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嘘泣き令嬢の御家復活  作者: koto
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第三話 戦場の土と煙

今回は戦場の話です

第三話 土と煙


 夜明け前の河は、鉛を溶かしたような色をしていた。


 雨は三日前から止まず、南岸の航空基地を泥の中へ沈めている。格納庫から水際まで敷かれた鉄板は泥に半分呑まれ、踏むたび、下で濁った水が鳴った。夜間標識灯は覆いをかけられ、黒い河面には整備灯の細い筋だけが揺れている。


 九機の飛行艇が、岸に近い水上へ係留されていた。


 黒く塗られた艇体。


 高翼の下へ吊られた発動機。


 濡れた支柱。


 張線。


 機首と翼に残された旧帝国軍の記章。


 皇帝は逃げた。王宮の軍令局も消えた。だが新政府の徽章は、まだ正式な寸法すら決まっていない。


 そのため、皇帝を見限った航空隊は今も、皇帝の鷲を翼へつけて飛ぶ。


 古い国家の翼を使い、古い国家の残党を爆撃する。


 革命は理念から始まり、塗料と規格の不足によって旧体制の姿を引きずっていた。


「二番艇、右舷外側発動機の点火が遅れています」


 飛行服の上へ油布外套を着た整備中尉が、記録板を胸へ抱えて言った。


 ウォルフガング・ヘルマン・フォン・ファーレンハイト少佐は、二番艇のほうを見た。


 発動機の排気管から、白い息のような煙が不規則に吐き出されている。整備兵が膝まで水へ入り、艇体の下で何かを怒鳴った。発動機が一度咳き込み、止まる。


「点火栓か」


「湿気です。交換します」


「何分」


「七分」


「五分でやれ。無理なら予備艇と替える」


「了解」


 整備中尉が走る。


 泥が跳ね、濃紺の裾を汚した。


 ファーレンハイトはそれを見なかった。汚れは帰還後に落とせる。五分は、戻らない。


 彼は作戦卓へ戻った。


 格納庫の片隅に、二枚の地図が並べて置かれている。


 一枚は軍測量部の地形図。もう一枚は、王政時代に内務省水利局が作成した河川工事図だった。紙の色も縮尺も違う。軍の地図には部隊と道路と橋があり、水利局の図には堤防、水門、旧河道、排水路、増水時の氾濫区域がある。


