第9話『まだ足りない』
木が一本も生えていない、円形の広場だった。
中央に、一台の軽自動車が停まっている。
窓にはカーテンがかかっていて、周りに人の気配はない。
「あの車かー」
エリスが足を止めた。
ロイドも、木立と広場の境界で立ち止まる。
振り返ったとき、緑の瞳が淡く光っていた。
「生体反応が確認できました。魔力測定にも、異常な点は見られません」
「それじゃあ、起こして連れ帰ってあげないとね」
「はい。ですが、警戒は怠らないようにお願いします」
ロイドは背負っていたメリンを、近くの木の根元へ静かに下ろした。
髪を整えている横で、エリスが真っ二つに割れた円盾を、おそるおそる立てかけた。
「じゃ、僕が見てくるよ」
パーカーの袖をまくり上げ、車の方へ向き直る。
「ロイドは、ライラと一緒にいい子で待っていてねー」
「了解しました」
「ちょっと待って、エリス。これ、持っていきなさい」
鞄からポーションの小瓶を取り出し、エリスへ差し出した。
「おー? なにこれ」
「ジャスさんが、あんたがケガした時にって、模擬戦の前にくれたの。必要ないって言ったんだけど……もし女の子がケガしてたら、使ってあげて」
「おっけい」
エリスは受け取った瓶を、パーカーのポケットへ仕舞った。
「じゃ、行ってきまーす」
散歩にでも行くような調子で片手を上げて、車へと歩き出した。
* * *
ライラとロイドを置いて、エリスはゆっくりと車へ近づいていった。
「魔力反応に、変化はありません」
背後から、ロイドの声が届いた。
背を向けたまま右手の親指を立てる。
車の脇に辿り着き、軽く腰を落とした。
後部座席の窓を指の背でコンコンと叩く。
「ごめんくださーい」
車内からの応答はない。
「お、いたね。魔女ちゃん」
角度を変え、カーテンの隙間から中を覗き込んだ。
後部座席に、小さな女の子が横たわっている。
胸元が微かに上下しているのが見て取れた。
「お邪魔しますよー」
ドアノブを引くが、どこか歪んでいるらしく途中で引っかかった。
力を込めてもう一度引くと、金属の軋む音を立てて開く。
エリスは車内へ身を滑り込ませ、少女の顔を覗き込んだ。
眠ったままの少女の額にかかる髪を、指先でよける。
「抱っこして連れてくかぁ……なんか、誘拐犯の気分……」
両手を差し入れた瞬間、少女のまぶたがわずかに震えた。
「……ん」
細い声とともに、少女の目がゆっくりと開かれた。
エリスが手を止めて、微笑みかける。
「お。おはよう、かわいらしい君。迎えに来たよ」
至近距離の顔を、少女は見つめた。
次の瞬間、その瞳が見開かれる。
「……ひっ」
少女が慌てて身を引く。
反対側のドアに背中を打ちつけると、膝を抱え込んで身体を縮こまらせた。
「おっと、ごめんね。僕は怪しい者じゃないよー……なんて、状況的には怪しさ満点かな」
エリスが両手をあげて、入口の方へ身を引いた。
しかし、少女の表情はより一層強張っていく。
「ぃ……や……来ないで!」
車体の下から、青白い光が漏れ出す。
「——魔力反応、急上昇! エリス様、至急退避を!」
ロイドが叫ぶと同時に、地面が爆ぜた。
* * *
車の向こう側で、地表が大きく盛り上がった。
土を割って、太い幹が姿を現す。
張り巡らされた根が車体の下へと潜り込み、タイヤが地面から離れた。
「エリス!」
叫んだ私の目の前を、銀色の刃が走った。
目前まで迫っていた蔓が切断され、足元へ落ちる。
断面から、薄緑の汁が飛び散った。
「伏せて!」
ロイドに腕を引かれ、地面へ倒れこんだ。
頭上を、棘の生えた太い蔓が通り過ぎていく。
背後で、木が破裂する音が聞こえた。
エリスは、まだ車のドアへしがみついていた。
持ち上がっていく車体へ片手をかけ、もう一方を車内へ伸ばしている。
「ちょっ、君! こっちへ——」
少女へ伸ばした腕に、太い蔓が巻きついた。
強引に引き剥がされ、宙に投げ出される。
落下中の無防備な身体へ、横から別の蔓が強烈に叩きつけられた。
「——っ!」
肉を打つ鈍い音とともに、エリスがこちらへ弾き飛ばされてくる。
ロイドが飛び出し、空中で受け止めた。
二人の身体が、地面を削りながら滑る。
立ち木に激突して、ようやく止まった。
「エリス! ロイド!」
「私は……っ、問題ありません。それより、エリス様を」
ロイドが素早く立ち上がり、追ってきた蔓を斬り払った。
その背後に回り込み、エリスのそばに膝をつく。
パーカーの脇腹が、大きく裂けていた。
その下の傷も開いたままで、左腕は、肘ではないところから折れ曲がっている。
「はぁー、しくった。ごめん」
エリスが顔を上げた。
「ま、これくらいすぐに——」
右手をついて起き上がろうとした身体が、その場に崩れた。
受け止めた腕に、エリスの肩が重くぶつかった。
「……ちょっと、エリス?」
支え直した手が、脇腹の傷口に触れた。
それなのに、手には血が一滴もついていない。
もう一度傷口を見るが、脇腹は大きく裂けたままだった。
「あー……はは。やっぱり足りなくなったかぁ」
エリスも傷口へと手をやり、乾いた笑いを漏らした。
「……貧血だぁ」
車の方から、金属の軋み音が響いた。
周りの木々よりも大きな巨木が、広場の真ん中に立っている。
二本の根に持ち上げられた車が、無数の蔓に締めつけられていた。
屋根が少しずつ凹んでいく。
何本もの蔓が持ち上がり、一斉にこちらを向いた。
「ライラ様、私の後ろへ」
ロイドが刀を構えた。
「あなたは、絶対に守ります」
小さな背中が、私たちの前へ出た。




