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嘘泣き令嬢の御家復活  作者: koto
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第二話 一輪の薔薇と友人たち

第二話 一輪の薔薇と友人たち


 夜会の翌朝、娘の評判より先に届くものは、花と請求書だった。


 午前九時を少し過ぎたころ、マリアのタウンハウスには、仕立屋から昨夜のドレスの残金を知らせる封書が届いた。


 続いて、貸し馬車の利用明細。


 温室から取り寄せた白い小花の代金。


 夜会へ出るために女一人を美しく整えるには、思想より多くの項目と、革命より細かな勘定が必要だった。


 エイサはまだ寝台にいた。


 薄い亜麻布の夜着の上へ、淡い灰色のガウンを羽織っている。黒に近いブルネットの髪はほどかれ、肩から胸へ柔らかな波をつくって落ちていた。


 夜会では女中三人がかりで結い上げられていた髪も、朝になれば重力へ従う。


 身体にも、昨夜の仕立てが残っていた。


 肋骨の下にはコルセットの鯨骨が押した淡い痕。脇腹には紐の圧迫による赤み。足裏には、踊り靴の細い底で長く立った鈍い痛み。


 国家の功臣たちがどれほど新しい国を論じても、夜会の翌朝に娘の身体へ残るものは、旧い時代とさほど変わらないらしい。


 エイサは枕へ頬をつけたまま、昨夜のことを思い出していた。


 パウル・ヴァイス大尉。


 灰緑の目。


 古い官給品の軍服。


 新しい肩章。


 手袋の下にあったペン胼胝。


 必ず調べます、と言った声。


 それから、もう一人。


 火をつけられないままの煙草を白手袋の指に挟み、石柱の陰から、


 ――嘘泣きだな。


 と告げた男。


 ウォルフガング・ヘルマン・フォン・ファーレンハイト少佐。


 騎士道で出世した覚えはない。


 あの返答を思い出すたび、腹の奥に小さな熱が起こる。


 恥ずかしさではない。


 少なくとも、そう認めるつもりはなかった。


 純粋な腹立たしさである。


 あの男は、演技を見抜いた。


 それだけならよい。


 若君様、と口にした瞬間にだけ本当に呼吸が崩れたことまで、正確に切り分けた。


 他人に見せるつもりのなかった場所へ、許可もなく視線を入れられたような気がした。


 しかも、こちらが言い返している間じゅう、煙草へ火をつけることすら忘れていた。


 煙草を吸いに来たのではなかったのか。


 それとも、自分を見ていたのか。


 まさか。


 エイサは寝返りを打った。


 その動きで脇腹の赤い痕が擦れ、小さく顔をしかめる。


 扉が二度、控えめに叩かれた。


「お嬢様」


 女中の声だった。


「お花が届いております」


 エイサは一瞬、目を閉じた。


 想像したのは、灰緑の目だった。


「どなたから?」


「ヴァイス大尉からでございます」


 胸のどこかが、素直に軽くなる。


「お入りなさい」


 若い女中が、両腕に花束を抱えて入ってきた。


 大きすぎない花束だった。


 白い小菊。淡黄色のフリージア。葉先の細いユーカリ。中央には、温室で咲かせたらしい乳白色の薔薇が二輪だけ入っている。


 花材はどれも上品だが、珍奇なものではない。


 包み紙は薄い生成り。


 リボンは濃紺。


 夜会の翌朝、若い大尉が旧家の令嬢へ送るには、礼を失わず、同時に返礼の負担を与えない程度に正しい花束だった。


 派手な花を選ぶ自信がなく、花屋へ用途と相手の年齢をすべて正直に話した男の花に見えた。


 白い封筒が添えられている。


 エイサは上体を起こし、封を切った。


 字は昨夜、舞踏手帳へ記されたものと同じだった。


 小さく、整っている。


昨夜はお話をお聞かせくださり、ありがとうございました。

ご当主の件について、今朝より照会を始めます。

何か判明しましたら、マリア夫人を通じてお知らせいたします。


ハンカチは、お急ぎになりませんよう。


パウル・ヴァイス


 余計な言葉はなかった。


 昨夜の涙が美しかったとも、もう一度会いたいとも書いていない。


 だが、照会を始めるという約束だけは、もう過去形になっている。