 どちらか一方だけでは、戦場は見えない。


 赤鉛筆で囲まれた目標が二つ。


 大河鉄道橋。


 北岸の弾薬集積所。


 青鉛筆の矢印は、新政府東部軍の前進予定線。


 緑の細線は、昨夕の航空偵察で確認された住民の避難路だった。


 黒い斜線は、攻撃を禁じた区域。


 聖アンナ施療院。


 河川水門。


 上流の旧堰堤。


「水門の守備隊は」


 ファーレンハイトが訊いた。


 作戦参謀が紙をめくる。


「旧貴族連合軍の工兵一個小隊。爆薬を運び込んだ形跡があります。撤退時に破壊する可能性あり」


「地上軍へ伝達」


「すでに」


「受領確認は」


「まだです」


「確認が取れるまで伝達済みにするな」


 参謀が短く返事をした。


 格納庫の屋根を雨が叩く。


 その音の下で、電話交換手が受話器を差し替え続けている。発動機試運転の低音。工具が床へ落ちる音。無線機の火花。濡れた革と油、熱した金属、煙草、泥の匂い。


 前線司令部から三度目の電話が入った。


「東部軍参謀長です」


 受話器を渡される。


『橋への攻撃時刻を繰り上げたい』


 電話線の向こうで、男の声が雨のように遠かった。


「理由は」


『敵の貨物列車が北岸駅へ入った。補給物資を積んでいる可能性が高い。夜明け前に渡られる』


「民間人も渡っている」


『承知している。だが列車を逃せば北方二城への補給が続く』


「最新の偵察では、橋上に避難民六十から八十。荷車九。家畜あり」


『少佐、これは戦争だ』


「知っている」


 ファーレンハイトは地図を見た。


 緑の線は橋を渡り、南岸の農道へ続いている。


 その農道は、新政府軍の集結地と交差する。避難民がそのまま進めば、今度は味方の砲兵陣地へ入り込む。誘導兵が必要だった。


「攻撃を十五分遅らせる」


『十五分あれば列車が抜ける』


「抜けるのは列車だけだ。橋と集積所は残る」


『政治的判断か』


「作戦判断だ。橋上の人間は爆撃精度を下げる。炎と混乱で地上軍の渡河も遅れる」


 半分は事実だった。


 半分は、言葉にしなかった。


『結果に責任を持てるか』


「命令書に私の名がある」


 それで会話を切った。


 受話器を戻すと、参謀が言った。


「列車を逃せば、司令部は問題にします」


「記録しておけ」


「何を」


「住民通過を優先し、攻撃を十五分遅延。貨物列車一編成が離脱する可能性あり」


 命令は、後から善意へ書き換えてはならない。


 何を守り、何を逃したのか。


 両方を残す。


「投弾方法を変更する」


 ファーレンハイトは橋の図面を指した。


「焼夷弾は積まない。集積所は破砕弾。橋脚には遅延信管。北西から河に沿って進入する」


「低すぎませんか」


「雲底が下がっている。上から落とせば散る」


「施療院の対岸に高射砲があります」


「射線に入るのは二十秒だ」


「護衛機へ制圧射撃を」


「施療院へ流れる。許可しない」


「高射砲が発砲しても?」


「位置が変わらない限り撃たせておけ」


 参謀の顔に、僅かな不満が出た。


「艇を失うかもしれません」


「病舎を撃てば、それより多く失う」


「何をです」


「戦後だ」


 ファーレンハイトは答えた。


 新政府軍は旧体制を倒すために戦っている。


 だから何をしてもよい、という論理へ落ちた瞬間、古い軍と同じになる。


 彼が革命を信じているからではない。


 同じ失敗を繰り返す軍は、長く保たないからだった。


     *


 午前五時十二分。


 第一艇の係留索が外された。


 発動機が一基ずつ始動する。


 低く不揃いだった回転音が、やがて九機分の巨大な振動となって河岸へ広がった。河面が震え、油膜の上へ雨粒が砕ける。整備兵は頭を低くし、手信号で艇を送り出した。


 飛行艇は一機ずつ、暗い河の中央へ滑っていく。


 艇底が水を押し分ける。


 速度が上がる。


 機首の両側で濁った水が高く開き、艇体の下を打つ衝撃が次第に細かくなる。発動機の回転が揃い、重い機体が水の抵抗から解かれた。


 黒い影が一つ、河面から離れる。


 続いて二つ。


 三つ。


 九機は三機ずつの編隊となり、雨の中へ上がった。


 ファーレンハイトは第一艇の航法席にいた。


 自ら操縦桿を握ることはない。


 操縦士には操縦士の仕事があり、指揮官には全機を帰す仕事がある。


 機内は狭く、うるさい。


 外板を雨が叩き、発動機の振動が座席と骨を通して内臓へ届く。伝声管には操縦席からの報告が入り、無線士は雑音の中から地上局の符号を拾っている。艇体後部では機関兵が燃料圧と油温を読み、銃手は凍えた指を手袋の中で動かしていた。


