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第一話 売り込みの夜会

第一話 売り込みの夜会


 コルセットは、思想より早く娘の身体を支配した。


「息を吐いて」


 背後で女中が言った。


 エイサは鏡台の縁へ両手を置き、言われた通り、肺に残っていた空気を細く吐いた。


 その瞬間、背中で紐が引かれる。


 鯨骨が脇腹へ沿い、腹部を押し込み、まだ二十年しか生きていない身体を、社交界が好む輪郭へ矯めていく。


「もう少し」


「これ以上は、歩けなくなるわ」


「歩く必要はないでしょう」


 鏡越しに、マリア伯母が言った。


 伯母は窓際の長椅子へ腰かけ、夜会へ持っていく招待客名簿を読んでいる。


 黒に近い葡萄色のデイドレス。胸元は高く閉じ、袖も細い。髪には銀が混じり始めていたが、老いに見せない結い方を知っている女だった。


「立って、微笑んで、適切な男と三曲踊る。今夜あなたに求められている運動は、それだけよ」


「それを歩くと言うのでは?」


「娘の揚げ足は、値段を上げないわ」


 女中が紐をもう一度引いた。


 エイサは息を止めた。


 肋骨の下で、身体が少し小さくなる。


 革命によって皇帝は廃され、旧貴族の爵位は効力を停止され、女性も大学で法を学べるようになった。


 けれど夜会へ出る女の腰は、昨年までと同じ方法で細く作られる。


 国家は一晩で新しくなれるらしい。


 女の身体は、そうはいかない。


「よろしいでしょう」


 女中が言った。


 ようやく紐が結ばれる。


 エイサは浅く息を吸った。


 苦しい。


 だが、痛いほどではない。


 伯母はその境目をよく知っている。娘が美しく見え、なおかつ途中で倒れて商品の価値を損なわない程度の締め方を、仕立屋より正確に判断できた。


 白いシルクサテンのドレスが、頭から被せられる。


 純白ではない。


 蝋燭の下では淡い象牙色となり、肌の上では微かな桃色を含む白だった。


 胸元は横へ広く開いているが、深くはない。細い鎖骨と、まだ娘らしさの残る肩を見せる一方で、露骨な肉感は避けている。


 袖は肩を覆うほどしかなく、その下から長い白手袋が伸びた。


 腰には刺繍も宝石もない。


 ただ同じ白のサテンを斜めに畳み、左腰で小さな薔薇の形にまとめてある。そこから後ろへ流れる布が、歩くたびに僅かに光を変える仕立てだった。


 旧家の娘が家宝の宝石を失ったようにも見えない。


 新興商人の娘が財産を誇示しているようにも見えない。


 清楚で、若く、まだ誰の色にも染まっていない。


 それが伯母の用意した商品説明だった。


「首飾りは?」


 エイサが尋ねる。


「なし」


「耳飾りも?」


「小さな真珠だけ」


「ヤーパン家のものは、使わないのね」


 伯母が名簿から目を上げた。


「今夜、旧家の娘であることは姓だけで十分よ。宝石まで古い家のものをつければ、没収を免れた財産を数えられるわ」


「何もつけなければ、困窮した娘と思われませんか」


「白いサテンの織りを見分けられない男には、あなたを買う資格がないもの」


 マリアは平然と言った。


 エイサは鏡の中の伯母を見る。


「買う、とはっきり仰るのね」


「売る側が売買を恥じれば、買う側だけが値段を決めることになるでしょう」


 正論だった。


 正しいことを、伯母は決して美しい言葉では言わない。


 それがエイサには、時々ひどく頼もしく、同じくらい腹立たしかった。


 女中が黒髪を結い上げる。


 髪は室内では黒く見えたが、梳かすたび、焦茶の底に葡萄色の艶が走った。すべてを固く撫でつけず、後頭部に柔らかな丸みを残し、こめかみには細い毛束を一筋ずつ落とす。


 宝石の代わりに挿されたのは、白い小花だった。


 温室で咲かせた冬の花。


 花弁は薄く、香りも弱い。


「花嫁みたい」


 エイサは言った。


「花嫁候補よ」


「候補が多そうね」


「選ぶのは、向こうだけではないわ」


 伯母は名簿を閉じた。


「あなたも見なさい。顔だけではなく、肩章と靴と、誰がその男へ話しかけるかを」


「靴?」


「肩章は借りられないけれど、馬車と宝石は借りられる。靴はその男が、日頃どこを歩いているかを教えるわ」


「軍人なら、長靴ばかりでは?」


「だから軍人は簡単なのよ」


 伯母が立ち上がり、エイサの前へ来る。


 白いドレスの腰を確かめ、胸元の布を指先で僅かに直した。


「今夜、あなたは可哀想な娘よ」


「いつも可哀想です」


「そういう顔はおやめなさい」


「では、どんな顔を?」


「まだ希望を捨てていない顔」


 エイサは鏡を見た。


 彼女の美貌は、声高に人を圧する種類ではなかった。


 卵形の顔は、額から顎までの均整が静かに正しい。頬には二十歳の娘らしい薄い丸みが残るが、顎先は甘く崩れず、横を向けば鼻梁から唇、首筋へ続く線に、思いのほか強い意志が現れた。


