第21話『命のお湯を求めに』
とある日の朝。
二人掛けのソファから、右腕が床へぶら下がっていた。
「ライラー? 生きてるー?」
仰向けに横たわる私の顔を、片手に鞄を持ったエリスが覗き込んできた。
返事をするのも面倒で、視線だけを向ける。
「返事がない。ただの屍のようだ」
「……うっさいわね」
ため息をついて、ひじ掛けに頭を載せ直した。
右腕を引き上げ、腹の上で両手を重ねる。
「このまま火葬してちょうだい」
「死なないでー。死ぬには若すぎるよー」
頬をつついてくるエリスの手を叩き落とす。
その肩越しに、玄関へ向かうロイドとテュフォンの姿が見えた。
「ねえ、エリス」
「ん?」
「本って、ひとりでに増えるものなのね」
「え、何? 怪談?」
「エッセイよ」
先週から、図書館では蔵書の棚卸しが続いていた。
棚から本を下ろし、番号を確かめ、端末に入力して、また戻す。
一通りの作業を終えて、さあ帰ろうというところで、館長の新刊が届いた。
しかも、翌日も、翌々日も、さらにその次の日も。
ようやく休日を迎えたというのに、目を閉じれば、積み上がった本の山が浮かんでくる。
「妖怪……蔵書増やし……」
ぐったりとひじ掛けに頭を押しつけていると、買い物袋を手にしたロイドが、ソファの横へ来た。
「ライラ様。本日の買い物は、私たちだけで行ってまいります。こちらは気にせず、ゆっくりお休みください」
「ありがとー……」
「おやつも買ってきてあげるからね! 大盛焼き!」
「今泉焼き、ね」
笑いながら身を起こすエリスの後ろから、テュフォンが顔を出した。
白いワンピースの裾を揺らして、ソファの前で立ち止まる。
「ライラお姉ちゃん。お水、ここに置いておくね」
テーブルの手前に、水の入ったコップが置かれた。
「助かるわ……」
身を起こし、コップを手に取って一口飲む。
ふぅ、と息を吐いて、テュフォンの頭に手を置いた。
テュフォンの肩に巻き付いていたエキドナが、私の手に鼻を近づける。
「それじゃ、気をつけていってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
「いってきまーっす!」
「行ってまいります」
三人と一匹の背中を見送って、もう一度ひじ掛けに頭を置き直した。
* * *
「ただいまー!」
玄関の開く音に続いて、テュフォンの声が響いた。
目を閉じたまま、テーブルの上に手を伸ばす。
なかなか眼鏡が見つからず、諦めて目を開くと、やけに視界がはっきりしていた。
「……かけたままだった」
「ライラお姉ちゃん、見て!」
ずれた眼鏡をかけ直したところで、テュフォンがリビングに飛び込んできた。
「おかえりー……なんかあった?」
「これ! 見て!」
顔の前に、横長の封筒が差し出された。
……近すぎて見えない。
身体を起こして受け取ると、テュフォンが待ちきれない様子で口を開く。
「福引きでね、当たったの!」
「福引き?」
「お店の前に、ぐるぐる回すやつがあって、エリスお姉ちゃんがやっていいよって」
「そしたら見事! 我らがテュフォンは大当たりを引いたのだよ!」
リビングに入ってきたエリスが、買い物袋を両手に提げたまま、真っ平らな胸を張った。
その拍子に、長ネギが一本、袋からこぼれ落ちる。
「エリス様。長ネギが落ちました」
「おっと、ごめんごめん」
落ちたネギを、後ろにいたロイドが拾い上げた。
二人はそのまま、キッチンへと歩いていった。
手元の封筒に顔を戻すと、隣に座ったテュフォンが、期待のこもった目で覗き込んできた。
封筒を開けてみると、中から厚みのある紙が出てきた。
「おにおこ温泉、宿泊ご優待券」
赤や黄色に染まった木々に囲まれた旅館と、白い湯気の立ち上る広い露天風呂の写真が載っていた。
温泉街として有名な『おにおこ町』の旅館に、格安で泊まれるらしい。
裏面までざっと目を通し、券をテーブルに置いてから、スマートフォンを手繰り寄せた。
「たしか、今月は祝日が……」
カレンダーアプリを立ち上げ、日付を指で追っていく。
「お、ライラが復活してる」
キッチンから、エリスが顔を出した。
「有給の残り日数は……うん、平気そうね」
「何やら、予定を立てておられるようですね」
ロイドも、エリスの後ろから顔を出す。
私は一度スマートフォンの操作を止め、画面を皆に見せた。
「この旅館、予約するわ。みんな、この日空いてる?」
「もちろん、僕は空いてるよー」
「私も空いております。緊急の任務もありませんので、都合はつくかと」
「私も平気! コッホ先生には言っておくね」
テュフォンの肩で、エキドナが小さく頭を下げた。
全員の返事を聞き、そのまま旅館の予約画面を開く。
日付と人数を入力して、予約完了の表示を閉じてから、スマートフォンをテーブルへ伏せた。
「ライラお姉ちゃん、行けそう?」
「ええ。当ててきてくれてありがとう。ファインプレーよ」
「えへへ」
頭を撫でると、テュフォンは肩をすくめて笑った。
そこに、エリスが紙袋を持ってやってきた。
「よし、じゃあ予約完了祝いに、おやつタイムにしよう!」
「晩ご飯もありますので、ほどほどにお願いしますね」
紙袋から取り出された白い箱が、テーブルの上に置かれた。
蓋を開けると、焼けた生地と甘いあんこの香りが漂ってくる。
