かを運ぶ足音がした。
「それは……味方になったっていうか……」
「まあまあ、それだけじゃないけどね。いろいろあったのだよ、いろいろー」
エリスはまた石の縁へ頭を預けた。
私も座り直し、湯の中で膝を伸ばす。
しばらくして、隣から小さく水音がした。
「ま、いろいろあったから、今こうしているわけで」
エリスが、半分開いたガラス戸へ目を向ける。
「今に満足できてれば、それでいいのだよ」
戸の向こうで、テュフォンがエキドナを呼んでいた。
エリスはその声を聞いて、目を細める。
「もうちょい入ってよっか」
「……そうねぇ」
石の縁へ背中を預け、また空を見上げた。
湯気の向こうは、いつの間にか少し暗くなっていた。
* * *
夕食を終えて部屋へ戻る頃には、窓の外は真っ暗になっていた。
座卓の湯呑みを片付けると、エリスが大きな箱を取り出す。
「それじゃあ、夜の部を始めよう!」
蓋を開けて盤面を広げ、色とりどりの車の駒を並べ始めた。
隣から覗き込んだテュフォンが、一つを拾い上げる。
「人生ゲーム?」
「そ! ライラは僕の妻ね」
「うまくマスに止まったらね」
私が座布団を引き寄せていると、廊下から足音がした。
襖が開いて姿を現したポルフォルに、思わず手が止まる。
「それ、外出用の服じゃない?」
「ええ。少し、出かけてまいりますわ」
身につけているのは、フリルのついた紫色のドレスだった。
裾には白いレースが幾重にも重なり、手には小さなハンドバッグを提げている。
「もう暗いけど……何しに?」
「お仕事ですわ」
パチン、と金具を鳴らしてハンドバッグの口を閉じる。
「虹彩騎士たるもの、休息は取っても、お役目を疎かにはできませんわ」
「えー。ゲームしようよ。せっかく五人いるのに」
エリスは不服そうに、広げた盤面を指した。
ポルフォルの視線が一瞬だけ、盤上に置かれた車の駒へ吸い寄せられた。
テュフォンが、手元の紫色の駒をつまんで盤面のスタート位置へ置く。
「ポルフォルお姉ちゃんの分もあるよ」
「……お気持ちだけ、いただきますわ」
誘惑を振り切るようにハンドバッグの持ち手を握り直す。
「皆様は、どうぞごゆっくり」
「同行は必要ありませんか?」
立ち上がりかけたロイドの問いにも、首を横に振った。
「ええ。ひとまず、見回ってくるだけですもの。遅くなるようなら、連絡しますわ」
背を向け、敷居を跨ぎかけたところで、ポルフォルはもう一度だけ名残惜しそうに盤面へ視線を落とした。
「……では、行ってまいります」
フリルの裾が、戸の向こうへ消えた。
エリスは唇を尖らせながら、盤上にぽつんと残された紫色の駒を手に取る。
「とりあえず、出すだけ出しておこっか」
エリスが駒をスタート位置へ戻し、五枚敷かれた座布団に四人で腰を下ろした。
私は時計を見上げてから、ルーレットに手を伸ばした。