 黒に近いブルネットの髪は艶やかだが、光を奪い合うような誇張はない。まとめた流れからこぼれた細い髪が白い頬へ影を落とし、耳の下から顎へ続く輪郭を際立たせている。


 目は大きすぎなかった。


 上瞼の線が長く、目尻へ向かって僅かに細くなる。虹彩は茶と呼ぶには明るく、金色と呼ぶには穏やかだった。


 濃い紅茶へ蜂蜜を落としたような色。


 灯火を正面から受ければ、瞳の中心から琥珀が透ける。


 唇は、余計な紅を引かずとも若い血の色を持っていた。上唇は薄く、下唇にだけ柔らかな厚みがある。微笑めば可憐に見えるが、黙ると口角に細い強情が残った。


 そして何より、彼女の顔には、見られることへの自覚があっても、見る者へ媚びる習慣がなかった。


 笑うべき時には笑える。


 睫毛を伏せる角度も知っている。


 けれど、蜂蜜色の目の奥にはいつも、相手の言葉と値段を量る静かな明るさが残っていた。


「希望を捨てていない顔には、見えませんか」


「国を一つ買い叩こうとしている顔に見えるわ」


「国ほど大きなものは要りません」


 エイサは白手袋の指を伸ばした。


「家族を戻して、法が働く場所を少し作れれば十分です」


「それを国と言うのよ」


 伯母は答えた。


     *


 迎えの車は黒かった。


 細長い車体。磨かれた扉。真鍮の取手。


 革命前なら、葬列へ使われても不思議のない色だった。


 エイサは後部座席へ乗り込み、白いスカートを膝の上へ整えた。


 向かいにはマリア。


 助手席には伯母の商会から借りた若い従僕が乗る。


 扉が閉まる。


 少女時代を埋葬する棺のようだ、とエイサは思った。


 だが、自分で棺へ乗り込んだ以上、死者のふりだけをしているわけにはいかない。


 窓の外へ帝都が流れた。


 焼けた官庁街。


 板で塞がれた宝飾店。


 皇帝の肖像を外した跡だけが四角く白いホテルの壁。


 新政府の旗が古い建物の正面に掛かり、風が弱いため、歯車と麦穂の紋章は布の皺へ半分隠れている。


 街角には、軍服の男が多かった。


 旧帝国軍の濃紺。


 革命軍の灰緑。


 新政府が制定したばかりの灰青。


 同じ交差点に三つの時代が立ち、それぞれ同じ銃を持っている。


「今夜の主催者は?」


 エイサが尋ねた。


「商工評議会の議長夫妻。会場は旧大蔵卿邸よ」


「旧貴族の屋敷で、新体制の功臣をもてなすのね」


「屋根と厨房に思想はないもの」


「持ち主にはあったでしょう」


「だから持ち主だけが変わったのよ」


 伯母は窓の外を見たまま言った。


「今夜来るのは、新政府の官僚、軍人、銀行家、商人。それから、生き残る気のある旧貴族」


「生き残る気のない旧貴族は?」


「領地で旗を上げているわ」


 その旗を、兄は上げなかった。


 新体制にも。


 旧貴族連合にも。


 何も選ばず、領地の門を閉じた。