 始めます、ではない。


 始めたのだ。


 エイサは手紙をもう一度読んだ。


「花瓶へ」


 女中に告げる。


「客間ではなく、こちらに置いて」


「かしこまりました」


 女中が花束を抱え直したところで、廊下から別の足音がした。


 今度は家政婦が、自ら扉の前へ現れる。


「お嬢様。もう一つ、お届け物が」


「もう一つ?」


「はい」


 家政婦の後ろには、若い軍人が立っていた。


 正確には、軍務局付きの伝令兵だった。


 灰青色の短い勤務外套。立襟には黒い台布と細い銀線。肩に階級章はなく、袖口には通信・伝令勤務を示す青白いパイピングが入っている。


 制帽の庇には、まだ雨の跡が残っていた。


 脇に書類鞄はない。


 代わりに、右手へ細長い包みを持っている。


「エイサ・フォン・ヤーパン嬢へ」


 伝令兵は踵を合わせた。


「差出人は?」


 エイサが尋ねる。


「伺っておりません」


「軍務局から?」


「届けるよう命じられました」


「誰に?」


 兵は、ほんのわずかに困った顔をした。


「申し上げるよう命じられておりません」


 命令。


 その一語だけで、だいたい答えが出た。


 パウルなら、花を軍の伝令兵に持たせたりしない。


 そもそも、差出人を隠すという発想がなさそうだった。


「受け取りの署名は?」


「不要です」


「そう」


 エイサは包みを受け取った。


 伝令兵は礼をし、余計な視線を残さず去っていった。


 灰色の薄紙を開く。


 中にあったのは、一輪の薔薇だった。


 赤ではない。


 黄色でもない。


 外側の花弁は淡い杏色を帯び、中心へ近づくほど、濃い琥珀色へ沈んでいる。完全には開いておらず、花弁の縁だけが少し外へほどけていた。


 蜂蜜を薄い紅茶へ落とし、その色を花弁の中へ閉じ込めたような薔薇だった。


 茎は長い。


 葉は二枚だけ残され、棘はすべて丁寧に落とされている。


 紙にも、紐にも、花屋の名はなかった。


 カードもない。


 謝罪も、挨拶も、署名も。


 一輪だけ。


「まあ」


 家政婦が、慎みを失わない程度に目を見開いた。


「珍しいお色ですね」


「そうね」


 エイサは花を持ったまま答えた。


 瞳の色に似ている。


 そう思ったが、自分では口にしなかった。


 偶然に決まっている。


 昨夜あの男が、エイサの目の色まで覚えていたとは考えたくなかった。


「花瓶をもう一つ用意いたしましょうか」


「同じものでよいわ」


「一緒に?」


 エイサは、パウルの花束を見た。


 白と淡黄の柔らかな花々。


 その中央へ琥珀色の薔薇を入れれば、ひどく目立つだろう。


「別にして」


「では、どちらへ?」


「小さな硝子の一輪挿しがあったでしょう」


「窓辺に置いてあるものですか」


「ええ」


「こちらのお部屋へ?」


 家政婦は、質問の形を借りて確認していた。


 名もない花を、私室へ置くのか。


「花に罪はありません」


 エイサは言った。


 家政婦の口元が、ほんの少しだけ緩む。


「左様でございますね」


 琥珀色の薔薇は、細い硝子器へ挿された。


 水の中で、切り口から小さな気泡が上がる。


 窓辺に置くと、朝の白い光を受け、花弁の内側だけが温かく透けた。


 パウルの花束は、鏡台の脇へ。


 名のない一輪は、窓辺へ。


 どちらもエイサの部屋に置かれた。


 そのことが少し気に入らず、同時に、どちらかを廊下へ出す気にもならなかった。


     *


「これは何?」


 マリア伯母は、朝食の卓につくなり、一輪の薔薇を指した。


 エイサの部屋へ置いたはずだったが、大学へ出る前に手紙の返事を相談するため、花ごと小客間へ移していた。


 伯母の前には、黒い珈琲と、薄く切ったライ麦パン。銀の小皿には、山羊乳のチーズと杏の砂糖煮が載っている。


 マリアはすでに外出着だった。


 鉄紺のデイドレス。


 前身頃は左右非対称に重なり、襟から腰へ黒絹のブレードが一本走っている。袖口には白いカフス。装身具は黒いジェットの耳飾りだけ。


 夜会の女主人ではなく、商会の帳簿を動かす女の服だった。