「高度四百」


 操縦席から声が来る。


「速度、予定より十二遅い」


「向かい風です」


 航法士が答える。


 ファーレンハイトは時計を見た。


 遅れは許容範囲。


 雲底は低い。地表は霧と煙に隠れ、河だけが鈍い光を返している。


 機体はその河を辿った。


 夜が薄れるにつれ、地上の形が浮かび始める。


 水に浸かった畑。


 屋根を失った農家。


 泥へ沈んだ荷車。


 切断された電信柱。


 雨の中を南へ歩く人々。


 上空から見れば、どれも小さい。


 人間は点になり、家は箱になり、死体は泥と区別できなくなる。


 地図が便利なのは、苦痛まで縮尺に従って小さくなるからだった。


「偵察隊より入電」


 無線士が紙片を渡す。


「橋上の避難民、南端へ到達。最後尾は家畜二頭。貨物列車は北岸駅を出ました」


「速度」


「低速。南進中」


 ファーレンハイトは時計を見る。


 十五分。


 司令部の予測どおり、列車は橋へ近づいている。


「地上誘導班は」


「南岸へ展開済み。緑色信号を確認」


 前方の霧の下で、淡い緑の煙が一筋上がった。


 避難路確保。


「第一攻撃隊、準備」


 無線と信号灯で命令が送られる。


 三機が高度を下げた。


 雲の底を抜けると、戦場が急に近づく。


 河。


 鉄橋。


 北岸駅。


 石炭煙を引く貨物列車。


 その向こうに、弾薬箱を積んだ貨車と軍用荷車。


 橋の南端では、最後の避難民が荷車を押していた。白い布を頭へ被った女が振り返り、空を見た。


 こちらを見たのではない。


 音を見たのだ。


 九機分の発動機音は、空そのものが低く降りてくるように聞こえる。


「橋上、まだ二名」


 爆撃手が言った。


 老人と、子ども。


 老人が子どもの腕を引いて走っている。


「投弾待て」


 列車が橋へ入る。


 黒い機関車。


 貨車八両。


 最後尾に平貨車。


 兵が上を向いている。


 橋の北西から高射砲が火を噴いた。


 黒い破裂が機体の右上に開く。艇体が揺れ、金属片が外板を叩いた。


「右へ避けます」


「航路維持」


 操縦士が一拍だけ黙り、従った。


 二度目の破裂。


 三度目。


 施療院の白い屋根が、対岸の林の中に見える。赤い十字。隣の空地に砲座。敵は病舎を盾にしたのか、砲を置ける場所がそこしかなかったのか。


 空からは意図が見えない。


 結果だけがある。


「橋上、離脱!」


 爆撃手が叫ぶ。


「投弾」


 機体の下で、固定具が外れる鈍い音が続いた。


 大型破砕弾が雨の中へ落ちる。


 落下は静かに見えた。


 地上へ届くまでの数秒だけ、爆弾は何の罪も犯していない物体のようだった。


 第一弾は橋の南側へ落ち、河水を白く持ち上げた。


 第二弾が線路脇を抉る。


 第三弾が中央橋脚の根元へ入った。


 遅延信管。


 一拍遅れて、水と石と鉄が内側から膨れた。


 鉄橋の中央部が持ち上がり、軌道が弓なりに歪む。機関車は急制動をかけたが間に合わない。先頭が傾き、貨車同士が押し合い、黒い煙が一度大きく揺れた。


 橋桁が落ちる。


 機関車が河へ引かれる。


 その後ろで、貨車が一両ずつ折れた。


 爆発音は、機体が目標を通過した後から追いついてきた。


「命中確認」


「第二隊、集積所へ」


 ファーレンハイトは振り返らなかった。


 見なくても、橋が落ちたことはわかる。


 問題は次だった。


 弾薬集積所は駅の北東、村外れの製材所へ偽装されている。木材の山の下に砲弾箱。隣には民家が七棟。風は西から東。焼夷弾を使えば、火は村へ流れる。


 第二隊が低く入る。


 地上から小銃と機関銃の曳光弾が上がった。


 赤い線。


 緑の線。


 朝の薄闇を斜めに裂く。


 四番艇の翼端近くで火花が散る。


「四番被弾。飛行継続」


 無線士が報告する。


 第二隊の爆弾が製材所へ落ちた。


 屋根が持ち上がる。


 材木が弾ける。


 最初の爆発は小さい。


 その後、地下へ積まれていた砲弾が一斉に誘爆した。


 橙色の火が地面から立ち上がり、黒煙が雲底へ届く。爆風で近くの家の屋根が剥がれ、白い壁が外側へ倒れた。


「一棟延焼」


 爆撃手が言う。


「位置記録」


「了解」


 目標は破壊した。


 民家も壊れた。


 報告書には両方を書く。


 戦果だけを書けば、次も同じ場所へ爆弾を落とせる。


 損害を書けば、少なくとも同じ嘘はつけない。


 第三隊が突入する。


 その時、紫色の信号弾が河岸から上がった。