 その結果、コンラートは収監された。


 罪状はまだ明らかではない。


 革命へ忠誠を示さなかったことが罪なのか。


 旧い家の当主であること自体が罪なのか。


 誰も説明しないまま、人間だけが檻へ入れられている。


「ヴァイス大尉を覚えておきなさい」


 伯母が言った。


「今夜の候補?」


「候補の一人。二十五歳。軍務局製図課にいたけれど、内戦で前線へ出されて昇進した。父親は地方の裁判官。家柄は大きくないけれど、新体制ではむしろ傷にならない」


「財産は?」


「多くない」


「権力は?」


「今は少ない」


「では、何があるの」


「良心」


 エイサは伯母を見た。


「それが商品価値になるの?」


「若いうちは」


 マリアは口元だけで笑った。


「それに、良心のある男はよく走るわ。自分にできないことまで、できると思って」


 車が旧大蔵卿邸の門へ入った。


 鉄門からは皇帝家の紋章が外され、その跡へ商工評議会の徽章が仮留めされている。大理石の車寄せには、軍用車と貴族の馬車と銀行家の自動車が、身分秩序を決めかねたように並んでいた。


 新しい社会は、まず駐車順から混乱するらしい。


     *


 夜会の広間は、古い富を新しい権力へ貸し出していた。


 金箔の天井。


 鏡張りの壁。


 白大理石の円柱。


 旧皇帝夫妻の肖像を掛けていた正面壁には、深紅の布が垂らされ、その中央へ新政府の紋章が掲げられている。


 布の幅が足りず、額縁を外した痕が左右に見えた。


 弦楽団が三拍子を奏でている。


 楽団員の燕尾服は革命前と同じだったが、指揮者の譜面台には小さな新政府旗が挿してあった。


 人間は、音楽を変えるより先に旗を立てる。


 エイサがマリアとともに広間へ入ると、いくつもの視線がこちらへ動いた。


 白いドレス。


 黒い髪。


 旧ヤーパン家の姓。


 正妻腹ではない若い娘。


 姉は傷つき、兄は収監され、父はすでにいない。


 家が売れる時、最初に値段をつけられるのは土地と娘だった。


「顎を引きすぎないで」


 伯母が扇の陰で言う。


「俯いているように見えます」


「恥じらいは必要だけれど、敗北は売れないわ」


 エイサは顔を上げた。


 視線の中を歩く。


 新政府の官僚は、仕立ての新しい黒い背広を着ている。


 銀行家は旧式の燕尾服へ、革命記念章だけを足している。


 軍人たちは最もわかりやすかった。


 新しい階級章。


 古い戦傷。


 誰が誰へ道を譲るか。


 伯母の言った通り、肩章と靴を見れば、男がどの程度の場所を歩いてきたのかが少しわかる。


 広間の奥に、ひどく背の高い佐官がいた。


 濃紫から黒へ沈む軍礼装。


 ダブルブレストの前は隙なく閉じられ、銀の釦が二列、真っ直ぐに並んでいる。肩には銀線を編んだ佐官肩章。右肩から左脇へ渡る飾緒は、華美というより、軍服の構造の一部に見えた。