「見れば薔薇でしょう」


「花の種類を尋ねているのではないわ」


 マリアは一輪挿しを引き寄せた。


 花弁を見る。


 包み紙を見る。


 葉の切り方まで確かめる。


「伝令兵が持ってきたそうね」


「家じゅうに、もう伝わっているの?」


「軍人が花を持って正面玄関に立てば、屋敷の中では砲声より早く伝わるわ」


「差出人の名はありませんでした」


「必要ないと思ったのでしょう」


「なんて傲慢なの」


「誰からか、わかるのね」


 エイサはパンへ杏の砂糖煮を塗った。


「軍務局の人間だということだけは」


「昨夜、軍務局の人間と何人お話ししたの?」


「一人です」


「では、答えが出たわね」


「お話ししたというより、侮辱されたのです」


「侮辱された娘へ、少佐が花を?」


「だから意味がわかりません」


 マリアは薔薇へ顔を近づけ、香りを確かめた。


 紅茶のような薄い香り。


 甘いが、重くない。


「謝罪かしら」


「騎士道で出世した覚えはないと仰る方が?」


「では、口止め」


「一輪の薔薇で?」


「警告」


「棘は全部取られています」


「よく見たのね」


 エイサはパンを置いた。


「見ればわかります」


「そう」


 伯母はそれ以上笑わなかった。


 その代わり、花を光のほうへ少し回す。


「あなたの目に似ているわ」


「偶然です」


「そうでしょうね」


 その返事が、少しも偶然だと思っていない声音だった。


「大尉の花束は?」


「こちらです」


 パウルの手紙も差し出す。


 マリアは目を通し、短く頷いた。


「もう動いているのね」


「ええ」


「良い子だわ」


「二十五歳の大尉を、子どものように」


「新しい肩章をつけて、娘へ約束してしまう男は、まだ十分に若いわ」


 手紙をエイサへ返す。


「返事を書きなさい」


「どのように?」


「感謝と、必要なら家の情報を提供すること。会いたいとは書かない。待っているとも書かない」


「なぜ?」


「すでに走っている男の前へ、余計な餌を置く必要はないもの」


「伯母様は、男性を猟犬のように仰るのね」


「猟犬のほうが、命令には忠実よ」


 マリアは珈琲を飲んだ。


「少佐には?」


「何も書きません」


「そう」


「止めないの?」


「名のない花に返事は書けないでしょう」


「それなら、なぜ送ったのかしら」


「あなたが考えるか、確かめたかったのでは?」


 エイサは薔薇を見る。


「考えていません」


「朝食の間だけで、もう五回見たわ」


「色が珍しいからです」


「そういうことにしておきましょう」


 腹立たしい。


 伯母も。


 花も。


 名前を書かない男も。


 エイサはパウルへの返事だけを鞄へ入れ、大学へ向かった。


     *


 帝都大学の門には、朝から濡れた落葉が吹き溜まっていた。


 黒い鋳鉄の格子には、かつて皇帝家の双頭鷲が翼を広げていた。いまは王冠の部分だけが切り取られ、尖った鉄の傷が薄い空へ向かっている。


 新政府の歯車と麦穂は、その下へ急いで溶接されていた。


 古い鉄と新しい鉄は色が違う。


 革命の継ぎ目は、遠目には見えなくても、近づけばまだ赤錆さえ馴染んでいなかった。


 エイサは大学用の服へ着替えている。


 白い夜会服とは、まるで違う。


 淡い鳩羽色のブラウス。首の根元まで閉じた細い立襟。前身頃には、同色の糸で小さなピンタックが走っている。


 上には黒に近い青のジャケット。


 肩線は柔らかく、腰の前後に長いダーツ。小ぶりなピークドラペル。釦は艶を抑えた黒蝶貝。


 下は踝までの濃紺のスカートだった。


 前に深いインバーテッドプリーツがあり、歩く時だけ布が開く。夜会のドレスほど重くはなく、かといって伯母がまだ「男の服」と呼ぶトラウザーズほど大胆でもない。


 足元は焦茶色の編上げ靴。


 手には教科書とノートを収めた革鞄。


 誰かの妻候補ではなく、大学の学生としての身体へ戻ると、息が深くなった。


 それでも鞄の内側には、パウルの手紙が入っている。


 そして頭の片隅には、窓辺の一輪が残っている。


「おはよう、エイサ」


