第15話『登場、文明の赤色』
翌日、図書館の作業机で本を整理していると、背後から声がした。
「ライラちゃん。なんだか、浮かない顔ね?」
振り返ると同時に、視界が柔らかいものに覆われた。
「むぐっ?!」
頭の後ろへ腕を回され、巨大な胸に顔が埋まる。
「ちょ、サラキアさん……っ、苦し……!」
両手で肩を押し返し、どうにか顔を外へ出した。
ずれた眼鏡をかけ直すと、長いまつ毛に縁取られた青い瞳と目が合う。
同僚のサラキアが、こちらを覗き込んでいた。
「あら、ごめんなさい。元気がなさそうだったから」
「だから、呼吸を止めてやろうと?」
「もう、そんなわけないでしょう? それで、何かあったんじゃないの?」
青い髪を揺らし、机の端に手をついて、私の返事を待っている。
私は手元の本を脇へ寄せた。
「……うちに来た子のことなんですけど」
昨日、テュフォンが料理に挑戦したこと。
魔術で調理器具を壊してしまって、それきり練習もしたがらなくなったこと。
牧場での出来事も交えながら、かいつまんで話した。
「無理にやらせるつもりはないですけど……」
「なるほどねえ」
サラキアは少し考え、頬へ手を当てた。
「思ったよりフクザツね。私が手助けするのは難しそう」
「いいんです。聞いてもらえただけでも、気が楽になりましたし」
「それはよかった。でも、無理しすぎはダメよ」
そう言って、ポケットから小さな包みを取り出した。
「はい。せめて、これ」
手のひらに載せられたのは、ひとくちチョコだった。
「わ、ありがとうございます」
サラキアは笑って、机から離れていった。
私が包みを開けようとしたところで、くるりと振り返る。
「あ、忘れてた。館長が、大至急来いって呼んでたわよ」
「……先に言ってください」
「やっほ、ライラちゃん。昨日は大変だったみたいだね」
書類に不備でもあったのかと急いできた私を、グウィン館長はにこやかに迎えた。
「……何があったか、もう知ってそうですね」
「もちろーん。都市において、私に分からないことはあまりないからね」
館長は白い髪を揺らして笑い、万年筆に蓋をした。
この人は昔から、何でも見聞きしてきたような口ぶりで話す。
気味が悪いと思ったこともあるが、もはや慣れてしまった。
「冗談はさておき。今日は、テュフォンちゃんのことで話があってね」
「どういうことです?」
「私の知人に、魔術の専門家がいてね。この都市ではそこそこ有名な子なんだけど……その子に、家庭教師をお願いしてみるのはどうかな?」
思いがけない提案に、少し考え込んだ。
今すぐでなくとも、いずれは魔術について学ばせるべきだと考えていた。
森で初めて会ったとき、魔力を制御できずに危険に陥っていたテュフォンの姿が、頭をよぎる。
「……有名な方なら、お忙しいでしょうし。それに費用は、どれくらいかかるんでしょうか」
「だいじょーぶ。その辺は、何一つ気にしなくていいよ」
館長はあっさりと言った。
「福祉の一環として提供するものだからね。費用はかからないし、向こうの都合もこちらで調整しておくよ」
緑色の瞳が、少しだけ細くなる。
なおも黙っている私に、館長は続けた。
「遠慮せず、使えるものは使っておくべきだ。スタッフの家庭を支えるのも、職場の務めなのだから」
「……ありがとうございます。テュフォンにも、話してみます」
「うんうん。それでいい」
頭を下げ、机のそばを離れた。
扉へ手をかけたところで、背後から呼び止められた。
「ああ、ただ一つだけ」
振り返ると、館長が人差し指を立てていた。
「あの子はやや職人気質でね。合わなそうだったら、相談してね」
* * *
壊れたコンロの代わりに、キッチンには卓上コンロが一つ置かれていた。
ロイドは、それ一つで、夕食を用意してくれていた。
「ロイド。これ、もう一つもらってもいいかしら」
「もちろんです」