 白手袋。


 白金に近い髪。


 周囲には年嵩の官僚と将官がいた。


 若く見えるのに、誰も彼の肩へ親しげに触れない。


 視線が一度、エイサのほうへ向いた気がした。


 だが、伯母がすぐ別の男を示したため、エイサはそちらを見た。


「パウル・ヴァイス大尉」


 伯母の声が僅かに明るくなる。


 こちらへ歩いてくる青年は、軍人としては少し優しすぎる顔をしていた。


 額は広く、淡い灰褐色の髪は夜会のため丁寧に撫でつけられている。それでも前髪の一房だけは完全には従わず、右の眉へ薄くかかっていた。


 金髪と呼ぶには鈍く、栗色と呼ぶには明るい。


 乾いた麦藁へ、灰をひと刷けしたような色だった。


 瞳は遠目には灰色に見えた。


 近づくと、虹彩の内側にごく薄い緑がある。春先、まだ冷たい土の色を残した若葉に似ている。


 鼻筋はまっすぐだが、鼻先には僅かな丸みがある。頬にも青年らしい柔らかさが残り、顎の線は軍人に求められるほど厳しくない。


 完璧な美男子ではない。


 けれど、人が話し始めれば、終わるまで聞く顔をしていた。


 軍服は濃紺の官給品だった。


 厚く、やや硬い毛織。多くの身体へ合うよう仕立てられた上衣は、前線で少し痩せた彼の腰の後ろへ、指一本ほどの余りを残している。


 真鍮釦には細かな擦り傷があった。


 対して肩章と袖口の階級線だけが新しい。


 中尉用の章を外した小さな縫い穴の上へ、鮮やかな大尉章が付け替えられている。


 昇進した階級だけが、まだ彼の身体より新しかった。


「マリア夫人」


 パウルは伯母へ礼をした。


「お招きにあずかり、光栄です」


「私が招いたわけではないわ、大尉。でも、あなたがいらしてくださって嬉しい」


 伯母の声は甘い。


 その甘さの中へ、相手の家柄と将来性を測る細い針が入っている。


「姪のエイサです。ご存じでしょうけれど」


「もちろん」


 パウルはエイサへ向き直った。


 灰緑の目には、同情を隠そうとする誠実さがあった。


 露骨に哀れまれるより、エイサには少し好ましく思えた。


「お目にかかれて光栄です、フォン・ヤーパン嬢」


「こちらこそ、ヴァイス大尉」


 彼は踊りの手帳へ名を記す許可を求めた。


 白手袋を外す。


 右手の中指には、薄いペン胼胝があった。親指の爪の脇には、よく洗われた後にも消えきらない青いインクが、ごく僅かに残っている。


 紙を押さえ、地図へ線を引いてきた手。


 その手が、踊りの手帳へ小さく整った字で名を書く。


 パウル・ヴァイス。


「次の曲を、いただけますか」


「喜んで」


 彼は少し安堵したように笑った。


 左の口角が、右より僅かに先に上がった。


     *


 パウルは踊りが上手すぎなかった。


 間違えるほどではない。


 拍子も正しく、相手の歩幅を見ている。


 けれど、身体が音楽を楽しむより先に、正しい順序を確認しているのがわかった。


 製図課の男らしい、とエイサは思った。


 線を一本ずつ、所定の位置へ置いていく。


「苦しくありませんか」


 二度目の旋回で、パウルが尋ねた。


「何が?」


「少し、呼吸が浅いように見えました」


 エイサは目を瞬いた。


 胸元ではなく、呼吸を見ていた。


「この服のせいです」


「お休みになりますか」


「一曲も踊らずに?」


「無理をして踊るよりは」


 あまりに真面目な返事だった。


 エイサは少し笑う。


「大尉は、女性を褒めるのがお上手ではありませんね」


「そうでしょうか」


「普通なら、苦しそうだと言う前に、ドレスが似合うと仰るものです」


 パウルの頬へ薄く赤みが差した。


「それは、もちろん似合っています」


「後からでは値打ちが下がるわ」


「申し訳ありません」


「冗談です」