 横から声がした。


 キャンディスだった。


 栗色の髪を低い位置で巻き、濃い苔色のスカートと、生成りのブラウスを着ている。ブラウスの襟には細い濃紺のリボンタイ。袖口には、小さな赤い実の刺繍があった。


 彼女の家は地方の医師の家系だった。


 貴族でも、巨大な財産を持つ商人でもない。革命前から娘を大学へ送ることについて近所と親族に説明し続け、ようやくここまで来た家だった。


 そのためキャンディスの服は、質素だが手入れがよい。


 母親の手仕事と、娘の教育費が、同じ袖口に並んでいる。


「おはよう」


 エイサは答えた。


 キャンディスは、すぐにエイサの顔を覗き込んだ。


「眠れなかったの?」


「どうして?」


「少し、目元が疲れている」


「夜会が遅かっただけよ」


「楽しかった?」


「質問が大きすぎるわ」


「では、踊った?」


「踊ったわ」


「何曲?」


「三曲」


「誰と?」


「講義に遅れるわよ」


 キャンディスの頬が少し膨らむ。


「ソフィアが聞きたがっていたの」


「あなたではなく?」


「私は、ソフィアに聞かれたから」


「そういうことにしておきましょう」


 学生証を門衛へ見せ、二人で校舎へ入る。


 廊下には濡れた外套と紙の匂いがあった。


 石の床。


 高い窓。


 古い皇帝の胸像を撤去した台座には、まだ何も置かれていない。


 空の台座へ鞄を置き、靴紐を結び直す学生もいた。


 専制の象徴がなくなれば、人はそこを少し便利な家具として使い始めるらしい。


「手紙?」


 キャンディスが言った。


 エイサは顔を上げた。


 鞄を開けた拍子に、白い封筒の端が覗いている。


「家の用事よ」


「軍人の字に見える」


「どうして軍人の字がわかるの」


「兄が軍にいるもの。字が小さくて、行間が狭くて、紙を節約している」


 正確だった。


 エイサが封筒をしまうより早く、表の署名が少し見えたらしい。


「パウル・ヴァイス」


 キャンディスが読み上げる。


「大尉?」


「声が大きいわ」


 キャンディスは自分の口を手で覆った。


 そのまま目だけを大きくする。


「お手紙をいただいたの?」


「花束に添えられていたの」


「花束」


「もっと声を落として」


「ごめんなさい」


 声は小さくなったが、興奮はまったく小さくならなかった。


「どんな花?」


「白と淡い黄色。薔薇も二輪」


「素敵」


「そうね」


「それだけ?」


「何が」


「もっと、こう」


「花束にどう反応すれば、あなたは満足するの?」


 キャンディスは少し考えた。


「嬉しかった、とか」


 エイサは返事を急がなかった。


 パウルの手紙。


 もう始めたという照会。


 下心を飾る言葉ではなく、約束の進捗だけを書いた文章。


「嬉しかったわ」


 素直に答える。


 キャンディスの顔が明るくなる。


「やっぱり」


「ただし、花より手紙が」


「それでも嬉しいのね」


「ええ」


 その返答に嘘はなかった。


 嘘でない言葉をそのまま口にできることが、少し心地よかった。


     *


 午前の講義は、財産法制史だった。


 教壇へ立った教授は、旧帝国時代から同じ学科にいる男で、昨年までは皇帝領の不可侵性を論じ、いまは国家による接収財産の法的限界を講じている。


 政治的節操がないとも言える。


 制度の変化へ生き残ったとも言える。


 人間の評価は、どこから見るかで簡単に変わる。


「爵位は、法令一つで効力を停止できます」


 教授は黒板へ書いた。


 爵位。

 土地。

 債務。

 相続。


「しかし、爵位の効力を停止したからといって、土地の境界が消えるわけではない。借金も、婚姻契約も、相続人も消えません」


 白墨が乾いた音を立てる。


「革命が得意なのは、名称を変えることです。苦手なのは、帳簿を整えることだ」


 教室の一部で、小さな笑いが起きた。


「旧秩序を廃止すると宣言するのは一日でできる。しかし、誰が畑を耕し、誰が倉を管理し、誰が過去の債務を負うのかを決めなければ、社会は新しくならない。ただ所有者の不明な財産が増えるだけです」