四人でテーブルを囲み、一人一つずつ今泉焼きを食べた。
* * *
増え続ける蔵書との戦いを経て、ついに、出発の朝が来た。
キャリーバッグを車に運び込み、忘れ物がないことを確認して、家の鍵を閉める。
「エアコンは消したっけ?」
「大丈夫、さっき消したよ」
エリスの返事を聞き、鍵を鞄にしまって運転席へ乗り込んだ。
シートベルトを締め、後部座席を振り返る。
「テュフォン、シートベルトは締めた?」
「締めたよ!」
テュフォンが、頭にエキドナを載せたまま、胸の前でベルトを引っ張って見せた。
隣に座るロイドが、テュフォンのベルトのねじれを直し、それからエキドナへ手を差し出した。
「エキドナ様。そこだと落ちる可能性があります。私の腕にお越しください」
エキドナが、その腕にするすると移るのを見届けて、
「エリス、そろそろ行くわよ」
「はいはーい!」
車の周囲を確認したエリスが、助手席へ滑り込んできた。
グローブボックスからお菓子の袋を取り出し、中から飴を一つ取り出す。
「ライラも食べる?」
「一個ね」
「ほい、あーん」
差し出された飴を口で受け取り、エリスがシートベルトを締めたのを確かめる。
それから、座席の位置とミラーの向きを調整して、エンジンをかけた。
「じゃ、出発するわね」
「レッツゴー!」
エリスの掛け声に合わせ、ゆっくりと車を出した。
* * *
高速道路の両脇を、田畑の緑が流れていく。
助手席では、エリスがスナック菓子の袋を膝に載せたまま、旅館の案内を広げていた。
「お風呂、いっぱいあるねー。岩の湯に、森の湯、それから海の湯……内陸なのに? あ、部屋にもついてるんだって!」
「部屋のお風呂は露天風呂らしいわよ」
エリスはお菓子を一つつまんで、背もたれに深く寄り掛かった。
「はー……いいねいいねぇ。ご飯食べて、お風呂入って、ゲームして……楽しみだなー!」
「エリスお姉ちゃん、私も紙見たい」
「はいよー。ちなみに、僕たちが泊まるのはこの部屋ね」
エリスが部屋の写真を指しながら、後ろへ案内を渡した。
テュフォンが両手で受け取ると、ロイドとエキドナも少し身体を寄せて覗き込む。
「ロイドちゃん。これ、お風呂が外にあるの?」
「はい。露天風呂ですので」
「へぇー、外で入るんだ……」
身を伸ばしたエキドナを、テュフォンの指がやさしく撫でる。
「エキドナちゃんも、入れるかな?」
「ペットの同伴は可能とのことですが、一度確認した方がよさそうですね」
後ろの様子をミラー越しに窺うと、テュフォンが片手をあげた。
「ライラお姉ちゃん。あと、どれくらいかかりそう?」
「まだ結構あるわよ。何かあった?」
「トイレ、行きたい」
「おっけー。次、パーキングエリアに寄るわね」
道路に視線を戻すと、少し先に緑色の看板が見えていた。
左のウインカーを出し、緩くハンドルを切って、本線を離れた。
* * *
車を停めると、ロイドが先に降りた。
テュフォン側のドアを開け、手を差し伸べる。
その手を取って、テュフォンも車から降りた。
「ちょっと待っててね」
「いってらっしゃい。ゆっくりでいいわよ」
二人は手をつないで、建物へ歩いていく。
エキドナは、ロイドの腕からテュフォンの肩へ移って、こちらに顔を向けていた。
私も車から降りて、背中に両手を当てて伸びをする。
助手席から降りたエリスは、売店の方へ顔を向けていた。
「ねえ、ライラ。買い物してきていい?」
「まだ何か食べる気?」
「こんな美味しそうな匂いがするんだもん、食べなきゃ損でしょ!」
座席から財布を引っ張り出し、そのまま小走りで売店へ向かっていった。
遠ざかる背中を見送りながら、近くのベンチに腰を下ろす。
足を伸ばして、駐車場を眺めた。
まばらに停まった乗用車の向こうに、大型バスが一台見えた。
キャリーバッグを持った乗客が、長い列を作っている。
「ライラー、お待たせ」
玉こんにゃくの串を持ったエリスが、売店から戻ってきた。
「はい、ライラの分。からしもあるよ」
「ん、ありがと」
「どういためましてー。んまー」
串を受け取ると、醤油の香りが鼻腔をくすぐった。
煮汁をたっぷり吸い込んだこんにゃくは、濃い飴色をしている。
からしをつけてかじりつくと、ぴりっとした辛さとともに、醤油と甘い出汁が口の中に広がった。
「うん、美味しい」
「でっしょー」
既に食べ終えたエリスが、空の竹串を手に隣へ腰を下ろした。
停留所のバスが扉を閉めて、発車していくのを眺めながら、二つ目の玉を口に運んだ。
「……じゅるり」
涎をすする音がして、隣に目を向けると、エリスが残った玉をじっと見つめていた。
「……食べる?」
「えっ、いいの?!」
「まあ、満腹になって、運転中に眠くなったら困るし」
「やったー、ありがとう!」
差し出した串は、すぐに受け取られた。
駐車場に視線を戻し、先ほどの大型バスが道路の先へ消えていくのを見届けたところで——、
「やーっちまいましたわーっ!」
甲高い悲鳴が、駐車場に響き渡った。
エリスが、玉こんにゃくを咥えたまま、動きを止める。
「……何事?」
顔を向けると、バス乗り場の脇に、紫の半袖ニットとアイボリーのフレアスカートを着た少女が立ち尽くしていた。
カールのかかった紫色の髪に手を添え、走り去ったバスの方を見つめたまま、大きく口を開けていた。