 地上軍の攻撃開始合図。


 紫の光が低い雲へ滲み、濁った河面にも映る。


 一瞬だけ。


 その色の中に、白い肩と、蜂蜜色の目が浮かんだ。


 夜会の灯から外れたテラス。


 涙の角度を選んだ娘。


 腹を立てた時だけ、年相応になる顔。


 記憶は意志ではなく、視覚の誤作動のように現れた。


「六番、左舷発動機被弾!」


 無線士の声が、娘の像を消した。


「出力低下。油圧落下」


 ファーレンハイトは後方を見る。


 六番艇が編隊から遅れ始めている。左側の発動機から濃い煙。機体が僅かに傾き、雨の中で高度を失っていく。


「六番へ。南岸湿地へ降りろ。河中央は避けろ」


『了解……左が保たない』


「燃料弁閉鎖。投棄可能なものを捨てろ」


『投弾済み。高度百八十』


「七番、護衛につけ。着水地点を報告」


『了解』


 六番艇は河から外れ、葦原の上へ向かった。


 機体が低くなる。


 黒い艇体が雨と煙の中へ消えかける。


 戻れば、全体の攻撃航路が崩れる。


 戻らなければ、六番の乗員を見捨てることになる。


 指揮官は、毎回この二つを同時に選ばされる。


「第一、第二隊は帰投航路へ。第三隊は一度のみ再攻撃」


 六番だけを見続けることはできなかった。


 彼は九機の指揮官だった。


     *


 午前六時二十八分。


 八機が基地上空へ戻った。


 一機ずつ河へ降りる。


 雨で荒れた水面は、離水時より高く波立っている。損傷した四番艇は右の補助翼が重く、着水した瞬間に大きく跳ねた。艇底が二度水を叩き、三度目でようやく滑走へ入る。


 岸では整備兵と救護兵が待っていた。


 機体が係留される前から、小舟が近づく。


 負傷者が運び出される。


 顔を血で濡らした銃手。


 左腕を吊った機関兵。


 耳から血を流し、何を言われても笑っている無線士。


 八機。


 戻った機体を数えれば、成功に見える。


 ファーレンハイトは水際に立ち、六番からの報告を待った。


 午前六時四十一分。


 前線地上隊から電話が入る。


 六番艇は南岸湿地へ不時着。


 艇体中央部破断。


 生存者七名。


 重傷二名。


 死亡三名。


 操縦士、アルノルト・フェルバー中尉。


 機関曹長、エミール・ベーム。


 通信兵、フランツ・ロート。


 参謀が、戦死三名と記録しようとした。


「名を書け」


 ファーレンハイトは言った。


「正式報告には階級、姓名、職種、死亡確認時刻。遺体の収容状況も」


「速報ですので、人数のみでよいかと」


「家族へ人数を送るのか」


 参謀は黙り、書き直した。


 戦争はまず人を数字へ変える。


 軍は、その数字をもう一度名前へ戻さなければならない。


 そうしなければ、次の死者を出す時に躊躇すらなくなる。


     *


 午前九時。


 ファーレンハイトは北岸へ渡った。


 橋は中央で完全に落ち、河には機関車の黒い背だけが見えていた。水流が貨車の間を抜け、木箱や石炭を下流へ運んでいる。


 新政府軍の工兵が仮設渡河点を作り始めていた。


 泥へ敷かれた板。


 綱。


 小舟。


 負傷兵。


 捕虜。


 荷車。


 戦場は、爆撃が終わってからのほうが混雑する。


 北岸駅では弾薬がまだ燃えていた。


 誘爆は止まったが、製材所の地面から白い煙が上がり続けている。焦げた木と湿った土、炸薬、石炭、馬の死骸の匂いが混じる。


 近くの民家が一棟、半分焼けていた。


 壁だけが残り、屋根はない。


 庭に置かれていた鉄鍋が泥へ転がっている。


 戸口の前に、老女が立っていた。


 灰色の頭巾。


 濡れた肩。


 裸足に近い靴。


 彼女は新政府軍の制服を見ても、逃げなかった。


 ファーレンハイトが近づくと、通訳兵が間へ入る。


「この家の住人か」


 通訳を通して訊く。


 老女は答えた。


「昨日までは」


 孫と二人で住んでいたという。


 孫は避難列へ入り、南岸へ渡った。


 老女は家畜を放すため残った。


 爆撃の時は井戸の陰へ伏せていた。


「旧貴族軍が家を接収したことは」


「二日前に兵が三人寝た」


「弾薬は置かれていたか」


「知らない」


「補償記録へ入れろ」


 副官に言う。


 老女は笑った。


 歯の欠けた、乾いた笑いだった。


「前の兵隊も、そう言った」


 通訳兵が言葉を選びかける。


「そのまま訳せ」


 ファーレンハイトが言った。


「皇帝の兵隊も、家を使って、あとで払うと言った。貴族の兵隊も、革命の兵隊も、みんな紙へ書く。紙は冬に燃やせるか」