 彼は困ったように笑った。


 踊っているうちに、最初より顔が好ましく見えてくる。


 人の話を疑う前に、まず理解しようとする目。


 こちらの機嫌を取る言葉ではなく、必要だと思ったことを先に口にする性質。


 伯母の言った通り、良心のある男なのだろう。


 曲が終わる。


 パウルは礼をしても、すぐには手を離さなかった。


「少し、外の空気を?」


 エイサは広間の端にいるマリアを見た。


 伯母は別の夫人と話しながら、扇を僅かに傾けた。


 許可。


 同時に、行け、という命令だった。


「お願いします」


 パウルはエイサを、南側のテラスへ導いた。


     *


 硝子扉の外には、冬の入口の空気があった。


 庭園の植込みは暗く、石の欄干には薄く露が降りている。壁際には鉢植えの薔薇が並んでいたが、花はほとんど終わり、葉だけが夜露を溜めていた。


 広間の音楽は硝子を一枚隔てるだけで、遠いものになる。


 パウルは扉の近くに立ち、エイサを奥へ追い込まないよう、欄干から少し離れた場所を選んだ。


 そういう距離の取り方も、彼らしかった。


「少しは楽になりましたか」


「ええ。ありがとう」


 エイサは浅く息を吸った。


 冷たい空気が、コルセットに押さえられた胸へ細く入る。


「大学へ通っておられると伺いました」


 パウルが言った。


「ええ。法と政治を」


「このような時期にも?」


「このような時期だからです」


「そうですね」


 彼は笑わなかった。


 若い娘の強がりとして扱わず、その言葉を一度受け止める。


「大尉は、製図課にいらしたとか」


「よくご存じですね」


「伯母が、今夜会う男の経歴を教えてくれました」


「恐ろしい方ですね」


「あなたの略歴は、馬車の中で一分ほどでした」


「一分も?」


「財産については十秒ほど」


 パウルが吹き出した。


 声を立てて笑ったあと、慌てて広間のほうを見る。


「失礼しました」


「どうして謝るの?」


「こういう場で、あまり大きく笑うのは」


「革命をしたのに、笑い方まで宮廷式なのですね」


「そこまでは、まだ改正されていないようです」


 今度は二人とも小さく笑った。


 悪くない。


 エイサはそう思った。


 若い。


 年齢も釣り合う。


 誠実で、こちらの話を聞く。


 官給品の軍服へ新品の肩章だけを付けた男。権力は多くないが、借り物の権威を自分のもののように振り回しもしない。


 この人なら、頼めば走ってくれる。


 その考えが浮かぶ。


 同時に、頼むことが彼の好意を利用することだともわかった。


「ご家族のことを」


 パウルが慎重に言った。


「お尋ねしても?」


 エイサは視線を庭へ向けた。


 ここだ、と心のどこかで冷静な自分が言う。


 声を少し落とす。


 すぐには答えない。


 白手袋の指を、欄干の上で一度だけ組み直す。


 演技は、大きな身振りから始めてはいけない。


「どなたから、何をお聞きになったのですか」


「ご令姉が療養されていること。それから、ヤーパン家のご当主が拘束されていると」


 兄とは言わなかった。


 エリケを姉とは言ったのに。


 世間にとってコンラートは、エイサの兄である前に、ヤーパン家の当主なのだろう。


「エリケ様は、生きて戻られました」


 エイサは言った。


「それだけでも、幸運だと言われます」


 声はまだ、自分で選んだ高さにあった。


「ですが、以前のようには……まだ」


「お辛いでしょう」


「私ではなく、エリケ様が」


「ご家族が傷つけば、あなたも傷つきます」


 パウルの返事は早くなかった。


 考えてから言った。


 そのことが、エイサの予定していた涙を、ほんの少し本物へ近づけた。


「若君様は」