 エイサはノートへ書き留めた。


 名称は消えても、関係は残る。


 ヤーパン伯爵家の爵位は、効力を失った。


 けれどコンラートは、いまも「旧領主」として収監されている。


 エリケは、正妻の娘として結ばれた婚姻の痕を身体へ残している。


 エイサもまた、法的にはただの市民になったはずなのに、社交界ではヤーパン家の庶子として値踏みされている。


 制度は、人を分類するために言葉をつくる。


 革命は、その言葉を剥がす。


 だが剥がされた側の皮膚には、長く同じ形の跡が残る。


「フォン・ヤーパン」


 教授に呼ばれ、エイサは顔を上げた。


「はい」


「爵位の廃止によって、嫡出・非嫡出の相続順位は当然に消滅すると考えますか」


 教室の視線が集まる。


 偶然にしては、よくできた問いだった。


「いいえ」


 エイサは答えた。


「爵位と、それに伴う家督相続が廃止されたとしても、私有財産の相続法が別に改められなければ、旧法上の順位は残ります」


「では、新体制は身分制を廃止しながら、家族内部の身分差を残すことになる?」


「現行法のままなら」


「矛盾ですね」


「はい」


「どう解消しますか」


 エイサは一度、考えた。


「出生によって権利の範囲を変える規定を、個別に改める必要があります」


「すべて?」


「少なくとも、本人が選べなかった出生を理由に、財産権や教育、職業の権利を制限する部分は」


 教授は頷いた。


「座ってよろしい」


 エイサは腰を下ろした。


 隣でキャンディスが、机の陰から小さく親指を立てた。


 エイサは見なかったふりをした。


 だが、口元には少し笑みが残った。


     *


 講義棟を出ると、石段の下にソフィアが待っていた。


 蜂蜜色に近い金髪。


 温かな褐色の肌。


 灰色の瞳。


 旧侯爵家の娘である彼女は、没落後も、安い服を上等に見せる方法ではなく、上等な服を慎ましく見せる方法を知っていた。


 今日の外套は煙色。


 前は斜めに重なるダブルブレストで、釦は艶消しの黒。襟と袖口に黒いアストラカンの細い毛皮がついている。


 帽子には羽根も造花もない。


 ただ黒いベルベットのリボンが、低く結われた金髪の上へ渡されていた。


 革命後の節度。


 ただし、その節度を仕立屋へ注文できるだけの旧い財産は残っている。


「遅かったわ」


 ソフィアが言った。


「講義が終わったばかりよ」


「キャンディスが途中で何か聞き出すと思っていたの」


「何も聞いていないわ」


 キャンディスが言う。


 エイサは横を見る。


「花束と手紙以外は」とキャンディスが付け足した。


「十分よ」


 ソフィアの灰色の目が、静かに細くなる。


「昼を食べましょう。エリザーベトが向かいのカフェで待っているわ」


「あなたたちは、朝から示し合わせていたの?」


「違うわ。昨夜から」


 逃げ道がなかった。


 三人で大学通りを渡る。


 石畳には、朝の雨がまだ細く残っている。馬車の車輪が水をはね、道の向こうでは新聞売りが、旧貴族連合との戦況を大声で読み上げていた。


 革命軍、東部戦線で前進。


 反乱諸侯、二城を放棄。


 ファーレンハイト少佐指揮下の部隊、補給路を遮断。


 その名が聞こえた瞬間、エイサは新聞売りのほうを見た。


 ほんの一瞬だった。


「何?」


 ソフィアが尋ねる。


「何でもないわ」


「そう」


 ソフィアは、それ以上追及しなかった。


 追及しないことで、何を見たのか記憶する女だった。


     *


 カフェのテラス席には、硝子の風除けが立てられていた。


 真鍮の小さな暖房器から、炭と熱せられた金属の匂いがする。


 卓上には白い麻布。


 細い金縁のカップ。


 革命が起きても、午後の紅茶は旧体制の作法で運ばれてくる。


 エリザーベトは、すでに一人で紅茶を飲んでいた。


 深い葡萄色の午後着。


 光沢を抑えたクレープ・デシンの胸元は高く閉じられ、襟の内側へ黒いベルベットが配されている。


 袖は肩から肘まで細く、手首の手前でごく小さく膨らむ。


 腰には黒いサテンの細帯。


 胸元にはジェットのブローチ。


 ブルネットの髪は、一見すれば黒に近い。だが光が当たると、紫の艶を返した。


 左手の手袋だけを外し、結婚指輪を見せるようにカップを持っている。


 既婚女であることを隠さず、それを安全と発言権へ変える服装だった。


「遅かったわね」


「私たちは大学へ通っているのよ」


 エイサが言う。


「ええ。若い娘には大切なことね」


「あなたも二年前までは通っていたでしょう」


「結婚すると、女は過去の学歴より、現在の夫の収入で見られるの」


「嬉しそうに言わないで」


「便利なものは使わなくては」


 エリザーベトは給仕へ合図した。


 紅茶が三人分、追加される。


「それで?」


 カップが届く前に、彼女は言った。


「花束は、どんなものだったの?」


 エイサはソフィアを見る。


「私ではないわ」


 次にキャンディス。


「ごめんなさい」


「まだ店へ入って一分も経っていないのに」


「だって、エリザーベトに何を聞かれたか訊かれて」


「あなたは尋問に向かないわね」


「嘘をつくよりは」


 それを言われると、少し弱い。


「白と淡黄色の花束よ」


 エイサは諦めて答えた。


「大きすぎなくて、上品で、名刺と手紙がついていたわ」


「ヴァイス大尉ね」


