第11話『日常から、はじめまして』
車の脇へ張り出した太い根をよじ登り、半開きのドアの前へ立った。
取っ手には、棘だらけの蔓が絡みついている。
細いものから一本ずつ押しのけて、最後に残った太い一本へ両手を回し、体重をかけた。
「っ……」
手のひらに、鋭い痛みが走った。
右の手袋へ、赤い染みが広がっていく。
そのまま蔓を押しやり、取っ手を握り直した。
力を込めると、歪んだドアが鈍い音を立て、少しだけ開いた。
肩掛け鞄を身体の前へ寄せ、隙間へ頭を入れる。
前の座席の背もたれに手をかけ、片足ずつ、後部座席の足元へ下ろした。
車内は、薄暗かった。
遮光カーテンの向こうには、まだ根や蔓が重なっている。
開いたドアから差し込む光が、手前のシートだけを照らしていた。
目が慣れると、反対側のドアを向いた、小さな背中が見えた。
女の子が、膝を抱えて座っていた。
「……ねえ。大丈夫?」
肩が、びくりと跳ねた。
膝の間へ顔を埋め、さらに小さく丸まってしまう。
「来ないで……」
掠れた、震える声だった。
「あなたを助けに来たの。一緒に外へ——」
「……帰って」
膝を抱える腕に、ぎゅっと力が込められる。
「きっと、けがさせるから……」
前の座席へ手をついたまま、足を止めた。
少女は、私を見なかった。
小さな指が、袖を固く握っている。
「……帰れ、と言われてもね」
足元へ目を落とす。
狭い床の上で、膝が震えていた。
「私、もうへとへとなのよ。普段、こんなに走り回ったりしないから」
少女の頭が、ほんの少し動いた。
「疲れちゃったから。少しだけ、ここで休ませてくれる?」
返事はなかった。
けれど、しばらく待っても、帰れとは言われなかった。
身体の向きを変え、ドア側の座席へ、ゆっくりと腰を下ろす。
座った途端、長いため息が出た。
* * *
しばらく、二人とも何も言わなかった。
少女は膝へ顔を伏せたまま、私は背もたれへ身体を預けたまま。
外で葉が擦れる音がして、カーテンの裾が少し揺れた。
「……普段はね。図書館で働いているの」
正面を向いたまま、口を開いた。
「今日みたいに、森を走り回るなんてしないから、明日は筋肉痛になりそう」
返事はない。
つなぎの膝についた泥を、左手で軽く払う。
「しかも、今日、休みなのよ。せっかく一週間も休みがあるっていうのに」
少し間が空いてから、
「……大変、だね」
小さな声がした。
そちらを向こうとして、やめた。
「そうでしょ? 同居人が、ここで遊ぶためとか言って、ギルドの依頼を受けてきちゃったのよね。さっきの白い服の人」
視界の端で、少女が少しだけ顔を上げた。
「観光のついでにドラゴン退治とか言ってたの。なんで、ついでの気持ちで命賭けなきゃいけないのよって」
「……変なの」
「そうよね? 本人に言ってやって」
少女の口元が動いた。
けれど、すぐに膝の陰へ隠れてしまった。
また正面を向き、背もたれへ頭を預けると、少しして、隣から声がした。
「私も、牧場に行くはずだったの」
少女が、膝へ頬をつけた。
「十歳の誕生日プレゼントで、お父さんと、お母さんと……一緒に、来たんだけど……」
その先が、続かなかった。
小さな指が、袖を握り直す。
「……そう」
私からは、訊ねなかった。
ドアの外へ一度目を向け、もう一度、座り直す。
鞄がシートへ擦れ、かさりと音を立てた。
「図書館の仕事ってね、けっこう大変なのよ」
少女が、膝の上からこちらを見た。
「返ってきた本を棚へ戻したり、新しい本を整理したり。利用者の人から、いろんなことを聞かれたり。まあ、うちの場合、別の理由でも大変なんだけど……」
私は、わざと大きくため息をついた。
「館長がね、自分で本を書く人なのよ。髪も服も真っ白な、見た目はあなたと同じくらいの、可愛らしい人なんだけど……とにかく本を書くのが早くてね。図書館にある本の半分以上、その人が書いたものなの」
「……半分?」
目を丸くした少女に、怪談でも話すように声を落とす。
「半分以上よ。しかも、今も増え続けてるの。私たちが整理した翌日に、整理した以上の本が散らかってるのよ……おー、怖い怖い」
小さく、息の漏れる音がした。
見ると、少女が口元を膝に押しつけていた。
握っていた袖から、指が少しだけ離れている。
私も笑って、また仕事の話を続けた。
相変わらず、ほとんど私が喋っていた。
それでも、ときどき相槌が返り、短い質問も混ざるようになった。
少女はいつの間にか膝を抱える腕を緩め、横から私の顔を見ていた。
「……その白い館長さんのこと、もっと——」
「おーい! 無事っすかー!」
車の外から、声が響いた。
少女の肩が跳ねる。
私から視線を外し、開いたドアの隙間を見つめた。
私もそちらを見てから、少女へ向き直る。
「お迎えが来たみたいね」
膝の上の鞄を、肩へ掛け直す。
「ねえ。一緒に行かない?」
少女が、こちらを見た。
「話の続き、もう少ししたいし」
私の顔から、光の差すドアへ視線が動いた。
それから、もう一度、私へ戻る。
数秒後、膝を抱えていた腕が解けた。
「うん。行く」
「そ。よかった」
左の手袋を外し、鞄へしまった。
天井へ頭をぶつけないよう、身をかがめて立ち上がる。
ドアの隙間から外へ出て、根の上に足を下ろした。
振り返り、左手を差し伸べる。
車内から身を乗り出してきた少女へ、外の光が当たった。
まっすぐに切り揃えられた、黒い髪。
私と同じ琥珀色の瞳の下には、薄い隈が残っていた。
目元も赤くなっていたけれど、今はしっかり、こちらを見ている。
「……あ、そういえば。名前、名乗ってなかったわね」
少女が足を止めた。
「私はライラ。よろしくね」
「……今更? 遅くない?」
「聞かれなかったもの」
そう返すと、少女はくすりと笑った。
「私は、テュフォン。こっちこそ、よろしくお願いします」
差し出していた左手へ、小さな掌が重なる。
握り返すと、テュフォンは慎重に、根の上へ足を踏み出した。
「それから、ありがとう。ライラお姉ちゃん」
下から見上げてきた顔が、くしゃりと崩れた。
「……さあ、何のことかしらね」
手を握ったまま、わざと明後日の方を向いた。