 口にした瞬間、喉が狭くなった。


 これは演技ではなかった。


 コンラート。


 自分を一度も妹と呼ばなかった人。


 冬の朝には火鉢を寄せ、大学進学の書類には黙って署名し、それでも家族が並ぶ時には彼女を半歩後ろへ置いた人。


「若君様は、何もなさらなかったのです」


 エイサは続けた。


「革命へ兵を出さなかった。旧貴族連合にも加わらなかった。ただ、どちらの旗も選ばず、領地の門を閉じただけで」


「それで拘束されたのですか」


「何を罪にされたのかさえ、わかりません」


 その言葉は、真実だった。


 エイサは顔を僅かに横へ向けた。


 広間から漏れる光が、頬の半分へ当たる角度。


 涙が落ちれば最もよく見える場所を、身体が知っている。


 自分でも、ひどい女だと思う。


 けれど、兄の居場所を見つけるためなら、美しく泣くことくらい何だというのだ。


「伯母様は、家を守るためには、新しい時代の方々と結びつくしかないと」


 声を少し震わせる。


「正しいのだと思います。私も、そのために今夜ここへ来ました」


 パウルの灰緑の目が、苦しそうに細くなる。


「誰も、あなたまで家のために差し出されてよいとは言えません」


 涙が一粒、落ちた。


 計算していたより早かった。


 頬を伝い、白い手袋の上へ落ちる。


 エイサはそれを見てから、パウルを見上げた。


「貴方だけが、私の気持ちをわかってくださるのですね」


 半分は演技だった。


 彼を選び、彼の良心へ正確に言葉を置いた。


 けれど、残りの半分は、本当にそう思った。


 今夜初めて会った男が、家のために差し出されるエイサを、商品のようには見なかった。


 そのことが嬉しかった。


 嬉しさを利用している自分が、少し悲しかった。


「フォン・ヤーパン嬢」


 パウルは一歩近づき、しかし触れなかった。


「私にできることは多くないかもしれません」


 正直な男だった。


 できる、と先に言わない。


「ですが、拘束先と、どの機関が記録を持っているかは調べられます。軍務局に同期がいます。私自身も、製図課にいた頃の出入りがあります」


「本当に?」


「お約束します」


 彼の声に、若さがあった。


 約束したことを、自分の力で果たせるとまだ信じられる若さ。


 エイサは二滴目の涙を落とした。


 今度は、ほとんど本物だった。


「ありがとう、大尉」


「お礼は、何かわかってから」


 パウルは胸ポケットから白いハンカチを取り出した。


 縁に飾りもない、官給品に近い実用品だった。


 それをエイサへ差し出す。


「戻る前に」


 エイサは受け取った。


 洗濯糊と、ごく薄いインクの匂いがした。


「お返しします」


「いつでも」


 その返事にも、下心を隠そうとする真面目さがあった。


 硝子扉の向こうで、年嵩の将校がパウルを探していた。


 大尉は気づき、申し訳なさそうに振り返る。


「上官に呼ばれています」


「どうぞ」


「お一人で大丈夫ですか」


「ええ。少ししたら戻ります」


 パウルはもう一度礼をした。


「必ず調べます」


 そして広間へ戻っていった。


 新しい肩章だけが、扉の向こうの光を受けて明るく見えた。


 エイサはハンカチで頬を押さえた。


 うまくいった。


 そう考える自分と、彼を傷つけたくないと思う自分が、胸の中で同時に息をしている。


 嘘泣き。


 完全な嘘ではない。


 完全な本音でもない。


 女が生きるために使う言葉は、いつもどちらか一方へ綺麗には分かれないのだろう。


「嘘泣きだな」


 低い声が、薔薇の暗がりから落ちた。


 エイサは振り返った。


 硝子扉の脇、石柱の影に、男が立っている。


 広間の奥にいた、ひどく背の高い佐官だった。