 エリザーベトは満足そうに頷いた。


「何と?」


「若君様の件を、今朝から照会してくださると」


 三人の表情から、からかいの色が少し薄れた。


「もう?」


 ソフィアが訊く。


「ええ」


「いい男ね」


「でしょう?」


 キャンディスが、なぜか自分のことのように嬉しそうに言う。


「官給品の上衣へ、肩章だけ付け替えていた方でしょう」


 ソフィアは昨夜の姿を覚えていた。


「見ていたの?」


「新しい肩章は、遠くからでも光るもの」


「どう思った?」


「昇進しても服を新調しない男は、金がないか、見栄がないか、戦争が終わっていないことを理解しているか。そのどれかね」


「三つ目だと思うわ」


 エイサが答える。


「どうして?」


「釦は磨いてあったもの」


 言ってから、自分がパウルの軍服をよく見ていたことに気づいた。


 エリザーベトが笑う。


「いいではないの。男を見るための夜会でしょう?」


「軍服の話よ」


「男の服は、男の話よ」


「伯母様と同じことを言うのね」


「既婚女は、伯母様に近づくの」


 紅茶が運ばれてくる。


 エリザーベトは、エイサの分だけ砂糖を一つ多く入れた。


「昨夜、泣いたのでしょう?」


 エイサの手が止まる。


「どうして」


「大尉のハンカチを持っていたわ」


 エリザーベトは何でもないことのように言う。


「見ていたの?」


「広間には鏡が多かったもの」


「帝都には窓が多い、と伯母様なら仰るわね」とソフィア。


「どちらでも同じよ。若い娘が軍人とテラスへ出れば、見られるために出たのと同じことになる」


「二人きりになるために出たのです」


 キャンディスが真面目に訂正した。


「もっと悪いわね」


 エイサは紅茶を飲んだ。


 濃い。


 少し苦い。


「どんなふうに泣いたの?」


 エリザーベトが訊く。


「泣き方に種類があるの?」


「あるわ。黙って一粒。声を詰まらせて二粒。顔を隠して何粒も。男によって効くものが違うでしょう」


「恐ろしい」


 キャンディスが呟く。


「結婚すれば覚えるわ」


「結婚したくなくなりました」


「いい判断ね」


 エイサはカップを置いた。


「……一粒目は、落とすつもりでした」


 三人が黙る。


「それから?」


「若君様のことを話したら、本当に泣いてしまったの」


 ソフィアの表情が静かになった。


「それは、嘘泣きなの?」


「半分は」


「半分は本当?」


「ええ」


 エイサは白い麻布の上へ視線を落とした。


「『貴方だけが私の気持ちをわかってくださるのですね』と言ったわ」


 キャンディスの頬が赤くなる。


 エリザーベトは目を細めた。


 ソフィアだけが、すぐには笑わなかった。


「それも半分?」


「半分は、本当にそう思ったの」


「大尉は何と?」


「自分にできることは多くないかもしれない。でも調べる、と」


「いい男だわ」


 エリザーベトも、今度はからかわずに言った。


「できると約束せず、調べると約束する男は、少なくとも自分の階級をわかっている」


「それで、もう動いた」


 ソフィアが続ける。


「ええ」


 パウルの花束は、礼儀だった。


 手紙は、報告だった。


 どちらにも、彼の人柄がそのまま入っている。


 エイサはまた、少し胸が痛くなる。


「それだけではない顔をしているわね」


 エリザーベトが言った。


「何が?」


「花束をいただいた娘の顔ではある。でも、花束だけをいただいた娘の顔ではない」


「意味がわからないわ」


「ほかにも届いたのね」


 どうしてわかるのだろう。


 この女は夫の銀行でも、金額の合わない帳簿を同じように見抜いているのかもしれない。


「……一輪だけ」


 エイサは言った。


 キャンディスが身を乗り出す。


「誰から?」


「名前はなかったわ」


「では、わからないの?」


「軍務局の伝令兵が持ってきたの」


 ソフィアの眉が、ほんの少し上がった。


「何色?」


「杏色。中心は琥珀色に近かった」


「あなたの目の色ね」


 エリザーベトが即座に言う。


「伯母様にも言われました。偶然よ」


「差出人は?」


「だから、名前は」


「誰だと思っているかを訊いているの」


 エイサは答えなかった。


 三人の視線が集まる。


「昨夜、もう一人いたのでしょう」


 ソフィアが静かに言った。


「あなたと大尉のあとで、テラスから戻ってきた軍人」


 エイサは顔を上げた。


「見ていたの?」


「あれだけ背が高ければ」


「誰?」


 キャンディスが訊く。


 エイサは、口にするだけでも腹立たしい名前を言った。


「ファーレンハイト少佐」


 キャンディスの目が大きくなる。


 エリザーベトはカップを置いた。


 ソフィアだけは驚かなかった。


「やはり」


「やはりって?」


「少佐があなたを見ていたもの」


「見ていません」


「見ていたわ」


「広間にいる人間を見ただけでしょう」


「では、あなたも少佐を見ていたのね」


「それは」


 エイサは言葉を止めた。


 見ていた。


 ただし、最初は誰かも知らずに。


 長すぎる軍服の縦線。


 銀の肩章。


 火のついていない煙草。


「何を話したの?」


 エリザーベトが尋ねる。


「話したのではなく、盗み聞きをされたのです」


「何を言われたの?」


 エイサは黙った。