 ファーレンハイトは焼けた家を見た。


 濡れた壁。


 泥へ落ちた皿。


 炭になった寝台の脚。


「燃える」


 彼は答えた。


 通訳兵が戸惑いながら訳す。


「だが石炭より高くつく。氏名と家族構成を記録しろ。仮住居と食料券を本日中に出す」


 老女は礼を言わなかった。


 言う必要はなかった。


 ファーレンハイトも謝らなかった。


 謝罪して、自分だけ人間へ戻るつもりはなかった。


 彼の命令で家は焼けた。


 必要な攻撃だったという判断と、その家が焼けた事実は、相殺されない。


 両方を持ち帰るしかない。


     *


 昼前、東部軍の前進司令所で追撃会議が開かれた。


 旧貴族連合軍は北へ後退している。


 砲兵隊長は即時追撃を主張した。


「橋を失い、弾薬庫も焼けた。今なら崩せます」


「北道は使えない」


 ファーレンハイトは水利図を広げた。


「雨は今夜まで続く。上流水門に爆薬がある。敵工兵が撤退時に開放または破壊すれば、旧河道へ水が入る」


「道は堤防上です」


「堤防は三年前の洪水で補修されていない」


「偵察では異常なし」


「航空偵察は地表を見た。地盤の中までは見えない」


 砲兵隊長が苛立つ。


「少佐は航空隊です。地上軍の好機を」


「だから上から見えたものを言っている」


 ファーレンハイトは黒鉛筆で、追撃予定線を横切った。


「ここに旧排水路がある。現在は畑に見える。水門が開けば一時間以内に流路へ戻る。砲車が入れば抜けられない」


「敵を逃すことになる」


「生きた敵は次に戦える。泥に沈んだ砲は二度と撃てない」


 会議室が静まる。


「歩兵一個中隊と工兵のみ前進。水門を優先確保。主力は南岸で待機」


 地上軍司令官がファーレンハイトを見る。


「命令権は私にある」


「承知しています」


「なら、これは助言か」


「損失見積もりです」


 午後一時過ぎ、旧貴族軍の工兵が上流水門を破壊した。


 濁流は旧河道へ入り、北道の一部を削り取った。


 追撃へ出ていれば、砲兵隊は湿地の中で立ち往生していた。


 誰もファーレンハイトへ礼を言わなかった。


 彼も求めなかった。


 命令が正しかったことは、死者が出なかった時ほど記録へ残りにくい。


     *


 夕方。


 雨は細くなったが、空はまだ低かった。


 前進司令所の机には、朝からの書類が積まれている。


 橋梁破壊確認。


 弾薬集積所全壊。


 貨物列車一編成喪失。


 敵軍死傷者、推定。


 民間家屋焼失一。


 民間人負傷二。


 飛行艇一機喪失。


 戦死三。


 負傷八。


 戦果と損失は、同じ黒インクで書かれていた。


「帝都から命令です」


 副官が封書を置く。


「戦況報告のため、二日後までに帰還。あわせて統一評議政府主催の夜会へ出席せよ、とのことです」


「報告は書面で足りる」


「政治局は、東部戦線の勝利を国民へ示したいようです」


「橋なら写真で示せる」


「少佐の顔が必要だと」


 ファーレンハイトは封書を読み直した。


 革命後の国家は、兵士を戦場で使い、帰還すれば象徴として使う。


 どちらも軍務のうちだった。


「返答は保留」


「夜会は明後日です」


「明日の気象を見て決める」


 副官が退出しかける。


「帝都便は戻ったか」


 ファーレンハイトは書類を見たまま訊いた。


「昨日出した伝令ですか」


「ああ」


「昼に帰着しました」


「届けたか」


「はい。受取人本人へ」


「そうか」


 それ以上は訊かなかった。


 一輪の薔薇が花瓶へ入ったか。


 捨てられたか。


 差出人を悟ったか。


 軍務上の意味を持たない質問だった。


 机の端に置かれた煙草を一本取り、火をつける。


 吸い込んだ煙には、朝から嗅ぎ続けたものと同じ味がした。


 発動機の排気。


 濡れた炸薬。


 焼けた材木。


 家。


 人間。


 遠く、北岸では弾薬庫の煙がまだ空へ上がっていた。


 橋は落ちた。


 戦線は動いた。


 三人は帰らなかった。


 一軒の家が焼けた。


 貨物列車は河へ沈み、旧貴族軍は北へ退いた。


 明日も飛ぶ。


 ファーレンハイトの胸に、変わりゆく国家と戦争が濁流のように流れる。

 その濁った水の落ちる先に、頼りなげな細い背が見えた。だが、感傷も夢想も彼には浮かばなかった。

やがてその背中も濁流の底へ沈み、今度こそ見えなくなった。

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