 濃紫から黒へ沈む軍礼装。銀の佐官肩章。胸を斜めに渡る飾緒が、扉から漏れる光を細く返している。


 白手袋をはめた右手には、細い煙草が一本挟まれていた。


 けれど、その先端は白いままだった。


 火をつけるためにテラスへ出てきたのだろう。そう考えるのが自然だった。


 ただ、煙草へ火も入れずに、いつからそこに立っていたのかはわからない。


 白金に近い髪は短く整えられ、顔立ちは端正というより、余計なものを削り落としすぎて冷たかった。


 目は淡い。


 冬の朝、凍りきらない湖面のような色。


 知らない男だった。


「……いつから、そこに?」


「大尉が、あなたまで差し出されてよいとは言えない、と言ったあたりから」


「ほとんど全部ではありませんか」


「全部ではない」


「同じことですわ」


「違う。最初の涙は見ていない」


 男は煙草を持ったまま、火を探す様子さえ見せなかった。


 エイサは頬へ当てていたハンカチを下ろした。


 見知らぬ男に涙の順番を論評される筋合いはない。


「女性の涙をご覧になって、最初に仰ることがそれですの?」


「ほかに何を言う」


「少なくとも騎士道を重んじる軍人なら、もう少し――」


「騎士道で出世した覚えはない」


 あまりにも即答だった。


 エイサは一瞬、言葉を失う。


 男は謝りもしない。


 誇りもしない。


 ただ、自分の経歴に存在しないものを訂正しただけの顔をしている。


「でしょうね」


 エイサは言った。


「よくお似合いですわ、そのお答え」


「そうか」


「褒めておりません」


「わかっている」


 本当に腹立たしい。


 パウルなら、今の言葉に困ったように笑っただろう。


 この男は、こちらが投げた棘を、刺さったかどうか確かめる価値もないものとして受け取る。


「兄を案じているのは本当です」


 エイサは言った。


「それを嘘と呼ばれるのは不愉快です」


「嘘とは言っていない」


「嘘泣きだと」


「兄を案じていることと、泣き方を選んだことは別だ」


 男の淡い目が、エイサの頬に残った涙の跡から、蜂蜜色の瞳へ戻った。


「一滴目を落とす前に、光のあるほうへ顔を向けた」


 エイサの指が、ハンカチを握る。


「偶然です」


「若君様、と言った時だけ、呼吸が変わった」


 胸の奥へ、冷たい指を入れられたようだった。


 この男は、演技だけを見抜いたのではない。


 どこからが本物だったかまで見ている。


「ずいぶん、人を観察なさるのね」


「必要なら」


「私が必要でしたか」


「今のところは、目についただけだ」


 小生意気な娘。


 そう言われた気がした。


 エイサは顎を上げる。


「大尉には、私の涙が通じました」


「そうだな」


「あなたには通じなかった。それがお嬉しいの?」


「別に」


「では、なぜ出ていらしたの」


 男は一拍だけ黙った。


 淡い視線が、白いドレスの肩から、握られたハンカチへ落ちる。


「泣き終わるまで待っていた」


「親切のつもり?」


「騒げば、大尉が戻る」


「戻っていただいて構いません」


「今の顔を見せるのか」


 エイサは反射的に口元を引き締めた。


 涙はもう止まっている。


 さっきまでの可憐な娘ではなく、見知らぬ無礼な男へ腹を立てた顔。


 それを見て、男の目元がほんの僅かに変わった。


 笑ったわけではない。


 ただ、こちらのほうを少し好ましく思ったように見えた。


 それがさらに癪だった。


「あなたには効かなかったようですけれど」


 エイサは言った。


「涙ならな」


 低い声だった。


 意味を問い返す前に、男は完璧な角度で一礼した。


「夜風は冷える。中へ戻れ、お嬢さん」


「命令しないでください」


「忠告だ」


「初対面の娘を嘘つき呼ばわりした方の?」