「エイサ」


 キャンディスまで催促する。


「……嘘泣きだな、と」


 一拍の沈黙。


 エリザーベトが最初に吹き出した。


 黒い手袋をした指で口元を隠す。


 ソフィアも灰色の目を細めた。


 キャンディスだけが、笑ってよいのかわからず、三人の顔を順番に見ている。


「それで?」


 エリザーベトが訊く。


「兄を案じているのは本当だと言いました」


「少佐は?」


「案じていることと、泣き方を選んだことは別だ、と」


 ソフィアの笑みが消えた。


「どこまで見ていたのかしら」


「一滴目を落とす前に、光のあるほうへ顔を向けたことまで」


「まあ」


 エリザーベトの声が、少し低くなる。


「嫌な男ね」


「でしょう?」


「でも、正しい」


「エリザーベト」


「嫌な男と、正しい男は両立するわ」


 ソフィアが訊いた。


「若君様のところは?」


 エイサは答えない。


 それだけで十分だった。


「そこだけ本当に声が変わったと?」


「……ええ」


 キャンディスが小さく言う。


「よく見ている方なのね」


「見すぎなのよ」


「それで、なぜ薔薇を?」


「私が知りたいわ」


「謝罪では?」


「騎士道を重んじる軍人なら、もう少し言い方があるでしょうと申しました」


「うん」


「そうしたら、『騎士道で出世した覚えはない』ですって」


 今度は、三人とも笑った。


 ソフィアまで顔を逸らし、肩を揺らしている。


 キャンディスは笑いながらも、どこか感心していた。


「それは、確かにファーレンハイト少佐だわ」


「何が?」


「評判通りという意味よ」


「そんな男が花を送る?」


「送ったから、皆で考えているのでしょう」


 エリザーベトは紅茶へ砂糖を足した。


「大尉の花束には、名がある。手紙もある。約束もある」


「ええ」


「少佐の一輪には、何もない」


「ええ」


「なのに、誰からかわかった」


 エイサは答えなかった。


「名前を書かない男には、二種類いるわ」


 エリザーベトが言う。


「名乗れない男と、名乗らなくてもわかると思っている男」


「少佐は後者ね」


 ソフィア。


「傲慢だわ」


 エイサは言う。


「そうね」


「同意するの?」


「傲慢でなければ、あの年齢であの場所にはいないでしょう」


 ソフィアはカップの縁へ指を添えた。


「でも、まだ求愛ではないわ」


「当たり前です」


「謝罪でもない」


「でしょうね」


「贈り物というより、印を置いたのかもしれない」


 キャンディスが不安そうな顔をする。


「印?」


「ここにいた、と知らせるための」


 ソフィアは淡々と続けた。


「昨夜の会話を忘れていない。あなたのことも忘れていない。ただ、それだけ」


「ただそれだけのために、軍務局の伝令兵を?」


「自分で花屋へ行く男には見えないもの」


 それはそうだった。


 ファーレンハイトが花屋の店先で、色と香りを比較している姿は、ほとんど想像できない。


「誰かに選ばせたのかしら」


 キャンディスが言う。


 エイサは琥珀色の花を思い出した。


 自分の瞳に似ている。


 偶然。


 きっと偶然だ。


「色まで指定したと思う?」


 エリザーベトが問う。


「知りません」


「気になる?」


「なりません」


「花は捨てた?」


「花に罪はないので、一輪挿しへ」


 三人が同時に笑う。


「何よ」


「捨てなかったのね」


「いただいた花を捨てるなんて、品がないでしょう」


「では、気に入った?」


 キャンディスが訊く。


 エイサは少しだけ考えた。


「色は」


「花は?」


「形も悪くはなかったわ」


「香りは?」


「……紅茶に似ていた」


 エリザーベトは、勝ち誇るでもなく、ただ静かに頷いた。


「ずいぶん確かめたのね」


「見ればわかることばかりです」


「匂いは、見てもわからないわ」


 失言だった。


 エイサは紅茶を飲んだ。


 今度は、熱すぎた。


「でも」


 キャンディスが言う。


「私は、大尉のほうが素敵だと思う」


「あなたは、そうでしょうね」とソフィア。


「どういう意味?」


「約束をして、すぐ動いて、名前を書いた。あなたの好きな種類の誠実さだわ」


「皆も好きでしょう?」


「好きよ」


 エリザーベトが答えた。


「結婚するなら、ああいう方は堅いわ」


「競馬みたいに言わないで」


 エイサが言う。


「結婚市場は、馬場より条件が多いもの」


「ヴァイス大尉は若いし、見た目も釣り合うわ」


 ソフィアが、まるで人物査定書を読むように言う。


「家柄は新体制に傷にならない。軍歴はあるけれど、旧体制への責任は薄い。製図と実務ができる。昇進もした。借金の噂も、女の噂も聞かない」


「もう調べたの?」


「夜会へ出る前に、候補の男を調べない家がある?」


「うちくらいかも」


 キャンディスが言った。


「あなたの家は、あなた自身を大学へ出すことに手いっぱいだったのでしょう」


 エイサは笑った。


 キャンディスも笑う。


「ファーレンハイト少佐は?」


 エリザーベトがソフィアへ訊く。


「調べる必要がないほど有名よ」


「女の噂は?」


「聞かない」


「ないの?」


「聞かないだけ」


 ソフィアはエイサを見る。


「ただし、あの方は今、旧貴族連合を叩くことで頭がいっぱいでしょう。夜会へ来ること自体、軍務と政治の一部よ」