「おおー。ライラもお代わり仲間だね!」
「うるさいわね。あんたほど食べてないわよ」
追加してもらった煮込みハンバーグへ、さっそく箸を入れた。
ロイドの作る料理は、ただおいしいだけでなく、味付けまで私たちの好みにぴったりだった。
「ロイドちゃん、こっちのお皿持ってくね」
「はい。お願いします」
テュフォンが、サラダの皿を両手で運んできた。
「ライラお姉ちゃん、どうぞ」
「ありがと」
笑いかけると、テュフォンも笑った。
キッチンは壊れたままだが、食卓ではいつも通りに話が弾んだ。
食後もテュフォンは自分から食器を運び、ロイドの隣で洗い終わった皿を拭いていた。
そして、手伝いが終わると——、
「エリスお姉ちゃん、弱すぎ」
「おかしい! チートだよチート!」
今度はエリスを相手に、容赦なく勝ち星を重ねていた。
盤面の石を片付けながら、テュフォンがくすくす笑う。
「しょうがないから手加減してあげる?」
「ぐぬぬ……情けは不要! 全力でやったらぁ!」
二人の声を聞きながら、私はソファでコーヒーのカップを手に取った。
両手を添え、魔術で熱を取り出す。
十分に冷えたところで、テュフォンと目が合った。
その視線が、私の手元へ下りる。
テュフォンはすぐに顔を背け、持っていた石を盤面へ並べた。
「あっ」
「ぃやったー! 僕の勝ちぃ!」
私はカップを置いた。
そろそろ、家庭教師のことを話しておこう。
「ねえ、テュフォン——」
呼びかけたところで、インターホンが鳴った。
「はいはい、今開けます」
玄関を開けると、赤い髪の少女が立っていた。
黒い革ジャンに、色の落ちたジーンズ。
片手にはジュラルミンケースを提げ、夜だというのにサングラスをかけている。
ずいぶんと物々しい格好だが、背丈はロイドと同じくらいしかなかった。
「……どなた?」
「家庭教師よ」
少女は短く答えた。
「とにかく、中へ入れてもらえるかしら」
「え。ああ、はい……」
こんな時間に? そもそも、まだ来てもらう日すら決めていないのだが。
まあ、ちょうど本人もいることだし。
「どうぞ。今、みんなリビングに——」
言い終わるより早く、少女は靴を脱いだ。
私の横を抜け、明かりのついたリビングへ、ずかずかと入っていく。
「ちょっと、待って……」
「おや。お客様ですか? お茶をお持ちしま——」
キッチンから顔を出したロイドを見て、少女が足を止めた。
ジュラルミンケースを床へ置くと、
「ロイドー!」
先ほどまでとは別人のような高い声を上げ、ロイドへ飛びついた。
「エプロンなんか着ちゃって! 可愛いじゃない! 料理スキルもちゃんと機能してるみたいね!」
「はい。一通りの家事は担当して……」
「不具合はない? 困ってることは? 何かあったら、すぐに私に言いなさいよ!」
ロイドの頭をわしゃわしゃと撫で、そのまま両頬を手で挟む。
「……ええと?」
私はリビングの入り口で、立ち尽くしていた。
ソファの二人も、石を手にしたままその様子を見つめている。
「分かりました。ありがとうございます。ですので、少々……離れてください」
しばらく揉みくちゃにされていたロイドが、ようやく少女の両手を下ろした。
乱れた灰色の髪を整えながら、小さく微笑む。
「お久しぶりです、コッホ」
「ええ、久しぶり。元気そうで何よりだわ」
「……ロイド。知り合いなの?」
私が声をかけると、答えたのは少女の方だった。
「知り合い? 違うわ。ロイドは、私たちの可愛い可愛い後輩よ」
こちらへ振り返り、サングラスを外した。
その下から、ロイドとそっくりの緑色の瞳が現れる。
後輩という言葉に、その目。
「……もしかして」
「ふーん、察しがいいじゃない」
少女は笑い、サングラスを革ジャンの胸元へ引っかけた。
「私は、虹彩騎士団・加法部隊の『赤色』。コッホよ」
そう言って、堂々と真っ平らな胸を張った。