「嘘つきとは言っていない」


「同じです」


「違う」


 それだけ言い、男は硝子扉を開いた。


 白手袋。


 銀の肩章。


 濃い軍服の長い背。


 その指には最後まで、火をつけられなかった煙草が残っていた。


 広間へ戻った瞬間、彼の周囲だけ空気が変わる。年上の官僚が言葉を止め、将校が半歩場所を空けた。


 だがエイサにはまだ、その男が誰なのかわからなかった。


 わかっているのは一つだけだった。


 何よ、この男。



     *


 広間へ戻ると、マリアはすぐにエイサを見つけた。


 伯母の視線は、まず頬へ向かい、次にパウルのハンカチ、最後に少し離れた場所に立つ背の高い佐官へ移った。


「泣いたの?」


「予定通りです」


「怒ってもいるようだけれど」


「予定外の男がいたのです」


「まあ」


 マリアは扇を開いた。


「パウル大尉は?」


「調べてくださるそうです。若君様の拘束先を」


「やはり、よく走るわね」


「まだ一歩も走っていません」


「約束した男は、もう走り始めているのよ」


 伯母は満足そうだった。


 エイサはパウルを探した。


 彼は上官らしい大佐の隣で、何かを真面目に聞いている。古い官給品の軍服と、新しい大尉肩章。こちらへ一度目を向け、エイサが見ていることに気づくと、ごく小さく礼をした。


 胸が少し痛んだ。


 自分が利用したものが、彼の誠実さだったからだ。


「それで」


 マリアが言った。


「予定外の男とは?」


 エイサは広間の向こうを扇で示した。


「あの、背の高い少佐です。薔薇の陰で人の話を盗み聞きして、嘘泣きだと」


 マリアの扇が止まった。


「あなた、あの方に何を言ったの」


「失礼なことを言われたので、相応のお返事を」


「何を?」


「騎士道を重んじる軍人なら、もう少し言い方があるでしょう、と」


 伯母が目を閉じた。


「それで?」


「騎士道で出世した覚えはない、と」


 マリアは扇の陰で、長く息を吐いた。


 呆れているのか、笑いを堪えているのか、エイサにはわからない。


「誰なのです?」


 エイサは尋ねた。


「あの、感じの悪い男」


 伯母は答える前に、広間の奥を見た。


 濃い軍服の男は、評議政府の官僚と二人の将官に囲まれている。


 誰より若く見える。


 それでも彼が僅かに顔を動かすと、年嵩の男たちが口を閉じた。


 先ほど薔薇の陰でエイサへ無遠慮な言葉を投げた男とは思えないほど、冷たく整った横顔だった。


「ウォルフガング・ヘルマン・フォン・ファーレンハイト」


 伯母が言った。


「……ファーレンハイト?」


「新体制の功臣。東部軍の作戦を預かる少佐よ。旧貴族連合を叩いている男」


 エイサはもう一度、彼を見る。


 名前は知っていた。


 帝都が燃えた夜から、新聞にも、街の噂にも、軍の布告にも現れる名。


 新体制の剣。


 若い功臣。


 旧い家々から見れば、いま最も会いたくなく、同時に最も敵に回したくない軍人。


「軍務局にも、地方保安部にも顔が利く」


 マリアは扇の陰で続けた。


「今夜ここにいる男の中で、あなたの若君様がどこへ収監されているか、最も早く調べられるのは、おそらくあの方ね」


「よりによって」


「何?」


「何でもありません」


 エイサの頬には、まだ涙の冷たさが残っていた。


 嘘泣きを見抜いた男。


 泣いている理由まで見抜いたくせに、慰めもしなかった男。


 騎士道で出世した覚えはないと、平然と言い切った男。


 何よ、この男。


 そう思ったばかりなのに。


 その男が、兄を檻から出すために、いちばん必要な男だった。

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