「では、薔薇は?」


「だから珍しいの」


 エイサの指が、カップの取手を少し強く握った。


「花を一輪送ったくらいで、大げさです」


「そうね」


 ソフィアは同意した。


「いまのところは」


 いまのところ。


 その一言が、妙に耳に残った。


「大尉は、若君様の件を調べている」


 エイサは話を戻した。


「少佐は、薔薇を送っただけです」


「その通りね」


「なら、比べるまでもないでしょう」


「誰も比べていないわ」


 エリザーベトが言う。


「あなた以外は」


「私は比べていません」


「では、なぜ大尉の手紙と少佐の薔薇を、同じ話の中で説明したの?」


 エイサは返答できなかった。


 最初に並べたのは、友人たちだった。


 だが、自分の中でも、二つは朝から隣り合っていた。


 名のある花束。


 名のない一輪。


 約束を果たそうとする男。


 何も約束せず、ただ忘れていないと知らせてきたらしい男。


「大尉へ返事を書くのでしょう?」


 キャンディスが助けるように訊いた。


「ええ」


「少佐には?」


「書きません」


「次に会ったら?」


「会うとは限らないわ」


 ソフィアが、硝子板の向こうを見た。


 大学通りでは、新聞売りがまだ東部戦線の号外を掲げている。


「今夜も、どこかの夜会に出るのでしょう」


「伯母様が出ろと言えば」


「少佐も?」


「前線へ戻るのではなくて?」


「戻るでしょうね」


 その答えに、エイサは自分でも説明できない小さな空白を感じた。


 次の夜会に、あの長い軍服の姿はないのかもしれない。


 目が合うことも。


 腹立たしいことを言われることも。


 それで困る理由は、何一つない。


「どうしたの?」


 キャンディスが訊く。


「何でもないわ」


 エイサは紅茶を飲み干した。


「講義へ戻りましょう」


「午後は何?」


「政治思想史」


「少佐の考えていることのほうが、よほど難しそう」


 エリザーベトが言った。


「考える必要はありません」


「では、一輪挿しから出してしまえば?」


「花に罪はないと、もう言ったでしょう」


 また三人が笑う。


 エイサも、今度は少しだけ笑った。


     *


 同じ日の午後、パウル・ヴァイス大尉は、軍務局の地下記録室にいた。


 夜会の軍礼装ではない。


 濃紺の通常勤務服。


 ただし上衣は、やはり中尉時代からの官給品だった。


 両肩の大尉章と袖口の階級線だけが新しく、布地の色からわずかに浮いている。


 真鍮釦は磨かれていたが、右の袖口には、机の縁で擦った薄い艶があった。


 白手袋は外している。


 右手の中指にはペン胼胝。


 親指の爪の脇には、朝から増えた青いインクの染み。


「ヤーパン伯爵家当主」


 記録係の軍曹が、分厚い移送名簿をめくった。


「爵位は停止されていますから、現在はコンラート・レオポルト・フォン・ヤーパン名義になります」


「その名でお願いします」


「地方保安部の拘束記録は、まだすべて中央へ上がっていません」


「東部からの移送者一覧は?」


「今月分だけで四冊あります」


「見せてください」


 軍曹はパウルの新しい肩章を見た。


 次に、差し出された閲覧許可証を見る。


「大尉殿の職務とは、関係がないようですが」


「製図課時代の照合依頼です」


「もう製図課ではないでしょう」


「だから、以前の同僚へ頼みました」


「私的な照会ですか」


 パウルは一度、口を閉じた。


 嘘をつくのが下手な男だった。


「はい」


 正直に答える。


 軍曹はため息をついた。


「本来は、許可できません」


「承知しています」


「相手は旧貴族ですよ」


「罪状は?」


「さあ」


「だから調べています」


 軍曹は、もう一度ため息をついた。


 それから、一冊目の名簿を机へ置く。


「一時間です」


「ありがとうございます」


「見つかっても、持ち出しはできません」


「書き写します」


「複写の認証も出せません」


「まず、居場所だけでも」


 パウルは椅子へ座った。


 名簿を開く。


 細かな字。


 拘束年月日。


 姓名。


 年齢。


 身分。


 移送元。


 移送先。


 軍人の戦死者名簿と違い、拘束者名簿には空欄が多かった。


 誰が捕らえたのか。


 なぜ捕らえたのか。


 どこへ送られたのか。


 人間一人が消えるには、記録が不十分であるだけでよいらしい。


 パウルは一頁ずつ指で追った。


 コンラート。


 レオポルト。


 フォン・ヤーパン。


 まだない。


 一冊目を終える。


 時計を見る。


 残り四十二分。


「次をお願いします」


 軍曹が二冊目を置いた。


 パウルはまた、最初の頁から読み始めた。


 昨夜の娘の涙が、演技を含んでいたかどうかなど、彼にはわからない。


 わからなくてもよかった。


 家のために差し出されることを恐れ、兄の居場所さえ知らされていない娘がいた。


 その部分が本当なら、自分が走る理由には十分だった。


 窓のない記録室で、時間だけが過ぎていく。


 一輪の薔薇は、何も約束していなかった。


 パウル・ヴァイスは、約束したから頁をめくった。

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